桃の話

水鳥のシュイ

 その夜も、光はたしかに空を渡っていきました。

 いくしゅの虫の歌や、やみに紅葉もみじが落ちる音。雲がふちどる天のうえから、ちいさな池が見えたのは、けっして、たまたまではありません。


 そこは低い山の天辺てっぺんでした。くぼんだところに水がたまって、できたような池でした。

 池のふちには一本の桃の木が、だまって枝をのばしていました。春には光る花や葉も、いまはひとつもありません。

 「ヒッヒ、たいくつだ。たァいくつな夜だ」

 風がひとりでそう言って、山の腹から頭のさきへと吹きぬけます。あたりの雲がらされて、ようやく今夜のお月さまが顔を出しました。


 天のあかりはきずしまず、池のおもてにそそぎます。さざ波が水面みなもを切りつけて、果てないすり硝子がらすのように見せました。

 そこへ、いっしょに照らされたのは、一羽のわかい水鳥です。ちいさなからだは夜のやみよりも暗い色をしています。もしも、お月さまのあかりにあかい目玉が光らなければ、とても見わけられないすがたです。


 水鳥は、銀の波が細かくゆれたり散らばったりするのを、しばらくだまって見つめていました。

 (ああ、こんな銀いろの光でさえ、お月さまにかえりたがっている。そしてそれが叶わないでいる)

 天をいくお月さまは、暗やみなど一度も知ったことがないような、まどかさです。水鳥は切ない夜鳴きをさそわれて、くちばしを高くあげました。

 ――かう、かう、かう、かう。

 それはのどに張りつくさみしさすべてを、しぼりだしてしまおうとするような声でした。辺りにこたえるものはなく、それがいっそう、ひとりぼっちのこころをふるわせます。

 ――かう、かう、かう、かう。

 気まぐれな風が、ただ、声を運んで吹きあげます。

 (そうだ。この声が池をはなれ、山をぬけ、空をかけ、お月さまへと届けばいい)

 たまらなくなった水鳥が、もう一度くちばしを開いたときです。

 「ええい、もうよいわ。もう鳴くな」

 おごかな声がとつぜん聞こえ、水面の銀を湧きたたせました。水鳥はおどろいてくちばしを開けたまま、羽であたりを打ちまわります。

 「待て、まて。そう、あわてることはない、水鳥よ」

 きりと見まごう銀光ひかりのなかからあらわれたのは、白い立派りっぱな着ものすがたの老人でした。どうも並ならないお方のように見えましたので、水鳥はかしこまってたずねました。

 「これは、なんと申しあげましょう。あなたはいったい、どなたさまでしょうか」

 老人は、とがめるふうでなく、水鳥をのぞきこみます。

 「わしはつきかいむものだ。毎夜この天を渡るのがつとめだが、このところの満月はどうもいかん。お前の鳴きごえが悲しゅうてならんのだ。いったい、なにをそんなに鳴いているのか」

 「老師ラオレン、おゆるしください」

 水鳥は頭をれました。

 「知らぬこととはいえ、おさわがせをいたしました。ぼくはシュイというものです。いまは、こんなすがたをしていますが、去る春に、この池でおぼれて死んだ人間の子どもです」

 老師は、ほうっと息をつくと、静かにシュイの言葉を聞きました。

 「おぼれたと言いましても、ぼくのからだは、もう水底にしずんではいません。いく日も、母さんにあいたいと、それだけねんじ続けたところ、このような水鳥のすがたになったからです。けれども、この羽では飛ぶことができず、村までは遠くていけません。それが悲しくて、母さんが恋しくて泣くのです」

 そのからだは、おぼれた池の底をうつして黒く、その眼はあまりに泣いたために、澄んだあかが染みついたのです。


 シュイにとって、れない池での生活はつらいものでした。ほかの鳥にいじめられては、しかたなしに水のうえを走らなければならないこともありました。

 「あわれな子よ。そこに沈んだばかりでなく、天へ還ることも忘れてしまうとは」

 老師が手をかざすと、シュイのひたいにぼんやりと白い光がうつりました。そのまどかさは月のようでもありました。

 「これでお前は飛べるはずだ。だが、それは満月の夜きりのこと。それから、母親にもだれにでも、すがたを見られてはいかん。すると術が解けてしまうのだ」

 老師のすがたが、だんだんと見えなくなっていきます。

 「水鳥の子よ。わしは、おまえに力をかそう。おまえを見守っていよう」

 きずしまぬまなしが消えてしまうまで、シュイは夢をみるような気もちでいました。

 しかし、やがてても立ってもいられなくなると、水面を走って飛びあがり、かっこうに夜空をいきました。


 村はもう、みんなねむって静かでした。はじめての空のみちも、お月さまのしたで母を思えば、渡りきることができました。

 なつかしい家の裏口の、くずれかかったまきのうえに伸びあがってみますと、なかではその母が、りきれた掛布かけふに身を丸くしていました。

 なんとも背中がさみしく見え、(母さん。)シュイは、思わず声をあげそうになりました。そばには油をさすランプが、ほこりをかぶってありました。


 あれはシュイがまだ人間の子どもだったとき、村に来た物売りから母さんが買ってくれたものでした。

 家には上等の油はありませんでしたが、母さんはいつでも、ろうのはしや灯心とうしんのあまりを燃やして、ランプを灯してくれたのでした。

 (母さん、そのランプをどうぞ使ってください。ああ、もしぼくが話しかけられるものなら、すぐにでも、そばへいってあげるのに)

 シュイはくちばしを使って黒々とした羽根を一枚くと、かたむいた窓のすき間から、家のなかへと、そっとさしこみました。


 それから、シュイは満月になると毎夜、村へと飛びました。やがて冬がきて、ほかの鳥が寄りそいあって眠るようになっても、ひとりてつく月夜を飛んでいきました。

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