第二話 グラスグリーン

 嫌な夢を見ると、どうしても胃に蓋がされてしまっているかのように食欲がなくなっている。どれだけ悲しいことがあっても、人間の身体は都合よく出来ているから限界が近づいてくると喉も乾くしお腹も減る。蒼空は死んだのに、そして俺は胸に大きな穴が開くくらいに辛いのに、それでも空腹を感じる事に酷い苛立ちを感じる事はあるけれど。

 シャワーを浴びたら少しずつ思考が定まっていくのを感じる。それでもお腹は空いてこない。事務所の寮は一人で暮らすには少し広い。それもそうだ。本当は二人部屋なのに、一人で贅沢に使わせて貰っている。その点は事務所に感謝している。それが百パーセントの善意であればどれほどいいだろうと思ったことはあるけれど、現実を見るにほぼ無理な話だ。それでも期待してしまうのは、きっと俺がまだ大人になりきれていないせい。

 制服がない学校だから、適当に服を漁って着る。こんなに心が疲れていても、当然のように紫外線をカットするアウターに袖を通したことに少しだけ驚きながら、昨日中身を準備をしておいたリュックサックを背負う。首にチョーカーがついていることだけ確認して、振り返る。窓は開けていないから戸締りは心配しなくていい。玄関にあるミネラルウォーター入りペットボトルの段ボールから一本だけ引き抜いてリュックサックの外ポケットに忍ばせる。


「行ってきます」


時間は七時。少しだけ早い外出前に出かける前に言う言葉を溶かしてから扉を開ける。

 




 外の空気は九月にしては冷たい。ほどよい温さが少し伸びてきた髪を通り抜けていく。少し軽い足取り外に出る。大きめのヘッドホンをつけてしまえば、三葉天城だということはバレたりしない。

 三隈雨城。これが俺の本名で、結構気に入っている。母が俺を出産した後の夢で、父と旅行に行った小倉城を思い出したから。その日はあいにくの雨だったけど、それはそれで風情があって好きな風景だったらしい。よく不思議な名前だと言われるけれど、それとこれとは別の話。

 父は有名な演歌歌手、母は劇団のトップスターという家に生まれた俺は幼いころから歌とは非常に縁があった。そのせいか、物心ついていたころから歌のレッスンをすることは普通で、ステップを踏むのも普通の事だと思っていた。インディースとしてデビューしたのは十一歳のころ。同じ年に母が突然病気で亡くなった、心臓の病気だったらしい。その一年後、父は薬物所持容疑で捕まり、保釈中に母の後を追うように自殺した。母がいなくなったことが父をどれほど苦しめていたのかはわかっていた。いけない事をして逮捕されたことも何となく理解した。けれど最後の最後まで、二人きりの世界で生きていた二人を咎める気なんて今もない。

 適当な場所からバスに乗って電車に乗り、そこから少し歩くと高校に着く。今日は早めに家を出たし、気持ちのいい朝だからと歩くことを決める。明るい曲調の音に身を任せて道を歩く。少し経つとグレイの空がすこしずつ青くなっていく。ペットボトルを入れたポケットと反対の場所からサングラスを取り出す。目の色素が薄いせいか、太陽の光とは少し関係を考えなくてはいけない。

 住宅街を抜けて、町の方に出ていく。制服を着た小学生たちが手をあげて交差点を渡る。シルバーセンターのジャケットを着た老人が公園の掃除をしながら子供たちに挨拶をする。会社員があくびをしながら暇そうに端末をいじっている。毛を短く切られている小麦色のポメラニアンが軽快な足取りで通り過ぎていく。

 音楽で視界は変わる、それは父の言葉だった。視線で人は恋をする、これは母の言葉だった。仲のいい二人で、お互いに忙しいけれどいつも家族の時間を大事にしていた。あれだけ親しくしていたのに、ともすれば声を忘れそうになるのは人間の記憶能力の限界なのか、俺が薄情なのかわからない。どっちにしても、世間がどう言おうと両親の事は心の底から愛していたし、その気持ちは変わらない。だからこうも考えてしまう。

 今この瞬間にいてくれたらこれだけ悩まなくても済んだのかもしれない。





 改札に定期をかざしてホームに出る。朝早くから多くのサラリーマン風の男女がひしめき合っている。絶対に通る意思を持っていないとこの戦場は潜り抜けられない、持つそれはそれで酷く疲れるけれど。ようやく電車に滑り込み一息つく。いつもより早いせいか今日は駅員から押されることはなかった。

 車内は決して空いている訳ではない。俺の目の前の座席にいる中年の男性は競馬の新聞を読んでいる。隣の若いリクルートスーツの男性は大口を開けて眠っている。隣の制服姿の学生は足を組んで一心不乱に端末をタップし続けている。外を見ると、ゆるやかに流れていく風景の中にある木々の葉はほんの少しだけ黄色に近づきつつある。もうすぐ紅葉の季節、少しずつ町の景色が変わっていくのがわかる。この季節になると浮ついた気持になっていたはずなのに、今はそんな気分にはなれない。

 そう考えながら電車に揺られていると、蒼空の言葉を思い出す。


「大丈夫、きっとうまくいく」


なんて適当で無責任で、どうしようもなく意味の分からない言葉を残したのか。

 蒼空が自殺して、一番騒いだのはメディアだ。俺たちの所属しているワンシグナルエンターテイメントに問題はなかったかと触ったら、あれこれ出てきたのだから。アイドル達を不当に雇用し、未成年の就業規則にも違反して、売れなくなったアイドルは同系列のAV事務所に流す。滅茶苦茶なのは内部にいる人間が一番わかっている。それを取り上げてどうなったか。

 結論から言うと、ひどいバッシングを受けて終わりだった。俺たちを知らなかった人だってそう、きっと「可哀想なアイドル達」がテレビに出て一生懸命にパフォーマンスをしているのに同情しておいて、波が過ぎたら綺麗に忘れてしまった。バッシングを受けた当初は事務所のアイドル達は総じて仕事が激変した。出演したCMが放送中止になったり、番組改編に合わせてレギュラーを降ろされたり、俺も歌番組への出演は大きく減らされた。けれど少しして、メディアが蒼空の死を取り上げると、途端に俺へのオファーが急増した。

 大切な友人に先立たれた可哀想なアイドル。

 俺に貼られたレッテルは、ある種最低なものだった。いかにも傷ついて可哀想で、それでも前を向いて頑張ろうとしている健気なアイドル。どれだけ蒼空を思っていたかを要求されたものに加工されて、インタビューの内容なんて五パーセントも入っていればいい方で。そんな日々を送っていると、次第に蒼空の言葉を信じられなくなってきてしまった。


 蒼空が死んでも何も変わらなかった。


 そして彼の自殺が取り上げられなくなってきた頃、事務所に所属しているアイドル達全員の仕事が総じてなくなっていった。イメージが悪いから、それだけの理由で。気持ちはわかるけれど、俺達にとっては本当の意味で地獄の始まりだった。そしてその地獄は、今でも悪い方向に悪化していく。

 ぼんやりとしていると、不意にもうすぐ自分が降りる駅に着くことを知らせる旨のアナウンスが電車内に響く。急いで電車のドアの方へ踵を返した。

 その時、知った目の色の人間と目があった。



 

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