鏡がただ世界を映しているのでないということに気付いたのは、私が鏡というものに向き合い始めてからもう何年も経ってからのことでございました。

私は床屋という商売を生業にしておりましたので、私の日常にはいつでも鏡がございました。

私は鏡を通してお客様と語らい、鏡を通して自分自身を見、鏡を通して様々な物事を認識していたのでございます。

私は信じておりました。いかに左右が逆転しようとも、鏡はただ光を反射し、嘘偽りのない、正確な世界を映すものだと。

そう信じておりましたからこそ、私は鏡を通して私の仕事の仕上がりを確認し、鏡を通して、私の仕事に対するお客様のご評価を判断させていただいていたのでございます。


しかし私はある日、ふと気付くとこう考えていたのです。

鏡の向こうにいる私が、本当の私ではないのかと。


なるほど確かに鏡を見ている私は鏡のこちらにおります。

でも、私は鏡を見、鏡の向こうにいる私を見て、私がいるということを確認しているのです。

私は「誰か人がそこにいる」ということを、「見る」ことによって確認しております。見えるから、そこに人がいると考えるのです。つまり、人がいる、ということは、見て確認できる、ということではないかと思うのでございます。


そして私が見て確認できる私は、鏡の向こうにいる私でございます。

いえ、確かに私は鏡などなくても、私の手足や体を見ることができるのでございますが、しかしそれでは私の顔は?

一体その人が誰であるのか。私はそれを判断するのに、顔をたよりにしております。いえ、もちろん声や物腰や服装や、そんな様々なことを総合しているのでございますが、しかし判断の大部分は、やはりその顔によっているのでございます。

だというのに。

だというのに、私は、私の顔だけは、鏡なしにはどうしても見ることができないのでございます。私が誰であるのか。私は私であるのか。それを判断するための手掛かり。それを私は直接的に見ることができない。


私の見慣れたくたびれた手。それを見て私はこの肉体が私であると、そう思えばいいのかもしれません。そこから連なる私の顔なのだから。これは私の顔に違いない。そう思えばいいのかもしれません。ですが、どうしても不安なのでございます。私の顔が、ある日突然、私の知らないうちに、全く別のものにすげかわってしまっているのではないかと。

こんなことを言うと、笑われてしまうかもしれませんね。

でも、どうしてもその不安だけは、拭い去れないのです。

そんな私にとって、鏡だけが唯一、私に安心を与えてくれるのでございます。

だから、そう。それでは本当に存在する私とは、鏡の向こうの私なのではないか。と、そう思ったのでしょう。

顔も、肉体も、何も欠けていない、十全な私。それは、私にとって、鏡の向こうにしかおりません。ならばきっと、あの鏡の向こうの私こそ、本当の私なのだろう、と。


その考えに取りつかれてからというもの、私は鏡を手放すことができなくなってしまいました。

鏡を通して私を見ていないと、私はまるで私自身がこの世の中から消え去ってしまったような、そんなどうしようもない不安に襲われるのです。

私は仕事以外の時も、必ず小さな手鏡を持ち、視界のどこかに私がいるようにしておりました。

そんな私を見て、笑う者もおりましたが、私にとってそれはどんなことよりも大切なことでございました。

鏡を失えば、鏡を通して私を見ることができなくなれば、私を確認することができなくなってしまう。私が消えてしまう。私が存在しなくなる。それなのに、世間様を見ている何かがいる。

そう。私ではない、何かなのです。私は鏡の向こうにいる。その鏡の向こうを見ている何か。

それは私ではない。私ではなく、もっと何か超越的で、俯瞰的な…例えば三人称で書かれる小説の記述者のような、主人公を観察し記録する超越的な主体。神様の視点のような、そんな何か。

私は何だか恐ろしくなりました。この、鏡に映った私を確認している存在は何なのだろう。

それは私なのだろうか。私ではないのだろうか。私とは何なのでしょう。私が存在するということはどういうことなのでしょう。

私には何もかもが十分にわからなくなりました。しばらくの間、仕事も手につかず、私は鏡ばかりを見ておりました。その事で夫には心身ともに大変な苦労をかけてしまい、大変に申し訳なく思っております。


そうしてしばらく経ったある日の事でした。

私の見ている目の前で、鏡が突然に割れたのでございます。

それは前触れもない、全く唐突な出来事でございました。

鏡は突然に砕け、粉々になってしまったのでございます。

私を映した鏡が、その身に映した私ともども砕け散った時、ようやく私は鏡の向こうにいる自分が、虚構のような、不確かな存在だということを思い知ったのでございます。


なるほど私というものは、鏡の向こうにいようがこちらにいようが、かように不確かなのでしょう。


今でも私はいつも、鏡を持っております。

ただ、以前とはそれを見る理由が、少し変わったように思うので御座います。

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