朝、私は目覚めたはずであるのに、どうやら目覚めていなかった。

私は確かに眠りから目覚めたつもりでいた。しかしそれは私の意識が睡眠という無意識の状態から有意識の状態に変化した、という意味でしかなかった。

意識があることが目覚めであるのならば、なるほどそれは確かに目覚めというべきなのだろう。しかしそれはどうしても目覚めとは呼べなかった。意識だけが覚醒し、それに連なるはずの肉体は連携を失い、ピクリとも動こうとしない。だからそう、私は状態を起こして伸びをすることもできなかったし、目を開ける事さえも許されなかった。


私はまぶたの裏の真っ暗な暗闇を見つめながら、ただ横たわった自らの肉体を知覚していた。

私の体はただ横たわり、私の神経は薄っぺらな布団の存在だけを淡々と伝えている。私はそんな神経の平坦で起伏のない差し障りのない淡々とした面白くもない報告にただ耳を傾けながら、さてどうしたものかと考えていた。目も開かぬ。上体を起こす事もできぬ。これでは正確な意味での目覚めるという行為を行う事ができぬ。しかしだからといってどうしたらこの肉体はこの意志に従って活動を起こしてくれるものかとんと見当もつかぬ。

意識からまぶたに開けとどれだけ命じようとも、まぶたはほんの微かにさえ動かない。何かが断絶している。仕方がない。待つしかあるまい。肉体と意識の関係が復旧するのを。


私は待った。きっと偶々肉体と意識の目覚めのタイミングがずれただけだ。しばらくすれば肉体も目覚めるだろう。そうしたら「目覚め」ればよい。

じゃあ、そうだな。しばらく別のことでも考えているとしようか。

昨日解決に悩んだ矛盾点・彼女の声・暑さ・聞こえないセミの声・ディジタル化された言葉の起こす波紋・狂うということ・ジャズ・猫・携帯電話・断絶・現在の状況について・現在の状況について・現在の状況について……


しばらくして考える事もなくなると、さてこれが一体いつまで続くのか、そんな考えが急に不安という形になった。

まったく、考えるというのは馬鹿らしい行為だ。何も確定していない未来の姿を、勝手に形作ってはいくつもいくつも不安を作る。不安という不快なものを作れば、それを避けるよい方法を見つけ出す努力をすることになる。そうすれば何かよい方法が思いついて、私たちは不安を避けることができる。つまりはそういうということなのだろう。しかしそんなものがたやすく考え付き、実行できる、そんな世はとうの昔に過ぎ去った。今や世界は混迷を極め、不安の解消ができないという不安が跋扈する、そんな世なのだ。こんな世界においては、不安を生み出すばかりでその解消法を見つけ出せぬ「考える」などという行為は自殺行為に等しい。だのに人間は考えざるを得ない。何という不幸だ。


事実この状況はどうだ。こんな降って湧いたような、全く理解しがたい現実。これに不安になったとて、どうやってこの状況を打破するのだ。手掛かりなど何もない。相変わらず断絶は続いている。復旧の目途は立たぬ。ただ私の心の中では不安だけが生まれては結合し、大きく大きく育っていく。さりとて意識を封じることもできぬ。意識を封じる事ができないのだから、私の意識はただ考えつづける。不安を生む。不安が積もる。不安が大きくなる。不安が全身を貫く。

私はいつまでこうなのだろう。いつまでこの肉体は意識と接続されないままなのだろう。いつまで私はこの不可解な状態を保たねばならぬのだ。


私はもう一度眠ろうとした。この不安の暴動を静めるにはもはや眠るしかない。

なるほど眠りというのは、こうして余計な考えで精神を狂わさぬよう与えられた休息でもあるのだな。人間は考えすぎる。考えたくなくとも考える。考えて考えて、そして不安が解消されるならいい。だがそううまくいくことばかりではない。消えぬ不安。不安を呼ぶ不安。

だから私は眠るのだ。不安を一時的にでも眠りの海の底に沈め、その存在を少しでも遠ざけるために。


しかし眠りから脱したばかりの意識をもう一度眠りの底に沈めるのは容易なことではなかった。

私は背後に巨大な不安の足音を感じながら、必死で意識を眠りに沈めようと格闘した。

しかし眠れない。不安はひたひたと迫る。眠れない。不安が迫る。焦る気持ちがなお眠りを遠ざける。不安が迫る。眠れない。不安が迫る。焦り。眠れない。焦燥。不安。そして焦燥と不安が結びつき、さらに迫り…。


そして、私は、気付いた。

そう。気付いてしまったのだ。

…何かがおかしい。

何かがおかしいのだ。


例えば、先ほどから淡々と報告を告げる神経。

それは本当に報告をしているのか? 

違う。これは報告ではない。私が、私の意識が作り出した擬似的な報告書だ。自らの捏造した報告書を読んで、報告された気になっているだけだ。

例えば、まぶたの裏。

それを私は本当に「見て」いるのか?

いや違う。何かが違う。これは「目」じゃない。私の目はどうなった? 私の視神経は?

どういうことだ。

どういうことだ。

どういうこと。

どういうことなんだろう。

私は激しく混乱した。

神経の報告もまぶたの裏も虚偽。

では一体…。


…そうか。

私はようやく思い至った。

ないのだ。

肉体自体が。

いや、ない、というのは語弊があるか。

私の肉体は変質していた。

私の肉体は、どうやら植物のようになっているらしい。

窓から差し込む日光を感じる。

日光を受ける事によって「食欲」のようなものが充足を得る、という感覚がある。

全身の様々な部位を使って呼吸している、という感覚がある。


そうか。正しく目覚めていたんだな。私は。

たまたま肉体が別のものに変わっていただけだ。

私は変質した肉体に微かな日光を感じながら、もうすでにない胸をほっとなでおろしていた。

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