Case3:『ディープ・ワン』

Prologue:深きもの

 雲ひとつない晴天からは燦々と陽の光が降り注いでいる。それはともすれば灼熱と言ってもいいような熱気を伴っていた。だがその灼熱の日差しの元にいる人々は、その暑さを何とも思っていない……いや、むしろ楽しんですらいるだろう。


 それも当然の事だ。ここには皆、この暑さを、この夏を楽しみに来ているのだから。



 カリフォルニア州ロングビーチの砂浜にある海水浴場。アメリカでも有数の行楽地であるこの場所は、今日も観光客や地元の海好き達、サーファー達などで賑わい大盛況であった。


 砂浜には所狭しとビーチパラソルが刺され、そこかしこに大きなタオルが敷かれて日光浴を楽しむ人々で溢れかえっている。その合間を縫うように誰かの子供や飼い犬が走り回り、ビキニ姿の開放的な女達と一時のアヴァンチュールを楽しみたいナンパ男達が、手軽そうな女を物色しながらうろついている。


 海ではビーチボールを楽しむ人々や、緩い波でボディサーフを楽しむ初心者のサーファー達の姿もちらほら見受けられる。



 皆が思い思いにバカンスを楽しんでいた。だがそんな陽気な空間にあって、新人ライフガードであるスコット・アンダーソンの心は、人々と反比例するように暗く陰鬱なものであった。


 最初はこの世界への憧れがあった。子供の頃に見た『ベイウォッチ』に魅せられて自分もあんな世界に入ってみたい、という無邪気な気持ちもあった。


 だが当然ながら現実はそんなに甘くない。最初は見る物全てが新鮮に見え毎日が楽しく感じたが、数ヶ月もすると既にその思いは色褪せていた。


 端的に言うと「飽きた」のだ。高校ではフットボールの選手で体力には自信があったし、元々海は好きだったので、ライフガードになれば好きな海で過ごせて給料も貰える素晴らしい仕事だと思っていたのだ。


 甘かった。ドラマや映画のような劇的な出来事などほぼ起きないし、ひたすらに地味な監視業務と報告などの書類業務。迷子になった子供や年寄りの案内。そんなつまらない仕事ばかりであった。



 それならせめてと、日光浴中の若い女達の水着姿でも眺めて過ごそうかと思っていたのだが、そんな彼の勤務態度に気付いたのかチーフに目を付けられ、しょっちゅうスコットの事を監視してくるのがウザったかった。監視員なんだから俺じゃなくて海や客を監視しろよ、と内心で毒づかない日はない。


 客達にとっては夢のバカンスだろうが、同じ場所にいるはずのスコットにとっては通っている大学より更につまらない、何の夢も希望もないゴミ溜めのように見えていた。こんな所にいるくらいなら寮で卒論の準備でもしていた方がマシだ。


 それなのにスコットがこの職場を辞めていない理由は2つあった。1つは単純に金の為だ。他のアルバイトに比べて金払いは格段にいい。それは間違いない。寮暮らしの大学生ともなれば、生活に遊びに友人付き合いにと何かと金が掛かる。いくらあっても足りないくらいだ。


 そしてもう1つの理由……


 スコットは自分の担当のタワーから少し離れた位置にある隣のタワーに視線を向ける。今日は運がいい。彼女・・が隣だ。黒い髪と薄めの褐色の肌。一見してラテン系の美しい顔立ちに、メリハリのあるゴージャスな身体を包むのはライフガードのセクシーなワンピースの赤い水着。



 ヴェロニカ・ラミレス。スコットと同じ大学に通う女子大生で、年齢は1つ下の20歳だったはずだ。大学でも有名人であり多くの男達の目を惹きつけて止まない彼女だが、今の所誰か特定の相手がいたという話は聞かない。ゲイなのでは、という噂も出たが、同性の「恋人」がいたという様子もない。


 その為未だに大勢の男達が彼女を狙っており、スコットもそんな中の1人であった。ヴェロニカはこのビーチでも観光客の男達からは好色な視線を、そして女達からは憧れや嫉妬の視線を、一身に集める人気ライフガードであった。


 少し前に巷を騒がせていた殺人鬼『ルーガルー』は、美女を好んで惨殺していたらしいので、ヴェロニカが被害に遭うのではないかと気が気でなかった。彼女にもしもの事が無くて本当に良かった。


 スコットは何とか彼女とお近づきになりたくて、未だに未練がましくこの職場に残っているのだ。同じ職場で働いているというのは大きなアドバンテージだ。こうして彼女の水着姿を眺めているだけでも悪くはないが、そろそろ次の段階・・・・へ進みたい。


 何か会話の糸口を掴みたい所だ。やはりまずは同僚である事を活かして、仕事絡みの話から始めてみようか。いや、単に仕事絡みの話だけなら今までにもしている。もう少し突っ込んだ会話が必要だ。



 何か事故でも起きてくれれば、彼女に格好いい所を見せてやれるのに……と、不謹慎な事を考えていた時だった。



 男の叫び声。そしてにわかに騒がしくなるビーチの不穏な喧騒。見ると波打ち際からサーファーらしき男がまろびながら砂浜に這い上がってくる所だった。海の方を指差しながらしきりに何か叫んでいる。


(これは……事故か!?)


 スコットは咄嗟にレスキューチューブを手にそのサーファーの元に駆け寄った。野次馬をかき分けて男の前に屈み込んだ。


「おい、どうした! 何があった!?」


「ベンが……と、友達が、海に落ちて……いつまで経っても上がってこないんだ。波に乗ってたらベンが急に何かにぶつかったみたいにボードから落ちて……」


「……!」


 海の方をみると、乗り捨てられたサーフボードが海面に漂っていた。あの辺りならそこまでの深さはないはずだ。潜れば見つけられるかも知れない。意識を失って沈んでいるのだとしたら、早く助けないとマズい事になる。時間が経てば経つほど生存率は下がる。


 決断は一瞬だ。スコットはある意味で待ちに待った機会に奮い立っていた。もし無事に助け出せれば彼は一躍ヒーローだ。チーフだってスコットを見直すだろうし、何よりも……



「大丈夫!?」



 ヴェロニカもレスキューチューブを持って駆け付けてきた。



「彼の友達がボードから落ちて沈んだままらしい」

「……!」



 ヴェロニカが表情を険しくする。そんな顔も美しかった。スコットは彼女と頷き合うとレスキューチューブをたすき掛けにして、一直線に海へと駆け出した。後ろにヴェロニカも追随している。出来れば彼女より先に水難者を見つけ出したい。まずは自分が職務に忠実で頼れる男だという事をアピールするのだ。



 ボードが浮かんでいる辺りまで泳いできたスコットは、大きく息を吸って海中に潜る。水深は10フィート程度だろうか。すぐに底が見えた。しかし周囲を見渡しても水難者らしき姿はない。


 一旦海面に戻って息継ぎをする。少し離れた所でヴェロニカも顔を出していた。彼女も見つけられなかったようで首を横に振っている。


 スコットはもう一度海中へ潜る。今度はもう少し広く浅く探してみよう。広範囲を俯瞰するようなイメージで目を凝らしてみる。すると……


(あっ……!)


 海底に鎮座する大きな岩の陰から人の足らしきものが突き出ているのが見えた。


 見つけた。


 スコットは一旦海面に浮上して息継ぎすると、再び勢いをつけて潜った。足が突き出ている岩の陰まで泳いでいく。


 まだそれ程時間は経っていない。これなら助かるかも知れない。そうすればスコットはヒーローになれる。ヴェロニカが彼を見る目も変わるかも知れない。そんな都合の良い妄想に浸りながら岩の陰に到達したスコット。



(よし……まずは海面に引き、揚げ……て……)



 スコットの思考が固まる。その岩の陰にいたのは、水難者だけではなかった・・・・・・・・



(え……な、何だ……これ)



 水難者はもう死んでいた。スコットにはそれが一目で解った・・・・・・。何故なら……胴体部分を大きく食い破られて・・・・・・いたから。


 その光景だけでもスコットを動転させるには充分だっただろう。だが……そんなもの・・・・・はもう彼の目に入っていなかった。


 スコットの視線は……現在進行系・・・・・でその水難者の胴体を食い荒らしている『モノ』に釘付けになっていた。


 「食事中」だったと思しき『モノ』がスコットの存在に気付いたらしく、顔をこちらに向けてくる。その『モノ』とスコットの視線が交錯する。



「……!」



 ゴボォッ!! という呼気を吐き出す音と気泡を撒き散らしながら、スコットは無我夢中で水面に向かって逃げ出した。今彼の頭の中にあるのは、とにかくここから早く逃げて安全な陸地に戻らなければ、という生存本能だけであった。


 チクッと脚の辺りに何かが刺さったような感触があった。そう思った次の瞬間にはスコットは全身の強烈な痺れを自覚した。手が、足が、動かない。それどころか呼吸すら出来なくなった。



(な、何だ!? 身体が……息が……出来ない! た、助け……)



 スコットが必死に水面を仰ぎ見ると、そこには潜ってきていたらしいヴェロニカの姿があった。



(ヴェロニカ! 頼む! 助けてくれ……!)



 スコットは動かない手足を必死に彼女の方へ伸ばそうとした。しかしヴェロニカの視線はスコットに向いていなかった。彼女はスコットの後ろから迫る『何か』を見て、驚愕と恐怖にその美しい顔を歪めながら、やはり大慌てで浜辺に向かって逃げるように泳ぎ始めた。



(おい、どこへ行く! 助けてくれ! 畜生! 何で俺が、こんな…………)



 それがスコットの最後の思考となった。痺れは心臓や肺にまで及び、彼の呼吸と鼓動を止めていた。海中にいながら彼は溺死ではなく、別の要因・・・・で窒息したのだ。尤も彼にとってそれは大した違いでは無かった…………






 半狂乱になりながら浜に戻ってきたヴェロニカ・ラミレスの通報によって、ロングビーチ市警によるサーファーのベン・ワトキンスとライフガードのスコット・アンダーソンの捜索が行われた。


 広範囲の捜索によって警察は、バラバラに噛み裂かれた人間の手足の残骸が海岸の岩に引っ掛かっているのを発見した。それらはDNA鑑定によってベンの物だと判明。


 更に沖合に漂っていたスコットと思われる死体も発見。海水による腐食と腐敗ガスで見る影もなくなっていた死体だが、未だにたすき掛けになったままだったレスキューチューブによって断定された。


 通報者のヴェロニカが懸命に訴えていた『犯人』に関しては、捜索では発見出来ず、彼女が恐怖によって鮫を見間違えたという事で黙殺された。



 しかしそんな警察を嘲笑うように、海岸で釣りをしていた釣り人が道具を残して失踪。また朝の砂浜を愛犬と散歩していた女性が愛犬を残して失踪。後にやはり見るも無残な残骸となって発見される事態が相次いだ。


 事ここに至って警察は鮫による被害ではなく、殺人事件である事を認めざるを得なくなった。被害者はいずれも水辺に近い場所で襲われて、海に引きずり込まれたと考えられ、マスコミはこの謎の殺人者をクトゥルフ神話に因んで『ディープ・ワン』と命名。



 発端は隣街で起きたこの事件であったが、ひょんな事からロサンゼルス市警、そしてそこに所属するローラを巻き込んでいく事になる。


 今再び、いや三度みたび、ローラの前に闇の世界が口を開き、彼女を飲み込もうとしていた…………

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