音
個性はとうの昔に認められなくなっていた。
他人と同じ一定の鋳型に流し込まれた我々は既に何も感じられなくなって、唯々誰かのいいように使われているだけだった。誰のいいように使われているのかはわからない。上司だって先生だって皆青白い病人のような顔をして人間味の欠片も感じられない生活を送っていた。国の発展だとか、技術の進歩だとか、そんな偉大なことを推し進める最前線に居るわけでもないから、不可視で不透明で不確かな何かに向かって毎日同じペースで歩みを進めているのみだった。
我々は未来の地球人の奴隷だ。既に人類は身に余る技術を持て余しているだろう、これ以上どこに向かっていくというのだ。私は誰のために生きているのか。親はとうの昔に死んでしまった。夫も子供も居ない私は誰のために生きればいい。社会のために、なんて偽善は捨て去ってしまえ。考えても仕方が無い。世界は灰色を塗りたくられて物を言えなくなっていた。幼い頃の世界はもっと鮮やかに見えた。気にいっていた縫いぐるみは絶えず私に話しかけてくれたというのに、いつしか私は、それがかわいらしい動物の姿を借りたただの綿くずだと知ってしまった。くたくたになった綿くずも私も、昔はもっと表情豊かで輝いていたはずだったのに。
職場のビルの窓から交差点を見下ろすと、一人の少年が目に留まった。疲れ切った量産型の大人たちの中で、そのプロトタイプは純真に輝いているように見えた。不安げな顔できょろきょろと周囲を見渡していて、どうやら迷子になったらしかった。年相応のカラフルな服を着て、リュックサックに所狭しとつけられたキャラクター物の缶バッヂは歩く度にからからと音を立てているように思えて、楽隊のパーカッションを彷彿とさせた。
記憶の引き出しの南京錠がはじけ飛んで、幼い頃の記憶がどっと蘇ってきた。
辺鄙な田舎町で生まれ育った私が、唯一得意にしていたのは音楽であった。幼い頃からピアノを習っていて、小学校では吹奏楽部でフルートを吹いていた。中学校に進学してからは合唱コンクールの伴奏も務めたし、学校祭では有志でバンドを結成してステージ発表もした。高校は音楽科に進みたかったが、家族の反対で中途半端な進学校に入学し、大学進学は諦めて上京し、そのまま就職した。最後に楽器を触ったのはいつ頃だろうか。かつては美しい旋律を奏でたこの指も、今では事務作業にしか使っていない。音楽を絶えず聴いていたはずの耳だって、最近は専ら上司の怒鳴り声しか聞いていない。大人になる、とはこんなにも残酷なことだったのだろうか。
今から音楽家を目指しても遅くはないかもしれない。また有志でバンドを結成しようか。あの頃ギターを弾いていた憧れの男の子は今どこで何をしているのだろうか。吹奏楽を再開してもいいかもしれない。吹奏楽部で仲良くしていた友達はどうしたのだろう。駆り立てられるように、懐かしい記憶と夢、活力がどっと蘇ってきた。旋律、掛け合い、調和。その全てが灰色の日常を一気に彩色していった。色とりどりのリボンがビルの合間を縫うように、幸せをたっぷり孕んだ風に乗って流れていくようだった。すっかり遠くなってしまった少年の缶バッヂには西日が反射してぴかぴかと光っている。少年よ、ありがとう。私はまだまだ頑張れそうだ。しっかりやれよ。灰色に飲まれるなよ。量産型に成り下がるんじゃないぞ。
「そこ、何をぼおっとしているんだ。」
耳元で上司の声が聞こえ、私は一気に現実に引き戻された感覚がした。先ほど見えた鮮やかな情景は全て夢だったのだろうか。否、それは違う。心の中に芽生えた何かが、今なお私を幸福の渦に呑んでいるのだ。幼い頃の身を焦がすような情熱。誰かにぐいぐいと手を引かれるように、音楽に専心励んだ、あの頃の感情をありありと感じている。
誰かに背中を押されているような気がした。焦燥感とも言えない何かを感じて、熱の冷めぬまま職場を後にした。まだ歩き慣れていないはずのパンプスで階段を駆け下り、子供のようにスキップしながら灰色の波をかき分けて駅に向かった。
団子のように固まって動かない人混みがあった。前へ前へと進むと、ちょうど駅前の通りのど真ん中で、散らばった大量の缶バッヂと痛々しい血痕が見えた。
少年の物だと悟った。すっ、と全身から血の気が引いていった。ジェットコースターのような展開に、なんだか妙に現実味あふれる、壮大な夢を見ているような気分だった。
私はその場に立ち尽くすほか何もできなかった。先ほどまで見えていた世界から急激に彩度が差し引かれていき、人間味の温度は無くなっていく。私が勝手に崇拝していた偶像がこの世から消えてしまったような、何とも言えない感覚に襲われた。救急車のサイレンが近づいてくる。耳に入る音が全て混ざってぐちゃぐちゃになるような。やっぱりこの世界を誰も救えなかった。灰色の世界を染め上げた少年は呆気なく亡くなってしまった。変えられるのを恐れる社会、目に見えない何かに殺されたような気がしてならなかった。気分が沈んだ。深く深く、光の届かない海の底、人が押しつぶされてしまう海底まで。
心の中に真っ黒いタールを詰め込まれたような気分で、私は家路についた。前に実家から持ってきていたフルートの存在が心に引っかかって、早く忘れたかった。家に帰ったらこっそりどこかで練習しようと思っていたのに。あの少年さえ死ななければ今頃私はいい気分で音楽を楽しんでいたというのに。考えれば考えるほど嫌気がさして腹が立ってきた。別に誰に対して怒っているというわけでもない。話したことすらない死人に怒りをぶつけるような愚かな真似はしたくない。
勝手に元気づけられた人間が勝手に沈んでいる、それだけのことなのに。
フルートを持ち出した。郊外のこの街を見下ろせる、住宅地からは遠く離れた高台の公園に向かった。崖の上にせり出すように造られた展望デッキで、フルートを吹いてみることにしたのだ。いっそのこと全て吹いて吐き出して処分してしまおうと思った。リッププレートに唇をそっと当てる。震わす。澄んだ音色が一本の光の筋のようにゆるゆると流れていく。優美で、繊細で、どこか暖かく、どこか冷たいような。
私は勢いに任せて色々な曲を吹いた。少年への追悼の意もあったかもしれない。吹けば吹くほど、幼い頃の記憶がどんどん蘇っていくようだった。同時に、覚えている曲を上手く吹けなくなっている自分に対して強い憤りを感じ始めた。曇っている空に星なんて見えず、紺と黒が混ざったようで、のっぺりとしていた。心の奥でまだ、タールがぐるぐると渦巻いている。音楽を楽しめば楽しむほど、少年に申し訳ないような。もしかしたら私は少年の生気を吸い取って生きながらえてしまったのかもしれない、なんて。
脳内を満たす暗澹たる妄想をかき消すために、がむしゃらにレパートリーが尽きるまで吹いた。最後の曲を吹き終わると、背後から拍手が聞こえた。驚いて振り向くと、交差点で轢かれたはずの少年がこちらを見ていた。幻想的でしょう。お姉さんにも死ぬ前に甘美な世界を見せてあげようと思って。小説のラストシーンみたいだよね。僕は幽霊なんだ。お姉さんにしか見えてない。こうやって中途半端に人の心を惑わして誑かす悪魔みたいな存在なんだよ。人間は落差に弱いから、こうやって上げて落とすとすぐに壊れてしまうんだ。脆いよね、全く。少年はその幼さに似合わない難しい語彙を流暢に並べては不敵な笑みを浮かべていた。嗚呼、こいつも真っ黒だ。昼間見たあの純粋な少年はやはり幻影だったか。やっぱり世の中なんて信用できなくて当然なんだ。一杯食わされてしまった。
「で、君は何が望みなんだ。こうやって罪のない人間を殺して何になる。」
「そんなのは世間一般的な正義論じゃないか。本当は死にたいんでしょう? 僕はこうやって世の中を悲観したり懐疑している、お姉さんみたいな人間を始末する仕事をしてるんだ。機械的な仕事は機械的な人間にやらせないと効率が悪いから。」
彼の言い分は非情だが筋が通っていた。型にはまらない人間を始末する。不良品は処分する。それだけのことなのに無性に腹が立った。
「僕はお姉さんの音楽への情熱、要するに叶えられない夢を全て死への渇望に変えてあげただけなんだ。コンクリートジャングルで叶わない希望を抱き続けるなんて、それこそ生き地獄だ。死ぬより辛いでしょう。可哀想で仕方がないよ。お姉さんの夢は叶わないんだよ。諦めてくれないかな。」
少年は笑いながらそう言うと私の手を取って、デッキの淵、低い柵の向こうの死を指さした。ほら、早く飛び降りなよ。心配しないで。お姉さんの代わりは僕が務めてあげる。私の手を掴んでいたのは紛れもない私だった。大丈夫。お姉さんは天国で音楽を楽しんでればいいと思うよ。その言葉に背中を押されて、私は低い柵を飛び越えた。
意識があった。
私は元通りデッキの上に居た。死んでいなかった。急いで崖の下を見下ろすと、銀色に光る何かが落ちていた。目を凝らすと、それは私のフルートだった。なんてことだ。どうしよう。悲しいはずなのに、何も湧きあがらない。フルートと共に、音楽に対する情熱が死んだような、そんな感覚だった。死んだのは情熱を持った輝いた私であって、残った私は木偶のような、サイズのぴったり合った社会の歯車だった。灰色に飲まれ、量産型に成り下がったのは私であった。
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