最も不幸な少女の、最も幸福な物語

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第一章、プロローグ&本文その一

 この世でたった一羽の燕だけが、知っていました。


 ──人を幸せにできる王子様こそが、本当は誰よりも不幸であることを。




『──ヴェルター中尉。今夜のベルリン急行モスキート夜戦は、フタイチマルマル頃に三番ホームルート3に到着する模様です。至急迎撃に上がってください!』


 俺は管制からの毎夜恒例の、イギリス空軍によるベルリン爆撃に対する迎撃要請を受けるや、愛機である我が第三帝国が誇る最速のシュヴァルベ、世界初の実用ジェット夜間戦闘機Me262Bー1a/U1の発着場へと急行した。


「発進準備は⁉」

JAヤー、中尉。オールグリーンです! 気難し屋のユモ004Bエンジンのコンディションも、最高ゴキゲンであります!」

 俺の最終確認の言葉に、打てば響くように答えを返してくる整備兵メカニック

「……そういえば、今夜からこの機に同乗することになっている、新しいレーダー手はどこにいるんだ?」

「はっ。すでにMe262ジルバーの後部座席に乗っておられます!」

 確かにすぐ目の前に駐機している、夜間戦闘専用機ゆえに複座に改造されている愛機の、後部のレーダー手席へと見やれば、そこにはドイツ人成年男性にしてはかなり小柄な人物が、ぶかぶかの上下一体型の飛行服をその身にまとい、ヘルメットと酸素マスクで完全に顔を隠して、表情すら一切窺わせずに、ただ静かに座していた。

「……今夜からコンビを組むことになった中隊長に対して、挨拶も無しかよ。どうやら俺の新しい相棒パートナーは、余程シャイのようだな」

 俺はため息をつきながらも、さっさと前方の操縦手席へと乗り込むや、キャノピーを閉めてエンジンを始動させた。


『──こちら管制。ヴェルター機、発進どうぞ!』


 ジェット機独特の金属音を鳴り響かせながら基地を飛び立っていく、我が愛機ジルバー

 そうして作戦高度に達して機体を水平に保ち、巡航速度に切り替えたとたん、ヘルメットに内蔵されているヘッドフォンに初めて、レーダー手席からの通信が入った。

『──一度しか言わないから、しっかりと頭にたたき込んで』

 外国訛りのその声は驚いたことに、いまだ幼き少女のものであった。


『私はこの機が敵機から攻撃を受ける場合にのみ、回避のために舵を取るべき方向だけを指示するから、必ず従って。──なお、防御行動以外の索敵や攻撃行動については一切関知しないから、そっちで勝手にやってちょうだい』


 そのように一方的に言い放つや、いきなり通信が途絶え、それ以降はうんともすんとも言わなくなり、完全に沈黙してしまう。

「お、おい⁉」

 ……何なんだよ、まったく。

 今の声って、間違いなく女──それも、まだほんの子供のものだったよな。

 それにしても、索敵や攻撃行動については一切関知しないだって? おいおい、それこそがレーダー手にとっての、最も重要な任務なんだろうが?

 そう。この時点では新たなる相棒パートナーの、あまりに不躾な態度にただただあきれるばかりであったが、俺はすぐに痛感することになるのであった。


 確かに回避行動に関しては、彼女の指示が正確無比であることに。


『──5時方向に回頭!』

「了解!」

『次、3時方向に旋回!』

「──おっと!」


 まさしく次の瞬間、彼女の指示を裏付けるようにして、ほんの今し方まで我々の機体が存在していた空間へと放たれる、敵機からの機銃。

 俺はジェット機ならではの比類なき高速性を最大限に活かし、敵機の攻撃有効範囲よりも外側を大きく回り込んで、あっと言う間に英軍機──それもあまたある連合軍機においても最高性能を誇る、夜戦型モスキートの後ろを取るや、今度はこちらの大口径30ミリ機関砲を容赦なくたたき込んだ。

 すぐさま派手に爆煙をあげて、黒々と立ちこめた雲海の中へと墜落していく敵機。

「ざまあみろ、ブンブンうるさい『モスキート』野郎が!」

『──中尉、浮かれるのは早い。5時方向へ回頭!』

「ほい、あらよっと!」

 こちらが回避したコースを、機銃を放ちながら駆け抜けていく敵機。

 すかさずスロットルを全開にして瞬く間にその後尾に迫り機関砲を浴びせかけるや、今夜四機目の獲物は空中で四散する。


 ……しかし、すごいもんだよな。


 何で敵機が攻撃してくる方角を、こうも完璧に察知することができるんだ?

 いくらレーダーで観測しているからって、この回避指示の的確さは尋常じゃないぞ。

 確かに、あたかも超能力者エスパーだか何だかのように、敵機の攻撃や接近を100%正確に予知できているわけではなく、彼女の回避指示が行われた際に、実際に敵機の攻撃が行われるのは五回に一度か二度くらいのもので、むしろ無駄な指示であることのほうが多いほどであった。

 だがその一方で、、彼女から事前に回避指示が行われていることには間違いないのであり、その証拠に我が機は、この敵味方が入り乱れしかも視界がほとんど利かない、激戦中の夜のベルリン上空にあって、いまだ敵機からの攻撃を一切受けることなく、かすり傷一つ負っていなかったのだ。


 つまり言うなれば、少なくともに関してのみは、すべて取りこぼしなく予測し得ているというわけなのである。


 無駄な回避指示も少なからず含まれていることから、別に完璧に未来を予見しているわけではないようだが、それでも十分神業的な所業と言わざるを得ないであろう。

 それに対して彼女自身が事前に宣言していたように、この未来予知そのものの離れ業を利用して、『まさに今すぐ3時方向へ回頭して射撃すれば、次の瞬間そこへ接近してこようとしている敵機を撃墜することができる』といった、レーダー手にとっての本来の役割であるはずの索敵や攻撃面での指示は、一切行うことはなかったのだ。

 もし仮に彼女に未来の有り様が視えているとしたら、別に不可能なことではないはずなのであって、何とも不可解なことであり、やはりこれは未来予知なぞという超能力の類いによるものではないということなのであろうか。

 しかし俺としては、別にそれでも構わなかった。

 何せ俺はこの夜戦型Me262に乗る以前は、レーダーなぞ搭載されてはおらず、夜間戦闘においては何よりも重要な索敵能力よりも速度と格闘能力こそを優先している、戦闘機であるFw190やBf109を駆って、強敵である夜戦型モスキートと互角以上に渡り合って、多数の撃墜を勝ち取ってきたのであり、その際に用いていたのが『明るい夜間戦闘ヘレ・ナハトヤクト』あるいは『荒くれ猪ヴィルデ・ザウ』と呼ばれる戦法で、味方のサーチライトや高射砲の炸裂光によって照らし出された敵機を肉眼で確認して突撃していくといったもので、レーダーによる索敵を必要としていなかったのだ。


 このようにして、新たなる相棒パートナーによる的確なる回避指示と、自分自身の持ち前の攻撃能力との、絶妙なる合わせ技コンビネーションによって、一晩に難敵モスキートを四機も撃墜するといった、これまでにないハイスコアをたたき出した俺は、意気揚々と発進基地へと帰投した。


 着陸と同時にいち早く地上に降り立ち、期待以上の働きを見せてくれた相棒パートナーをねぎらおうと持ち構えていれば、レーダー手席から降りてくるや、全身をくまなく覆い隠していたヘルメットや酸素マスクや飛行服を次々と脱ぎさった後でさらけ出された、彼女の姿を見るなり、俺は目を丸くし口をあんぐりと開けて呆然と立ちつくすことになった。

 年の頃は十四、五歳ほどか、つやめく長い黒絹の髪の毛に縁取られた小顔は白人種に比べればおうとつが乏しいものの、匠の手によって精緻に作り上げられた人形のごとくこの上もなく整っており、しかも小柄で華奢な肢体はいまだ中性的なまでにほっそりとしているものの、そのなまめかしいまでの白磁の肌は十分に女らしさを感じさせるものであった。


 そして極め付けは彼女がその身にまとっているのが、一片の穢れもない純白のひとにまるで鮮血のごとき緋色の袴という、確か東洋の女性神職である『巫女みこ』独特の装いであったことだった。


「……君ってもしかして、同盟国の日本人ヤパーナなのか?」

「ええ、中尉。御挨拶が遅れまして、申し訳ございません。私は大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍直属の『なか学校がっこう』から派遣されてきました訓練生で、ゆめどりと申します」

 日本陸軍の中野学校って、確か主にスパイ等の特殊工作員の養成を専門に担っているとか何とか、噂されているやつのことか?


 つまりはやはりこいつも幼いなりして、何かしらの特殊技能を──おそらくは夜間の空中戦に適合した、予知能力そのままの高度な索敵能力の類いを有した訓練生で、今回はその能力を実地に検証することを目的にして、今大戦における最大の夜戦の激戦地である、このベルリンへと送り込まれてきたってところだろうよ。


「いやそれにしても、君の的確極まる回避指示には驚いたよ。お陰であの大乱戦の中で一度も敵の攻撃にさらされることなく、まったくの無傷で済むことができたのだからな。いったいどんな離れ業を使っていたんだい? 絶対に明かすことのできない重要機密とかではないのなら、同盟国のよしみで是非とも参考までに教えてくれないか?」

 俺は相棒パートナーの思わぬ正体に対する驚愕からどうにか立ち直るや、先ほどの空中戦の興奮がぶり返し、無表情のままでたたずんでいる巫女服姿の少女へと、意気込んで問いただした。

「別に特別なことなぞ、何もやっておりません。私にはただ、『不幸な未来ビジョン』が視えているだけなのです」

「へ? 不幸な未来ビジョンって……」

「実は私は人に振りかかる災厄のみを予見することができるという、我が国独特の術者の一族の血を引いておりまして、その能力を買われて中野学校に形ばかりとはいえ籍を置いて、こうして現在夜間戦闘における有効性を、実地に修練しているといった次第なのです」

「人の災厄を予見できるって、マジかよ⁉ いやそれにしても、そんな力が、さっき君が実際に披露して見せてくれた尋常ならざる回避指示と、どう関わってくると言うんだ?」


「実を申しますと、私は先ほどの空戦の間中ずっと、未来ビジョンばかりを視ていたのですよ」


「なっ⁉」

 唐突にとんでもないことを言われて絶句する俺を尻目に、当の巫女少女のほうは相変わらず泰然とした無表情のままで、滔々と語り続ける。


「ただしそれはあくまでも、将来実現し得るに過ぎないのですけどね。なぜならほんの幼子でも知っているこの世の常識として、『未来には無限の可能性があり得る』のですから。実はたとえ未来予知の術者といえども、唯一絶対の未来をズバリと言い当てることなぞ不可能なのであり、まさにそれは私の回避指示においても、むしろ実際には何ら攻撃が加えられることのなかった、無駄な『ハズレの指示』のほうが多かったことからも明らかでしょう。しかしたとえハズレの指示が含まれているとはいえ、をとりあえずすべて回避しておけば、実際に攻撃を食らってしまう未来を一つ残らず事前に潰せることになり、今回のようにあの大乱戦の中でかすり傷一つ負わずに、文字通り無事に済ますことができるというわけなのです」


 ──そうか、そういうことか。

 未来には自機の攻撃が敵機に命中する未来も命中しない未来もあり得るし、敵機の攻撃が自機に命中する未来も命中しない未来もあり得るのだが、もし彼女が本当にを視ることのできる本物の予知能力者であれば、俺が攻撃を受けて死んでしまう未来も視えているわけだから、俺に攻撃指示を与えることはけしてできないってことになるけど、それに対して敵機からの攻撃に対する回避指示に限るのであれば、結局は外れてしまう未来をも含めて、攻撃を受けそうな場合はとりあえず、全部避けておくように指示を行えば、結果的に実際の攻撃をすべて避けることができるって次第なんだ。

「ということはもしかして、俺が君の言うことを信じないで、回避指示に全然従わずにいたら……」


「敵機の弾幕を浴びて、今ごろあなたはこんがりとローストされた肉塊と変わり果てていたことでしょう。──私やこの機体を道連れにしてね」


 ──っ。

「……君はいったい、何者なんだ? 単なる日本陸軍の特殊工作員の養成学校の、訓練生であるってだけじゃないんだろ?」

 その時、これまではずっとまるで能面のごとき無表情を貫いていた少女の端整なる小顔に、初めて笑みらしきものが湛えられた。

 あたかも鮮血のごとき深紅の唇に浮かんだその笑みは、一見どこか死の女神であるかのように禍々しくもありながら、その一方で同時に天使でもあるかのように、この上なく純真無垢にも見えたのだ。


「私は人呼んで『こうげん』──そう。人の不幸しか予知することのできないという、この世で最も忌まわしき化物、『くだん』の化身なのです」


   ☀     ◑     ☀     ◑     ☀     ◑


「……また、この夢か」


 寝汗でびっしょりと濡れたパジャマに包まれた、上半身をベッドの上で起こしながら、はその時ひとりごちた。


「何で僕はこうも何度も、人に少女の夢ばかりを見るのだろう」


 ──やはりそれもこれもすべては、あの不憫な少女の担任教師となり、公私共に深く関わっていくようになってしまったからであろうか。




  一、くだんのむすめ



 僕たちが記念すべき初邂逅を果たした時その少女は、真っ昼間から窓やカーテンをすべて閉め切った薄暗い部屋の中で、まるで作り物の人形や物言わぬ屍体であるかのように、ただじっとパソコンのモニターを虚ろなまなこで見つめていた。


 都内でも有数の閑静な住宅街の広々とした4LDKの一軒家の、二階の総面積のほぼ半分ほどを占めている、小学五年生の女の子の個室にしては少々広過ぎるように思わなくもない、絨毯を敷き詰めた十二、三畳ほどのフローリングの洋室。

 ただしその床一面には足の踏み場のないほどに、無数の小説や小難しそうな学術書の類いやネットゲームの攻略本等が乱雑に積み上げられており、更にはベッドの上すらも、お菓子の空き箱や空のペットボトルや、下着さえも含む着古された衣服が無造作に放り出されているといった、まさしく混沌カオスを体現した有り様となっていた。

 しかもこうして部屋の中に、まったく面識の無い成年男性が入ってきたというのに、一顧だにせずに、まるっきり洒落っ気のないジャージをいまだ幼き十歳ほどの矮躯にまとって、パソコンデスクにかじりついているその様は、まさに典型的な『引きこもり』以外の何者でもなかった。


 ──この子があの噂の、ゆめどりか。

 こりゃあ思っていたよりも、かなり重症のようだな。


 この子の母親が言っていたように、とても今すぐコミュニケーションをはかれそうにはないぞ。

 しかたない、今日のところはひとまずこのまま様子見だけにしておいて、退散することにするか。

 僕があまりに予想外の惨状を目の当たりにさせられたために、心の中でそのようにつぶやきながら踵を返して、部屋を出て行こうとした、

 まさに、その刹那であった。


「──ねえ、どうしてあなたって、そんなにまで、『不幸』ばかりを背負しょい込んでいるの?」


 突然耳朶を打ったか細い声に思わず振り返れば、これまでずっと微動だにすることもなかった少女が、こちらを見つめていた。


 黒絹の長い髪の毛に縁取られた日本人形そのままの端整な小顔の中で、あたかも僕の心の奥底までも見透かしているかのように冷然と煌めいている、黒水晶の瞳。


 そんな、まさか⁉

 半年前に登校拒否を始めてこうして自分の部屋に引きこもって以来、母親にすらも口をきくどころかほとんど反応を示すこともなかったとの話だったのに。

「な、何だよ、人の顔を見るなり、不幸ばかりを背負い込んでいるとか何とかって。失礼過ぎるだろうが?」

「だって、これまでずっと人の不幸を見てきた私ですら、初めてですもの、これほどまでに、不幸に取り憑かれている人を見るのって」

「──っ」

 ……まさかこの子、『本物』なのか?


『人の不幸ばかりを予言する、不吉な魔女』だなんて、てっきり単なるいじめまがいの誹謗中傷の類いであろうと思っていたんだけど。


 ──もしかしたらこの子こそが、僕の現在における最大の悲願を叶えてくれる、『救いの女神』だったりするんじゃないだろうな。


 そんな心中の動揺をごまかすかのようにして、あえて僕はいかにも思わせぶりな言葉を口にする。

「……そりゃあ、そうだろうよ。何せ僕は今まさに、この上なくやっかいな、不幸を背負い込んだばかりなんだからな」

「何よ、自覚があるわけ? それなのにそんな平気な顔して、何ら手を打とうとしないなんて。あなた自分から、不幸になりたいの?」

「仕方ないだろう? それが僕の仕事なんだから」

「仕事って──いやそもそも、あなたいったい誰なの? 何で私の部屋の中にいるの?」

 ……おいおい。今更それを聞くのか? もっと早く疑問に思えよ。

 まあいい機会だし、ここでちゃんと自己紹介しておくか。

 そして僕は姿勢を正すや、こちらを訝しげに見つめている少女に向かって言い放つ。


「初めまして、夢見鳥愛明君。僕はこの四月から君の担任になった新任教師で、あかつきゆうという者だよ。これからよろしくな」


 そう。僕がこの春に、念願叶って教師になって初めて赴任した職場において、さっそく背負い込んだ災厄こそが、今目の前にいる、この半年間ずっと登校拒否をし続けているという、我がおお区立田園英雄でんえんえいゆう小学校始まって以来最大級の、問題児の少女であったのだ。


   ☀     ◑     ☀     ◑     ☀     ◑


「──いやあ、さんのお母様がプロの小説家であられることは存じ上げていたのですが、まさかあのミステリィ作家として御高名な、りゅうすいカオル先生だったとは驚きですよ」


 広々とした庭に囲まれた三方の壁面いっぱいに設けられた窓から、春の陽光が燦々と降り注いでいる、いかにも開放感溢れる十五、六畳ほどもある一階のリビングにて、このもはや豪邸と言っても差し支えのない、二階建ての一軒家の家主である女性と、お互いに自己紹介を終えるや、僕はその時思わず驚嘆の声をあげてしまった。


 顎のラインに沿って切りそろえられたつややかな黒髪に縁取られた、いかにも知的で快活そうな眉目秀麗な小顔に、清楚にして活動的な純白のブラウスと紫紺のスラックスに包み込まれた、一見ほっそりとしていながら出るところは出ている女性らしい白磁の肢体。

 そして極め付けに、二十代半ばか下手すれば二十歳はたちそこそこにも見えかねない若々しさすらも誇っている、先ほどから応接用のソファの正面で栗色の瞳をいかにも人懐っこく輝かせながら僕のほうを見つめている、とびっきりの美人さんではあるのだが、実は何と彼女こそが先ほど対面したばかりの、あの陰鬱極まる引きこもり少女の愛明嬢の正真正銘実のお母上である、ゆめどりさんであったのだ。


 しかも驚いたことに、今話題のベストセラーSF的ミステリィ小説家にして、僕にとっての長年のあこがれの的だった、竜睡カオル先生でもあられたなんて。


「──いえいえ、それはこちらの台詞ですよ」

 僕の心からの感嘆の言葉を聞くなり、目の前の美人な母上様は、ティーカップをガラス製のテーブルの上に置きながら、少しも偉ぶることなく、むしろ親愛の情の溢れる笑みすらも浮かべた。

「この春から娘を受け持ってくださることになった担任の先生が、私の熱烈なるファンで、これまで何度も熱心なファンレターを送ってくださっていた方だったことに、驚いたのはもちろん、その上何と現在インターネット上で噂の謎のネットオンリーのミステリィ作家の、うえゆう先生であられたとは。私こそ以前からずっと先生の作品のファンでしたのであり、こうしてお会いできるなんて光栄ですわ」

 ……へ?

「そ、そんな、竜睡先生が僕なんかのファンだなんて。それに『先生』はやめてくださいよ、恐れ多い。何せ公立小学校の教師は兼業厳禁であることもあり、れっきとしたプロであられるあなたとは違って、あくまでもネットオンリーの素人作家でしかないんですから」

「あら、娘の担任教師であられるあなたを、母親である私が『先生』とお呼びして、何がおかしいのです?」

 あ。

「そ、そうか。それもそうでしたね。あはははは」

「うふふふふ」

 朗らかな笑声に包み込まれる、昼下がりのリビング。

 ほんと、噂によると、血筋的にはれっきとした旧家のお嬢様であるらしいのに、何とも明るくて親しみやすい人だよな。

 あの引きこもり少女の実の母親とは、到底思えないぜ。

 ……まあ、顔の造作における、その類い稀なる美貌のほうは、確かに瓜二つと言っていいほどに、よく似ているんだけどね。

 それにしてもただ美人なだけではなく、この若さは尋常じゃないよな。とても小学五年生の娘がいるようには見えないよ。

 まさか自分のあこがれの小説家の先生が、これほどまでに好みのタイプの女性で、しかも自分が受け持っている生徒の母親で、おまけにその子が引きこもっているせいで、これから何かと接触する機会が期待できるなんて、何という役得であろうか。小学校の教師になって、本当によかった!


 ──って。いかんいかん。


 浮かれてばかりいて、『本題』を忘れるところだった。

「……いやしかし、本当にひどい話ですよ。娘さんのことを、『人の不幸ばかりを予言する不吉な魔女』であるなどと決めつけて、誹謗中傷して、クラスの生徒全員どころか当時の担任まで一緒になって、腫れ物扱いにして完全にハブるという、いじめまがいなことをするなんて。愛明さんが半年前からずっと、登校拒否をし続けられているのも、無理はありませんよ。僕自身はこの春から、新たに娘さんの担任になったばかりとはいえ、学校関係者の一員として慚愧の念に堪えません。──本当に、申し訳ございませんでした!」

 そう言ってテーブルに手をつき深々と頭を下げるや、その被害者の母親はなぜか、むしろ自分のほうこそが悪いとでも言わんばかりに、どことなくすまなそうな声音で取りなしてくる。

「そんな、どうぞ顔をお上げください。先生が謝られることなぞ、何もないのですから」

「で、でも、我々教師や他の生徒たちは、あることないこと言いがかりをつけて、娘さんのことを傷つけてしまったわけですし」

「そのことなんですが、先生」

 そしてその時目の前の女性は、いきなり姿勢を正したかと思えば、驚天動地の言葉を言い放つ。


「私の娘である夢見鳥愛明は、正真正銘本物の『こうげん』なのですよ」


 …………………………は?

「……不幸な予言の、巫女って」

「ちなみに先生は、私の『カタリベ』という作品を、ご覧になったことがありますか?」

「へ? ──ああ、はい。もちろんです。何せ先生がプロデビューに先駆けて発表なされた、ネット小説における処女作であり、それが瞬く間に大好評を博したことにより、すぐさま商業誌化されて大ベストセラーを記録し、一躍世間にSF的ミステリィ作家『竜睡カオル』の名を知らしめることになった、記念すべき作品ですからね。実を言うと僕もネット上で発表された際に拝読させていただいて、これまでにない感銘を受けたからこそ一気に大ファンになり、自分自身もネット作家になることを決意したくらいですし」


「実はですね、あれは『実話』なんですよ」


「は?」

『カタリベ』が、実話って……。

「ちょ、ちょっと待ってください! それって『カタリベ』が、実際に起こったことを基にして書かれているってことですか⁉ だってあれって、『ゆめ巫女みこひめ』と呼ばれる、文字通り全知とも言うべき予知能力を持った双子の姉妹と、『かた』と呼ばれる、小説に書いたことを何でも実現することのできる男性との、数奇なる物語を描いた、SF小説的テイストを大胆に取り入れた、和風幻想ファンタジー作品だったではないですか⁉」

「もちろん実話と言っても、何から何まですべてが実際に起こったことというわけではなく、そこはあくまでも創作物フィクションということで、いろいろと脚色をしていますけどね。そもそも私も娘も全知ではないのはもちろんのこと、双子ですらないし、それに、小説に書いたことを何でも実現することができるなぞという、それこそ神業的な力をお持ちの人物に、お目にかかったことなどありませんでしたからね」

「だ、だったら──」


「それでも間違いなく、私と娘は『こうふくげん』と呼ばれる、予知能力を有する一族の出身なのですよ」


 なっ⁉

「予知能力を有しているって……」


「ええ。私たちの一族はいにしえの昔から、この国の中枢を担う権力者たちに密かに仕えて、どのような未来でも見通すことができるという異能の力を駆使することで、歴史の裏舞台で暗躍してきたのであり、その結果現在においては並々ならぬ権力と財力を有することになり、政府公認の自治権を与えられた某県の人里離れた山奥の隠れ里にて、人知れず暮らしておるのです。──とはいえ、私自身に関して言えば、予知能力の類いをまったく持たずに生を受けた『無能』の身であったために、一族の里からほっぽりだされることになってしまい、こうして俗世間で気ままに小説家なんかをやっておられるのですけどね。──ただしそれも愛明が生まれるまでの、ほんの一時だけの仮初めの平穏に過ぎなかったのですが」


「え? 愛明さんが生まれるまでって……」

「何の因果か娘である愛明のほうは私とは違って、皮肉なことにもことさら強力な予知能力を授かって、生を受けてしまったのです。──それも、一族にとっては最大の禁忌である、あたかも伝説上の人面牛体の忌まわしき化物『くだん』そのままに、『を予知する力』をね。もしも私があのまま一族の里に居続けて、そこで愛明を生み落としていたのなら、おそらくあの子は闇から闇に葬り去られていたことでしょう」

「──‼」


 人の不幸ばかりを予知する力、だって?


 それじゃあ、去年までの彼女の担任やクラスメイトたちが言っていたことは、単なる誹謗中傷なんかではなく、本当のことだったわけなのか⁉


「──いやいや、ちょっと待ってください。話の内容の深刻さのあまり危うく流されそうになったけど、そもそも『幸福な予言の巫女』だか『不幸な予言の巫女』だか知りませんが、未来を予知する力なんてあり得るわけがないでしょうが⁉」

 長々と続いた美明さんの話を聞き終えるや、僕はいかにも堪らずといった感じで、彼女に向かって問いただした。

 しかしそんな僕の至極当然の言い分に対する、目の前のミステリィ作家の眼鏡美人の返答は、更に意表を突くものであった。


「あら、そんなことはありませんよ? 何せいわゆる『しゅうごうてきしき』にアクセスすることさえできれば、予知能力はもちろん、どのような異能だって実現することができるのですからね」

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