第15話 カスパー・ハウザーの故郷

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「そんな、息をしてない……心臓も! 環奈っ! 環奈ぁっ!」

 叫びながら環奈の小さな体を揺すり続ける神威を、切れ長の目をした顔色の悪い男が強引に引き下がらせた。養父の折茂学が、彼女の瞼を指で開いてペンライトの光を当てた後、手首を掴んで脈拍を取る。

「ふむ……瞳孔反射もない。午後二十二時十五分、ご臨終だな。つまり死んだって事さ。医師免許を持つ私がいうのだから、間違いない」

「嘘だ……嘘だぁっ!」

「そんな、ワザとじゃない。殺す気なんてなかったんだ……」

 折茂の『顧客』が、取り乱した様子で言い訳を口にする。

「いやいや、お気になさらずに。激しいプレイをすると、よく起ることです。こちらで適当に処分しておきますので、安心してお帰り下さい」

「環奈ぁぁっ!」

 環奈が。俺の環奈が。俺の全てで俺の生きる意味で可愛くて天使でもう居なくて冷たい嘘だ折茂殺すニセモノの癖にもう居ないもう居ないもう居ない何の意味がどうして何でだよ何で生まれてきた環奈環奈人の幸せはどう決まるの生まれた時に決まってる……。

 ――生まれた時に、俺たちはもう終わっていた。

「あああぁぁあぁぁあぁあああああっっーーっっ!!」

 耳をつんざく絶叫の後、神威は倒れた。

「おやおや……これは、失敗だったかな? それとも、『大成功』だったかな……?」

 折茂は、切れ長の目を更に細めて笑った。

 暗黒へと落ちていく神威の意識の中で、新しい「何か」が、この時確かに生まれた。


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「誰ですか? 『折茂環奈』って?」

「おや、珍しいねー美里くん。嫉妬ってヤツ?」

「気持ち悪い勘違いですね。違います。ただ、もし一般の女性にまでストーカー行為を始められたなら、通報しておくのは市民の義務かなと思いまして」 

 林金龍リンジンロンは、環奈に関する探偵の報告書を、机に出しっぱなしにしていたことを後悔した。秘書の林美里はやしみさとに見られてしまったからだ。

「まるで僕が、いつも君をストーキングしてるみたいな言いぐさだねー」

「その通りですが?」

「あの、確認しときたいんだけど、僕が雇用主で、君は雇われた専属秘書だよね?」

「誠に遺憾ながら、その通りです。パワハラ、セクハラ、モラハラの三重苦で毎日辞めたくて仕方ありませんが、まだ辛うじてあなたが雇用主ではありますね」

「ちょっとは歯に衣着せて欲しいね。まぁ美人だから許すけど。ところで『リン』と『はやし』って同じ漢字だよね。何か夫婦みたいで、運命感じない?」

「札幌の労働基準監督署はすぐそこですよ?」

「いや、あの……すいませんでした……」

「よろしい」

 いつものやり取りで誤魔化すことができ、金龍ジンロンは胸をなで下ろす。

 彼は画家だった。それも、一流といって差支えない程の。

 クリスチャン・ラッセンとまではいかないが、同じように美しい地上の自然の中に水生動物を泳がせる幻想的な絵画を描き、世界的にも評価は高い。中国人の彼は、現在は日本の札幌に拠点を置いており、その作品は香港やアメリカ、ロシアでもオークションに出品されていた。

 この海外での取引や画廊との連絡を一挙に引受けてくれているのが、秘書の林美里だ。彼女は国際秘書検定に合格しており、英語・中国語・ロシア語にも堪能で、美術界の知識もある。そう、正直にいえば優秀すぎるのだ。今は一旦引き下がってくれたが、彼女が事の真相に気付くのは時間の問題だった。

 『無痛症』の岩島鴎と、『交渉人』の堺慶一が死んだ。

 『不死身男』に殺されたのだ。

 奴が今、環奈を狙っている事は明白だ。何の気まぐれかは分からないが、一般人を無差別に殺戮するのは止めて、環奈にターゲットを絞ったらしい。今札幌には、『アーサー』を除けば自分しかいない。道警の刑事部長である彼を直接護衛に動かす訳にはいかないし、『脱獄王』と『爆弾魔ボマー』は檻の中だ。『暗殺者イヴァン』は日本にすらいない。

 『家族ファミリー』の中で、今動けるのは自分だけだ。荒事は全くの専門外だが、やるしかない。

「美里くん? あれ持って来てくれない?」

「どうされました? 遂に痴呆症になられましたか? 「あれ」で私が理解できるとお思いで? 口座の暗証番号とか思い出せます?」

「そこはほら、熟年夫婦的な勘で何とかしてよ。てか何どさくさに紛れて僕の財産を奪おうとしてるのさ。あの、気分落ちつけたい時やる「あれ」だよ」

「あぁ……かしこまりました」

 美里は、果物とペンタブレットを持って来てくれた。広い部屋の中には彼の絵画の他、高級木材のマホガニーで作られたデスクと椅子がある。ここは主に事務作業をする場所だが、アイディアに詰まった際にはこうやってペンタブレットに静物画を描いたりもする。金龍のある種の習慣だった。

 深呼吸すると、果物のデッサンを始める。

 彼は実は、本当に林美里が好きだった。

 雇用主と秘書という関係上、真剣に口説きにいけば、上下関係による圧力が生じてしまう。だからいつも冗談めかしている。傷つきたくないし、彼女を傷つけたくない。今のままの関係を、続けていたいのだ。

 だがもう、それは終わりにしなくてはいけない。

 『不死身男』と戦う以上、いつ死ぬか分からないからだ。

 彼女の身の安全を考えると、もう彼女を解雇した方が良い気もする。海外との取引に壊滅的な打撃を与えるかも知れないが、金ならそれなりに貯まってはいる。

 「生まれ変わった」後の人生で、恐らく金龍は『家族ファミリー』の中で一番の成功を収めていた。一番金持ちになったという事ではなく、好きな分野で仕事を持ち、楽しんでいるという意味で。しかしそれでも、神威や環奈を守る為なら全てを捨てられる。

 ――それが自分が、自分たちが生まれた目的だから。

 ならば、『不死身男』の目的は何だろう?

 彼は環奈や神威を殺して、どうしたいんだ?

「って、うわぁああぁーーっっ!」

「どうしました? 先生?」

「みかん! 果物の中にみかんが入ってる! 僕がみかんアレルギーだって、美里くんは知ってるでしょ!?」

「あぁ、そうでしたね。でもそれは、みかんじゃなくてオレンジだし、第一、食品サンプルですよ? あっ、鳥肌たってる。本物じゃなくても反応するんですね」

「もう、どっちがパワハラだよー。 美里くんの方がモラハラしてるでしょ!」

「ごめんなさい。……でも、さっきのお返しです。これでおあいこですよ?」

 彼女は、いたずらっぽい笑顔で笑った。

 こういうことをされるから、完全に嫌われてはいないと分かる。希望を持ってしまう。

 やはり、早めに彼女を解雇しようと、心に決める。

 『不死身男』との戦いに、彼女は巻き込めない。

 自分は『家族ファミリー』の『芸術家』。

 芸術家は、孤独なままでいい。


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「どういうことだ……?」

 道警捜査一課の雨竜警部補は、デスクに埋め込まれたタブレットで折茂環奈の過去の資料を読み込んでいた。

 『不死身男』と彼女の義兄「折茂神威」の顔が似ていることは気にはなったが、不死身男の顔はフードで隠れていてはっきり見えた訳ではないし、自分の勘だけに頼るのも危険だ。どちらにしろ、彼女の過去を探ればおのずと義兄の神威のことも調べられる。しかしその環奈の資料に、不審な点が見つかったのだ。

 小学校の卒業アルバムには彼女の写真が載っている。高校のアルバムにもだ。そしてそれらの写真は、現在の環奈の特徴と一致している部分が多く、同一人物の幼い頃の写真だと認識できる。

 だが彼女の中学時代の写真に関しては、ただの一枚も残っていないのだ。

 彼女が地元の中学校に所属していた記録は残っていて、卒業した記録もある。しかしそれはあくまで文字としての記録であって、彼女の写真はない。加えて聞き込みの結果、中学時代の彼女を覚えている人間も一人もいないことが判明したのだ。

 一体これはどういうことなのか?

 何故中学時代に、こんな「空白期間」が存在するのか?

 たまたま印象が非常に薄く、更にたまたま写真も残っていないという訳か?

 いや、有り得ない。ただの思い出のアルバムならともかく、卒業写真のクラスのページには、クラス全員の名前を明記した顔写真が、最低一枚は載っているはずだ。それすらもないなんて……名前の欄さえないなんて、どう考えてもおかしい。

 ――彼女は、折茂環奈という女性は、本当に存在していたのか?

 これが矛盾した考えだということを、雨竜は自覚していた。存在しているからこそ、現在折茂環奈は不死身男に狙われているのだ。いや、そもそも小学校の頃の環奈と、現在の環奈は同一人物なのか? 中学の頃に、何かが起きたんじゃないのか?

 何かって、何だ?

 雨竜は少し混乱していたが、彼の疑問を確かめる術はあった。それは、DNA鑑定だ。

 現在の環奈と、生まれた頃の環奈のDNAを両方採取して調べれば、彼女が中学以前の彼女と同一人物であることが証明できる。幸い、事情聴取の際に折茂環奈のDNAは採取してある。彼女が触れた物に残った皮脂を手に入れておいたのだ。科学が発達した今の時代、微量の皮脂からでも充分な量のDNAが取れる。

 本人の同意を得ていない為、裁判の証拠としては使えないが、いつか捜査方針を決める時に役立つと思い保存しておいたのである。

 あとは、中学以前のDNAを手に入れれば良い。出来れば、赤ん坊の時のDNAを……。

 そうか、乳児院だ。

 折茂環奈は孤児だ。ならば、そこに何らかの記録が残っているかも知れない。特に『医療革命』以降は、乳児のDNAを検査し遺伝病を早期に発見することも、一般的に行われている。

 雨竜は早速、乳児院からデータを引き出す為、各種の許可を取りに動き出した。


 究極の個人情報ともいえるDNAだが、その鑑定技術の進歩に比べて、法制度の整備は遅々として進んでおらず、穴だらけだった。

 裁判では判例によって「被疑者に無断で採取したDNAは証拠として扱えない」とされているが、逆にいえば容疑者に一方的に通知さえすれば許可を得ずとも採取できるし、裁判で使わないのであれば通知する必要すらない。

 実際警察によるDNA採取を制限する法律は未だ確立されておらず、現在では五百万件に及ぶ「警察庁DNAデータベース」が構築されつつある。このデータベースは憲法違反ではないかという意見もあるが、近年の日本国内の治安悪化によってその声は黙殺されていた。

「なんてこった……」

 雨竜は折茂環奈の乳児院でのデータを引き出し、警察科学研究所に鑑定を依頼した。その結果が出たと連絡を受け、直接研究所に聞きに来たのだ。

「この結果、正確なんだろうな!」

「何を興奮してるんですか? 間違いありませんよ。近年の鑑定技術の向上を舐めないで頂きたいっすね。ところで、これなんの事件の被疑者なんです?」

「被疑者じゃねぇよ……」

「はぁ?」

 雨竜は、後輩の研究所員を無視した。

「九九・九九%の確率で、別人だって……?」

 乳児院時代の折茂環奈と、現在の折茂環奈は違う人間だってことか?

 ならば一体……。


 ―― 今、「折茂環奈」と名乗っている彼女は……何者なんだ?

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