第一章、その二
「へ? 集合的無意識って……」
それって確か、心理学用語か何かだったと思うけど、なぜかSF小説やライトノベル辺りでよく取り上げられる割には、いまいち要領を得ないんだよな。
「ちなみに集合的無意識と言っても、最近とみに見かけるSF小説やラノベにとって都合のいいように
「量子論に基づいているって、いや確か集合的無意識ってかの有名なユングが提唱した心理学における理論の一つで、すべての人間の精神世界のうち最も深層にある無意識の領域が繋がり合っているという──つまりは、この世のありとあらゆる情報が文字通り
「ええ。基本的にはその見解で結構ですが、先生には是非とも我が一族の力について真に御理解してもらうためにも、ここはより学術的にかなり込み入った話をさせていただきたいかと存じます」
そのようにあらかじめ断りを入れるやこれまでになく真剣な表情となり滔々と語り始める、SF方面だけでなく何やら心理学方面にも明るいらしい作家殿。
「そもそも集合的無意識とは、スイスの誇る高名なる心理学者カール=グスタフ=ユングが提唱した心理学用語で、人の精神というものには表層的で自覚的な『意識』や、無自覚的だが比較的浅い層に存在する個人的な『無意識』以外にも、心の最も奥底において全人類的に共通したいわゆる超自我的領域が存在しており、我々人類の精神は普段は意識できないこの最深層においてすべて繋がり合っているとしているのですが、このように言うと、いかにも非科学的かつ
……………………………は?
「この現実世界が実は、誰かが見ている夢であるかも知れないですって⁉ そんなまさか!」
「おやおや、
「……馬鹿馬鹿しい。そもそもが『この現実世界を夢見ているという蝶』自体が、荘子の見た夢の産物に過ぎず、『この現実世界を夢見ているという龍』自体も、神話上の──つまりは、我々人間の想像上の産物に過ぎないのではないですか?」
そんな僕の至極もっともな反論に対して、しかし目の前の見目麗しき女性はむしろいかにも我が意を得たりといった感じで、表情を綻ばせた。
「そう、そうなのです!
「は、はあ?」
自分で話題に上げた
「ふふふ。公立小学校教師明石月
──っ。まさか、それって⁉
「そう。御存じ現代物理学の根幹をなす量子論における基本的理論である、『我々人間を始めとするこの世のすべての物質の物理量の最小単位である量子というものは、
な、何と、この現実世界そのものが夢でもあり得ることはけして否定できないゆえに、現時点の自分を夢の存在と見なすことによって、量子論における『重ね合わせ現象』に則る形で、集合的無意識にアクセスすることは必ずしも不可能ではなくなるだと⁉
「それで以上の諸々を受けてここら辺で本題の未来予測能力についての話に戻ろうと思いますが、何を隠そう、私たち幸福な予言の巫女の一族においては、まさに真に理想的な量子コンピュータそのままに、原則的に無限のビット数を誇る量子ビット演算処理を実現し、未来の無限の可能性を
……………は?
「真に理想的な量子コンピュータそのままって……」
「実は私たち幸福な予言の巫女の一族の者は、夢の中でも自覚的に振る舞うことができるのです」
「へ?」
「というか、『夢の中の自分こそ、
──‼
「しかもここでむしろ『夢の中の自分』のほうこそを起点に考えれば、『現実世界の自分』には無限の可能性があることになるのです。何せ実際に目覚めるまでは、『どんな自分』になるのか定かではないのですからね。まったくの別人になる夢を見ることなぞ、普通にあることですし。まさにこのことを『夢の中の自分』を起点にして言い換えると、目が覚めた後でそれこそ地球の裏側のまったく見ず知らずの赤の他人になることだってあり得るわけであり、それどころかまさしく『
「『夢の中の自分』を起点にして、過去や未来や異世界すらも問わず、森羅万象のすべてとシンクロすることによって、量子コンピュータそのままに未来予測を実現できるようになるなんて、そんな馬鹿な⁉ それこそSF小説辺りの与太話でもあるまいし。そもそも夢の中で自覚的に行動できるなんてこと自体が、原則的に不可能でしょうが⁉」
「そんなことはありませんわよ? 私はただ単に、『人はまったくの別人や過去や未来の人物や異世界人になる夢を見る可能性があり得る』という、当然なことを言っていて、そしてそれを『夢の中の自分』を起点にして言い換えているだけですので」
「いやいや、その『夢の中の自分』を起点にしているところこそが曲者なのであって、あくまでも我々現実世界の人間はこの現実世界こそを起点に考えるべきなのであり、つまり夢ではあり得ないこの世界においては、ほんの一瞬後にまったくの別人になったり戦国武将になったり未来人になったり異世界人になったりするなんてことは、けしてあり得ないのですよ!」
「確かに『夢の中の自分』を半ば恣意的に、無限に存在し得る『別の可能性の自分』のすべてとの、総体的シンクロ化における起点にすることができるのは、我々幸福な予言の巫女の一族の者くらいのものですが、たまたま偶然に『夢の中の自分』を起点にすることによって、『別の可能性の自分』となり変わることなぞ、誰にだってあり得ることなのですよ? 何せ先ほども申し上げたようにすべての大前提として、この現実世界そのものが何者かが見ている夢である可能性は、けして誰にも否定できないのであり、極論すればこの世界が夢か現実かは、常に
だからといってこの現実世界が夢かも知れないなどという、いかにも使い古された詭弁なんて弄すること自体が、反則というものだろうが?……って、ちょっと待てよ⁉
「ま、まさか、その理論に則れば……」
「ええ。現代物理学における最大の懸案事項であった、『シュレディンガーの
「‼」
ま、マジで、こんなところで? 本当にいいのかよ、おい⁉
「量子が実際に観測されるまでは無限の形態や位置を同時にとり得るという、いわゆる『重ね合わせ』状態であり得るのは、あくまでも文字通りに我々が観測することのできないミクロレベルの話に限られるのであって、『シュレディンガーの猫』の思考実験のように、たとえ箱の中に閉じこめられて我々から観測できない状態にあろうと、この我々の現実世界──言うなればマクロレベルにおいては、箱の中に仕込んだ毒ガス発生装置によって、『死んでしまった猫』と『奇跡的に生き続けている猫』とが同時に重ね合わせ状態となって存在し続けることなぞあり得ないのであり、言わば現代物理学はこの見解に基づいているからこそ、もし仮に量子の性質を有する量子コンピュータを実現したところで、量子にとっての理想的物理空間であるミクロレベルと、様々な物理現象が干渉し合っている現実的物理空間であるマクロレベルとの差異が存在することによって、量子コンピュータの基本的作動原理である『量子的
つまり幸福な予言の巫女の未来予測能力って、量子論を始めとした現代物理学に則っているどころか、
「実は我が一族の女たちは、別名『
……つまり
そんな豆知識を最後に披露するとともに、長々と続いた蘊蓄解説をようやく終えてくれる
「……ええと。あなたの一族の方々が未来予測ができるということについては、いまだ半信半疑ながらも一応のところ理解できなくもないのですが、もしもあなたのおっしゃるように、幸福な予言の巫女である方々が
「それはですね、先ほども申しました通り、ほんの一瞬後とはいえ未来の出来事をズバリとただ一つだけ的中させることなんて、現在最高性能のスーパーコンピュータはおろか理論上真に理想的な量子コンピュータであろうと不可能だからですよ。何せこの世の万物の物理量の最小単位である量子のほんの一瞬後の形態や位置を予測することすらも不可能なのであり、つまりは『この世界の未来には無限の可能性があり得る』という今や小学生でも知っている常識中の常識に則れば、たとえ予知能力を有する予言の巫女であろうが、必ず自分の予言を的中させることなぞ不可能ということになるのです。そこである意味予知能力者の本能として少しでも的中率を高めるために、不幸な予言の巫女である愛明においてはあくまでも自分自身では無自覚に、予測する対象を『不幸な未来となり得る
それってつまりは、不幸の予言が当たれば『不吉な魔女』扱いするくせに、外れたら外れたで今度は『嘘つき』呼ばわりするってわけかよ?
「……どうして娘さんはそんな仕打ちを受けてまで、クラスメイトに不幸の予言なんかをし続けていたのでしょう」
己の教え子のあまりに悲惨な境遇に思わずつぶやく担任教師であったが、彼女の母親のほうはむしろどこか愛おしげな口調で言ってのける。
「あの子って何だかんだ言っても、お人好しなまでに優しいですからね」
「へ? 優しいって……」
「うふふ、そのうち先生もわかりますよ。だってあなたは、これまでずっと、愛明のように自分に対して『不幸の予言』をしてくれる存在を、探し求めてこられたのでしょう?」
「──っ」
それって、僕がどうしようもないまでに、『不幸体質』であることを言っているのか?
──それとも、ここ最近ずっと僕を悩ませている、『あのこと』のほうか?
……自分が『無能』であることを自認しているとはいえ、さすがは幸福な予言の巫女の一族の一員だけあって、やはりこういうことには何かと目敏いというわけか。
「まあ、そういったことも含めて、あの子が学校等の俗世間においてはもちろん、同じ予言者の一族の中にあっても、特異な存在としてみそっかすにされる最大の理由は、何よりも不幸の予言というものが『受動的』であることに尽きるのですけどね」
「不幸の予言が、受動的ですって?」
「ええ。自らの意思で万物の未来の無限の可能性を
不幸な
「あれ? 確か先ほどのお話ではあなたの一族の皆さんは、『夢の中の自分』を起点にして無限に存在し得る『別の可能性の自分』と総体的にシンクロすることで、量子コンピュータそのままに量子ビット演算処理を行うことによって未来予測を実現しているわけだから、あくまでも睡眠中において例えば『予知夢』みたいな形でないと未来を視ることはできず、覚醒中に突然脳裏に
「あら、お忘れになってもらっては困りますわ。先ほども申しましたように我が一族の者たちは、この世の森羅万象ひいては世界そのものの過去や未来や異世界すらも含む、すべての
そこで僕のほうを見て何かに気づいたようにして、延々と続いていた言葉が唐突に途切れる。
「まあ、先生ったら、さっきから全然お手をつけられないから、お茶のほうがすっかり冷めてしまっているではないですか。おほほほほ、ごめんなさいねえ、これも私が長々と話し込んだりしたせいですわね。一応私や娘の一族の話については、ほとんどすべてお伝えいたしましたので、ここいらで一息おつきになってください。今お茶のお代わりと何かお茶菓子をお持ちしますので」
「えっ。いや、別にお構いなく──」
慌てて呼び止めようとするものの、さっさとリビングを出て行ってしまうお母様。
仕方がないので、今目の前に置かれているすでに冷え切っているお茶でも飲んでいようと、もったいない精神にのっとってティーカップを手に取った、
まさにその時であった。
「──そのお茶、飲まないほうがいいわよ」
突然背後から聞こえてきた涼やかな声に咄嗟に振り向けば、リビングの入口にはついさっき
いかにも不機嫌そうでありながら、どこかばつが悪そうにも見える、人形じみた端整なる小顔。
へ? 何でこの子が現れるんだ?
聞くところによると、この半年間ずっと自分の部屋の中に引きこもっていて、小説家であるゆえに基本的に一日中家にいる母親とも、ほとんど顔を合わせたことすら無かったというのに。
「何だよいきなり、お茶を飲むなって。せっかく
そう言いつつ、ティーカップを口元で傾けたところ「──ぶほっ」
……盛大にむせてしまった。
「辛っ! 何、これ⁉」
「……あー。お母さんたら、また砂糖と塩を間違えたわね。いい歳して、相変わらずドジっ子なんだから」
予想外の味わいの深さに目を白黒させている僕へと向かって、心底あきれ返っているかのようにして、ため息まじりに宣うジャージ少女。
「しかしそれにしてもあなたってほんと、絵に描いたような不幸体質なのね」
ほっとけ! …………………………って、あれ?
「……ええと、もしかして不幸体質である僕のことを心配して、わざわざ様子を見に来てくれたってわけなのか?」
「──っ。だって仕方ないじゃない、これほどまでに不幸を背負い込んでいる人を見るのなんて初めてなんだから、とてもほっとけないでしょうが⁉」
そう言うや真っ赤に染め上げた小顔をプイッと逸らす、いわれ無きいじめの被害者の引きこもり少女。
……そうか、そういうことか。
竜睡先生がこの子のことを『優しい』と言っていたのは、こういうことだったのか。
この子ってば、人の不幸な未来が視えるばかりにどうしても黙っていることができず、つい誰彼構わず教えて注意を促さずにはおられなかったんだ。
──たとえその結果、『不吉な魔女』として、忌み嫌われることになろうとも。
「……まあ、あなたもお母さんからいろいろと話を聞いたようだし、私が『不幸な予言の巫女』であることは、十分わかったでしょう? これ以上痛い目に遭わないうちにとっとと帰って、もう私のことなんてほっといてちょうだい。──今までの先生たちみたいにね」
そのようにさもそっけなく言い捨てるや、力なくうつむく少女。
その黒水晶の瞳には間違いなく、諦念と哀しみの色が浮かんでいた。
だから僕は彼女の小さな両の手を力の限り握りしめて、言い放つ。
「いいや、もう二度と放すもんか! 君こそこれまで散々探し求めてきた、僕にとっての救世主なんだ!」
「ちょ、ちょっと、あなた⁉ 私が救世主って、いったい何を言って──」
僕のまったくの予想外の行動に、先ほどよりも更に顔を紅潮させて焦りまくる、目の前の幼い少女。
「──おやおや。小学校教師が自分の教え子に向かって、いきなりプロポーズですか? それはそれは。……通報しますよ?」
………………へ?
そのむしろ穏やかなる女性の声に首をぎくしゃくと振り向かせれば、そこには少女のお母様が笑顔で立っていた。
──右手にこれ見よがしに、ワインレッドのスマートフォンを握りしめて。
「りゅ、竜睡先生? いや、違うんです! 誤解なんです! こ、これは、その──」
「うふふふふ。冗談ですよ、冗談」
そう言ってスマホをスラックスのポケットにしまい込むや、こちらへとゆっくりと歩み寄ってくる、SF的ミステリィ小説家。
「何せ私は
「──っ」
思わせぶりなしたり顔で意味深な台詞を突きつけてきた目の前の女性に、僕は驚愕のあまり完全に言葉を失ってしまう。
この人いったいどこまで、僕のことを見透かしているんだ⁉
「……何よ、お母さん。その人が私のことを必要にしているって。確かにその人が、並々ならぬ不幸体質であることはわかるけど」
「あらあら、何を言っているのやら。あなただって先生と
「──! そ、それは、そうなんだけど……」
またしても顔を赤くして、しどろもどろにつぶやく娘さん。
何だ? 僕と愛明が、惹かれ合っているだって?
次から次へと不可解なる台詞を浴びせかけられたために、すっかり面食らってしまっている僕へと向かって、その時唐突に姿勢を正す、引きこもり少女の母上様。
「そういった諸々の事情を踏まえまして、先生には折り入ってお願いしたいことがあるのです」
「え? 僕にお願いしたいことって……」
「是非とも先生には、娘の──そう、『不幸な予言の巫女の物語』を、書いていただきたいのですよ」
「はあ?」
まったくの予想外の申し出をされて、今度こそ完全に我を忘れて呆然となってしまう僕に対して、その女性は満面に笑みをたたえながら言い放つ。
「何せそれこそが、私の娘を救うことができる唯一の手段であるのと同時に、まさにあなたが現在抱え込んでいる、『最大の懸案事項』を解決することにも繋がるのですからね」
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