キツネノチャブクロの話

緑の山

 (これは、わたくしの親しい先生がお聞かせくださった話です。

 といっても、避暑地ひしょちからお帰りになったその日のおそく、酒のさかなにお話なさったことですから、節々ふしぶしあやしいところもあり、わたくしとしても、よく分からないところはよく分からないままに、書いてしまうことにいたします。)


 その夏はことさら暑く、きたつ晴天が雲のちぢれを作るほどでした。避暑のために、とある山のいただきで二週間を過ごした先生は、自宅へ帰るべく、いよいよふもとへと下ることにしたのです。

 涼しくも悪い道が続くところを、山村人やまむらびとの案内で歩きます。しばらくすると茶屋があり、そこからはややまともな道となるために、馬車へと乗ることになっていました。

 「そんならですね、先生お達者たっしゃで」

 「ええ。村の皆さまにもよろしく」

 下がりじりの案内人は、避暑のあいだじゅうの細かいお世話を引き受けていたものです。善良ぜんりょうそうな見た目どおりの親切心の持ち主でして、馬車がくるまで一緒におりましょうと申し出たのを、先生はことわって早々にお帰しになりました。なぜって彼は、村でも数少ない働き手のひとりでしたそうですから。

 ここまでの礼にと、茶屋の団子を持たせて見送ったのち、先生も一服いっぷくやりながら山並みをながめて過ごしなさいました。

 ――私は今夜には、駅のいしだたみむだろう。あつ街灯がいとうのしたも歩くだろう。そうしたらやはり、この景色をこいしく思うだろう。

 ときおり吹く涼風すずかぜしむ気持ちで、ふところいっぱいに吸いこみます。深緑しんりょくははるかにかっして重なりあい、そこここにせみ時雨しぐれが降りそそいでいます。


 さて、そうしていくら待ったことでしょう。馬車は一向にあらわれません。いま何時ごろだろうかと思いましたが、こくを確かめるすべもありません――先生はきゅうちゅうは時計をお持ちになりませんので。

 日はまだ高く見え、なにぶんのどかな場所でしたから、そうあせるまいと胸元をゆるめて考えます。ただ、退屈たいくつであることは、この場合いかんともしがたくありましたので、ほんのひまつぶしに茶屋の周りを歩いてみることになさいました。

 二週間のうちには、村のものに連れられて山に入ったこともありますし、先生には自然とこの辺り一帯いったいが知っている土地のように思われたのでしょう。

 目新しいものを探して小屋の周りを二周、三周とします。はじめのうちはその姿すがたを気にかけていた茶屋の主人も、先生がむやみに遠くへ行かないことに安心したらしく、そのうちに店のおくへと引っ込みました。

 まだ、馬車はくる気配を見せません。そこでまあ、わたくしの知る先生のことです。次第に大胆だいたんに、周回の道を外れるようになっていきました。なに、小屋をうしなわなければいいのだと、せた臙脂えんじののぼりを目のはしに、足を伸ばしたらしいのです。


 ふと、そのかげが見えなくなったのは、しばらく経ったのちでした。どれだけ見回しても、のぼりの臙脂、屋根のかどすらありません。

 ――どこをどうきたかしらん。

 汗をきつつ、見覚えのあるような木影を頼りにいってみます。蝉時雨はあいかわらず地を打っています。

 先生は普段から歩く道で物思いにふけったり、得意になったりしなさるのですが、このときばかりは道なき道がいかにも冷たく思われたようです。


 夏のいきおおとろえずとはいえ、山中の日は短く時をうつします。おまけに空があかねいろになるにつれてうすぐもがかかり、木立のあいだには、蝉の声にかわってあやしい霧雨きりさめが降りはじめました。

 着物がじっとりとからみついて実にいやな気持ちです。このまま暗くなってはたまりませんが、視界も悪くなる一方で、いやどうすることもできません。あかねにびに色を変える霧雨のなか、先生はとうとう突っ立ったままになりました。

 そこへ後ろからこんな声が聞こえてくれば、いよいよすじに寒さが走るというものです。

 「もうにおわない」「こっちだこっち」「おいおまえ」

 とっさにいたとき、草の葉ひとつれる音もなく、三つの頭がじゅんにやぶから生えました。そして先生と目が合うと、三つの両目が順に皿ほど大きくなったのです。

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