三つ子の魂いつまでも

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三つ子の魂いつまでも(一話完結短編作品)

 その時、ようやく三日ぶりに会えたあこがれの女性のつややかな深紅の唇から紡ぎ出されたのは、待ちに待っていた言葉であった。


「──ほ、本当ですか、部長。本当に僕なんかと、お付き合いしてくださるんですか⁉」

 うららかな春の放課後の、毎度お馴染みの文芸部の部室。

 さわやかな風が吹き込んできている窓際の席で、烏の濡れ羽色の長い髪の毛を揺らしながら、日本人形そのままの端整な小顔に満面の笑みを浮かべて、僕のほうを見つめている可憐な少女。

 さきもりどり先輩。

 我がしゅうすい学園高等部二年生にして文芸部部長を務めている、学園きっての才媛でもあり我が国有数の名家の御令嬢でもあるという、正真正銘生粋の『お嬢様』であり、その上品ながらも隠し切れないあでやかさを誇る美貌と、一見ほっそりとしているものの出るところは出ているモデル顔負けの白磁の肢体は、極平凡なブレザーの制服さえも彼女がまとっているだけで、一流デザイナーの手によるブランド品に見えてくるほどであった。

 そんな彼女と僕こと同じく高等部一年に在籍しているよこつみとの出会いは、ほんの一月前の四月初めのことであった。

 元々小説家志望でもあるからして、入学と同時に早速文芸部の門を叩いたのだが、そこにただ一人の部員兼部長として在籍していたのが、彼女──防人海鳥嬢であったのだ。

 今日と同じように窓際の指定席で一心不乱にスティーブンソンの『ジキルはかとハイド』を読みふけっていた彼女は、全開の窓から注ぎ込んでくる桜の花びらが髪の毛や制服に降り積もり続けていることも、いくらノックをしても返事一つ返ってこないのでしびれを切らしてドアを開けたとたん『春の女神』と見まがうばかりの美少女を目の当たりにしたために、入口の手前で呆然と立ちつくし続けている僕のことすらも、一向に気づく様子はなかった。

 それから十数分後、ようやく本を読み終えて僕の存在を認識するや、海鳥嬢は平謝りに謝り始めたのであった。

 僕はそんな彼女に対して少しも躊躇することなく、その場で文芸部への入部を願い出た。

 何せこのクラブに入部するだけで、これから毎日ずっと放課後になったら大好きな小説を読んだり書いたりしながら、こんな美少女の先輩と二人っきりで過ごせるのだ。まさに受験戦争という厳しい冬を無事に乗り越えた後で、文字通りに我が世の春を迎えた気分であった。

 ……もっとも、たとえ同じ文芸部に所属していようが、この学園内で彼女に会えるのは、最大でも三日に一日だけだということが、すぐに判明するのであるが。

 それはさておき、実際に部活動を共にし始めるや、僕は更に部長に惚れ込むこととなった。

 名家のお嬢様でありながらお高く止まることなぞ微塵もなく、常に穏やかな笑みをたたえていて、一介の庶民育ちで下級生である僕に対しても大切なたった一人の部員ということもあって、それは優しく親切に接してくれたのであった。

 もちろんひとたび文学談義を始めれば、人が変わったかのように熱のこもった意見を闘わせることもあるが、その博識さといい意見の的確さといい、小説家志望の僕すらも舌を巻くほどの生粋の『文学少女』っぷりで、非常に実りのある時間を過ごせたのである。

 このように美少女で品行方正で成績も優秀で、しかも何よりも性格も良好となると、本来なら周りの男どもも放っておかないところであろうが、部長の抱えているさる深刻な『事情』が原因となって、今のところはラッキーにもフリーの身であられたのだ。

 しかし、油断はできない。

 中には彼女の事情を知ってもなお付き合いたいと熱望する、変わり者がいないとは限らないのだ。

 そこで僕は前回のクラブ活動日に意を決して、部長に自分の気持ちを伝えたのであるが、さすがに出会ってからたった一ヶ月での告白は唐突過ぎたのか、珍しくも驚きのあまりの呆けた表情を隠そうともしなかった彼女はその場での回答を避け、次回のクラブ活動日──つまりは、まさに今日この時に返事を聞かせると約束してくれたのであった。

 それからの三日間というものはただ悶々と過ごすばかりであったが、実のところはそれほど良い返事が返ってくるとは期待していなかったのだ。

 何せ部長のほうが非の打ち所のない美少女上級生であるのに対して、こちらは入学したてのぺーぺーであるし、家庭も一介の庶民でしかないし、成績も中の上程度だし、おまけに風采のほうもぱっとしないしといった、むしろ非の打ち所ばかりの有り様で、唯一誇れるとしたら、素人ながらもすでにネット上にて『SF的ミステリィ小説』という少々特殊なジャンルの作品を発表し、それなりに人気を得ていることくらいであった。

 このままではお付き合いを断られる可能性が非常に高く、それが現実となった際には彼女との二人っきりの部活動が非常に気まずいものとなることが予想され、最悪の場合は入部早々退部の道を選ばざるを得なくなることも考えられ、我ながら早まったことをしたものだと反省し始める始末であった。

 だがしかし、恒例の三日ぶりの部活動日に当たる本日に至って、戦々恐々として部室にやって来た僕に対する彼女の返事は、お付き合いの申し出を承諾してくれるという、当方を狂喜乱舞させるものであったのだ。

 ひょっとして夢でも見ているのではと自分の頬をつねりつつ、部長に向かって予想外かつ望外の返事の理由を尋ねてみれば、いつもながらの穏やかな笑みを浮かべてこう言った。

「だって七罪君とは読書の趣味が合うのはもちろん、自分自身すでにネット上オンリーとはいえ実際に作品を創っているからなのか、私とはまた違った角度から意見を言ってくるから小説談義をするのがすごく楽しいし。──それに何よりも私の『事情』を知ってもなお、全然態度を変えないでくれたし」

 ……あー。やはりそれが、一番ポイントが高かったわけなのか。

 確かに最初にそのことに気づいた時はびっくりしたけれど、部長はあくまでも部長なんだから、僕の彼女に対する気持ちが変わることなぞけしてあり得ないのだ。

「……ということは、これで僕たちは晴れてお付き合いできるんですね? 部長が僕の恋人になってくれるってわけなんですよね⁉」

 そのように意気込んで問いかけるや、さすがに恋人という言葉が気恥ずかしかったのか、若干頬を赤らめる部長殿であったが、その唇から発せられた言葉には、どこか申し訳なさそうな色が含まれていた。

「もちろん私はそのつもりなんだけど、正式にお付き合いを始める前に、是非とも『彼女たち』に会って欲しいの」

 ──うっ。結局『事情』のほうを無視するわけにはいかないのか。

 これからの困難な道のりを思えば気が重くなるが、その果てに待っているのは部長との正式なるお付き合いという、薔薇色の日々なのである。何を臆する必要があろうか。

「わかりました。明日から順番に一人ずつ会いに行って、必ず『彼女たち』に部長とのお付き合いを認めさせてみせますよ!」

「がんばってね。また三日後にここで、朗報を待っているわ」

 そう言うや彼女はまさしく春の女神そのままの、艶麗なる笑みを浮かべたのであった。


   ◐     ◑     ◐     ◑     ◐     ◑


 その日帰宅するとほぼ同時に、早速『あいつ』からの音声通信が、愛用のブルーベリーのスマートフォンへと着信した。


『──よう。よりによって面倒くさい相手と、付き合うことにしたらしいな』

「……開口一番、人のあこがれの人のことを、面倒くさいとは失礼だな。それにまだ、正式にお付き合いを始めたわけじゃないよ」

『ひょっとして、「彼女たち」のお許しが必要ってか?』

「ああ。当然避けては通れない道さ」

『だからそこら辺のところこそが、面倒くさいって言っているんだよ。その部長様も含めて、あいつら全員病気なんだ。とっととどこかの病院にでも入院させろよ』

「び、病気なんかじゃないよ、むしろあれは奇跡なんだ!」

『かー。奇跡って、何だそりゃ。とにかく部長様以外の二人のほうは、おまえにとっては邪魔者でしかないんだから、いっそのこと消してしまえばいいじゃないか?』

「なっ⁉」

『何だったら俺のほうで、「処置」が上手なところを探してやってもいいんだぜ?』

「ふ、ふざけるんじゃない! これ以上部長たちを侮辱したら、いくらおまえでも許さないからな!」

『はいはい。それじゃせいぜい食わせ者のお嬢様方を相手に、苦労してみることだな』


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「……まったく、このド庶民風情が。私の大切などりと付き合おうだなんて、身の程知らずもいいとこですわ」

 その少女はわざわざ放課後に自分の部室を訪ねてきた僕に向かって、高飛車極まる声音でそう言った。


 海鳥部長と瓜二つの顔を、いかにも不快そうに歪めながら。


 しゅうすい学園高等部二年生にして、『学園探偵部』なる珍妙なクラブの部長を務める、さきもりむつ嬢。

 あの心優しき『女神様』そのものの海鳥部長の『姉貴分』を自認している割には、とても似ても似つかない物腰であるが、男兄弟のいない名家の第一子としては、むしろふさわしい態度とも言えなくもなく、さしずめこちらは『女王様』とでも呼びたくなるような高慢ぶりであった。

 ……何か苦手なんだよなあ、この人って。

 確かに外見のほうは双子かクローンかってくらいに部長とそっくりなんだけど、むしろだからこそ正反対とも言える性格の違いが強調されているし。それに何よりもこの人って、いかにも『お嬢様』の悪い面ばかりの集合体といった感じだしな。

 しかし、臆してばかりではいられない。

 部長と晴れてお付き合いをするためには、この最初の難関を何としても乗り越えなくてはならないのだ。

「……確かに姉貴分であられるあなたが部長のことを心配なされるのはわかりますが、男女関係にまで口を出されるのはやり過ぎではないのですか?」

 そんな僕の至極もっともなる反駁にも、女王様の態度が軟化することはなかった。

「何をおっしゃるのです。もしもあなたがいざという時に海鳥のような体たらくであったら、私自身も迷惑を被ってしまいかねないことは、あなたもようく御存じでしょうが?」

「うっ」

 た、確かに。

 彼女たちの『事情』を勘案すれば、十分懸念すべき問題であった。

「も、もちろん僕はどんな危険が降りかかろうとも部長のことを守り通す覚悟はできていますけど、それをどうやって今ここで、あなたに証明すればいいのですか?」

 おそらくは何よりも実力主義こそを標榜しているこの人に対して、いくら口で言っても理解してはもらえないであろう。

 何せ『いざという時』に僕が実際にどのような行動をとるのかは、ここで断言することなぞできないわけだし。

 そんな僕の葛藤を知ってか知らでか、アンニュイに白魚のごとき人さし指を深紅の唇に当てながら、目の前の女王様は宣われた。

「……そうねえ。だったら今日からしばらくの間放課後はもちろん休日においても、私と付き合ってもらおうかしら」

「つ、付き合えって」

「つまりは、デートをして差し上げようってわけよ」

 ……………………は?

「ちょ、ちょっと。何ですか、僕とあなたがデートって⁉」

 まだ本命の部長とも、デートなんかしたことないのに。

「多分私とデートを行っている間にあなたは何度も『いざという事態』に遭うだろうから、その際の反応を実際に見せてもらおうって次第なのよ」

「あー、なるほど。つまりあなたの部活動に付き合えってわけですね?」

 それってデートとかじゃなく、僕が本当に部長の相手としてふさわしいか否かを、実地検証するってことじゃないか。

 しかもよりによって彼女のクラブに参加させられるなんて、これはただでは済みそうにないぞ。

 すっかり顔色を変えて黙り込んでしまった僕を取りなすようにして、いかにも明るい声でささやきかけてくる、学園探偵部の部長殿。

「そんなに構えることはないじゃない。クラブと言っても部員は部長で探偵役の私しかいないんだし、二人で仲良くやっていきましょうよ。それにどうせその前に早速明日にでも『第二関門』である、との会見も控えているんでしょうし」

 ……そうだった。やっかいな『事情』を抱えているのは、何も目の前の女王様だけじゃなかったんだ。

 その時僕はこの先に待ち受けている更なる苦難の数々を思い、暗澹たる気持ちに駆られながら、盛大にため息をつくのであった。


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「……うふふふふ。ようこそ、我が神聖なる儀式の間へ」

 部室棟の外れにある、放課後のいまだ日が高い時分だというのに妙に薄暗い部屋の中で響き渡る、声質は涼やかなれどどことなく陰鬱さを感じさせる声。

 それとなく周囲を見回せば、床に描かれている巨大な魔方陣に、出入り口を除く壁面いっぱいに設けられている本棚を埋めつくしている無数の古びた魔導書に、部室中に所狭しと配置されているレプリカだとわかっていてもいかにもおどろおどろしく感じられる洋の東西を問わない拷問器具の数々に、ぐつぐつと紫色の謎の液体が煮立っている大鍋に、髑髏の形をした水晶玉に、そこかしこに記されているルーン文字といった、まさしく渾沌を具現化したかのような有り様であった。

 そして正体不明の虹色の飲み物が置かれているガラス製のテーブルを挟んで僕と向かい合って座っているのは、制服の上から漆黒のローブをまとった一人の上級生の少女。

 基本的にはどり部長やむつ女王様と同じ容姿であるはずなのに、もはや見る影もなく──つうか、文字通り物理的に遮蔽物の陰になっていて、ほとんど確認することができなかった。

 なぜなら、文学少女ならではの三つ編みの部長や高飛車お嬢様ならではのツインテールの縦ロールの睦美先輩とは違って、目の前の少女──しゅうすい学園高等部二年生にして『黒魔術研究会』の部長であるさきもり嬢は、せっかくのつややかなる烏の濡れ羽色の長い髪の毛をただ無造作に伸ばしっぱなしにしていて、本来は日本人形そのままの端整な美貌が前髪によってほとんど隠されてしまっていて、かろうじてどこか卑屈な笑みを浮かべている鮮血のごとき深紅の唇だけが露になっていたのだから。

「……うへ、うへへへへ。いいなあ、海鳥ったら。私も彼氏ができたら、あんなことやこんなことができるのになあ。ぐへへへへ」

 部長や睦美嬢ならけして発することのない下卑た含み笑いをもらしながら、よだれを垂らさんばかりにすっかり緩み切っている口元。

「あ、いや。僕と部長は、まだ正式にお付き合いを始めたわけではないのでありまして……」

 僕が空実嬢のあまりのキモさに、ついそのように口走ったとたん、


 喉元に冷たいナイフが、一瞬にして押し当てられたのである。


 えっ? えっ? いったいいつの間に⁉

「……それってもしかして、場合によっては海鳥のことを袖にして、今からでも別の女に鞍替えする可能性もあるってことなのかしら?」

 凶器片手にすべての表情を消し去って淡々と問いかけてくる、自称『海鳥お姉様の可愛い妹分』。

 簾のような長い前髪の隙間から覗いている、血走った黒曜石の瞳。

 ちょっ。何か無茶苦茶恐いんですけど⁉

「……もしも今後海鳥以外の女に脇目を振ったりしたら、あなたの目玉を両方ともえぐってあげるから」

 ひえええええええええええええええっ!

「振りません! けして振りません! 僕の脇目も魚の目も、すべて部長だけのものです! だからお願いします! とにかくそのナイフをしまってください!」

「……そう。わかった」

 そう言って右手のジャックナイフを折り畳むや、さも慣れた手つきでスカートのポケットへとしまい込む空実嬢。

 ……さすがは『ヤンデレ』妹分。ナイフ捌きはお手の物ってわけですか。

「ええと。そのように『もうこれからは浮気は許さない』ってな風におっしゃるということは、空実先輩におかれては、僕が部長と付き合うことを認めてくださるわけなのですか?」

「……う~ん。それはあなた次第ね」

「僕次第って……」

「……これからしばらくの間放課後や休日は、文芸部の活動日や睦美の手伝いをする日以外は、私のクラブ活動に付き合ってちょうだい」

「クラブ活動? つまり空実先輩が以前からやっておられる、『オカルト探偵』のお手伝いをしろってことですか?」

「……そう。いつもは私一人で事件を解決しているんだけど、これからちょっとの間だけあなたに助手になってもらって、その働きぶりを見極めさせてもらおうと思うの」

 ──って。またこのパターンかよ⁉

「……うふっ。嬉しい。これってつまりは、デートのようなものよね。だって生まれて初めて、男の人とお出かけするのですもの」

 デートちゃうわい! ──と言いたいところなんだけど、またナイフを振り回されると恐いから、すっかり妄想にふけりうわ言をつぶやき続けているヤンデレさんを一人残して、そっと部屋を出ていくヘタレ文芸部員であった。


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『ほうら、言わんこっちゃない。面倒なことになったろうが?』

「………………」

『返す言葉も無いってか?』

「ち、違う。これも部長と正式にお付き合いするための試練なんだ。けして逃げるわけにはいかないんだ!」

『はいはい。おまえがそのように覚悟を決めているのなら、もうこれ以上つべこべ文句をつけたりしないよ。──だけど、せいぜい気をつけるんだな。あの二人と付き合ったりして、ただで済むわけがないからな』

「……わかっているよ。何せ片方は『猟奇事件専門の名探偵』であり、もう片方は『超常的事件専門の名探偵』なんだからな」


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 こうして始まったクラブ活動の名を借りたむつ嬢や嬢とコンビを組んでの探偵活動は、いろいろと苦労や危険があったものの、非常に興味深く痛快極まるものでもあった。

 例えば『学園探偵部』を名乗っている睦美嬢ではあるが、その活動の場は必ずしも学園内に留まらず、僕と行動を共にし始めたこの一月の間だけでも、旧家の骨肉の相続争いの場や、豪華客船での上流階級のパーティや、落ち武者伝説が今なお残る山奥の隠れ里等々といった、いかにもミステリィ小説ならではの怪事件が起こりそうな場所を舞台にしていたのだ。

 何で一介の女子高生がそのような本来なら極力部外者の介入をシャットアウトしている場所で探偵活動が行えるのかというと、それはひとえに我が国有数の名家であるさきもり家の、国や地方を問わない公権力や財界や上流社会に対する、多大なる影響力の賜物以外の何物でもなかった。


 だか何よりも白眉だったのは、睦美嬢のそれこそミステリィ小説顔負けの、『名探偵』ぶりであったのだ。


 と言うか、むしろ彼女のすごいところは、これまでの名探偵の常識をあっさりと覆してしまったところなのであった。

 そうなのである。彼女はけしてミステリィ小説における名探偵みたいに、根拠不明の『直感』だとか御都合主義的な『超推理』なぞに頼ることなく、何よりも『唯一絶対の真相や真犯人など存在しない』こそをモットーとして、事件の現場においては誰もが加害者にも被害者にもなり得る可能性があることを大前提にして、あたかも高性能のコンピュータでもあるかのように常にあらゆる可能性をシミュレーションして、事件の推移がいかに突発的に予想外かつ複雑怪奇な展開を見せようといつでも柔軟な姿勢で対応していき、数多の難事件を見事に解決していったのである。

 それはこれまでのミステリィ小説における名探偵たちが、しょせんは作者という一個人によって考え出され最初から『ただ一つの真相と真犯人』が決定づけられた、いわゆる『ラプラスのあく』に代表される古典物理学ならではの決定論に支配され続けているのに対して、『この現実世界の未来には無限の可能性があり得る』ことこそを大原則にして、けして『唯一絶対の真相や真犯人』なぞを決めつけたりはせずに、常に現代物理学が誇る量子論に基づくことを尊ぶ、『量子論探偵』とでも呼ぶべき有り様であったのだ。


 しかも何とそれは、防人家三人娘においては『ヤンデレ妹分』として名高き、空実嬢においても同様だったのである。


 学園内においては『黒魔術研究会』を主宰し自ら『オカルト探偵』を名乗り、扱う事件も『前世返り殺人事件』や『人格入れ替わり殺人事件』等といったいかにもSF小説やライトノベルばりの超常的事件ばかりであったが、意外なことにも彼女の事件解決の手法は姉貴分である睦美嬢同様に何よりも量子論に基づいた、あくまでも論理的かつ科学的なものであった。

 彼女によればそれこそSF小説やライトノベルでもあるまいし、この現実世界において前世返りや人格の入れ替わりなどといったことが何の根拠も無く起こることなぞあり得ず、そこには必ず科学的裏付けが存在しているはずだと言うのだ。

 確かに彼女自身が超常的事件の解決に際して最大の拠り所としている量子論においては、『我々の存在しているこの現実世界には常に無限の可能性が秘められている』ことこそを大前提としているので、今からほんの一瞬後に前世返りや人格の入れ替わりなどといった超常現象が起こり得る可能性を否定することは、何人なんぴとであろうとけしてできないのであった。

 これを個々の人間に主観をおいて言い換えれば、つまりは我々は常にほんの一瞬後に前世に目覚めたり他人と人格が入れ替わったりする可能性があり得て、「私は事件当時においては御先祖様の魂や他人の人格に乗っ取られていたのだ」と主張することで、実際に殺人等の犯罪を犯しながらも無罪を認められることもあり得るのだ。

 現に現行法においては、事件当時における心神喪失状態が認められることによって法的責任を免れられるケースも少なからず見受けられるが、真に量子論を理解している空実嬢ならば、そんなたわ言を覆すことなぞ造作もないことであった。


 そしてその際における最大のモットーこそが、『人の「本質アイデンティティ」というものは、あくまでも肉体にある』であったのだ。


 非常に残念なことであるが文字情報によって構成されている小説においては、どうしても人間というものをその内なる人格を主体に考えがちで、たとえ肉体がそのままであろうとも、突然前世に目覚めたり誰か他人と人格が入れ替わったりするようなことがあればそのとたん、文字通り別人になったかのように描写し始めるのだが、これは大きな間違いであった。

 と言うのも、実は物理学においては現代の量子論は言うに及ばず遥か昔の古典物理学の時代から、人の人格とか精神とか意識といったものはその個人を決定づける絶対的に普遍なものなぞではなく、あくまでも脳みそによってつくり出されている物理的存在に過ぎず、言わば肉体にとっては単なる『付属物』でしかないのだ。

 当然これは『前世の魂』や『他人の人格』についても同様で、結局のところはこれらも本人の脳みそによって生み出されているわけで、身も蓋もないことを言ってしまえば妄想や気の迷いの類いに過ぎず、もちろん人を殺しておいて「それは前世の魂や他人の人格が勝手に私の身体を使ってやったことなのです」などと言い訳をしたところで、認められたりするはずはなかった。

 しかも空実嬢のすごいところは、このような本来なら根も葉もないインチキに過ぎない超常現象に対してさえも、量子論に基づいてしっかりと論理付けをなし得ることであった。

 量子論によれば我々人間には無限の可能性があるので、人は誰でもほんの一瞬後にも前世返りや人格の入れ替わり等をなし得ることになるのだが、それはつまり人は常に一瞬後の未来において待ち構えている無数の『未来の可能性としての自分』とバトンタッチして入れ替わる可能性があるということなのだが、『可能性としての自分』と言ってもSF小説やライトノベルでもあるまいし、『パラレルワールドに存在しているもう一人の自分』であったりするわけでも、本物の前世の魂や他人の人格に乗っ取られるわけでもなく、あくまでも本人の脳みそがあたかも量子コンピュータでもあるかのようにして、あこがれや妄想や気の迷いや責任転嫁等様々な理由に基づいて、無数の別人格を『算出シミュレート』しているだけのことなのだ。

 その実現方法を具体的に述べると、実は話は至極簡単で、ただ単に本人が、前世の夢や誰か知り合い等の他人になった夢を見ればいいだけのことであった。

 何せ御存じのようにそもそも夢の世界には時間や空間の概念そのものが存在していないので、本人が無意識に脳内でシミュレーションした前世としての御先祖様や歴史上の偉人や誰か知り合い等の他人になり切って、彼らの数十年にもわたる人生のすべてを一夜にして経験することによって、その記憶が鮮明かつ鮮烈に脳裏に刻み込まれてしまい、目覚めた後も文字通り夢の記憶を引きずる形で過去の人物や赤の他人として行動していくことになり、この現実世界において前世返りや人格の入れ替わりなどという超常現象を、現実性リアリティを微塵も損なうことなく実現することになるといった次第であった。


 それでは、このようにただでさえ尋常ならざる事件ばかりを扱っているというのに、よりによってこんなミステリィ小説辺りの時代遅れの決定論的名探偵なぞ比較にならない、まさしく『スーパー探偵』とも『量子論探偵』とも呼ぶべき少女たちに無理やり付き合わされていて、僕なんかではただの足手まといになってしまいそうだが、実はそうでもなかったのだ。


 それと言うのも、実は僕はそれこそミステリィ小説の主要登場人物にありがちな、いわゆる『事件誘引体質』であったのであり、幼い頃から好むと好まざるとにかかわらず何かと怪事件に遭遇してばかりいて、文字通り『SF的なミステリィ小説』そのままな事件に慣れっこになっていて、今回のようにお二方に付き合って尋常ならざる怪事件の数々に巻き込まれようが、別に慌てふためくこともなく常に冷静に対応し、しかもその上まがいなりにも自分自身怪事件を題材にした作品を創っていることもあって、ミステリィ小説的な事件における事態の推移のパターンはあらかた熟知しており、量子コンピュータそのものの睦美嬢や空実嬢までとはいかないものの、適宜事件のこれからの展開をシミュレーションすることを心がけることによって、それぞれの局面においてもしっかりと適切なる対応を為し得ていたのであった。

 その結果として睦美嬢や空実嬢の僕に対する『いかにも頼りない下級生』という認識を改めさせることになり、そして何よりも事件誘引体質であることは事件を解決することこそを存在意義としている名探偵である彼女たちにとっては得難い存在であったらしく、一応基本的には高飛車な態度やヤンデレな言動が変わることはなかったものの、『探偵助手』としての僕に対する信頼感に関してのみは、どんどんと強固になっていくのを感じることができたのだ。

 それは僕が今回の探偵活動を題材にしたネット小説の作成を申し出た際に、プライバシーの保護上人名や地名等を変えることを条件にしながらも、快く承諾してくれたことが雄弁に物語っていた。

 かように彼女たちとの探偵活動は、ネット作家としても一人のミステリィ小説ファンとしても非常に興味深く心躍るものがあり、すっかり本気でのめり込み始めてますます助手として活躍をしていって、それが更に彼女たちの好感度を高めるという、まさしく好循環の様相を呈していたのだ。

 ──おお。この調子なら部長とのお付き合いを認められる日も、案外近いかも知れないぞ。

 そのように、心身共に充実した日々を送っていた僕であったが、


 まさか睦美嬢たちとの距離を縮めることこそが、むしろ部長の心にさざ波を立てることになるとは、露ほども思っていなかったのである。


   ☀     ◑     ☀     ◑     ☀     ◑


「──ネット小説のほうを拝見させてもらったんだけど、むつたちとはうまくやっているみたいね」

 放課後や休日における探偵活動も一段落し、久方ぶりに文芸部の部室へと顔を出せば、毎度お馴染みの窓際の指定席に座ってつつやすたかの『おれのにん』を読んでいたどり部長が、僕の姿を見るなり開口一番そう言った。


 穏やかな笑みを浮かべながらもどことなく寂しげな、黒曜石の瞳。


 ……あれ、どうしたんだろ?

 確かにここ最近は、睦美嬢たちの探偵としての活躍や自分自身の彼女たちの助手としての活動の有り様をネット小説化するのに忙しくて、恒例の三日に一度の文芸部活動もさぼりがちになっていたけれど、それもこれも部長と一日でも早く正式にお付き合いするためなのであって、その努力の甲斐もあって睦美嬢たちとの関係も非常に良好になり、まさに今最大の難関を乗り越えようとしているところなのに。

 ──はっ。まさか⁉

 部長ってば、最近になって急に僕が睦美嬢たちと仲良くなったものだから、あらぬ疑いを抱いておられるのではないだろうな?

 部長とお付き合いするために必死に努力しているのに、それが原因となって睦美嬢たちとの仲を疑われたんじゃ、本末転倒というものではないか。

 ……とはいえ、「それは誤解です!」などと弁明しようものなら、いかにも部長が僕と睦美嬢たちの仲を嫉妬しているみたいに指摘するようなものだから、もしもこちらの勘違いだったらまさしくやぶ蛇そのものだしな。

 そのように部室の入口で立ちつくしたままあれこれと思い悩んでいる唯一の部員に対して、まさにその悩みの種の部長さんのほうから、不意に思わぬことを問いかけてきた。

「そうやってネットでミステリィ系の作品を実際に発表しているつみ君だからこそ聞きたいんだけど、睦美やは正直探偵としてどうなのかしら? 拝見した小説によるとかなり特殊な事件ばかり扱っているようだけど、本来はただの女子高生に過ぎないあの子たちに、ちゃんと対応できているの?」

 何ゆえいきなりこんなことを聞いてきたのかは不明だったが、答えを返すこと自体はたやすかった。

「あ、いや。彼女たちはよくやっていますよ? 確かに扱っているのは尋常ならざる怪事件ばかりですが、常に論理的かつ科学的考察に徹してどんな不可解な謎も白日の下にさらけ出すことを成し遂げるという、今やミステリィ小説等でお馴染みの名探偵ですら顔負けの、活躍ぶりを誇っておられるくらいですからね」

「……そう、そうよね。元々睦美は『量子論探偵』として空実のほうは『オカルト探偵』として名を馳せていたんだから、ただの女子高生の範疇なんかに収まるはずはないわよね。私のような単なる読書好きの文芸部部長なんかとは、比べ物にもならないわよね」

 文字通り我が身同然の『姉貴分』と『妹分』が手放しに誉められたというのに、むしろますます表情を陰らせて、いかにも自嘲じみた笑みを深紅の唇に浮かべる部長殿。

 なっ。嫉妬は嫉妬でも僕に対してではなく、睦美嬢たちの天才的名探偵っぷりに対してだったのかよ⁉

 んな馬鹿な。それって、ようなものじゃないか?

「そ、そんなことはありません! 部長にだって、あの二人より断然まさっている点があるじゃないですか⁉ 確かに睦美先輩たちは名探偵としては大したものですが、その分性格的にはいろいろと問題があるし、あんな美人のお嬢様なのにいまだ恋人どころか友達の一人もいないし。それに比べて部長は外見や家柄はもちろん、性格も最高で御友人も大勢おられるし、何よりも僕という恋人候補もいるではありませんか。性格面に限って言えば、まさしく部長こそが光であって、あの二人のほうは完全に影そのものと申せましょう!」

 ……ううむ。もちろんこれは間違いなく僕の本心からの言葉であったが、部長を何とか元気づけようと精いっぱい長所を強調するあまり、比較対象にした睦美嬢たちをこき下ろす結果になってしまったけど、明日と明後日の部活動の時間が、今から非常に恐かった。

 それはともかく、努力の甲斐もあって部長本人に対してはちゃんと少なからず効果があったみたいで、涙が滲み出ていた目元をぬぐいながら、少々ぎこちなくも再び笑みを浮かべてくれた。

「うふふ。ありがとね。そう言ってくれるのは七罪君だけよ。でも、あの子たちのことも悪く言わないでね。確かにあの子たちの性格はけして良好とは言えないけれど、あなたの言う通り、私の影の部分ダークサイドのようなものなのだから」

「──あ、はいっ。今後は控えます!」

 慌てて頭を下げて最敬礼をして許しを請うた後で、ようやく自分の席に着き、僕のほうも読書をし始める。

 今日はあえて小説ではなく、はぎの漫画作品の『アロイス』を読むことにした。

 ……それにしても部長ったら、本当にどうしたんだろう。

 これまでは睦美嬢や空実嬢のことを、これほどあからさまに気にしたことなんかなかったのに。

 何だかここに来て、あれだけ盤石だったさきもり家の三人娘のバランスに何かしら綻びみたいなものが感じられて、非常に気になったものの、部長と二人して無心に読書に熱中しているうちに、忘却の彼方へと追いやられてしまったのである。


 まさかその不安が的中していたことを、時を置かずに痛感することになるとも知らずに。


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「──くくくくく。音に聞こえた『量子論探偵』も、どうやら年貢の納め時のようですなあ」

 そのストライプのスーツに痩せぎすの長身を包み込んだ二十代半ばの青年は、銀縁眼鏡の奥の瞳を笑み歪ませてそう言った。


 足下に倒れている最新の犠牲者の遺体を踏みにじり、長い真っ赤な舌ですでに血塗れた大振りのナイフを舐め回しながら。


 今やすっかりお馴染みとなった『学園探偵部』の部活動として、むつ嬢とともに旧家の相続争いの場を舞台にして繰り広げられている連続殺人事件を捜査していたなかに、まさしく最重要容疑者である前当主の義理の甥に当たる青年の罠に嵌まり人気の無い林に呼び出されたあげくの果てに、今現在はこうして断崖絶壁の崖っぷちに物理的に追いつめられているという、まさしく大ピンチの状況にあるといった次第であった。

「……ちょっと睦美先輩、何でこんなことになるんですか? あなたはあらゆる未来の可能性を予測計算シミュレートできる、『量子論探偵』じゃなかったんですか⁉」

「しかたないでしょう? 私はどこかの御都合主義そのままに唯一絶対の未来を予測できる、決定論的名探偵なんかじゃないんだから。たとえこのようなピンチに陥る恐れがあることがわかっていても、事件の決定的証拠をつかむためだったら、虎穴に入ることだって躊躇しないわ! ──それにほら、ちゃんと真犯人の犯行現場を押さえることができたじゃない?」

「だからといって僕たち自身が犯人に追いつめられたんじゃ、話にならないでしょうが⁉」

「それはあなたが逃げようとした時に、足下に転がっていた被害者の死体にけつまずいて、足をくじいてしまったからじゃないの?」

「いや、そもそもただの高校生が、何でこんなミステリィ小説の登場人物そのままな大ピンチに陥っているんですか⁉ それもこれもどこかの誰かさんがちょっとばかし推理力があるからって、本物の怪事件なんかに首を突っ込んでいくからではありませんか!」

「それなら大丈夫よ。あなたはただの高校生なんかじゃないから。──さあ、今こそ隠されていた超常パワーを発揮する時よ!」

「どっちが御都合主義ですか? そんなラノベ的展開は無い!」

 現下の危機的状況から現実逃避するかのように、睦美嬢とお馬鹿な言い争いを行っていれば、不意に聞こえてくるいかにもぞんざいな拍手の音。

「いやいや、笑わせてもらいましたよ。それで漫才のほうは、もうその辺で十分ですかね?」

 そう言って手を打ち鳴らすのをやめるや、流れるような所作で足を負傷して身動きのとれない僕のほうへ歩み寄ってきたかと思えば、無造作にナイフを振り上げる銀縁眼鏡。

 その瞬間左の二の腕に走る、焼け付くような痛みと、ほとばしる鮮血。

「──うぐっ」

「七罪さん⁉」

 左腕を押さえながらうずくまれば、すかさず睦美嬢が柄にもない切迫した表情で駆け寄ってくる。

「やめなさい! この子は単なる助手よ。殺すんだったら、探偵である私だけにしなさい!」

 毅然とした表情で少しも臆することなく、殺人鬼に向かって言い放つ少女探偵。

「ちょ、ちょっと、睦美先輩。何を言い出しているんですか⁉」

「……あなたをこんなことで失ったんじゃ、どりに合わせる顔がないじゃない。安心して、あなたのことは必ず私が守ってみせるから」

「──っ」

 いや、鏡を見るだけで、必然的に顔を合わせることになると思いますけど?

 しかし銀縁眼鏡の殺人鬼は、そんな少女探偵の決死の言葉をあっさりと踏みにじる。

「生憎ですが、お二人にはこのままそこの崖から転落していただいて、心中なさったことにしてもらいます。聞くところによるとそちらの助手さんは本来は、探偵殿の妹さんの恋人だというではありませんか。つまりあなたたちは自分の恋人と妹を裏切り不義密通の関係に陥ってしまい、その罪の重さに耐えかねてあの世で結ばれることにしたという次第なのですよ」

 そんな三文芝居の台本みたいなことを言いながら、今度は睦美嬢のほうへと迫り行く殺人鬼。

「それでは御要望通りに、まずは探偵殿のほうから落ちていただきましょう」

 そう言うや、血塗られたナイフを振りかぶる。

「睦美先輩!」

 まさに、その刹那であった。

「──なっ⁉ き、貴様!」

「……さっきから見ていれば、なあに? そのへっぴり腰のナイフ捌きは。よかったら、私がお手本を見せてあげましょうか?」

 何とその時少女は迫り来るナイフに対して少しも動じず、殺人鬼の右腕をはっしとつかむや、後ろ手にひねり上げたのだ。

「は、放せ! この小娘が⁉ ──────あっ、しまった!」

 しかも必死にもがく成年男性の悪あがきなぞ何のその、あっさりとナイフを奪い取ってしまう。

 そして咄嗟に飛び退いて身構える殺人鬼に向かって、むしろ自分のほうこそが本物のサイコキラーであると言わんばかりの狂気じみた笑みを、にたぁと鮮血のごとき深紅の唇に浮かべる、他称小娘。


「……何せナイフ捌きは、私たち『ヤンデレ』の十八番オハコですしねえ」


 ──‼ ま、まさか⁉

 もはや蛇ににらまれた蛙そのままに完全に脅え切って立ちつくしている殺人鬼へと向かって飛びかかっていく、文字通りキ○ガイに刃物そのものの、ナイフを持った自称ヤンデレ娘。

 それから後は、まさしく一方的な展開となった。

「……私の恋人に手をかけておいて、けして無事に済ませはしませんからね。寸刻みにしてから崖へと放り込んで差し上げますので、せいぜいあの世で悔い改めることね」

 そんなことを言いながら、さすがはヤンデレを自称するだけはある見事なナイフ捌きで、瞬く間に殺人鬼を切り傷だらけにしていく少女。

「ひぎっ! ぎゃっ! うぐっ! ──な、何だ、いったい何なんだ? さっきまではちょっと推理ができるだけの、ただの小娘に過ぎなかったのに、この変わり様は⁉」

 防戦一方となりながら、泣きわめき続ける殺人鬼。

 ……それに関しては、まったく同感であった。

 何で就寝中の夢の中でのシミュレーションを必要とするが、こんな日中に突然『チェンジ』することができるんだ⁉

 しかし、うだうだ考え込んでいる暇なぞは無かった。

 殺人鬼のほうはすでに泡を吹いて気絶してしまっているというのに、少女探偵ときたらあえてとどめを刺さずにじわじわとなぶり殺しをするかのように、小刻みに切りつけ続けるばかりであったのだ。

「ちょっと、睦美先輩だか空実先輩だかわからないけど、もうやめてください! このままだとこいつ、出血多量で死んでしまいますよ⁉」

「……構わないじゃない、こんなやつなんか死んでしまっても。何せ私たちにとって命よりも大切な、あなたを傷つけたのですからね」

「──っ」

「……私たちの『事情』を知ってもなお、私たちのことを受け容れて好きとまで言ってくれたのは、あなただけだった。私たちにとってはあなたを失うということは、世界を失うも同然なの。──さあ。もうすぐすべて済むから、邪魔しないであっちに行ってて」

 そう言うや僕をやんわりと払いのけて、更に男の身体にナイフを突き立てていく少女。

 もはや、我慢の限界だった。

 だから僕は意を決し、少女を後ろから抱きすくめるや、けして口にしてはならない言葉を言い放った。


「──もうやめるんだ、‼」


 その瞬間、彼女のすべてが凍りつくようにして静止した。

「……え……あ……あれ? これは、いったい。私、どうして──」

 うめくようなつぶやき声をもらす、最愛のひと

 その手からこぼれ落ちる、氷の刃。

「……部長、ですよね?」

「七罪……君?」

 相手を必要以上に刺激しないように、ゆっくりと身を離しながらささやきかけるや、こちらへと振り返る血まみれの少女。

「これってもしかして、『チェンジ』してしまったわけ? 今までの『私』は、睦美か空実だったの?」

「ええ。本来は今日は一日睦美先輩のはずだったのですが、さっきいきなり空実先輩に変わって、今はこうしてあなたになってしまったというわけです」

「……そんな。一日の途中で変わることはこれまでもあったけど、そんな短時間のうちにがすべて表に出てしまうなんて。それだけ私たちのバランスが崩れかけているとでもいうの⁉」

「え。こういうことって、初めてではなかったのですか?」

 思わぬ言葉を聞き咄嗟に問い返せば、少女の表情がこれまでになく悲痛なものとなった。

「そう、そうなの。以前なら必ず睡眠中の夢の中でしか人格が入れ替わることはなかったのに、ここ最近日中であっても唐突に別の人格になるようになってしまったの。──これはきっと、私のの症状が治り始めて、余分な人格を整理しようとしているのよ!」

 何と、部長の多重人格が、治り始めているって?

 いや、彼女にとってはここ数年来の最大の懸案だった、多重人格という『事情』が解消されるというのはめでたい話だけど、余分な人格の整理って何だ?

 その時少女は続けざまに、自嘲の笑みを浮かべながら、驚愕の言葉を突きつけてきた。

「そしてきっと、整理されるのは間違いなく、この私でしょうね」

 ──なっ⁉

「何を言い出しているんですか⁉ 整理されるとか! だいいち部長こそが多重人格なんかになる前からの元々の人格なんだから、整理だかリストラだかされるわけがないでしょうが⁉」


「だって何の取り柄もない私なんかよりも、睦美や空実のほうがよほど優秀じゃない!」


 ──!

「いやむしろ、デフォルトの人格である私をリストラするためにこそ、より優秀な人格が新たに生み出されたわけなのよ! 睦美は私みたいな気弱な日和見主義者なんかではなく、名家の令嬢としての自信に満ちあふれたリーダー気質を有しているのはもちろん、『量子論探偵』として数々の怪事件を物の見事に解決しているし、空実も性格にはいろいろと問題はあるけれど、探偵としての才能は睦美以上であって、どんな超常的な事件であっても常に冷静に論理的かつ科学的視野に立って考察し、いかなる非現実的な謎もすべて解明して現実性リアリティを微塵も揺るがせはしないし、私なんかでは比べ物にならないくらい世の中の役に立っているじゃない! あなただって本当はこんな何の取り柄もない私よりも、彼女たちと一緒にいたほうがいいんでしょう? 隠したって無駄よ! あなたのネット小説を読んでいれば一目瞭然なんだから。彼女たちと一緒になって事件を解決している時のあなたのほうが、私と一緒に文芸部で本を読んでいる時なんかよりも、数倍も生き生きしていることは!」

 そのように慟哭するかのように言い終えるや、顔を両手で覆い隠し、その場にうずくまる少女。

 そんな彼女に向かって、僕は少しも躊躇せず、冷然と告げた。


「ええ、その通りですよ」


「──っ」

「少なくとも睦美先輩と空実先輩に関しては、まったくその通りです。僕は彼女たちのことをその才能を含めて尊敬するとともに少なからぬ好意を抱いているし、いつも一緒にいて怪事件を解決していきたいし、できるなら一生添い遂げたいとすら思っています」

「……うう……ううううう。そ、そうよね。そうに決まっているわよね。うん、これで十分わかったわ。──あなたの本当の気持ちが」

 僕の言葉にショックを受けながらも、無理やり納得しようとして何度もうなずきつつ、更に顔をうつむけていく少女。

 そのように今まさに絶望の淵に陥らんとしている少女の両手をいきなり握りしめるや、僕はきっぱりと言い放った。


「でもそれもすべて、彼女たちが、であればこそなのですよ」


「………………は? 睦美たちが、私自身って」

 思わぬ言葉を告げられて、きょとんとした表情で見上げてくる、最愛のひと

「確かに私たちは同じ身体を共有しているけど、あくまでも別々の人格なのよ? 例えば睦美の人格が最後まで残れば、今の私とはまったくの別人になってしまうわけだし」

「そんなことはありませんよ。身体が同じなら人格──つまりは中身がどうであろうと、同一人物でしかないのですからね。なぜなら人の『本質アイデンティティ』というものはあくまでも、肉体にこそあるのですから」

「え? 人の『本質アイデンティティ』は、肉体にあるって……」

「実はこれはすべて空実先輩が言っていたことなんですけれど、つまり人格とか精神とか意識とかいったものは、別に絶対的に普遍な存在なんかじゃなくて、脳みそによってつくられた自分の肉体を動かすためのOSのようなものでしかないのですよ。それは多重人格はもちろん前世返りや人格の入れ替わり等における、本来の自分の人格とは異なるいわゆる広い意味での『別人格』についても同じことなのであって、別にパラレルワールドからやって来た『もう一人の自分』の精神体でも過去の人物の魂でも知人等の他人の人格でもなくて、あくまでも『こんな自分になりたい』といった願望や『自分の前世は織田おだ信長のぶながに違いない』といった妄想や『あいつと人格が入れ替わったら面白いぞ』といった遊び心等が高じて、脳みそにおいて無意識にそれぞれの目的に添った別人格をシミュレートしてつくり出すことによって、完全に別人になり切ってしまっているだけなんですよ。具体的な実現のしかたを説明すると、就寝時に夢の中で理想の自分や過去の人物や知り合い等の他人をシミュレートしてその人生を追体験することになるわけなのですが、そもそも時間や空間の概念自体が存在しない夢の世界のことゆえに、一夜にして別人格の数十年にわたる人生を丸ごと体験することができ、その記憶が脳裏に鮮明かつ鮮烈に刻み込まれてしまうことによって、目が覚めた後も完全にその人物そのものになって行動していくことになるという次第なのですよ」

 以上のごとき僕の詳細かつ理路整然とした説明を聞き終えるや、いかにも堪りかねたようにまくし立ててくる目の前の少女。

「ちょ、ちょっと待って。それじゃまるで私って、『理想の自分』になる夢を見ただけなのに、目覚めた後も夢の記憶を引きずり続けることによって別人になりきってしまっているという、単なる妄想癖のようなものじゃないの⁉」

「ええ、そうですよ。特に多重人格においては別人格化というよりもむしろ、言わばこれまで隠し持っていた自分自身の『別の性格』が表に現れてしまっているようなものなんですよ」

「いやいやいや。別の性格って。高飛車毒舌の睦美のほうはまだどうにか許せるけど、空実のガチのヤンデレすらも、私自身の秘められた性格だというの⁉ そんなの嘘よ!」

「──ふっ。自分のすべてを認めるのは、何よりも辛いことだよな」

「いやあああああああっ。やめてえ!」

 頭を抱え、再びうつむく少女。

「まあ、そういった諸々もひっくるめて、すべての人格があなた自身でしかないってことなんですよ。だからもしも多重人格が解消されるとしたら、余計な人格が消えてしまうとかではなく、むしろすべての人格が『統合』されるのだと思いますよ?」

「……統合、って」

「つまり睦美先輩や空実先輩と完全に入れ替わるわけでもなく、元の部長の人格だけに戻るわけでもなく、三つの人格が混じり合った状態になるのです。最近になって日中にいきなり別人格に切り替わったりし始めたのも、三つの人格のバランスの崩壊の兆しではなく、むしろすべての人格の統合化の兆候だったのでしょう」

「でも先ほどの話では別人格のシミュレーションは、夢の中でしかできないのではなかったの?」

「そんなことはないですよ。別の人格をシミュレートしてそれを脳裏に刻み込んで別人化することなんて、ほんの一瞬でやりおおせることができるんだから。別に覚醒時であっても構わないのですよ」

「え? 自分とは別の人物の数十年にもわたる人生の記憶を、一瞬で脳裏に刻み込むことができるですって⁉ そんなの時間と空間の概念自体が存在しない夢の中じゃないと不可能だと思うけど……。あ、もしかして、起きたまま白昼夢を見ているとか?」

「あはははは。白昼夢ですか。もちろんそれでも可能ですが、ここはもう少し論理的かつ科学的に実現可能性を考察することにいたしましょう。そう。量子論という、現代物理学が誇るこの世のすべての物理現象の根幹をなす理論によってね。──実はね、今やあなたは『自意識をもった量子コンピュータ』として、神にも等しき全知全能の力を持っているのですよ。何せそれこそが、多重人格化における最大のメリットなのですからね」

「は?………………………ちょっと待って! 私が量子コンピュータになったとか神様同然だとか、何よそれ⁉」

「あれ? 自分自身でおかしいとは思われなかったのですか? 睦美先輩も空実先輩も確かにあなたにとっては理想の存在でしょうが、だからといってなぜにたかがただの女子高生が実際に全知全能とも言うべき推理力を振るって、数多の怪事件を解決することができたのかということを」

「──! そ、そういえば……」

「つまりあなたたちは部長自身はもちろん、睦美先輩も空実先輩も個々人としてはただの女の子に過ぎないのですが、まさしく多重人格ならではに、全知全能ともなれるというわけなのですよ」

「総体的には全知全能になれるって……」

「言うなれば多重人格者は量子や量子コンピュータそのままに、無限に存在し得るすべての『別の可能性の自分』とシンクロできるからこそ、全知全能であり得るのです。そう言うといかにも突拍子もない話のようでもありますが、論理的にも科学的にもあくまでも現実性リアリティをまったく損なうことのない非常に正しい見解なのです。何せ量子が実際に観測されるまでは無限の形態や存在位置となり得るのは、一瞬だけ未来の無限の可能性としての自分自身とシンクロしているからであり、量子コンピュータがこの世界の万物の無限の可能性を予測計算シミュレートできるのも、量子の性質を有する量子コンピュータ自体があらゆる森羅万象の一瞬後の無限の可能性とシンクロできているからであり、同様に多重人格における『別の自分』というものが、知人等の別人や過去や未来の人物等を含むのはもちろん、この世の森羅万象をも含むとしたら、量子コンピュータ同様に一瞬にしてこの世の開闢から終焉までの森羅万象とシンクロできるわけで、別の人物のたかが数十年程度の人生をシミュレートできることはもちろん、唯一絶対の予言なぞではなくあらゆる無限の可能性を踏まえた真に理想的な未来予測能力を活用することによって、どんな怪事件でも解決できる全知全能そのものの『名推理』を実現することなぞ朝飯前ということなのですよ。何せ一人でも別の人格をシミュレートできるということは、別に数を限ることなく何人でも別人格をシミュレートできる可能性があるというわけだし、デフォルトの部長とはまったく別人と言っていい睦美先輩や空実先輩をシミュレートできるということは、実際に存在する知り合い等の赤の他人だっていいんだし、歴史上の人物だっていいんだし、小説や漫画等の創作物上のキャラクターだっていいんだし、動物だっていいんだし、植物だっていいんだし、岩石や金属等の無機物だっていいんだし──ということで、現在過去未来を問わない森羅万象とシンクロできるわけであり、しかも別の人格とは先ほども述べたように、量子論に基づけば一瞬後の未来に最初からすべて丸ごと存在している無限の『別の可能性の自分』のことであるからして、夢の中だろうが覚醒中だろうがほんの一瞬だけシンクロすれば、あらゆる情報が必要な分だけ記憶として脳裏に刻み込まれることになるって次第なのです」

 長々と続いた蘊蓄解説を終えるや、今や少女は完全に呆気にとられた顔をしていた。

「……私は多重人格だからこそ、今や全知全能そのものになっているですって?」

「ええ。それなのにせっかく生み出された別人格を消してしまって多重人格を解消しようなんて、馬鹿げた話でしかないってことなんですよ。つまりは後はただ、部長自身が睦美先輩たちのことを受け容れるだけでいいんです。現下のように統合化の進行が押しとどめられているのは、そもそものデフォルトの人格である部長が多重人格のことを誤解していたために、本当の意味で睦美先輩たちのことを受け容れることができないでいるからなんですよ」

「で、でも、もしもこのまま統合化を進めていった結果、今の私とも睦美とも空実とも違う人間になったりした場合でも、それこそあなた自身のほうは、これまで通りに新しい『私』のことも受け容れてくれるわけなの?」

 そう言って僕のほうを見上げてくる、涙と不安とに揺れている黒曜石の瞳。

 だから僕は何のためらいもなく、きっぱりと断言した。

「もちろんさ! 何度も言うように、僕は部長のすべてを愛しているのですからね。それに人の『本質アイデンティティ』というものは肉体にこそあるのであって、中身がどうなろうと関係ないんだし。──あ、いや。これはけして俗に言う、『身体目当て』というわけではありませんよ?」

「まあ。うふふふふ」

 僕の小粋なジョークが効いたのか、ようやく笑顔を見せてくれる最愛のひと

「それに統合後もちゃんと『名探偵』としての人格が存在するほうが、僕も助手としてこれまで通りに怪事件に関わっていけることになって、ネット作家としては大歓迎ですし、むしろ部長自身が名探偵となる日が、今から楽しみで待ちきれないくらいですよ」

「だったらせっかくだから、今現在三つに分かれている学園のクラブのほうも、統合させてしまおうかしら?」

「それはいい。実は正直に申しますと、今のようにお三方とそれぞれ別々に付き合っていき続けるとしたら、身体が三つないと足りないと思っていたほどでして」

「それは誠に、御苦労をおかけしましたわね」

「いえいえ、そんな。あはははは」

「ほほほほほ」

 そうして明朗なる笑声が、ほの暗い林中に響き渡っていく。


 その時目にした少女の笑顔は、海鳥部長の穏やかな微笑みにも、睦美嬢の高飛車な哄笑にも、空実嬢の陰鬱な含み笑いにも見えたのであった。


   ◐     ◑     ◐     ◑     ◐     ◑


『……結局、落ち着くところに落ち着いたってわけか』

「ああ、お陰様でね」

『あんな多重人格の女とつき合っていたんじゃ、いろいろ苦労すると思うんだがな』

「多重人格についてはあの後すぐに統合化を済ませたから、もう大丈夫さ。もちろん総体的シンクロ能力のほうはそのまま維持できているから、量子コンピュータそのものの全知全能の力はいつでも使えるんだけどね」

『いやいや。せっかく統合したのにそんな力を持っていたんじゃ、異常な存在ということには変わりないじゃん。何でそんなのと付き合えるわけなの?』

「それはお互い様だろ。──ねえ、?」

『それもそうだよな。?』

「……しかし、何でなんかと、こうしてスマホを通して会話をしたりできるんだよ。僕の別人格であるおまえは、あくまでも僕の脳みそが生み出したいわゆる『理想の自分』とも言うべき、妄想やあこがれや現実逃避等の産物でしかないはずだろうが? しかも何だと? 言うに事欠いて自分のことを、今回のどり先輩との一連の出来事を基にしてしたためた、僕のネット『僕』なぞと言い張りやがって」

『だって本当にそうなんだから、仕方ないじゃないか?』

「はあ?」

『現実的にはおまえが言うように、部長さんの別人格であるむつが彼女自身の脳みそが生み出した夢の中のみの存在に過ぎないっていうのは、至極妥当な考え方だろう。しかしそれでも睦美たちやこの俺自身は、いわゆるSF小説やラノベならではの非現実的な「別人格」としてはともかく、少なくとも「記憶」としてなら、ちゃんとなんだからな』

「おまえや睦美先輩たちが、れっきとした本物だと? それに、『記憶』としてって……」

『おまえが言っていたように、睦美や空実がれっきとした一個の人間であり得ることなぞけしてなく、あくまでも部長さんの「別の可能性の自分」に過ぎないという考え方に基づけば、世界というものはこの目の前にある現実世界ただ一つだけで、平行世界や異世界や過去の世界や未来の世界──ひいては、俺が現在存在しているようなおまえの手で生み出された「ネット小説の中で描かれた世界」すらをも含む、ありとあらゆる「こことは別の世界」の類いは、断じて存在しなくなってしまうんだ。それと言うのも、おまえの考え方って実のところは量子論で言うところのコペンハーゲン解釈なんだけど、実はこれって一種の平行世界理論である同じ量子論の多世界解釈と表裏一体の関係にあって、結局のところは同じことを言っているだけなのだから、「別の可能性の自分」の確固たる実在を否定するということは、平行世界や異世界等のこの現実世界にとっての「別の可能性の世界」の確固たる実在を否定することになるってわけなのさ。その結果、おまえらネット作家お得意の異世界転移や異世界転生の類いはすべて、文字通り単なる絵空事になってしまうかと言うと、さにあらず。さっき「世界というものはこの目の前にある現実世界ただ一つだけ」と言ったけど、それはあくまでもに過ぎず、おまえのような現代日本人にとってはこの世界だけが唯一の現実世界であるのと同様に、者たちにとっては、まさにその唯一の現実世界となるって次第なんだよ。しかも世界が一つしかあり得ないのなら、一見別の世界への「転移」も「転生」も不可能のように思えるけど、それこそおまえが言っていたように夢の中で「別の可能性の自分」のとアクセスして、それを脳みそに鮮明かつ鮮烈に刻み込むことによって、目覚めてからも夢の記憶を引きずる形で、現代日本人なら「異世界人としての前世返り」を、生粋の異世界人なら「現代日本からの転移や転生」を、現実性リアリティを一切損なうことなく実現し得ることになるんだ。ここまで言えばもうおわかりだろうが、「この世界の未来には無限の可能性があり得る」ということこそを最大の基本原則としている量子論においては、世界というものは基本的にただ一つだけではあるが、ほんの一瞬後の異世界等の「別の可能性の世界」に転移するかも知れない可能性をも同時に肯定していて、けして異世界等の存在可能性を全否定するものではないのさ。よって部長さんが夢の中でアクセスした睦美や空実や、まさに今おまえがインターネットを介してアクセスしているこの俺が、確固とした別の世界の存在であることも、けして否定できないわけなんだよ。──いやむしろ、そもそもたとえ単に夢の中でアクセスすることになった「記憶」であろうとも、まったくの他人の数十年もの人生のすべてを、たかが一介の女子高生が己の脳みそだけで創出シミュレートできるはずがないだろうが?』

「あ」

『つまり元々夢の世界自体が、この現実世界のみならず、平行世界や異世界や過去の世界や未来の世界や、俺が現在存在しているような「ネット小説の中の世界」をも含む、ありとあらゆる世界の森羅万象の「記憶」が集まってくる場所なのであって、おまえら現代日本人は常に夢の中で、本物の異世界人や俺みたいな小説の登場人物なんかの「記憶」とアクセスする可能性があるってわけなんだよ。実はこれってかのユングの提唱しているれっきとした心理学上の理論である「集合的無意識」論に基づいているのであって、睦美や空実や俺自身が確固とした本物の存在であることは、量子論のみならずユング心理学によっても実証されることになるのさ』

 おいおい、量子論だけでもかなりヤバめなのに、ついに集合的無意識の御登場かよ?

 何だかどんどんとちゅうびょう臭くなっているように感じられるのは、僕の気のせいか?

「……まあ、だいたいのところは納得できたけど、コペンハーゲン解釈にしろ多世界解釈にしろユング心理学にしろ、『別の可能性の自分』とアクセスできるのが夢の中だけに限られるのなら、何で僕たちはこうしてスマホを介してリアルタイムに会話を交わすことができているんだ?」

『ふふふ。なぜなら実はまさしくインターネットこそが、電脳化された夢の世界そのものとも言えるからなんだよ』

「へ? ネットが電脳化された夢って……」

『つまり実体を持たず無限の可能性を秘めているネットも、多世界解釈で言うところの平行世界の一種である「多世界」の一つのようなものなのであって、しかも睡眠中だけにアクセスを限られる夢とは違って二十四時間年中無休でアクセス可能だから、こうしてスマホを介することでリアルタイムに別人格同士で会話をすることもできるってわけなのさ。それに何よりもこのようにネット越しでアクセスし合っている限りは、夢の中同様にお互いに実体を持って直接会うわけではないから、けして一つの世界の中で同一人物が複数存在することにはならず、現実性リアリティもきっちりと守れるといった次第なんだよ。しかもあくまでもおまえの視点に立てば、本当は俺はおまえの別人格なぞではなく、ネットの中において偶然に知性に目覚めたプログラムのようなものなのかも知れないし、身も蓋もないことを言ってしまえば、さっきおまえも言っていたように単なるおまえ自身の妄想の産物に過ぎないのかも知れないし、誰か知り合いがおまえの別人格を装っていたずらをしているだけかも知れないのだからな。──もちろんこれは「彼女」についても同様で、そもそもおまえの愛しの部長さんが多重人格であること自体が、実は彼女自身のお芝居に過ぎないのかも知れないのであって、彼女が本当に多重人格なのか否かを確実に判別することなんか、誰にもできやしないってわけなのさ』

「──っ」

 ……そりゃあ、そうかも知れないけど、そんなことを言い出したらきりがないだろうが⁉

「まったく……。おまえってほんと、いかにももっともらしく詭弁を弄するのがうまいよな」

『人のことを言えるかよ。あんな美人で純真無垢な部長さんを、言葉巧みに言いくるめて、まんまとモノにしやがったくせに』

「人聞きの悪い。あれはあくまでも、僕の本心からの言葉だよ」

『しらふで面と向かって、「あなたのすべてを愛している」と言えるのもすごいよな。──まあとにかく、せいぜいお幸せにな』

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三つ子の魂いつまでも 881374 @881374

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