逃亡

かせい

第一話 ストームグレイ

 またぼーっとしてるぞ、という言葉で我に返った。

 膝の上で妙に行儀よく置かれた手は自分のものなのに、どこか違う人間に憑依してみているような変な感覚がだ。俺が顔をあげると、そこはよく見る楽屋だったとようやく思い出す。室内のスタジオで時々見る畳のそこは、個人的にとても落ち着く。い草の香りがするのは、黄色い畳のせいではないだろう。ドレッサーの上に置かれたい草の束のせいだ。緑のそれは、きっと日に焼けて若々しい緑から少しずつ老いていき、見慣れた黄色になる。

 正面を向くと、ドレッサーの鏡の中の自分と、後ろで手を振る茶髪の男と目が合う。彼は何を思っているのかにやついている。そんなに今の俺は面白い顔をしていただろうか、と少し口元を引き締めてみる。


「三葉さんはどこでもぼけっとするのがお上手でございますこと、自分もその緊張しないリラックス術を見習いたいですわ」


なんて、わざとふざけた顔で鏡越しに笑いかけてくる彼の方が余程リラックスしているようにも見える。

 俺がぼんやりとしているのは、主に現実逃避のせいだと考えている。本番が怖くて、ぼんやりすることで何とか緊張をやり過ごそうとしている。そういう事であると勝手に周りに言い聞かせている。

 ぼーっとしている間の自分の思考内容は真っ白だ。隣にいる人の事も、この後の予定も、割と期限が迫っていることもある学校の宿題の事も、何一つとして脳の中にはない。どんなに辛い事とも一瞬のうちにお別れ出来る寸法だ。我が脳味噌ながら、非常によくできていると褒めていいランキングでも常に上位に入っている。


「本当に違うよ、ただ単にぼんやりして気を紛らせていただけだって。何回も言ってるじゃん」


「わかった、わかりました。そうむきになるなよ。そんなに眉間に皺を寄せたら化粧がよれるぞ」


「そんなことでよれる化粧品、スタイリストさんは使いません」


はいはい。と適当に受け流す茶髪の男、十時蒼空そらと鏡越しに話すのもいつもの事だ。

 メイクが終わったらすぐに我が物顔で大抵の楽屋に設置されている机の傍に陣取り、スマートフォンを取り出す。それから適当に俺に話しかけてくるというのが彼の過ごし方だ。大体部屋が同じであることが多いけれど、別の部屋を宛がわれていても遊びに来ることが多い。スタッフが彼を呼びに来るときもここに来ることが多いから、大方書き置きでもしているのだろう。

 俺達は所謂アイドルと呼ばれる人間だ。同じプロダクションに所属しているアイドル。お互いにソロアイドルだけれど、こうしてユニットを組んで活動することだってある。

 三葉天城と十時蒼空の二人組は、自惚れでもなんでもなくそれなりの知名度はある。

 というのは、今のところ俺と彼の間で見解が一致している。

 今日だって二人で呼ばれているんだ。あと少しで二人の出番の時間。そろそろスタッフの人が呼びに来る時間だ。


「天城、緊張してる?」


「うん、してる」


ちょっとだけ。と少しだけ背伸びをして虚勢を張ったものの、俺の脳内だって彼はお見通しだ。アイドルとしてデビューしてそう少なくない年月を重ねてきたけれど(芸能界では生まれたてのひよこレベルだけれど)、本番前にリラックスしてたことなんてない。出来る事ならだれとも会いたくはないし、話したくもない。





 三葉天城、というアイドルはおっとりしているけれど芯があり、歌が上手いというキャラで売り出されている。本当の自分との乖離はほとんどない。でも普段の俺と三葉天城が同じであるなんて考えたことはない。少しでも集中して、自分の中の全てを三葉雨城に変換したい。その過程で、他人の存在は邪魔だ。

 正直なところ、蒼空にも出て行ってほしいと思ったことは何度もあるし、今だって一人にさせて欲しいと思う。彼はとても頼もしいし、変換作業の邪魔にならないようにはしてくれている。

 でも、俺はいつだって蒼空に甘えてしまう。彼は優しいから、少しのミスでも許せない俺と違って大きな間違いを犯しても笑って許すような男だ。彼はいつだって俺の先を歩いてへらりと笑っている。そんな気の抜けた笑顔の隣で歩きたいから、俺はいつだって三葉天城に厳しくする。それなのに彼が甘やかしてしまったら台無しだ。それが、彼にはいまいち伝わっていない。

 何気なく壁にかかっている時計に視線をやると、自分達が呼ばれるまでそう時間がかからないと伝えられた。


「まだ緊張してる?」


「してる」


緊張の経過の推移を表すグラフがあるのなら、今はきっと最大値を示しているに違いないと確信をもって言える。真面目だな、と呟く蒼空が立ち上がり、太ももを手ではたくのもいつもの情景だ。そうした後に俺の肩に手を置いて、耳元でいつも同じことを言う。


「大丈夫だって。俺と天城なら、どこまでだって羽ばたける」


習慣とは怖いもので、その台詞を聞くと痛いくらいの心臓の鼓動は少しずつ収まりを見せていく。そして俺は肩越しに笑いかけて、彼の手に自分の手を重ねてこう言うんだ。






 「そうだね、今日もよろしく。蒼空」


自分の寝言で目が覚めるのは、一体何度目だろうか。あの日から何回も何回も、同じことを繰り返している。枕元のカーテン越しに外の光がぬるく差し込むのもいつもと変わらない朝の出来事だ。ベッドが少しきしむ音を聞きながら体を起こし、八つ当たりするように掛け布団を身体から払いのける。

 気分が悪い、汗をかいたようで体も敷布団のカバーも湿っている。顔を両手で覆って、痛いくらいの心臓の鼓動が収まっていくのを待つ。

 これが朝のルーチンワークになりつつある。

 半年前、十時蒼空はビルから飛び降りて自殺した。その日から、俺の心臓は朝からうるさい日が続いている。ようやく落ち着き始めた胸を押さえながら、くすんで見える部屋を見回す。ベッドの時計は午前六時を示している、目覚ましがならないようにスイッチを押してから嘆息する。カーテンを開けると、外の空は灰色。そういえば台風が来るとか言ってたっけ、なんて思いながらようやく重い腰をベッドから引き剥がす。

 今日も、地獄の一日が始まる。



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