明日の「あ」を狩る赤城さん。
羨増 健介
麺のように長いプロローグ Part Ⅰ
四川の担々麺が食べたかった。
もちろん本場の担々麺じゃなくっていい。チェーン店で食べることのできる安価であまり辛くない担々麺でもいい。
でも、そんなこと言ったら辛いのスキーな連中に「クソ雑魚ナメクジ」とかえらい暴言を吐かれるから嫌だけれど。
だから、敢えて言う。僕は、担々麺が食べたい。
麻婆豆腐を煉獄だと例える人がいるのなら、担々麺は辺獄だ。
でも、学食のメニューにある「担々麺」は、辺獄と呼ぶにはあまっちょろい。
根拠は――――もちろんのこと無い。僕ら普通の高校生が黒板の板書さえ写さず、ただでさえ無い知恵を絞って考えた「モノの例え」っていうのは、いつだってくだらなくって、いつだって拙くって、いつだってしょうもないモノだ。
「辛い物嫌いだからって人権が無いってのは、世の中間違ってると思うんですが、いかがですか。吉祥選手」
「はぁ……」
「腹が減れば、辛いものがそこまで好きじゃない人だって、食べたくなる欲ってものが、生まれるもんでしょうが。普通は」
「せやな。宮川」
「だからさ……授業サボって、今から行かない? 湯島の担々麺屋」
東京都の文京区湯島にある担々麺屋さん「阿吽」のレビューを友人の吉祥から聞いていた僕は、いつの間にか食欲が担々麺でいっぱいに満たされていた。
食べていないのに、まるで食べたかのような――口の中に満たされていく「担々麺」のスッキリとした辛味に、危うく溺れそうになる。
おのれ担々麺、コノヤロウ担々麺。流石です担々麺、ありがたや担々麺。
「カバタレ。今は放課後だ」
「えっ」
かの偉い人は言った――――「食欲」とは、自分が本当に食べたい食べ物を食べたい欲である、と。
かの偉い人は、なんてことをほざいてくれやがったのでしょう……。
「カバタレ」
「そう……宮川。お前はカバタレだ。寝ぼけているんじゃない」
その言葉を思い出してから、ぽつんと頭の中に浮かんだお店の名前は――やっぱり阿吽。
阿吽とは――宇宙の始まりと終わりを表す言葉である。なんてふざけたことを言い出したのは、クラスメイトの吉祥だ。
そしてたった今、僕の机の側まで椅子を持ってきて、よいしょと声に出して座って、僕のことをカバタレ呼ばわりしたのも、吉祥だ。
「担々麺の法則が、乱れる!!」と言い出したのは、吉祥じゃなくって尾方だ。
担々麺の法則って、なんだよ……。と声を上げて唸りながら、担任の教師と十数名の生徒がいなくなった放課後の教室で頭を抱えていた。
「担々麺の法則は担々麺の法則だ。たわけ」
「たわけかぁ……」
友人の尾方はまぁ随分と高校生にしては小綺麗な格好をしている。
いや、小綺麗と言うよりかは、まるで、
お前それ現役の高校生がしていい格好じゃないぞ……。と突っ込みたくなったが、すんでの喉元前で、それは固唾を呑みこむことで抑えられた。
「どうだ……聞いただけで美味しそうだろう。湯島の店。そういや、尾方。この前食いに行った草加の――――えっと国道何号沿いだっけ」
「四号沿いな。パチ屋のすぐ近くだよん」
「そうそう、それそれ。それだよそれ」
その時――埼玉県南部の草加にある担々麺屋のことを思い出す。
担々麺といえば、担々麺オンリーで絞って近隣から店をを見つけることは、意外と難しかったりする。
というかそもそも、近隣に担々麺専門店が点在しないから、都内や埼玉県の南部に赴いているのであって、御留美市内に一軒でも担々麺の専門店がオープンしたら、間違いなく、通い詰めてしまうだろう。
「そういえば……なんだけど」西新宿駅近くの、サブナード地下街にある中華料理屋さん「秀山」も、僕がマークしている場所だ。教えてくれたのは尾方だけど。
「あれ……アレって『ハゲヤマ』って言うんじゃないのん?」
「秀山と書いて『しゅうざん』と読むんだよ……あれ初見じゃ分からないって」
「あそこ美味しかったよな」
「チャーシューの分厚さといい、メンマのコリコリ具合といい、あれだ。控えめに言って最高」
「語彙力帰って来い、尾方」
「あばばばっばっばばばば」
「語彙力戻って来い。尾方」
「チャーシューというよりかは、あれは角煮だな。角煮」
「そうだね。太麺と細麺で選べるし、しかも値段も安価で食える。冬場には丁度いい。そのボリュームで七百円は安いって」
「分かる」
「待て待て、それ……草加の『大勝』のことだよな?」
「四号沿いの、パチ屋のすぐ近くだって言ったばっかじゃん」
「そうだ。ごめんごめん……」
ここ最近で担々麺を食べた店をブックマークしては、僕らはこうやって話し合いながら共有している。
九段下にある雲林坊という店では、麺はもっちもちで中太麺。汁なし担々麺を食べることができるし、担々麺ひとつで旨味を存分に味わうことができる。
「ぶえっくし……! うぅ……」
「さっきの尾方の食レポって、草加のでしょ?」
「せやで、って今さ……尾方が言ったばかりやろうが」
「そうだな」
と軽く呟いてから、僕は教室の外の景色を見やる。
桜の開花情報は、年を追うごとに例年よりも遅くなっていると朝の天気予報で、お天気キャスターが揚々とした声色で朝のニュースで言っていた。
なんで意気揚々と桜の開花情報が遅くなっていることを伝えているんだ。もしかしたら、このキャスターは花粉症じゃないのかもしれない。
「ぶ、ぶ、ぶ……ブエノスアイレス!」
春という季節は、花粉があって大嫌いだ。
僕はたった今、花粉症を患っている人の大半が思っていることを代弁しただろう。薬を飲めばええやないか、と言うかもしれない。
それに、昨日から調子が悪いというか、なんというか……。ある言葉を口に出そうとすると、急に喉にイガイガが昇ってくるというか、なんというか……。上手く言葉に出来ないけれど、兎にも角にも調子がよろしくない。
花粉症で言葉が出ないことがあるのって、昨日はかなり花粉が外で舞っていたんじゃないのか。畜生、だからあんなに昨日の夜は寝付けが悪かったのか。
ちくしょう。
「ぶえっくし!!」
冬から春に差し掛かっていくにあたって――
「えっくしぃ!!」
段々と低かった気温が上がり、天気も陽当たり良好にな――
「えっくしぃ!!」
春のうららかな陽気に包まれた三月――
「ぶえっくし!!」
何が陽当たり良好だ――――何がうららかな陽気だ。こんなに花粉ばら撒かれるんだったら毎日雨か雪でいいわ。
こんちきしょうめ。
「宮川……大丈夫か? マスク付けてるのに……メッチャ阿呆みたいなくしゃみ出とるし……」
「駄目。無理。死ぬ。嫌だ。それと、メッチャ阿呆は余計だ。吉祥」
「地元に、担々麺屋できねぇかなぁ」と尾方がいつものようにぼやく。
「地元に担々麺屋がないならさ、もういっそのこと俺たちでつくっちゃえばいいんじゃない? 担々麺」
それに乗っかる吉祥。
「それじゃあさ……なぁ、つくろうぜ。担々麺」
尾方のさっきよりも張り上げた声に、僕は現実に引き戻される。黄昏の時間は、もうお終いだ。と言わんばかりに語気を強めて、僕にも「どうだ」と訊いて来る。
「文化祭に屋台でも出すか?」と吉祥が笑う。
「いいねいいね」
と野郎のマシンガントークが絶賛現在進行形で繰り広げられている。
暇さえあれば担々麺のことしか喋らない尾方は、担々麺マイスターの称号を自分から名乗っている。つまりは自称だ。
「物好きだな……普通は担々麺じゃなくってラーメンマイスターだろ」
「いいじゃねぇか」と笑う吉祥。二人はこれまたいつものごとく、弾丸のように言葉を飛ばしている。
「それにしても、文化祭……ねぇ」
文化祭といってもまだ半年以上先の話だ。そもそも今つるんでいる吉祥と尾方と、進級たからといって同じクラスになるとも限らないし――
「ねぇ?」と僕は、吉祥に視線を合わせる。「なんだよ」と訊いて来たので、文化祭と、担々麺のこと、と答えておいた。
「いきなり現実を突き付けるなよー。宮川選手」
「それじゃあ、その為だけにダミー部活でも作るか? 担々麺研究同好会」
「面倒臭いぞ」
言うと思ったよ……。
「そん時にゃそん時で、考えればいいんじゃない?」と吉祥が天の声さながらの提案をする。僕はともかく、尾方は「うーんうーん」と熱を出してうなされている子供のような声を漏らしながら、瞼を閉じて腕を組んでいた。
「――――――――」
「おい」
「尾方」
「――――」
その数秒後に、なんと尾方は深い眠りについた。
要するに――腕を組んで寝ていた。
吉祥ウラは僕のクラスメイトであり、クラスメイトの中でもかなり親交が深い友人の一人だ。食欲旺盛で、丸刈りの上から毎日違うカツラを付けてくる。
ちなみにカツラを付ける理由は、頭髪検査を一発芸の場と考えているらしく、今日は植木鉢に植えてあるサボテンをイメージしたカツラを付けているらしい。らしいと僕が言うのは、僕から見ると、どこからどう見てもさ彼の言うサボテンには見えない。ていうか……その髪型をサボテンっていう方が無理だろ。
「そうかなぁ……」と
すると、吉祥の頭から「スポッ」と音がした。カツラを脱ぐ際にどうしても出る音らしくて、「いや……何処からどう見ても、サボテンだろ」とぼやいてまたスポっと何事も無かったかのように、無言でカツラを装着した。
文字通り着脱自在のカツラを目の当たりにして「ウヒョヒョアスゲー!」と尾方は感嘆の声をあげている。「お前は髪型を気にする女子高生か!!」と下品な笑いを零して、机をバンバンと叩いていた。
うるせぇ……。
「俺が……」
「俺たちが! 男子高校生だ!!」
吉祥を筆頭とする馬鹿ども二人の所為で、今日も今日とて、僕がいる教室は実に愉快痛快で極まりなかった。怪物と称するにうってつけな馬鹿二人が
学び舎の一室は、青春の一ページを飾る大事な場所ではあるんだけれど、僕らの青臭い青春もどきを晒す場所じゃないんだぞ。
「分からん」
「分かれよ!!」
吉祥の鬼瓦フェイスに、僕は思わず右手で彼のことを突っ込む。
一学期の間、幾度となく繰り返されていた他愛無いやり取りに、僕はどうしても懐かしさを覚えてしまう。二学期丸々を、岐阜県の飛騨にある高校で過ごして来たけれど、果たしてこんなに笑ったことがあっただろうか。
四月から七月いっぱいの期間まで、
「宮川……昨日の担々麺どうだった?」
「えっ」
「私もあの店に行ったんだ。ウラと一緒に」
やり取りに割って入って来たのは、同じくクラスメイトの三鷹さん。
華奢なスタイルと見せかけて、実は締まる所は締まって出ているところは出ている――つまりはバランスの整った容貌。ショートボブのやや茶色掛かった黒色の髪、そして極め付けは気さくな性格。
控え目に言っても完璧という言葉が、いや、「パーペキ」という言葉が似合う女の子だ。
「女神か!!」
「何か言ったか? 宮川選手」
「いいや、吉祥……なんでもないよ」
ショートボブの女神の名を彼女に献上したら、三秒でその名を返上したのはつい三日前のこと。土曜の登校日のことだった。
会話に三鷹さんが入ると、より一層会話が進む。普通だったら見惚れてしまって、一瞬沈黙が迸るはずだ。
「今日も、三馬鹿は見事に揃ってますなぁ……」
「えっ、三鷹さん!」
「なに? 宮川君」
「僕もこの三馬鹿の中に、入ってるの?」
「もちろん!」
元気よく答えてくれる三鷹さんの前で、僕は「えー」と机に突っ伏しながら脱力し、力虚しく項垂れる。
「尾方に」
「はい。尾方ですッ!!」
「ウラに」
「うっす。ウラです……」
「宮川君」
「………い」
どうして吉祥だけ下の名前である「ウラ」で呼ばれているのかは、ちゃんとした理由がある。三鷹さんと吉祥は、昔からの腐れ縁――というよりかは、幼馴染みという関係性だ。
僕が彼女と知り合ったのはこっちに越して来た三日後のことで、どうしてか三鷹さんは僕の名前を知っていた。
三鷹さんは、二学期になって御留実高校に編入して来た女の子だ。一学期までは両親の事情で仕事に専念していたらしく――二学期になってようやく余裕ができたので、学校に通うことになったらしい。
「どうして……僕のことを知ってるの?」
まさか吉祥が根回しをしたんじゃないだろうな、と当人に問いただしてみたら、やっぱり吉祥の仕業だった。おのれ吉祥。
「名前――――なんだっけ」
「僕の名前?」
「違うって、阿吽だよ、阿吽。チャットでも教えたろ?」
「そうだったけ……」と僕は唸る。
「おいおい、呆けるのも大概にしてくれ……阿吽だって言ったろ。阿吽って」
どうだった。とは、担々麺の感想だ。
「ああ……うん。美味しかったよ。辛いの駄目な僕でも十分食べれるくらいの、いい感じの辛さだった」
口角を無理矢理上げながら、僕は食べもしなかった担々麺の感想をでっち上げる。
「大丈夫? 宮川……辛いもの食べて、頭バグってない?」
「失礼な、大丈夫。まったくもってメイウェンティでございます」
に三鷹さんと吉祥は、「うーん」と
「やっぱ駄目なんじゃない? ウラ」
会話が繋がっているようで、微妙に繋がっていないことに――僕ら三人は首を傾げた。尾方は「お?」と言う顔をしていて、この状況をきっと理解できていない。
首を傾げている二人を他所に僕は「ふぅ……」と長く溜め息を吐いた。
教室の中で現在進行形でくりひろげ繰り広げられていたのは――――ただの高校生同士の会話だ。多少主語や述語や接続詞が無くたって、目的語さえ無くたって、人と人が会話をすることは――まったくもって造作のないことだ。
バカ同士の会話と言われればそれまでかもしれないけれど、高校生の会話はこんなにも馬鹿なんだ――と逆に見せつけてやればいい。きっとそうすれば、相手だって「はぁ……」と溜め息を吐いて呆れてくれるはずだ。
でも、目の前の女の子――――三鷹さんは、呆れた溜め息ではなく、
今の会話の流れで言うと、僕に「ウラはやっぱりダメなんじゃない?」と確認の意を取っているみたいだ。
「僕は駄目じゃないぞ」と三鷹さんが口を開く前に、僕は反論する。
「そうじゃないって。宮川君は、尾方とかウラとは違って、まともでしょ?」
どうやらそうじゃないみたいだ。こくこくと首を縦に振る。全力で振る。
「宮川君、ひとつ……聞いてもいいかな」
はい、なんでしょうか……。
「昨日の日曜さ、阿吽に行った?」
「……行った」
僕は嘘を吐いた。非常に判別のしにくい嘘を、三鷹さんの前で漏らした。
湯島駅から歩いて数分の距離にある、担々麺専門店「阿吽」。
そこで僕は、担々麺を食べるために、昼前から並んでいた。らーめんやにラーメン屋に入る理由がラーメンを食べるのと同じように、担々麺専門店に入ってすることは、担々麺を食べること。
このひとつに尽きる――――のだけれど、
「実はさ……」
僕は吉祥に聞こえないくらいの小さなトーンで、
「昨日、店に入ったか入って無いか……覚えてないんだ」
そう言うと、三鷹さんはあはは、と声を出して笑った。
「冗談じゃないからね。三鷹さん」
「ちょっと」と帰り支度を済ませ、そそくさ教室を出ようとする僕を、三鷹さんが呼び止めた。
「じゃあ……冗談じゃないって証明するためにさ」
美少女の悪い顔――――その顔は何かを企んでいる顔だった。吉祥には阿吽に行かなかったことは密告しない。だからその代わりに提示する条件を何がなんでも飲んでもらう。というものだった。
「宮川君。ありがとうって言ってみてよ。それか五十音順で『あ』から『ん』を言うか、どっちからでもいいから」
「はぁ!?」
なんでさ、という言葉をぐっと飲みこんだ僕は、飲み込んだ言葉の代わりに「うー」と項垂れた声を漏らす。もっと重大な――今からわたしと宮川君は、カレシとカノジョの関係ね! くらいの、心臓が飛び出る要求をされると思っていたから、それはそれで、少しだけ拍子抜けだ。
ありがとう。と言うか、五十音順で『あ』から『ん』かのどちらを言うかなんて、決まっているじゃないか――――
「分かったよ……分かった。言うよ。五十音順で」
「そっちかー!」「しかも『ん』からかー!」
どうして五十音順を逆から言う、とか言い出したんだろう。
ま、いいか……。吹っ掛けて来たのは吉祥と三鷹さんだから、言い終わってからボロクソに言ってやろう……。
一言、一言と「単語」を紡いでいく。当たり前だけれど、普通だ。淡々と五十音順を逆から紡いでいく。当たり前なのだけれど、
こんなことをして、こんなことに意味があるとは思えない。
「よーし順調だ。後は『あ』行を言うだけだぞ。宮川!」
「頑張れ!」と三鷹さんにも激を受ける。
教室中に、「あ」のコールが巻き起こる。自分の席で何故か寝呆けていた尾方が、「ふがっ!」と間抜けな声を出して、肘を机から外し、その場に転げ落ちた。
「…………」
なんだ。なんだなんだ……なんなんだ、この状況は。
どうして僕は「あ」を言うだけだっていうのに、こんなにもドギマギしなくちゃいけないんだ……?
心の中で溜め息を吐いた僕は、よし、と息次いで「あ」を紡ごうとした。
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