さようならを言う前に


 思い出すのはいつも、あの日の夜のことだった。

 


 ◇


 

 ソラを見上げれば、秋の夜空に真ん丸なお月さまが浮かんでいる。

 白く、大きく輝くお月さまを見ていると、なんだか眩しくて、わたしは思わず目を逸らしてしまった。

 「眩しい?」

 わたしの側に座る女の人が、そう問うてくる。

 少しだけ、と答えると、女の人は月光からわたしを遮るような位置へと座り直してくれた。

 「ありがとう」

 「どういたしまして」

 穏やかに微笑むと、女の人はこちらへと手を伸ばす。

 その手がわたしの髪をすき、頬を撫でる。

 あったかくて、優しくて、……でも小さな手。

 やがてその手は首筋、胸に触れた後、わたしの枯れ木のような手を掴む。

 「……ごめんね」

 「どうして?」

 だって、

 「もう、腕に力が入らないから」






 世界は唐突に閉じ始めた。

 生きる理由を、意味を、意志を、人間は持つことをやめてしまったのだ。

 原因は未だわからず、けれど誰も解決しようとはしない。

 当然だ。

 だって、『原因を探す』ということは『生きようとする』ということだから。

 人間に未来は無い。

 馬鹿みたいに信じていた明日は、もう二度と訪れることのない日常へと変わってしまった。

 





 「ごめんね」

 「───どうして、謝るの?」

 人間は生きることをやめたはずなのに、なぜだかどうして、わたしはここにいる。

 子を成し、種を残そうとするのはやっぱり生存本能に従った行いだと思う。

 なら、わたしを産んでくれた人たちは、この閉じた世界においてとても貴重な人たちだったんだろう。

 ……でも。

 悲しいかな。せっかく産んでくれたにも関わらず、わたしもまたこの世界において普通の終わり方をしてしまう。

 「だって、もう、生きられない、から」

 ……少し、呼吸がしづらい。

 おかしいな。息って、どうやって吸うんだっけ……?

 「だいじょうぶ」

 掴む手に力が入る。

 「だいじょうぶ、だから」 

 お願い、と祈る声が聞こえる。

 もう少しだけ、と縋る声が聞こえる。

 それが、わたしにはわからなかった。

 当たり前の運命なのに、どうしてそれに抗うのか。

 受け入れてしまえば、なにも怖くはないのに。抗えば抗うほどつらいだけだと、どうして気づかないんだろう?

 ぎゅっ、とより強く手を握られる。

 あったかいと思っていたものはいつの間にかあつくなって、でも、わたしの手はどんどん冷たくなっている。

 「あのね。ひとつ、聞きたいことが、あるの」

 「うん、うん。なぁに?」

 ずっと聞きたかったことがある。

 人間に未来は無い。

 生きる意志のない者に明日は来ない。

 なら、どうして。

 おかあさんはわたしを産んだのだろう。

 「───────。」

 ずっと握られていた手がふいに緩む。

 それは、きっと。

 彼女にとっては致命的な問いだった。





 ◆





 「───────たぶん」

 少し長い沈黙のあと、私はゆっくりと口を開く。

 「たぶん、一緒にこの世界を見たかったから、じゃないかな」

 「どうして? どうして、一緒に見たい、の?」

 だってこの世界は、どうしようもなく終わっているんだよ?

 そんなのはつらいだけだよ?

 少女の目が、そう訴えかけてくる。

 「……そうだね。確かにその通りかもしれない」

 それは正しい。

 明確な自滅デッドエンドが待っているのなら、どうあれさっさと終わらせてしまうのが誰にとっても不幸しあわせな選択だと思う。

 でも。

 私は、そうしなかった。

 「ただ、生きたかっただけなんだ」

 そう。

 単純な話、私は生きたかった。たった、それだけのこと。

 終わっていく世界の中で、そんな『当たり前』のことしか考えれなかったんだ。

 ……そんな私が、どうして、少女と同じ世界を見たかったんだろうか。

 この世界には何も無い。

 何処にも居場所なんてない。

 なのに、どうして?

 


 ソラを見上げれば、秋の夜空に真ん丸な月が浮かんでいる。

 白く、大きく輝く月を見ていると、なんだか眩しくて、私は────



 「生きるのはつらいことだと思う。いつも思い通りにならなくて、誰も彼も平等じゃなくて、失ったり手放したり、そんなことばっかり」

 嫌になることも。

 苦しむことも。

 飽いてしまうことだってある。

 ……でも。

 「それだけじゃないんだよ」

 それはきっと、ちっぽけなものかもしれない。

 手にして大事に抱えるにはあまりにも小さすぎて、だから人は、それを既に持っていることを忘れてしまう。

 

 ────私は、目を逸らさなかった。

     強く、遠く、眩しい輝きから、目を逸らせなかった。


 つまりはそういうこと。

 それが、あなたが生まれてきた理由。

 あの輝きを、あなたに魅せたかった。

 一人より二人、二人より三人、三人より四人。

 そうしてたくさんの人と、時間を、想いを、輝きを共有できたのなら、それはなんて最良しあわせ結末みらいだろう。

 「ただの押し付けなのかもしれない。だって結局は、私が……私本位の願いだから」

 それでも私は、あなたと同じ世界を見たかった。

 それでも私は、あなたと同じ時間を生きたかった。

 絶望の中にだって光はある、と。そう信じて、一緒に歩きたかった。

 二人で歩く明日は、きっと、どんなものよりも素晴らしいものだと知ってたから。


 頬をあついものが伝う。

 「ごめんね」

 「どうして?」

 だって、

 「もう、あなたの手を握ることはできないから」

 枯れたはずなのに。

 それとも、まだ『悲しい』と思う機構こころは生きていたんだろうか。

 「──ごめんね」

 「どうして、謝るの?」

 霞む視界の先、■■は答える。

 「だって、もう、一緒には生きられないから」

 


 「……ううん。そんなこと、ない」

 だって、

 「想いが残るなら、ずっとあなたと一緒だから」

 だから、

 「だいじょうぶ、だよ」



 くしゃくしゃの精一杯の笑顔で彼女は答えた。

 ……きっとそれは、最後に見る笑顔。

 もうそれを見ることができないことが、悔しくて悲しくて。

 真綿みたいに軽く小さな彼女を優しく抱きしめた。


 「────ぁ、う」


 押し留めていたはずのものが、嗚咽とともに零れる。

 はじめて言葉を喋った日。

 はじめて歩いた日。

 はじめて私を好きだと言ってくれた日。

 笑顔になる日もあった。疲れてクタクタになった日もあった。

 危なっかしくてつい怒られてしまった日もあった。寂しくて二人で寄り添った日もあった。

 嬉しかったこと。怖かったこと。つらかったこと。楽しかったこと。

 遠い日の想い出が、いくつもいくつも折り重なって、わたしたちを作ってきた。


 (────そっか)


 ふいに思う。

 なんでもない積み重ねを経たわたしたちは、きっと、


 (なんだ。)

 (わたしたちは、ずっと、)

 (幸せだったんだ───)


 最初から答えは出ていた。

 人が生きる意味なんて、そんなちっぽけなことだったんだ。

 当たり前すぎて、誰もが見失っていた。

 終わる間際、それに気づけたことは、わたしの人生において最大の報酬だった。


 「ありがとう」


 産んでくれて、ありがとう。

 短い命だったかもしれないけど、でもわたしは、十分すぎる時間を過ごすことができた。

 肉体も、記憶も、魂も。

 いつか摩耗して消えてしまったとしても。

 それでも想いだけは残すことができる。

 願わくば、そう。

 わたしの想いが、あなたの支えになってくれますように────。





 ◇





 思い出すのはいつも、あの日の夜のことだった。



 あれからどれだけの月日が経ったのだろう。

 季節は巡り、草木は生い茂り、そしてまた何度目かの秋を迎える。

 その日も静かな夜だった。

 遠くから、りんりん、と鈴虫の鳴く声が聞こえる。

 よく晴れた夜空には満月が浮かび、煌々と大地を照らしている。

 「結局、人は変わらなかった」

 自滅はもはや必定で、この惑星ほしで続いた文明はここで終わりを迎える。

 でもそれは、仕方のないことだ。

 抗うことをしなかった、運命というレールをあるがまま受け止めてしまった人間の失敗。

 つらいからと諦めてしまった。

 苦しいからと逃げ出してしまった。

 ……ちっぽけな希望を胸にしまい込んだまま。

 「こんなもののために、生まれたんじゃない」

 わたしたちは、生きるためにいまを生きている。

 細かい理由や意味なんて知らない。

 知ったとしても、それはすべてが終わるとき。──小さな彼女が、死の間際に気づくように。 

 なんでも明らかにしようとしてしまうのは悪いクセだ。

 だって、そんなの。

 「つまらないじゃない」

 未完成だからこそ、その埋まらない余剰がなによりも尊いものだと、もっと早くに気づくべきだったのだ。

 だって、埋まらない溝を埋めたがるのが人間だから。

 


 月を見上げる私の側には、もう誰もいない。

 それでも、少女が託した想いは、いまもこの胸に煌々と輝いている。

 「生まれてきてくれて、ありがとう」

 さようなら。私のかわいい愛し子。

 あなたのいない世界を、あなたの想いを胸に、生きていきます。 





 「───あぁ、」

 ソラに浮かぶ真白の月。

 それは、なんて、眩い輝きを放っているんだろう────

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