短篇集
真矢野優希
はつこい
――信号が赤に変わり、俺は足を止めた。
◇◇◇
街行く人混みの中をかき分けるように進み、ようやく立ち止まった信号でほっと一息つく。
左腕に付けた腕時計を見れば、慣れない雑踏に飛び込んで早一時間が経とうとしていた。
視線を上に向ければ、雲にまで届きそうな程の高さをしたビルが所狭しと立ち並び、そのガラス窓に反射した日光が眩しくキラキラと輝いている。
(大都会、だよなぁ……)
思わず心の中でそう呟いていた。
地元の町とは全く違った景色を目の前にして、何とも子どもみたいな感想しか出てこないけれど、実際そう思ってしまったのだから仕方がない。
大体、雄大な自然だとか未開のジャングルだのといった景色を前にすれば、誰だってこんな感想を抱くものだろうし、それなら俺は何も間違ってはいないだろう。
やがて上を向けていた視線は、ビルの中に切り取られた空に飛行船を見つけてそれを追っていた。
(あぁ、すごいなぁ都会だなぁ。飛行船まで浮いてるよ。……っていうかそろそろ首が痛い)
上げていた視線を下に戻せば、目の前をたくさんの自動車が通り過ぎていて、これもまた地元では見ることのなかった景色だった。
(来ちゃった、なぁ……)
現実を、改めて噛みしめるように、心の中でそう呟く。
いまさら後戻りは出来ないし、もとよりそのつもりは毛頭ない。
ただ、それでも。
未知の
そういったものは確かに自分の中にあって、だからこそ、いまこの場に自分がいるということを再認識しておかなければいけなかった。
これは夢なんかではなく、現実だということを。
――信号は、まだ変わらない。
◇◇◇
大都会、東京。
東北の地方都市――のさらに外れに位置した町からこの春引っ越してきた俺にとって、ここ東京の街はさながらゲームに出てくるダンジョンかなにかのようだった。
迷路のような路線図。
入り組んだ駅構内。
どこからともなく無尽蔵に現れる人の群れ。
物陰から飛び出すモンスター……はいなかったけれど。
新しい
緑豊かな青々とした山に囲まれた田舎暮らしなんかよりも、東京の街で文明人らしい営みを過ごす方が良い……とまではいかないにしても。それでも俺は――まだ住み始めて数日だけど――ここに来てよかったと思う。
地元で暮らしていてはできない
地元で暮らしていてはできない
地元で暮らしていてはできない
――そして。
地元で暮らしていては、会えない人に会うことができる……かもしれない。
***
「――よし。こんなもんだろ」
3月も終わりに近づきいよいよ本格的な春到来――どころか、ここ最近の暖かさ(あえて暑さとは言わない)は初夏のそれのようで、引っ越しのダンボールの山を片付けているとうっすらと額に汗が浮かんでいた。
首にかけていたタオルでそれを拭い周りを見渡せば、ようやく部屋と呼べる空間が完成していた。
「しっかし、まぁ。ずいぶんな大荷物だったんだなぁ…」
なにせここに越してきて三日目にして、ようやくすべての荷解きが終わったのだ。
たかだか、それも男の一人暮らしだってのになんだってこんなに荷物が多いんだ。
……いやまぁ。理由なんてわかってるんだけど。
視線を部屋の隅の、天井近くまでの高さを持った本棚に向ける。
大体はこの本棚の中身のせいだ。
端から端、下から上までびっっっっしりと詰まった書籍。
それも小説や漫画、参考書とかそういったものではなくて。
「……まったく。未練がましい、って言うのかね。こういうの」
そこにあったのは、将棋に関する書籍――通称で言うなら『定跡書』と呼ばれる類の書籍たちだった。
***
初めて将棋を知ったのは、いつ頃だっただろうか。
爺さんの家の襖(小学校低学年くらいの子どもがギリギリ入れるくらいのスペースだった)の奥底に眠っていたものを取り出せたので、かなり昔だったような気がする。
子どもというのはそれこそ好奇心の塊みたいなもので、だから初めて見るもの、 初めて体験することには人一倍興味を引かれやすい。
例に漏れず、俺もそのクチだったらしく「おまえにはもう敵わん!」と爺さんに言わせるほどには夢中になっていた楽しんでいた。
……けれど。
『好奇心の塊』っていうのは、例えるなら『金属』みたいなものだ。
つまり、熱しやすく冷めやすい。
爺さんに勝てるようになってしばらく経つと、今までの熱が嘘のように引いてしまったワケだ。勝ってばかりじゃあ面白くないからな。
そんなわけで、骨董として眠るはずだったところを無理矢理叩き起こされたあげくに、子ども特有の好奇心に振り回された我が家の将棋の盤と駒たちは再びお役御免ということで眠りにつくはず……だった。
ここで少し話が逸れるが大人――一般的には『親』と呼ばれる人間の話をしよう。
この『親』と呼ばれる人々はこれまた「何でそんなこと覚えてるの?」というような記憶力を子ども以上に発揮することがある。
生まれて初めて喋った言葉、だとか。
生まれて初めて歩いた日、だとか。
あるいは、生まれて初めて食べさせたもの、とか。そういうの。
……きっと、生まれてきた我が子がかわいいから、無意識のうちにそういったことを覚えてしまっているのだろう。
「あの子が初めて○○した」というのは、確かに何かしらの記念、ないし記憶として残りやすいと思う。俺も初めておね―――いや、この話は止そう。恥ずかしさで死にたくなる。
……ともかく。
何かをした、それも普段とは違う何かをしたというのは記憶に残りやすい。
そうしてそれは、得てして思いもよらないタイミングで思い出されることがある。
少し時は進んで小学校五年生のとき。
その日もいつものように友だちと遊んでから家に帰ったのだが、なんだか家の――というより母親の様子がどこかおかしかった。
俺の方をちらちらと見たり、妙に落ち着きがなかったり。
不審に思った俺は、
「母さん。なにか隠してない?」
「な、なな、なんのことかなぁ~? あはは…」
あはは、じゃなくて。
あまりの嘘の下手くそっぷりに、思わず俺はため息をつきたくなった。
俺の母親は、息子の俺が言うのもなんだけど、とにかく純真というか優しいというか。とにかく嘘のつけない性格をしている。
その反面、父親の方が厳しめな性格なので「あぁ。こういうとこで上手くバランスが取れているんだなぁ」と子どもながらに謎の納得をしていた。
ともあれ。嘘のつけない母親に追求すべく、俺は言葉を続けた。
「母さん、また父さんに黙ってケーキでも買ったんでしょ」
「ち、違うもん! これは、その、ええっと、たまたまスーパーで安く売ってて、あとでゆうくんと一緒に食べようって思ってて…… べ、別に一人で食べようなんて思ってないからねっ!?」
余談だが。
うちの母親、カロリー計算とか自主的なトレーニングとかで体重を完璧に管理しているらしく、ちょっとやそっとの間食程度では太らないとのこと。それでいて食事を抜くわけでもないらしい。
父親曰く、「なんでアイツ、出会ったときから体型が変わってないんだ…?」というほどなのでよっぽどだ。
「え。ホントにケーキあんの!? やったー!」
「え? あー! ゆうくん引っかけたなー!」
ごめん母さん。
……っていうか、このやり取り二週間くらい前にもやったよ。
これは引っかかる方が悪いよ、母さん……
「ねーねー! 今日はなんのケーキ?」
「今日は『フルール・ド・ソレイユ』の一日二十個限定のフルーツケーキと……ってダメよ。先に手を洗ってこなきゃ」
はーい、と元気よく返事をして洗面所に向かおうとする。
だが、そんな俺の背中に母親の声がかかる。
「あ、ちょっと待ってゆうくん!」
「なんだよ母さん。ケーキ逃げちゃうよ!」
「ふふっ。大丈夫、ケーキは逃げないから」
いや。どっちかって言うと、母さんのお腹の中に逃げそうっていうか…
さすがにこれを言ったら怒られそうなので黙っておく。
あのね、と前置きして母さんが言う。
「ゆうくんって、将棋が好きだったよね?」
「……いつの話してんのさー」
それはもう二、三年前のことだ。
爺さんを負かしまくってすっかり飽きてしまった俺は、将棋のことなど頭の中から忘れ去ってしまっていた。
大体、
「急にどうしたの。そんな昔のこと思い出して」
「あのね、子ども会の松下さん――
恵悟は俺のクラスメイトで、学年で一番の秀才だ。
見た目こそ眼鏡をかけた『ガリ勉』タイプではあるけど、愛想も良くてよく笑い尚且つかっこいい。それになにより、その見た目で運動もできるので、まさに文武両道を地で行くやつだった。
「――それで、ほら。最近は将棋の藤山四段がよく話題に上がるでしょ? お母さんたちもその話題で盛り上がっちゃってねー。『やっぱり将棋を指してたら頭も良くなるんですかねー?』なんて松下さんに聞いてみたの」
そこに何の因果関係が? と思ったが、確か藤山四段は学校の成績がかなり良い、なんてニュースをやってたのを思い出した。
……まさか。
嫌な予感がする。
「でね。そしたら恵悟くんも将棋を指してるんだって。あぁ、やっぱり考えたりするからその分頭の回転も速いんだろうなーって」
「……ええっと、そろそろ手洗いに――」
逃げ出そうとした俺の腕をがしっと母さんが掴む。
いくら母さんと言えど女の人の手。
子どもとはいえ、男(の子)の力を舐めないでもらおうか!―――ってあれ?
振り回せど振り回せど、どれだけやっても手が解けない。
……心なしか、掴む強さが上がってる気がする。
俺よりほんの少しだけしか細さが変わらないのになんて力だ。
日々の成果を、こんな形で披露されるなんて思ってもみなかったーー!
「それでね。ゆうくん」
掴んでいる手とは逆の手で、テーブルの上にあった紙を取りこちらに向ける。
そこには大きな文字で『こども将棋教室』と書かれていた。
「今度の土曜日。一緒に行こっか♪」
なすすべもなく、俺は黙って頷くことしかできなかった。
***
棚に詰められた本は、その背表紙のどれもが色あせていて、それが長い間使い続けてきたものであることを示していた。
「『名瀬の頭脳』、『佐山流振り飛車の極意』、『神木悠の勝利の方程式』……」
一冊一冊。本のタイトルを読み上げていく。
この部屋にある本の内容はすべて頭の中にある。
ならばこれは、ただの確認作業だ。
家にあったものを一つ残らず持ってくることができたか。
あるいは、その本を読んだころの将棋の内容を思い出せるか。
一冊一冊、丁寧に読み上げ、当時の記憶を思い出す。
忘れることのできなかった記憶。
捨てることのできなかった思い出。
やがて。
「……『簡単! 詰将棋ドリル』」
一冊の本で言葉が止まる。
それは、俺が初めて読んだ将棋の本。
あの日、将棋教室で出会った人から手渡された大切な贈り物。
苦しいときも、つらいときも、悲しいときも、楽しいときも。
いつも俺の側にあった、あの人との大切な思い出。
棚へと一歩近づく。
たったそれだけなのに、俺の脳裏にはあの日のことが鮮明に映し出されていた―――
***
「なぁなぁ! 帰ったら昼から何する?」
「オレ、大和屋のアイスまんじゅう食べに行きたいなー!」
「バッカ、それより最近はマルCの焼き豚まんが流行りなんだぜ?」
「おまえ、こんな暑いのによくそんなの食えるよなー」
学校の教室ほどの広さをした地区市民館の自習室には、二十人ほどの小学生がいた。下は一年生から上は六年生まで。どちらかと言えば、低学年の方が数は多いと思う。
がやがやと、思い思いにしゃべるものだからうるさいことこの上ない。
俺は恵悟と隅の方に陣取って、そんな小学生(まぁ、俺たちもそうだったんだけど)たちを遠巻きに眺めていた。
「恵悟。おまえここによく来るのか?」
「うーん。そうだね。月に二回は来てるよ」
「おまえ確か、土曜にも塾行くって言ってなかったっけ。このあと、昼から行ってんのかよ」
「そういう日もあるけど、基本的には被らないようにしてもらってる」
「ふーん、そうなのか」
大変だよなぁ、と俺が呟き、そうでもないよ、と恵悟が答える。
できる人間は違うなぁ、と俺は思った。
与えられたことを当たり前のように受け止めて処理するなんてとても真似できない。
うーん。なんというか、清々しいまでに好青年(というか、この時の年齢なら好少年か?)だよなぁ。
「ところで、ふと気になったんだけど」
「なんだよ」
「キミはどうしてここに?」
痛いところをついてくれる。
……俺だって、本当は来たくて来たわけじゃないんだ。
ただ、なんというか。なし崩し的にこうなってしまったというか、母の力ってすげーんだなと思い出したりだとか……がくがくぶるぶる。
「…って、震えてるけど大丈夫かい!?」
「だ、だだ、大丈夫デスヨ? ホントホント、アハハ……」
なおも心配そうにこちらを見る恵悟を安心させるべく深呼吸を一回、二回。
すぅー。はぁー。すぅー。はぁー。
……よし、なんとか大丈夫そうだ。
「…で、ええっと、なんだっけ。なんで俺がここにいるか、だっけ?」
「キミ、なにかしゃべったらマズいことでもあったのかい…?」
なにもなかった。いいね?
「まぁ、なんだ。一身上の都合? ってやつだよ」
「本当かい?」
「あー…… えーっと……」
ある意味では本当のことだし、なにも間違ってはいないんだけど。
ただまぁ。結局のところ、隠していたところでこちらに得があるわけでもなし。
『将棋教室』が始めるまでもう少し時間もある。
ちょっとばかり、恵悟には話に付き合ってもらいますか―――
・・・
「――ってことで、こうして俺がここにいるんだな」
「……なんか、ごめん。ウチの親が余計なことを言ったばっかりに」
「いや、でも。遅かれ早かれこうなってたとは思う」
母さんが、俺が将棋を指していたことをは思い出しさえすれば、結局はこうなっていただろう。ただその時期が、早かったか遅かったかの違い。
「将棋、指せたんだ」
「まぁ、少し。つっても俺、おまえよりか全然よえーぞ?」
「強い人ほど、そうやって自分を低く言うんだってさ」
「いやぁー、もうめちゃくちゃ強くて困っちゃうなー」
「嘘っぽいなぁ」
じゃあどうしたらいいんだよ、とそこで俺と恵悟は笑いあう。
…正直なことを言えば、俺は真面目に将棋を指すつもりはなかった。
なあなあで済ませるか、あるいは母さんが満足したらそこで辞めるつもりだ。
だってそうだろ?
貴重な土曜日の、それも朝から早起きしてまでちびっ子たちに混じって頭使いながら机(盤)とにらめっことかやってらんない。
それに、そもそも。
母さんが心配するほど、俺の成績は悪くないのだ。
・・・
かつかつ、と廊下を歩く音が聞こえた気がした。
「あ―――」
それまで自習室内に響いていた音とは違う音がして、だから俺はそちらの方に視線を向けた。
気づいたのは俺だけ――いいや、違う。
俺だけじゃなかった。
「―――れ?」
さっきまで、あんなに騒がしかった子どもたちが嘘みたいに大人しくなっていたのだ。
なんだ、これ…?
「来たんだよ、先生が」
小声で恵悟が俺に耳打ちする。
「先生?」
「そ、先生。将棋教室の、ね」
廊下を歩く音はだんだんと近くなり、そして自習室の前で止まった。
そして、がらがらと音を立てて自習室の扉が開いた。
その向こうには――
「いやぁー。みんなおはよう! 今日も元気してるかい?」
「「「ヤマケンかよ!!!」」」
教室の児童全員(俺除く)から総スカンを喰らう『ヤマケン』なる謎の男性。
なんだなんだ。一体、なにがどうなってるんだ?
「ヤマケン、しらかわせんせーは?」
「先生はいまトイレに行ってるよ。もう少ししたら来るんじゃないかな?」
「ヤマケン、ヤマケン。トイレ行ってること言うなんてデリカシーないんじゃね?」
「えぇー…… 僕、質問に答えただけなんだけどなぁー」
「ヤマケン、それよりはやく彼女作りなよ。あ、でもしらかわせんせーはダメだかんね!?」
「いや、それは僕も恐れ多い、っていうかなんというか… まぁ、安心しなよ! 白河先生は取らないから!」
「ヤマケンももうおっさんなんだから早く身を固めないと故郷のお母さんが悲しむよ?」
「よく言ったな、恵悟。……というか、僕の年齢でおっさんなら君たちのおかあ―――いや、なんでもないですホントですなにも言ってないですごめんなさーい!」
えらく、腰の低い男が教室に入ってきた。
ぼさぼさの髪と丸眼鏡をしていて、パッと見はうちの父親より年上にも見える。
ただ、言動や声の感じからすると思ったより歳は取ってないようにも見える。
なんだか、不思議な人だった。
『ヤマケン』なる男は、児童にからかわれながらも提げていたかばんからバインダーやらクリアファイルを取り出す。
「今日は新しい生徒さんが見られてるってことなので、資料の方をご用意させていただきました」
数枚の紙を取り出すとそれを持って保護者たちが固まって座る席へと向かう。
――と。
その時だった。
廊下から新しい音が響いてきたのは。
***
あれから八年。
当時十歳だった俺もいまや十八歳、この春から大学一年生だ。
故郷を離れ、独りでこの新天地を生きていく。
これから、たくさんの新しいことを経験していくのだろう。
これから、たくさんの出会いを経験していくのだろう。
そして。
「――始まりがあれば終わりもある」
未知の刺激が出会いなら、既知の郷愁が別れだ。
当たり前のように過ぎ去る日々を、当たり前のように忘れていって。
もうこれ以上覚えていられないと、脳の機能がかつての
それは悲しむべきことなのだろうか、と自問する。
輝かしい日々を、愛すべき想い出を忘れてしまうことを、捨ててしまうことを。
……きっと、それは違う。
惜しむことはすれど、嘆くことはない。
手放したくないと思っても、しがみつくことはしない。
過去は、過去だ。
ならそれは、何にでも、誰にでも訪れる平等な
万人に等しく訪れるものを怖がって、先に進むことを恐れていたら、何も始まらない。
……別れは、辛いことだ。
だけど、その辛さを胸に、また新しい一つの幸せを手にするために、俺は、俺たちは生きていくのだと思う。
だから。
いつか、俺がいなくなって、もう二度とその記憶が思い出せなくなるその日まで。
俺は、あの日のことを、鮮明に覚えている。
***
ぱたぱたと走る音が聞こえ、やがてそれは教室の前で止まった。
開け放した扉の前に立つのは、一人の女性だった。
(女の人、だったのか)
ヤマケン氏が男だったこともあって、俺の中では勝手に『しらかわせんせー』なる人物も男だと思い込んでいた。
(なんて、いうか――)
肩から、はらりと胸の前に落ちる艶やかな黒髪。
背は、母さんより大きい。きっと160㎝後半はありそう。
手足は細く華奢で、その長い黒髪も相まってなんだか人形のように見えた。
雰囲気も、佇まいも。
この人を構成するすべての要素、悉くが新鮮だった。
(すごく――)
***
(綺麗、だったんだ)
いつしか俺は本棚の前に立っていて、その手には『簡単! 詰将棋ドリル』が握られていた。
忘れもしない、忘れたくない、忘れることなんて……できない。
それほどまでに、衝撃的な出会いだったんだ。
意を決して、俺は本のページをめくる。
***
目を奪われる、というのはこういうことを言うんだろうな、と頭の片隅でそう思った。
綺麗な人、というのが素直な第一印象だった。
母さんとは違うタイプの人……どころか、親戚にだってこんな人はいない。
俺はすっかり『しらかわせんせー』の虜になってしまっていた。
「ごめんなさい、山中先生! ちょっと時間がかかってしまって!」
「いやぁ、いいんですよ。時間もまだありますし」
「……本当にすみません。あわわ、保護者の皆様にもお見苦しいところを……!」
いいんですよ、と保護者の誰かが言った。
でも、俺にはそんなことどうだってよかった。
もっと見ていたい。…それにできれば、話もしてみたい。
と、俺の視線に気づいた(あるいは気づいてしまった)のか、彼女がこちらへ顔を向けた。
(え―――)
しまった、と思った。
やってしまった、とも。
(何やってんだ俺――!)
さっきまでの感情はどこへやら。
今はただ、彼女と視線を合わせてしまったのが恥ずかしくて、だから大慌てで視線を下に落とした。
なにもなかった。なにもなかった。なにもなかった!
でも。
俺の願いも虚しく、彼女はこちらへと歩み寄ってくる。
こんにちはしらかわせんせー、と恵悟の声がした。
こんにちは恵悟くん。あれ、また背ぇ伸びた? やだなぁ、先々週に会ったばっかじゃないですか。あれ、そうだっけ。ごめんね、ほら男の子ってすぐ大きくなるから。
そんなやり取りがすぐ横で交わされる。
そうだ。きっと彼女は恵悟と目が合って、それでこっちに来たんだ。そうに違いない。
今さらそんなことを願って、一体何になるというのか。
わからないけれど、それでも今はそう思うしかない。
抱いた微かな
「こんにちは。……じゃなくて、はじめまして、かな」
その声で、すべてが
彼女は、うつむいた俺の視線と合わせるべく、椅子の横でしゃがんでこちらを見上げている。
「―――ッ」
思ったよりも近くに顔があって驚いた。
遠くに見たあの顔が、目が、口が、髪が。すぐ近くに、ある。
危うくのけぞりそうになるのを必死で抑えて、あくまで平静なふりを装う。
「はじめ、まして…」
「うん、こちらこそはじめまして! 私の名前は
「せんせー、大事なこと忘れてるよ」
横から恵悟の声。
「あ、うん。これ一番最初に言った方が良かったのかもだけど――」
そう言って彼女は、予想だにしない言葉を作った。
「私、女流の将棋棋士してます!」
「き、棋士……?」
「はい、そうです! えっと、いまは白菊戦の準々決勝まで勝ち上がっていてですね……!」
「そうじゃなくて」
また恵悟の声。
だって、
「せんせー、こいつの名前知らないでしょ?」
「あ。……あわわわ。私、なんてことを…! ごめんなさい、ええっと――」
「石凪……
「石凪! いいなぁ、かっこいい苗字だね! それに名前が優斗くんだね!」
それじゃあ、と改めて前置きをして、
「改めまして、優斗くん。将棋教室へようこそ! 私が講師を務める白河歩美で、」
「僕が副講師を務める
「えっと、あの、よろしくお願いします」
「うん! こちらこそよろしくね!」
そう言って、彼女は俺の手を取る。
突然のことで、頭の中が真っ白になりそうだった。
「これから一緒に頑張ろうね! そして君が、将棋のことをもっと好きになってくれたら私はこの上なく嬉しいなっ!」
***
「白河先生。俺、将棋が好きですよ」
ページをめくっていた手が止まる。
そこは、俺があの日に初めて解いた問題が載っているページだった。
「……でも、それ以上に」
あぁ。今さら口に出すのも馬鹿馬鹿しい。
当たり前のことを、いま一度確認しようだなんて。
一度、深く息を吸う。
これは後悔からくるものではなく、事実の確認。
ただ、それだけのことだ。
「俺、あなたのことが、好きだったんですよ」
あの日、あの瞬間に。
俺――石凪優斗は、恋に落ちていた。
◇◇◇
――信号は、まだ変わらない。
2へつづく?
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