桃の岸へ

 十数回目の満月夜まんげつよのことです。

 しものにおいがするなかで、シュイはいつものように裏口に降り、背を伸ばして家をのぞきました。しかし母のすがたは、いつものように、そこにはありませんでした。

 「あっ」

 後ろで、ちいさく声があがったのが聞こえました。シュイはりかえることもせずに、ぱっと飛びたちました。寒さのせいだけでなく、心臓がこおりつくような心地がしました。

 だれかに、したから呼ばれたようでしたけれども、地面を見ることはできません。ひたいのあたりがぼうっとしてきて、羽を動かすことに精一杯だったのです。


 やっとの思いで池へとたどりついたとき、シュイは羽の力を失い、冷たい水にたたきつけられました。そして、さめざめと涙をこぼしたのです。

 (ああ、母さん、母さん。あの声は、短くしか聞かなかったけれど、確かに母さんのものだった)

 明るい空から、すたがもなく、いつかの老師の声が聞こえてきます。

 「とうとう見られてしまったのだな」

 シュイは答えます。

 「もういいのです。きっと気味が悪かったにちがいありません。だって母さんはあれから、ぼくがここへと沈んでから、一度もこの池をおとずれたことがないのです」

 「シュイよ。母親は決して、おまえをそんなふうには思わない。それだけは思い違えてはいけない」

 天からの光は、ちいさな水鳥をいたわり包んで降りつづけました。


 やがて春になりました。やつれ果てたシュイは、うらうらとしたのなかで、あしのしげみに身を横たえていました。うすよごれた額の白が影雪かげゆきて、残ったままになりました。

 これまでシュイをいじめていた鳥たちは、もう興味きょうみもないそぶりで、水草を取りあったりしています。波が立つたびに、桃の花びらが散りあつまったはかない岸辺がゆらめきます。

 (ぼくはあの岸に手を伸ばしたのだ。そして足をすべらせて、この池に落ちたのだ。母さんはぼくを呼んでいたのだ)

 どうかもう一度だけでも名前を呼んでほしいこと、あの夜に、もし地面におりていたら、どうなっていたであろうかということを、今日まで何度となく考えました。

 しかしもう、それは叶うこともないのだと、シュイは自分の命のが燃えつきていくことをも感じずにはいられませんでした。


 そのときです。池のほとり、一本の桃がたたずむところから、待ちわびていた声が聞こえました。

 シュイははじめ、まぼろしのなかにいる気がしたほどでした。力をりしぼり首を伸ばして、木のしたを見つめます。

 そこにはひざをついて頭をれる母のすがたがありました。きらめく水面みなもに落とす言葉がシュイの耳にも届きます。

 「シュイ。大事なわたしの子。おまえはまだこの池の底にいるのかい」

 (いいえ、母さん。ぼくはもう、そこにしずんではいません)

 「なぜあのとき、お前を引きあげてやれなかったろう。なぜあのとき、たった一度おまえらしい水鳥を見たとき、すぐに声をかけてやれなかっただろう」

 (しかたないのです、ぼくは水草にまぎれてしまったのです。そしてぼくは自分から、母さんに背を向けてしまったのです)

 うらうらとした陽のなかで、言葉はぽつりぽつりと続きます。悲しみのあまり、足腰あしこしが立たぬほどのやまいに伏していたこと。一日とて、シュイを忘れたことがないこと。そして月夜のばんに届けられる羽根に、どんなに心を痛め、しかしまたすくわれていたか。

 「シュイ。どうかゆるしておくれ。一年もすぎてやっと、わたしはここにくることができた」

 そうして母は、かたわらから、あのランプを取りだしました。それはすみずみまでみがかれて、なかでは、ちいさくともまばゆい火が燃えていました。

 涙にふるえていたシュイは、とうとうあしを飛びだし、母親の前で羽を広げました。池の水が音を立てて、しぶきます。

 「母さん、もう、気に病むことはないのです。ぼくは母さんがお達者たっしゃならば、それでいいんです。母さんがぼくのことを覚えていてくださった。そして思っていてくださった。ほかに、なんのありがたいことがあるでしょう」

 人間にはわからない鳥の言葉で、シュイは言いました。それが通じたかどうか、母ははっとした表情で、羽をうつ水鳥を見つめていました。

 「母さんが見届けてくださった。ぼくはこれ以上なにも望みません。どうか、どうかお幸せに」

 最後に一声、水鳥が鳴いたかと思うと、花びらのつくる岸からかすみが立ちのぼりはじめました。

 額の白が、ランプのまばゆさをうつしてかがやきます。シュイには自分を呼ぶ老師の声が聞こえていました。その体は、母の目の前で霞ととけあい、たましいとなって天に引きあげられていきました。

 景色が晴れたのち、ゆれる水面には、ただすべらかな桃の岸だけが浮かんでいるのでした。


(おしまい)

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