第16話 既知との遭遇
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環奈は、実家である北海道空知郡の
「実家」という言葉など使いたくはないが、他にどう表現すれば良いか分からない。家を出て以来、全く連絡を取っていないが、そこにはまだ養父の折茂学がいるはずだ。
彼女や神威に対する性的虐待が突然止んだ日から、「他の子どもたち」の姿も見なくなった。けれども環奈は、彼らがどうなったかは考えないようにしていた。いや、恐ろしすぎて考えたくないといった方が正確だろう。そしてあの偽物の父親が、またあの悪夢のような児童買春斡旋事業を再開しているどうかは、想像したくもなかった。
札幌駅からJRの千歳空港行き快速エアポートに乗り、乗換え地点の北広島駅を目指す。流線型の最新式車両の窓を埋め尽くす広大なジオラマも、彼女の心を晴れさせてはくれなかった。
最初の移住者たちが広島出身であった事からその名がついた北広島市は、札幌に隣接するベッドタウンとして成長してきた。『宗谷トンネル』の開通に伴い札幌が国際観光都市として再開発されると、北広島もまた急激な経済発展を遂げる。
改修と増築を繰り返した北広島駅だったが、ガラス張りでアーチ形の天井というデザインだけは今も変わっていない。しかし駅構内には様々なカフェやファーストフード店が新たにオープンしており、休日ともなると多くの家族連れが訪れていた。
駅の外にあるロータリーからバスに乗れば、三十分ほどで南幌町だ。
「その前に、何か食べとこっかな……」
環奈は最近外食が多くなっていた。毒殺魔である不死身男に狙われているからだ。ランダムに選んだ店で食事をすれば、少なくとも食べ物で毒殺されるリスクは回避できる。彼女は周りにあのフードを被った黒いダッフルコートの姿がないことを確認すると、安さと速さが売りのバーガーショップに入っていった。
その環奈を、ニット帽を目深に被った男が後ろから観察していた。
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「……何してるんです? 先生?」
「いや、これはその……違うんだ美里くん。君の考えてるようなことじゃない」
「一般女性に対するストーカー行為ではないと? では何故ここにいるんです? 今日はお休みのはずでは?」
「きっ、君こそ何故、北広島駅にいるんだ? 家の住所は札幌市内では?」
「実家は北広島なんです。前にもしつこく聞かれたので、渋々お教えしたことをお忘れで?」
「あっ、なるほどねー……」
「それで? そのいかにもストーカーですといわんばかりの格好はなんですか? ニット帽にジャンパーとサングラスって、そのままコンビニに入ったら通報されますよ? それに何故この北広島駅にいらっしゃるんです? 私に出会って驚いていたということは、誰か別の女性を付け回していたんでしょう?」
「その点に関しては、なんと言えばよいか、表現が難しい所でありまして……」
「どこの政治家の真似です? 冗談だとしても、あまり笑えないですね」
南幌町に向かっているということは、彼女が「真相」に近づいているということでもある。あの折茂の家に行くなら、不死身男だけでなく折茂の手下どもも彼女の命を狙うかも知れない。護衛は間違いなく必要なのだ。
そうやって金龍が美里に言い訳をしている間に、環奈は忽然と姿を消していた。
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雨竜警部補は、部下と交代しながら折茂環奈を尾行していた。
いや、正確には、「折茂環奈ではない誰か」をだ。
彼女が何者であれ、現在『不死身男』に狙われている事は間違いない。逆に、もし彼女を殺しに現れた不死身男を逮捕出来れば、その動機から「折茂環奈ではない誰か」が何者なのかが分かるかも知れない。まさしく一石二鳥だ。
だが、雨竜はもう一つ疑問があった。『不死身男』と『
もし『不死身男』=『
思考の堂々巡りによって、雨竜はほんの少し環奈から目を離していた。しかしその一瞬の間に、彼女は消え去っていた。
バカな。有り得ない。
環奈はさっき食べ物のトレーを受け取ったばかりだ。それをどこかに放りだして突然ダッシュで逃げたというのか? そんな大胆な動きを見逃すはずない。
瞬時に辺りを見回した雨竜は、彼女が先ほどまで持っていたトレーがテーブルに置かれているのを発見した。飲み物のコーヒーからは湯気が立っている。つまり、まだ遠くへは行っていない。更にその席はトイレのすぐそばだった。
――トイレに行っただけか? それにしては、行動が素早過ぎるような……。
そのトイレに向かって、ニット帽を被りジャンパーを着た男が全速力で走っていく様子が、雨竜の目に写った。
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――息が、息ができない……。
注文したバーガーのセットを受け取ってテーブルに置いたはずだったが、環奈はいつの間にか男女共用の障害者用トイレの中にいた。突然後ろから手を引っぱられたかと思うと、視界が黒くなり息も苦しくなったのだ。たぶん、何かタオルのようなもので目と口をふさがれたのに違いない。
目の部分は少し隙間があってトイレの鏡が見えたが、口は相変わらず猿ぐつわをされているみたいだった。
「ぴーぴー騒がんといてな。あんま暴力は好かんのやけど、大人しくさせんとあかんくなるやん? お兄ちゃんは、聞き分けの良い子が好きやねんで」
聞き覚えのある声だ。と、何故か環奈はそう感じた。だがその声が関西弁を喋っていることが不思議でもあった。北海道から出たことのない環奈には、関西人の友人はいないのだ。会社や大学でも、関西出身の人間と会話をした記憶は極めて少ない。
――じゃあ何で、何でこんなに懐かしい感じがするの?
「今から、目隠し外すで? 騒いだらその瞬間に、あの世行きやからな……?」
それはドスの聞いた声でも何でもなく、むしろ柔和な印象すら受けたが、その響きには有無を言わさぬ説得力があった。
男は、アーミーナイフを持って立っていた。
その顔を見た瞬間に、環奈は凍り付いた。
彼の顔は、義兄の「折茂神威」そのものであった。
「……どないしたん? 環奈。愛しい愛しい、お兄ちゃんやで?」
男は、歪んだ笑みを浮かべた。
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