第14話 サハリン0

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「今更な疑問なんですけど、危なくないんですかね? 宗谷トンネルって」

「何がさ?」

 神威は少し震えながら、赤平にそう聞いた。攻撃的な程の風は、容赦なく体温を奪う。

「いや、ロシア軍がトンネルを通って攻めてくるって噂を聞いたんですよ」

「そりゃ有り得ねぇな。トンネル内でも、日本の経済水域側にはセンサーと監視カメラがうじゃうじゃしてるし、出口には自衛隊ご自慢の自動監視システムもある。それに単純に侵略したいだけなら、ロシア軍の誇るホバークラフト型高速揚陸挺や攻撃ヘリを使った方がよっぽど速く侵略できるさ。密輸や密入国だって、広い海岸線からの方が格段に楽だ。他国と地続きになるのが初めてだから、みんな神経過敏になってるだけだべ」

「あぁ、なるほど。納得いきました」

 サハリン北東部の港町「ノグリキ」から出港した砕氷船のデッキで、二人は他愛のない世間話をしていた。時折ぶつかる流氷とそれを砕く音が、今オホーツク海にいる事を実感させてくれる。青空は美しいが、ロシア製の帽子や裏起毛のコートがなければ、とても耐えられる寒さではない。

「本当に良かったのか? もう引き返せねぇぞ?」

「いいんですよ。日本に戻ったって、帰れる場所なんてないですし……。それに散々脅されましたけど、赤平さんはこうして生きてるじゃないですか」

 どちらにしろ、ここで引き返す訳にはいかない。借金なんかで環奈に迷惑をかけるなら、文字通り死んだ方がマシだ。と、心の中で付け加える。

「あのなぁ……。まぁお互いに、訳ありってことか」

「それに、張さんは悪そうな人じゃなかったですし」

「チョウさん? 誰だそりゃ?」

「サハリン・ハイドレード社の人事の方です。中国人で、正確には張三さんなんですけど」

「その名前、どんな漢字だ? もしかして、『張る』に漢数字の『三』か?」

「そうですけど、どうして分かったんです?」

「ふざけた名前だな……。『張三』ってのは、中国語で『名無しの権兵衛』って意味だわ。完全に騙されたんだな。兄ちゃんは」

「そんな……」

「元から、サハリン・ハイドレードなんて会社は存在しない。ダミー会社だ。今から行く場所では、メタン・ハイドレードの採掘なんてやっちゃいないのさ。……もうここまで来たら、喋っても大丈夫だな……」

 赤平は辺りを見渡し、ピアスとスマートリングを外した。

「これは、おそらく盗聴器と多角カメラだ。超軽量で薄型のな。明確に説明されてるわけじゃないが、海上施設やノグリキにある社員寮を出る際には、身に着けることが義務付けられている。社員寮や砕氷船に入った時点で、電磁ロックが解除される仕組みだ。たぶん海上施設の秘密を外部に漏らすと、毒薬が注入されるシステムだろう。ある特定のワードを喋ると、リングから軽い電流が流れて警告される。警告に逆らってしゃべり続けると、あの世行きってわけだ。実際、俺の仲間が目の前で死んだのを見た事がある。リングとピアスは発火して消し炭になったんで、証拠はないけどな。ちなみに無理にリングを壊そうとしたり、ピアスに付いたカメラのレンズを一定時間隠し続けても、同じことが起こる」

「ちょっ、ちょっと待って下さい。死んだってどういうことです?」

「そのままの意味だ。だから言ったろ? 下手したら、生きては戻れねぇってな」

「そんなのおかしいですよ。毒薬だったら、検死で体内から発見されて、殺人だって分かっちゃうじゃないですか!」

「注入されると、体内に元々存在する無害な代謝物に分解されて、証拠が残らない毒薬もこの世にはあるんだよ。例えば、「サクシニルコリン」っていう筋弛緩剤がそうだな。普通の殺人事件の場合は、皮膚の注射跡に残った無害な「体内代謝物」を分析することで発見されちまう。「体内」代謝物が、「体外」の皮膚に付着してるのはおかしいからな。だが毒薬注入装置や注射跡ごと燃やしちまえば、証拠は残らない。それにここはロシアだ。賄賂やコネで検死なんぞどうにだって誤魔化せるし、何なら死体ごと消せばいい。リングは金属検査に引っ掛るから、ロシア国外に出ることも出来ないしな」

 元ヤクザの割に、この赤平と言う男はかなりの博識だった。最近増加している、大学卒で就職に失敗して落ちぶれた「インテリヤクザ」というやつだろうか?

「でもそんな突然死をしたら、死んだ人の家族や誰かが変に思って調べたり、警察に訴えたりするんじゃないですか?」

「よく考えてみろ。俺は元ヤクザで、お前は職を失った孤児だ。心配してくれる家族や友人は、一般人に比べりゃ極端に少ないんじゃねぇか? そしてこの海上施設には、そういう「いなくなっても騒がれない人間」が多数集められてるのさ。日本のホームレスや元犯罪者にロシアのマンホールチルドレン、そして戸籍すらまともに登録されていない難民たち、つまり『無国籍難民ノーワン』とかがな」

 神威は言葉を失った。自分が忌み嫌っていた連中とこれから一緒に働くこともそうだが、まるで人権などあってないが如き環境は、彼の想像を遥かに超えていた。

「ここノグリキ周辺の海は、何十年も前から天然ガスや海底油田の開発が盛んで、サハリンプロジェクトと呼ばれる採掘計画が進行中だ。そして海上採掘施設には建設された順番で「サハリン1(ワン)」や「サハリン2(ツー)」といった名称がつけられている。だから直接は関係ないが、俺たちが今から行く施設も、関係者にはこう呼ばれている。存在しない人工島……『サハリン0(ゼロ)』ってな。ほら、もうすぐ着くぞ。後悔しても、もう遅い」

 流氷で染められた白い水平線上に、武骨な赤茶色の鉄骨でできた四角い島が見えてきた。

「ようこそ。最果ての氷の監獄、『サハリン0』へ」


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 人工島に砕氷船が接岸した後、神威たちはロシア人の職員に誘導されて橋を渡る。何人かの職員は、何か黒くて長い塊を持っていた。

「何ですか……あれ?」

「あまりデカい声で喋るなよ……。見りゃ分かるだろ? 新型のアサルトライフルだよ。泳いで逃げようとなんて思わない方がいいぜ、蜂の巣になる。どの道、凍死するけどな」

 辿り着いた島は、建設中のビルのような鉄の骨組みだった。海から一番近い一階部分にあたるフロアから、神威たちは剥き出しのエレベーターで上へと昇っていった。これも、工事現場で使われるタイプと似ている。

 だが上のフロアは白い壁に囲まれて床もあり、比較的普通の建物だと感じられた。リノリウムの床材が使われた内部の様子は、日本の病院に見えなくもない。その後連れて行かれたのは着替え室らしく、ロシア人職員がスマートリングの翻訳アプリを使って、数か国語で「シャワーを浴びてから服を着替えろ」と指示を出した。周りには、無国籍難民と思しきアーリア系の顔や、ロシア人に見える幼い顔も多数混じっている。

 シャワールームは個室などではなく、一列になって長い廊下を歩いて行くタイプだった。日本人にはプールに入る前のシャワーだといえば分かり易いだろうが、神威の目には昔テレビで見たアメリカ軍の最下級の兵士が使うシャワーに映った。これだけでも、人権が制限されつつあると判断できる。

「初っ端から『養育班』か。こりゃ兄ちゃんには、ちとキツイべな」

 先にシャワールームから出ていた赤平は、全身白の服を着ていた。マスクとヘアネットもしており、その姿は食品工場で働く作業員そのものだった。

「何ですか? 『養育班』って……?」

「すぐに分かるさ……」

 同じ作業服に着替えてからも、誘導に従って進む。しばらく歩くと、両方の壁に小さな穴が沢山空いた狭い廊下に着いた。すると突然、穴から身体が揺さぶられる程の風が吹き出す。恐らく風圧でゴミやウイルスを吹き飛ばす、エアシャワーというやつだろう。

 ――何なんだ、ここは。違法な薬品工場だとしても、衛生管理が恐ろしく厳重すぎる。

 宇宙船のエアロックに類似した空間を抜けると、次の場所にも白い天井と壁が広がっていた。壁の手触りは妙に柔らかい。

「あんまり、感情移入するなよ。『彼ら』には」

 先に部屋に入っていた赤平の言葉を、神威は理解できなかった。

 いや、理解したくなかった。

 そこには、病院の保育器に似た透明の箱に、何人もの「赤ん坊」が並んでいたのだ。

「『養育班』の仕事は、この子供たちの世話だ。まぁ細かい指示は職員がしてくれるさ。肉体的にはキツイ仕事じゃないが、まともな精神を持ってる人間には……地獄だな」

「お前わ、次のヘヤです」

 スマートリングの機械的音声で命令される。赤平と別れて再び違うエアシャワーとエアロックを通過すると、同じ柔らかい材質の部屋に到着した。比較的広い場所だ。

 透明で柔軟性のある樹脂の壁で、五メートル四方づつに区分けされたスペースに、一人ひとり『人間』が座っていた。全員が濃い緑色の病院着を着ており、十歳ぐらいに見える。

 しかし彼らは外国語どころか、人間の言葉を喋ることすら出来ないようであった。

「うぅー……いいぃいぃ?」

 彼らが出すその音は、動物の唸り声そのものだった。

 


     サハリン、それは耐え難い苦しみの土地。

     その苦しみに耐えられるのは、心の自由な人間と、

     拘束された人間だけだ。

                 アントン・チェーホフ

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