第二章、その六

「たとえば『坂本竜馬』なんかがその代表例です。彼はまるで幕末の大動乱期の日本においての中心人物のように思われていますが、はたして本当にそうなのでしょうか。彼の数々の武勇伝的エピソード、そして心震わせる名セリフの数々、我々はあまりにもそれらを簡単に、歴史的事実と認めすぎているのではないでしょうか。彼はあくまでもはるか過去に生きた人間なのです。本当に彼がどんな行動をしどんな言葉を喋ったかは、今の時代を生きる我々には誰一人として、正確に証明することなんてできはしないのですよ?」

 え? そんなことはないだろう。だって、


「何を言っているのです。そのためにこそこの世には歴史学というものがあって、過去の文献等証拠物件の調査研究が綿密に行われ、歴史上の謎の解明に日夜邁進しているのではないですか」

 そうそう、そうですよ。


「おやおや。それでは一般民衆の方々は、何か竜馬について疑問を呈した場合は、いちいち小難しい学者の文献や解説書を手に取っておられると、そうおっしゃりたいわけで?」

「だからそんな人のためにこそ、歴史小説というものがあるわけで──」


「ほう」──あ、

「やっと入口に」──もしかして、

「たどり着かれましたかな」──彼の言いたいことって、


「そうなのです。私が言いたいこともまさにそれなのです。あくまでも学者でもなければ専門家でもない一般民衆にとっては、元来フィクションのたまものにすぎない歴史小説こそが学術書であり史書であり、ひいては本当に起こった『歴史的事実』そのものともなり得るのです」


 ……まさかそんな。いやでも……。

「現代人である我々の『坂本竜馬』像というものはそのほとんどすべてがあくまでフィクションである、司馬遼太郎先生の名作『竜馬がゆく』の架空の登場人物にすぎない『さかもとりょうま』というキャラクターによって構成されていると言っても、もはや過言でも何でもないのですよ」

 いや、しかしねえ「──いやしかし、たとえそうでも坂本竜馬という人物が実在していたことはそれこそ明白な史実であり、それに司馬先生が綿密な資料の調査研究に基づいて執筆をなされていたのは、とみに有名なことではないですか。小説とは言ってもそれ自体が十分、学術的歴史書の価値があると言ってもさしつかえないほどに」

 そのとーり。ナイスだ、夕霞ゆうかさん♡


「むしろそれこそが問題なのですよ。『実在の人物を主人公にした史実に基づいた歴史小説』──そう言っただけで読者というものは、その作品が百パーセント真実であると信じ込んでしまうのです。たとえその九割以上が事実無根の嘘っぱちであってもね」


「──なっ」

 いいのかミステリィ評論家。いくら畑が違うといっても、相手は歴史小説界の金字塔だぞ。明日からオマンマの食いあげになるぞ!

「侮辱です!」

「おや何が?」

「司馬先生のことを嘘っぱちだなんて」

「いや誉めているんですけど」

「どこがですか!」


「だって、別に学術書を書いているわけじゃないんだから。むしろいかに真実の中に嘘を巧みに編み込んでいって事実以上の傑作を生み出すことができるかが、真の小説家のあり方ではありませんか。それこそ後世には歴史的事実と見なされるぐらいにね」

 ──‼


「忘れてはいけません。嘘っぱちを書くことこそが、小説家の仕事なのですよ」


 おお、どうやら渾身のセリフが決まったようだ。一瞬シーンと静まり返る大広間。気がつけばこの宴は、すっかり許斐氏の独壇場と成り果てていた。

 やんややんやと応援をするミステリィおたくの同志たち。くやしそうに口をつぐむ夕霞さん。にこやかに微笑み続ける女中さんたち。相変わらず肉塊と取っ組み合っている鞠緒さん。……あれ、それほどみんな感銘を受けている様子ではいないぞ。まあ、話す内容が性懲りもなくマニアック過ぎるしな。


「ようやくわかっていただけたようですね。いや、こんなこと実は今に始まったことではないのです。我が国の古代史最大の文献が『古事記』という壮大な神話物語であることに始まり、平安時代に実在した陰陽師の阿倍清明が現代の小説界においてあたかも本当に強大な力を有する超能力者として祭り上げられていることや、赤穂浪士の討ち入りの有名エピソードのほとんどが『仮名手本忠臣蔵』におけるフィクションであることや、果てはよその国のパンよりもケーキが好きなベルサイユな王妃様のセリフが何と『少女漫画』によって歴史的真実として信じられているという有り様なのです。間違いなく小説や漫画には嘘を真実にする力があるのです。なぜならこの現実世界には元々確固たる事実なるものなぞ存在せず、すべては我々人間の『認識』によってそのつど左右されているのですから。かの高名なSF作家フレドリック=ブラウンはこう言いました、『誰も聞く者のいない森の中で大木が倒れても、そこには何ら音なるものは存在しなかった』と。これは何も聴覚だけの問題ではありません。視覚、嗅覚、味覚、痛覚の、人間の五感すべてについて言えるのです。あなたにはたとえ白く見えるものであっても、あなた以外のすべての人が『黒い』と言っているのに、あくまでも『白い』と言い続けることができますか? たとえば先ほどの『坂本竜馬』を例にとって言えば、もしあなたが歴史的発見をして、竜馬が実はこの上もないインチキ野郎で日本人にとってただの裏切り者でしかなかったという事実を知り得たとしても、学術論文ならともかくけしてそのことを小説として発表することはできないでしょう。なぜなら現代の日本人には司馬遼太郎先生の『坂本竜馬』像が確固として根付いており、そのイメージに反するものは絶対に受け容れてはくれないからです。それほどまでに小説の持つ『認識構築力』というものは強大なのです。何せ人は小説を読んでいるときはその認識力のすべてを、どっぷりと小説世界の中に埋没させてしまっているのですから。むしろ小説を読んでいるうちに知らず知らず影響を受けた考え方や思想が、現実世界に対する認識そのものを変えることすら大いにあり得るのですよ」


 あ、やっと文章を区切ってくれた。よかったよかった。もう少しで別の世界しょうせつ転移アクセスし直すところだったよ。

 しかし『フレドリック=ブラウン』ねえ。彼ってSF作家というよりも、どちらかというと人知れず宇宙と交信できるというかアチラ系のお人というか、非常に言いづらい分野の作家さんだと思うんだけど。

 それにしても、こうも見事に引用する題材が僕と丸かぶりしてしまうなんて。何となくイヤンな感じがしたりして。


「そしてその最たるものが、いわゆる『ミステリィ小説』と呼ばれるものなのです。別に歴史的事実にも現実世界にも束縛される必要のないミステリィは完全に嘘っぱちの世界でありながら、殊更に人々の関心をとらえ、しかもその認識を自由自在に変えることができるのです。たとえばある作品で主人公が難事件を解決したとします。すると読者は主人公だけではなく作者本人までも褒め称えてしまうのです。『こんな難事件を鮮やかに解決する作品を書けるなんて、このミステリィ作家はすごい!』と。つまり、虚構の世界の事件を架空の登場人物に解決させることによって、作者本人が現実世界で高評価を得ることを可能としたわけです。でも考えてみてください。これこそが前提条件を巧みにでっち上げたトリックそのものではないでしょうか。元々小説というものは作者自身が生み出したものなのであり、当然作品内のすべての者や世界そのものにとっての神様そのままの存在とも言えて、むろん自分で考え出した難事件を自分で考え出した登場人物に解かせることなんて朝飯前なのです。むしろ作者にとって謎でも何でもないものを、嘘っぱちに嘘っぱちを重ねてまんまと読者をおちょくり続けているだけなのです。そして何よりもありがたいのは、ミステリィの読者が他の分野に比べてとことんまで従順であることなのです。いかにミステリィが嘘っぱちでインチキであろうとも、怒りだす読者なぞただ一人もいないのです。むしろ『もっと騙されたい♡』と本気で思っている人たちばかりなのです。こんな気楽な小説の分野は他にありません。たとえ現実的には多大なる矛盾点を抱えていようとも、それはもはや伝統芸までに昇華されており、そこを突いたりすることは無粋きわまりないとか掟破りとか反本格だとか言われて、逆に糾弾されかねない有り様なのです。だからミステリィ小説家は何ものにも束縛されることなく、自由気ままに嘘っぱちをつき続ければいいのです。邪魔するものは何もありません。むしろ現実のほうが我々にすり寄ってくるのですから。ミステリィが私立探偵を主人公に取り上げれば現実の人々の認識も警察官は脇役となり、逆にリアルな警察ドラマを流行はやらせれば休職中の刑事やキャリア組の官僚が現実世界でも注目を浴びるというわけなのです。そう、まさにミステリィ小説こそが真実なのであり、正義であり、この世のすべてを決めているのです!」


 ……ここで「Siegジーク Mysterienromanミステリィアンローマン!」とか言って大喝采をすべきなのだろうか。何なんだこの人。ミステリィ業界のスポークスマンと言うよりは、もはや『宣伝相ゲッベルス』の領域だよ。


「──くく、くくくくく」


 おやあ?


「語るに落ちたわね」


 もしもし、夕霞さん? どうしたんです、いきなり。今までかたくなに沈黙を守っていたのに。

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