狐の茶袋

 朝のはなすずが、まだ暗い空気の底にありました。先生は起き抜けに戸外おもてながめなさってから、着替えるための角燈あかりけました。

 いつ運ばれたものやら、もとの着物はきちんとたたまれて、枕元にありました。


 あれから酔いまどろんでしまうまで、男たちは、むかしむかしの山の話を、こらしょと語って止まなかったのです。そして、それが夢ではないことが、先生のお気持ちを不思議に落ち着かせているのでした。

 あらためて外に出たとき、空は湿しめを残して白み、素直な竹葉ちくようの触れあう音がひびいていました。まだかなり早い時間と思われましたが、向こうからやってくる三人男の黄色な着物が見えました。

 案内してきたときと同じに列を作って、約束通りに先生を茶屋のある道まで送っていきます。いおり辿たどりつくまでの昨夜、ああもじれったく伸びていた道が、新しい日のなかで目と鼻の先に感じられました。


 やがて覚えのある屋根のかど臙脂えんじののぼりが見えかけたあたりで、三人男は言いました。どの顔も晴れやかな笑顔ものでした。

 「では旦那、あたしらはここで」「この度は失礼をいたしまして」「どうかこのさき、お達者たっしゃで」

 ――ええ、あなたがたも。色々お世話になりましたね。

 助かりましたよ、と頭をさげた先生が、また前を見るまでのあいだに、そのみっつのすがたは音もなく消えてしまっていたのでした。


 茶屋の前に戻ると馬車が止めてあり、馬がしきりに鳴きました。山の木々が新鮮しんせんな朝の光に照らされていきます。

 「先生え、先生え」

 呼び声に振り返ると、こんなぶんから、どこか探していたのでしょう。昨日別れた案内人と、馭者ぎょしゃらしい格好かっこうの男とがくだりのほうから走り寄ってきました。

 「ああ、よかった先生。ご無事ですか」

 「一晩見当たらないもんだから、みなできもを冷やしました」

 声を聞きつけて開けられた茶屋の戸の向こうから、そこの主人と、数人の村人とが顔を出しました。だれも、一晩じゅう先生を探してまわっていたのです。

 先生は心底からおびをして、体には悪いところも、怪我けがもないことを伝えました。それでから、なんの気もないような声でたずねなさいました。

 ――そういえば、このあたりにお稲荷いなりさんはありますか。

 「えっ」

 みなのほうけただんまりのあと、なにか発見しでもしたかのような答えが、ぽちぽちとあがります。

 「あった、あったなあ。確か」

 「あ、あ。ありますね、ありますけれども」

 「いやあ、参った。いまのいままで忘れておりました」

 忘れていた、わすれておった、と繰り返す山村人のなかから、だれかがふいに言いました。

 「や。もしや先生、きつねだまされて」

 先生は、ほっと声を明るくします。

 ――とんでもない。みなさんが忘れるほどの狐に、騙されることがありますか。ただ、いまちょっとそう思いましてね。お稲荷さんがあるのならば寄ってみたいのですが、できますか。

 わかりやした、と返事をした馭者に任せて、先生は馬車へと乗りこみました。

 ――みなさま、すっかりお騒がせをいたしました。ごきげんよう。


 村人の見送りに別れた馬車は、しばらくした曲がりのちゅうで止まりました。山の道にしては広くなっているところです。

 馭者がなにやら言いながら指した斜面しゃめんを見ますと、枝草にかくされて、ちいさな階段があるようです。それは、ながい年月の末に閉ざされてしまったものだと思われました。

 先生はすぐに馬車をおりて、ためらいなく足を突っ込んで進みなさいます。

 「待ってくださいよ先生。またどこかに行かれちゃ、たまりませんからね……ああ、すかっりれちまって」

 後ろから馭者がついてきながら話しだします。

 「ここまでくる道、いろいろと思い出していたんですがね、昔は悪い狐が多かったってことですから、山でも、お稲荷さんをあがめるってやつはいなくなったんでしょう」

 こけむした階段を上がりきった先に、これも生い茂る山木に呑まれそうな、ちいさなやしろがあらわれてきます。

 かたむいたその前まで行きますと、先生に見覚えのある竹筒たけづつがありました。狐どもの庵にあった、緑の豆のようなのがついた植物がしてあるものです。

 みょうなのは、そのなかのひとつが、ぷっくらと大きくなり、真っ赤になって割れていることでした。なかから黒い粒が見えて、つやつやひかっています。

 ――これはなんでしょうか。

 「あ、こりゃキツネノチャブクロってんです。この辺じゃどこでもありますよ。それにしても、こんなに赤くなるのは早いですな。ほんとうは秋のもんですからね」

 ――どうしてこんなところにあるんでしょう。

 「さあ、どうだか分かりませんが、チャブクロってのは、そのちっさい黒い実を包んでる、赤い袋のほうを言うんでしょう。狐め、このなかに大小のを隠して、茶飲み仲間で寄ったときにやぶって取りだすそうですよ。とすると、おおかた集まりでもあったんじゃないですかい」

 さ、もう行きましょう。こんなとこにいれば化かされますよ、と調子よく笑った馭者が階段をくだっていきます。先生はすこし嬉しいようなお気持ちになって、社へ頭をさげてから、山をあとになさるのでした。


 (そうなのです。それから先生は、ふもとえきしゃにつき、汽車に乗り、いしだたみを歩いて、わたくしのところまでいらしたのです。

 もうすっかり夜になり、いまお疲れのようすでしきに、どおっとたおれなさっているのです。お話が寝息にかわるその前に、先生はこうつぶやいていらっしゃいました。

 ――まったく、長々言わせたものだ。これというのも、私もそのチャブクロとやらに、そそのかされたからに違いない。……)


(了)

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