ファイヤーワークス・ノスタルジア

音崎 琳

ファイヤーワークス・ノスタルジア

「ええー、ほんとに行かないの、ゆうちゃん」

 玄関口でくちびるを尖らせた少女は、紺地に白いうさぎ柄の浴衣を着付けて、赤い鼻緒の草履をつっかけている。ずっと姉のお下がりを着ていたのが、今年中学に入ってぐんと背が伸びたのを理由に、ようやく買ってもらった浴衣だ。その姉は、Tシャツに半ズボンの部屋着のまま、廊下から顔だけ出してばいばいと右手を振った。妹は、もー、とため息を吐いて、声をはりあげた。

「いってきまーす」

 襟足から覗く日焼けした首筋が、うすあおい夏の宵闇の向こうへ紛れた。



「さて、と」

 由は、静かな廊下でひとりごちる。花火が嫌いなわけではなかった。受験生だった去年だって、たまには休憩、なんて笑いながら、友だちと河原まで駆けていった。けれど最近、何をしていても退屈で、どうにも外に出るのが億劫なのだった。退屈なのに心は何かを求めていて、でも何をしてもどうやらはずれで、そのくりかえしに疲れてしまったのだ。

 両親は、町の小さな花火大会になど興味がないのか、いつもどおり家で夜ごはんにするつもりらしい。かすかなテレビの音にまじって、二人の話し声がする。灯りのともった居間へのドアを、なんとなく、開けたくなかった。

 ぺたぺた二階の自室に上がる。まだ、部屋の中よりも外の空のほうが明るい時間だった。ベランダに続くガラス戸はカーテンが開けっぱなしで、ごく淡い藍の空に、ふわふわと灰色の雲が掛かっている。雨の気配はない。よい日和のようだった。由は閉じた扉に背をもたせたまま、その曖昧な色彩を、ぼんやりと目でなぞっていた。

 ゆっくり、ゆっくり、夜に沈んでゆく。

「あ」

 不意打ちで、空が光った。数秒後、どぉぉん……とおなかに響く音が届く。

 ガラス戸に駆けよるが、視界に花火は見当たらない。そもそも窓からの眺めの半分以上が、町並みに遮られているのだ。遠い爆発音に鼓膜を揺らしながら、しばらく考える。打ち上げ場所の河原は、うちから見て西のほうにあるはず。南東を向くこの窓からでは見えない。

 由は、ガラス戸を引いた。夏のほんのり湿っぽい風が、するりと部屋にすべりこんだ。

 裸足のままベランダに出る。出て右の壁と接しているところで、柵によじ登った。壁で身体を支えながら柵の上に立つと、屋根の端に手が届く。そこから壁の凹凸に足を掛けつつ、雨樋をうまく使って、懸垂の要領で屋根まで登った。中学生の頃、こっそり何度もしていたことだ。それが高一の今、ずいぶんと久しぶりのように感じられた。

 足を滑らせないように注意して、じりじり反対側まで進む。屋根裏部屋の明り取り窓の、細い桟に足を掛ければ、腰を落ち着けていられるのだ。打ち上げは小休止に入ったようで、花火の音はやんでいる。

 空はもうすっかり濃紺だった。町の真ん中にある橋が、きらきら輝いて浮かんでいる。屋台の出ているあの辺りに、きっと妹もいるのだろう。クラスメイトと待ち合わせているのだと言っていた。日が落ちて涼しくなった風を吸いこむ。

 いつもの町が、小さなつくりもののようだ。どこもかしこも、よく知っているのに、まるでなじみのない景色に見える。その小さな町と、空との境に、ちらちらと光が瞬いた。由は思わず息を呑む。音はまだ届かない。無声映画のように、ただ光だけが花ひらく。鮮やかに、幾つも幾つも。その金色の名残りが空に溶けたところで、ようやくあの大きな音が鳴る。由はそれをじっと見ていた。

 浴衣や団扇、焼きそばの匂いと人ごみ、隣に立っている人の眉、そういう、誰かの花火の記憶、をみんな弾いてしまうくらい、ただそこにあって一瞬のちには消えてしまう、それだけがひたすらにうつくしかった。咲いて散るその刹那のすべてが、ぎゅっと痛むくらい儚かった。由はただ無音で、そのうつくしい光を見ていた。

 次々と炸裂する色と光に、町並みがやわらかく染まる。その加減が、ふいに、色づいた白い額に重なった。まっすぐに空を見つめる、濡れた瞳。それが誰なのか、もう少しで、わかりそうだった。宙で破裂した音の波が、家々の屋根にぶつかって転がる。

 重なりながら地平線から立ち上がる金色は、向日葵のようだ。

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