一夜庵

 ぽかりと口を開けた木魚と先生とは、しばらく見つめあっていました。そのうちに湯の音と香りとで部屋がいっぱいになり、辛抱しんぼうできないほどにさそいます。

 考えかんがえ、足だけを洗えばいいのだ、と固く決めた先生は、きものを全部いで爪先からそうっとしずめていきました。

 ――うん、ううん、これはおどろいた。

 新鮮しんせんな湯が冷えきったところに心地よく、しんまで熱があがってくるようです。ほぐれついでに、ついつい狐のく湯で顔も洗ってしまいました。

 どうせなら、こんな温泉にかりたいものだとまで考えて、先生ははっとしました。

 ――いかん、いかん。こえめだ、こえだめ。

 だまされてはいけないと念仏みたいにつぶきます。ごりしい気持ちをおさえて足を引きあげ、えられていた手拭いでざつきました。


 次に長着を取りあげます。昼に見た山々のような深い緑で染められた、本当に上等の品です。仕立てがいいので、またうっとりとなってきました。

 で、先生はもう決めにきめて着物を脱いで、湯洗いした手拭いで体を拭きあげると、ままよとそでを通しておしまいになったのです。

 ――れた格好のままでは気分も悪い。どうせはだかなら裸になれ。

 その肌合いのいいこと。まるではかったようにかた馴染なじみますし、なにより、着てみるともっと立派りっぱに見えます。


 こうして、ようやく落ち着いた先生は、きつねどもを呼ぶ前に部屋のなかを見てやろうと思いつきました。

 つやりの柱には細かいようきざまれて、しょうがみは、たなびく雲海うんかいです。けいなものはなく、用があるときはこうしてものを持ち込むか、別な建物のほうへいくのでしょう。

 と、ここで先生、一方のかべに目を引くものを見つけなさいました。かん竹筒たけづつしてある植物です。細い枝に、じゅくな緑をした小粒な豆ほどの実がいくつもついています。こんなのは村でもよく見たような気がしますが、名前までは分かりません。花でもなくて、こんなものがわざわざ挿してあるのはなぜだろうと、やはり変に思うのでした。


 ひと通り物見したあと木魚を叩けば、ぽかりぽかりと間抜けた音が鳴りまして、またたく間に戸口が開きました。まるで三人、そこで待っていたようではありませんか。不気味がる先生をよそに、

 「お腹が空きましたでしょう」「お加減はいかがでしたでしょう」「こちらは洗っておきましょう」

 などと言って、ふたりが湯器と先生の着物とを持っていきました。


 居残った一番手の男は、ぜんを手にあがってきます。どうぞお座りください、とうながされて、おろおろしていた先生も向かいあいに胡坐あぐらをかきます。

 「さあ、さあ、お召し上がりください」

 ほおの葉をかたどった焼き物のうえに、おおきなにぎり飯がふたつ、魚のくしちにさんしょう味噌みそわんに吸いもの。ぶどうもひと房、置かれました。

 いいにおいに、ごくりとのどが鳴りますが、さすがに食べるものはためらわれますでしょう。手を付けないでいると、男はさらに酒入りらしいみが瓢箪びょうたんを取りだしてしゃくをしようとしましたので、いそいでめにかかります。

 ――こんなによくしていただくのは悪いですね。

 「なにをおっしゃいます。あたしどもにはこんな人助けが一番なのです」

 ――いやあ、しかしですね。こう、よくしていただくと、あれが気になりまして。

 「あれ、ですか」

 ――ええ。こう言っては気を悪くされるかもしれませんが、うわさを聞きましてね。……なのですが。

 そこで男が、ぴっと背を伸ばしました。先生のほうは、にやっと笑います。

 ――私もよそ者なものですから、だまされるのではと思いましたら、

 「どこでお聞きになりましたか」

 どうしたことでしょう。先生がしゃべるのをさえぎって、男はじっと見つめてきます。

 「その、狐の話、というのは、どこで、お聞きに、なりましたか」

 それはもう熱心に目を開いて、身を乗り出してさえきます。

 ――山の、村でね、ええ、そう……。

 「村! 村で! 本当ですか、ちがいありませんか」

 信じられないという形相ぎょうそうせまってくるので、反対に先生が後ずさるくらいです。

 ――ええ、ですから私も騙されないようにと、その……いえ、やはりうそです、狐の話なんて聞きませんでしたよ。だから不思議なのです、だってあなたたちは狐でしょう。私、先ほど見ましたからね。

 最後にまくしたてると、男はくっとのどまらせました。そしてなんと、たたみに頭をふせて、わんわん泣きだしたではありませんか。

 先生は弱ってしまって、先ほどまでの意地悪な気持ちまで、すっかりどこかへいきました。

 ――どうなさったんです、うたがったりしてすみませんよ、そんなに泣くんじゃあ、こちらが悪いようじゃないですか。

 男と同じように畳にほほをつけて、しきりにあやまります。しばらくして、やっと泣き止んだ男には、気がゆるんだのでしょうか、力ない耳と尻尾しっぽが現れていました。

 けれども先生はもうなにもめる気にはなりませんでした。とにかく、話を聞いてみなくてはいけません。

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