エンドロールに餞別の花束を。

舞桜

 世間に誇張され、誤謬ごびゅうに侵された概念は世の中に一定数存在する。その殆どは、一般人が体感することが難しいものである。しかし知識として少なからずの需要があるから、世間では間違った情報が錯誤し、大衆的な納得のいくイメージだけが飛び交う。一方で、誰もが必ず体感することなのに、誰もその事の子細しさいがわからない、大抵の人間がタブーとする世にも不思議な事象も存在する。病室の窓から大通りの桜並木を見下ろしていた彼女もまた、その世にも不思議な事象を見詰めていたに違いない。全てを見透かし、達観とも諦観ともたとえられる眼で。

 今になったからこそそれなりの文章をしたためることができるが、その頃の僕は、物書きを気取って文芸部に所属していたにも係わらず、難しい語彙なんてこれっぽっちも持ち合わせていなかったものだから、言葉として表せない、文字通り筆舌に尽くし難いその空間にすっかり頭から呑まれていた。

 彼女の名前は麻衣と言って、僕が交通事故で407号室に入院した翌日、同じ病室に転棟となった少女だった。僕の4歳年下で随分小柄だったが、僕のクラスメートと比べても遜色ないほど大人っぽい雰囲気を鮮明に覚えている。

 普段から彼女は清潔な消毒液の匂いが染み付いた布団を頭まで被って全く動かなかったから、ただでさえ面会時間が終わるとすぐに寝てしまう僕とは全く話すことが無かった。曇りの日だとか日が落ちた後だとか、窓の外が暗い間だけ起きていて、消灯時間まで頻りに窓の方を見つめては、たいていは難しそうな文庫本(数回だけ、挿絵の多い植物図鑑を読んでいる所を見たことがある)を読んでいた。僕が学校の美術課題であるデッサンを描いている時に、影や光の当たり方なんかを詳しく訂正してくれた。青色が好きだと言っていたことがあった。病室の窓から見えるハクモクレンが大好きだった。三か月も病院に居たのに、彼女に関する明瞭な記憶はこれっぽっちしか残っていない。残りは全て混ざって曖昧になっていて、それほどまでに病院での日常は変わり映えしないものだった。彼女はいつまでも退院のめどが立たないと言って自嘲気味に笑っていた。その姿に後ろ髪を引かれる思いで、数か月して僕は退院した。彼女は絶対に「またね」の一言を口にしないように、痛々しく、ありきたりな別れの言葉を並べて僕を見送ってくれた。


 久しぶりの病院外の空気は、行き交う車のせいかやけにゴム臭かった。嫌になるほど晴れていて、うだるような暑さに僕はどことなく懐かしさを感じた。少し歩けば大通りがあって、僕が交通事故に遭った交差点も見えるだろう。病院の目の前で轢かれるなんて本当に馬鹿げた話である。僕はなんだか急に気恥きはずかしくなって、それ以降病院に近寄ることは無くなってしまった。病院に居る間は何かの魔法にかけられたかのように居心地がよかったし、僕はそれを忘れていなかったけれど、どうしても近寄る気になれなかった。いつかは麻衣に会いに行って、元気な顔を見せてあげようとも思っていたが、日常のごたごたに呑まれてそんなことも次第に忘れてしまった。所詮どんな出来事も人生の通過点に過ぎなくて、その過ぎた一つ一つに拘るようなことは僕には難しかったし、記憶にとどめておくことすら困難だったのかもしれない。環境も交友関係も目まぐるしく変わっていったのに、数か月しか一緒に居なかった女の子のことを誰が覚えていられようか。みんながみんな、嫌われないのに必死だ。過ぎた交友関係なんて、覚えているようで覚えていないように振る舞っている。現に僕も、2年の頃に仲が良かった子とは、3年になって以来話していない。廊下ですれ違っても会釈すらしない。まるで相手すら見えていないように。すっかり疲れてしまった僕に、病院という隔離された空間で変わらずに過ごす彼女が頭をよぎった。


 息を潜め、日常の水面下に潜んでいた何かのきっかけ、不思議な力に惹かれて、僕は久しぶりに麻衣に会いに407号室を訪れた。どうしても彼女が発していた雰囲気の端々を忘れることができなかった。あの時のままでいて欲しい。そんな淡い期待を抱いて407号室へ向かった。


 3年半の月日が、彼女をここまで変えているとは思わなかった。彼女は相変わらず暗い部屋を好み、昼間だというのにカーテンも開けずに本を読んでいた。が、表情は陰気くさく曇っておらず、目に見えて表情が豊かになっていた。彼女が僕に気が付き、ぱあっと顔を綻ばせるまでの間、余りにも変わった彼女の姿に唖然としていた。が、同時になんとも言えぬ虚無感と甘い毒が僕の全身を一瞬で蝕んだ。


 僕はそれから、彼女に会いに407号室へ日参するようになった。今思えば、僕は彼女に恋をしてしまっていたのかもしれない。彼女は外が明るい間も起きているようになっていて、本で得た沢山の知識を僕に嬉しそうに話してくれる姿がなんとも愛らしかった。僕もまたそれに応えるように、此処へ訪れなかった数年の空白を埋めるようにたくさんの出来事を話した。高校に受かった時の話や、そこで習った難しい理論だとか、学校に猫が迷い込んだ話なんかも、とにかく沢山の出来事を麻衣に話した。良くも悪くも時間は腐るほどあったし、その全てを彼女は快く聞いてくれた。ただただ、彼女がこれ以上変わっていかないようにしたかった。病院という狭いコミュニティの中で、人間一人と変わらず接していくのは容易だった。


「涼太くんはすごいね、他のみんなと違う。」


 ある日の帰り際、彼女は突拍子もなくこんなことを口走り始めた。


「それって、どんな風に違うの」


 凛とした雰囲気に気圧され、普段なら笑い飛ばすようなことを僕は至って真剣に訊いた。珍しく神妙な顔つきをしている僕が面白かったのか、彼女はくすくすと笑った。


「なんか、能動的に人生を過ごしてるなぁって。これぞ人間、って感じの生き方してる。私の周りの人間もどきって、みんな脳死状態で敷かれたレールの上を黙々と歩いてるんだもん。」


「脳死状態」


 僕は彼女の言葉を声に出しては反芻はんすうした。僕が彼女に話していることはどれも物事のいい面ばかりで、苦労話なんかはできるだけ避けるように心がけていた。実際には僕は脳死状態でこの数年を過ごしていて、後から美点だけをハイライトとして切り取っただけなのに。僕の話だけが彼女の想像する世界なんだ。本当に純粋である。そして純粋すぎるものは時に身体に悪い。


「そ、脳死状態。私もいつかそうなっちゃうのかな。」


 彼女は何の気なしにそう答えた。まるで先の事なんてなにも気にしていないみたいに。彼女の病気の事なんて僕は知らなかったけど、何となく只ならぬ雰囲気を感じた。これはきっと冗談じゃない。彼女はもうじき死んでしまうのかもしれない。急に冷や汗が止まらなくなった。窓の外から差す斜陽が病室全体を、特に彼女の輪郭をくっきりと濃いオレンジ色に染めている。線の細い頼りなげな顔に不思議と生気が宿り、目は奥で炎が燃えている様に輝いている。遠い目をしている。何も見えていないようにも見えて、何かを見据えている。まるでこの空間に張り詰めた空気そのものを見ているかのような。部屋が薄暗いときは微笑みながら僕の顔をじっと見てくるのに、呼びかけてもずっと虚空を見詰めている。彼女と目が合わない。得も言われぬ恐怖を感じた僕は杜撰ずさんに別れの挨拶を告げれば足早に病室を後にした。彼女もいつかは変わってしまう。1から0へ。有から無へ。


 帰宅すると僕はすぐに彼女の病気について知ろうとした。どこかにヒントがきっとあるはずだ。数年の間で彼女の病状は表面的には変化が無いようだった。他はどうだろう。彼女と目が合わないのは実は失明しているからなのかもしれない。もしもそうであったら彼女はどうして本が読めているのだろうか。もしかしたら脳機能に異常があるのかもしれない。ならどうして正常に会話ができているのか。あいにく僕は医学的知識を何も持ち合わせていないものだから、考えれば考えるほど深みに嵌っていくようだった。


 僕は再び彼女に会いに行くのを止めた。始めはそこまできっぱり断ち切ろうだなんて思っていなかったが、受験も近かったし、あの一件以来彼女のことが何だか恐ろしくなってしまったから、一度行かなくなるとどんどん後ろめたくなってしまって行く気になれなかった。彼女の死の報せが届いたのは数か月後だった。彼女が心臓を患っていたのと、先天性色覚異常を持っていたことを聞かされた。平常時は色の判断が出来ず視力も鈍り、薄暗いところでは薄明視といって少しだけ色が判別できるようになるらしい。たったそれだけの話だった。


 彼女は変わってしまった。隔離された空間で変わらずに純潔を保ち続けていた彼女が変わってしまった。彼女が居なければ僕は残りの人生を脳死状態で過ごすしか無くなってしまうというのに。これではまるで彼女の言っていた人間もどきに成り下がってしまう。一般的で平凡で、何もできない。


 せめて彼女のことをこれ以上変えないためには、それを覚えている僕が変わらずにいなければいけない。僕は今この文を精神病院で書いている。発狂して両目を抉り、自殺未遂をしたらしい。此処は隔離病棟である。僕はもう何も見ることが出来ないから、何も変わることは無い。きっと一生此処からは出られないのであろう。外界から隔離されたこの空間で、僕は彼女を守り続けなければいけないのだ。僕の見え方は彼女と殆ど同じになった。人間もどきには成り下がりたくない。僕はここで腐って脳死を反芻している。これまでの記憶が記憶の海の中を揺蕩って、まるで何もかもがそこに居ないような感覚に襲われてしまった。誰でもいい。救命ボートを漕ぐ君は16歳の夏に閉じ込められてしまった。これは比喩なんかじゃない。まっとうな現実だ。これ以上の現実と苦しみはもう味わえないだろう。なまじっか飴玉は沢山持ち合わせているものだから、パイン味の飴を水面に浮かべて微笑んでいるしているしか策が無くなった。ああ、怖くてたまらない。あの時の彼女は僕と同じ、死を見詰めていたのかもしれない。













































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