改稿(ver.2.0)

 時は嘉永六年(一八五三年)、ペリーの黒船来航に江戸は上へ下への大騒ぎとなっていた。

 江戸湾浦賀に停泊した四隻の黒船——それ見たさに江戸から見物人が大挙として押し寄せた。

 日本橋から浦賀までは約十六里(約六十四キロ)と、日帰りするには長い距離であったため、その途中である神奈川や程ヶ谷の旅籠は大繁盛したと言われる。

 だが、日本橋に近い品川宿は浦賀からは遠いこともあり、黒船景気とは無縁であった。ここにある旅籠ながさき亭もご多分に漏れず、おこぼれに与ってはいなかった。

 だが、ながさき亭は老舗といわれるだけあって、評判も高く客足は上々であった。特に、コの字型に配された客室から臨む中庭にある紅梅が人気で、ながさき亭のとなっていた。


 その紅梅の奥手に古びた倉がある。

 普段は閉じられている倉の扉が開け放たれていた。中は少々薄暗く、明かり取りから光だけでは足りないのか、壁際には数本の蝋燭が立ち並ぶ。

「——泰平の眠りを覚ます上喜撰 たつた四杯で夜も眠れず、か。なぁげん、これってどんな意味なんだ? 例の『黒船』のことを詠ったって言うが、そんな言葉どこにもないぞ」

 こんな有名な狂歌の意味も知らない馬鹿者が、倉の中でごろごろしていた。

 馬鹿者の名は信三郎。下級武士の三男坊で、勉学に勤しむこともなく日がな一日惰眠をむさぼるぐうたらである。そのくせ、剣の腕は立ち、北辰一刀流の免許皆伝を持っているという噂だ。


 書物がうずたかく積まれ、よく分からないがらくたで溢れかえっているが倉だが、少なくとも頭の程度が知れてる信三郎の倉でないことは確かだ。

 罰当たりにも太い巻物を枕にした信三郎が、倉の中をせわしく動く姿を欠伸混じりに眺めている。

 あちらへこちらへ本をまとめて移動させたり、がらくたの山を掘り起こす様は、身体が小さい所為もあるだろうが、女に見えなくもない。ただ、髷も結ってないし、櫛巻きや片外しといった髪型でもない。

 性別不詳の小さな姿は、馬鹿者の投げかけた問いなど耳に入っていないのだろう。相も変わらず忙しなく動き回っている。見た目は鼠のような小動物に通じるところがあるかもしれぬ。

「おい、げんってばよ!」

 無視を決め込む「げん」が余程癪に障ったか、信三郎の声に多少の怒気が含まれていた。しかし、それでもげんからの返答はない。


 信三郎が諦めたように肩を竦めて溜息を漏らす。それが引き金になったとも思えぬが、積まれていた書物の山が一つ崩れる。一つが崩れればもう一つ——将棋倒しのように次から次へと周りの山が崩れていく。さらに降り積もった埃がもうもうと舞った。

「……んぎゅ」

 書物雪崩の犠牲者が声を上げた。埋もれている所為か、声が幾分くぐもって聞こえる。

 信三郎は起き上がると、くぐもり声の出何処に、呆れ声を掛けた。

「何をしてんだか。……おい、げん生きてるか? 生きてるんなら、返事しろ」

 本とがらくたの海の中からぷはっとばかりに顔が出た。途端に鼻がくすぐられて、「くちゅん!」とくしゃみをしたのはご愛敬。顔のところどころが煤けているのは、今の本とがらくたの下敷きとなった代償か。煤けと膨れっ面でなければ愛嬌のある顔立ちの娘だ。

 だが、信三郎を見つめる瞳は恨みがましさに滲んでいた。


「ちょっと……助けてくれてもいいんじゃない? 大体、手伝ってくれるったから、倉に入るのを許したんだからね! なのにあんたったら、そこで寝てるだけじゃない!」

「あのなぁ、げん……俺は手伝うとは言ったけどな、何探すか聞いてない。だから、手伝いようがない」

「この屁理屈こきっ! それから、あたしをげんと呼ぶなっ! あたしの名前はみなもだ! 何度言ったら分かるのよ! 馬鹿にしてるの? してるよね? よーく分かった。分からない奴には、よーく分かるように教えなくっちゃね」


 みなもが両手を振る。それと同時に、袖から何やら金属らしい棒が顔を出す。

「あ、いや、ちょっと……みなもさん? ……ぎゃっ!」

 みなもの両手の棒が信三郎に触れる。途端に信三郎は短く叫んで突っ伏した。

「ふん! 平賀みなも舐めんな! ひいじいちゃんの名前とエレキテル、直々に継いでんだからね、あたしは!」


 黒船来航の約百年前——江戸時代の狂科学者マッド・サイエンティストと呼ばれた蘭学者がいた。その名は平賀源内。

 これはながさき亭の一人娘であり、平賀源内の曾孫でもあるみなもと、武士のぐうたら三男坊である蜷川にながわ信三郎の織り成す物語である。




 

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