第13話 神がいなければ、全ては許される

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 現在ユジノサハリンスクの下水道には、マンホールチルドレンと呼ばれる孤児たちが住んでいる。

 宗谷トンネルで日本と繋がる以前の町は、典型的なロシアのイメージと違って治安は比較的に良く、モスクワと比べても路上生活を送る孤児の数は少なかった。

 だがトンネルの開通と日本との天然ガス取引によって経済発展を遂げた後は、人口の増加に比例して貧富の差も増し、犯罪数や虐待件数は増加した。近年は日本企業の投資によって大通り沿いの道路などのインフラは整備されたが、一歩路地裏に入るとそこは孤児たちの住処だった。

「酷い臭いだな」

穴を降りると、下水道から沸き立つ硫化水素独特の腐卵臭が、イヴァンの鼻を突く。

 こんな危険で不衛生な場所では決して長生きは出来ないだろうが、明日どう生き延びるかに苦心するマンホールチルドレンたちには暖かい寝場所なのだ。

「お前が、コーリャ・カラコーゾフだな?」

「なん……なんだおめぇ」

 名前を呼ばれた男は、焦点の合わない目でイヴァンを見上げた。その周りには濃い隈ができており、体は不健康な程やせ細っている。典型的な麻薬中毒者の症状である。

 男はその手に、ターニャがしていたのと同じブレスレットをつけていた。

「もう『チルドレン』なんて歳でもないだろう? 仕事はどうしたんだ?」

「まっ……まぁた俺から何かろうってのかっ!? 舐めやがって、ただじゃおかねぇ!」

 会話のキャッチボールが成立しない。

 もはや現実世界に戻れない程に、彼の脳は薬で侵されていた。

「子どもたちは、金を掴ませて追い払ってある。だがあまり長時間は極寒の野外に放置したくない。時間がないんだ」

「あの、あのクソアマみてえになりてぇのか! 俺がせっかく、初めての給料でぇ先生に買ったブレスレットを、ぎっ、りやがった、あの売女ばいたみてぇによぉ!」

「その言葉が、聞きたかった」

 彼の脳はもう、壊れてしまったのだ。その売女こそが、彼がブレスレットを贈った先生ターニャ本人であることすら分からぬ程に。そして、妄想で勘違いをしたまま殺人を犯してしまった。

 ターニャの遺体から安物のブレスレットがなくなっていた情報を手にしたイヴァンは、彼女にそれを贈った孤児院出身の男が怪しいと考えて、周辺を探っていた。いくら金に困った強盗でも、あんなメッキの剥がれた安物を盗りはしないからだ。

 イヴァンは彼の服の袖と襟首を掴むと、柔道の大外刈りでコンクリートに叩き付け、躊躇なく骨盤を折った。少しうめき声を出したが、彼は麻薬中毒で痛覚が麻痺している為か、起き上がろうとする。今度はロシアの格闘技サンボの技で、背後から肩関節を極めて顔を地面に押し付ける。

 片腕だけで彼を拘束しながら、イヴァンはもう一方の手でコートの裏から銃を取り出す。PSS-Xと呼ばれる、昔KGBが開発した、消音性能の高い暗殺用拳銃の改良版だ。

 ――たぶん、彼は悪くない。

 男の後頭部に銃口を近づけながら、イヴァンはそう思った。

 孤児院の職員によると、コーリャの父親はマフィアの下っ端で、彼は父の虐待から逃れるためにマンホールチルドレンとなったらしい。そしてシンナーや麻薬で孤独と不安を紛らわすのは、彼らの習慣だ。もっとまともな親の元に生まれていれば、家から逃げる必要もなく、薬だってやっていなかっただろう。

 人の幸せは、「どう生まれるか」で決まる。

 彼の人生は、クズの親の家に生まれた時点で終わっていたのだ。

 だから、彼は悪くない。

 裁判でも、心神喪失で無罪になるかも知れない。

 ――だが、生かしてはおけない。

「最後に、ドストエフスキーの言葉を贈ろう」

 イヴァンは小声でささやいた。

「神がいなければ、全ては許される」

 同時に、パスンという小さな音が鳴る。

 撃ち抜かれて血が流れ出している頭部の穴に、粘土状の素材で栓をすると、イヴァンは片手一本で死体を肩から担いで穴を這い上がり、近くの雪捨て場に放り投げて埋めた。これで、雪解けまでは見つかることもない。

 血を拭いてから弾痕も特殊な粘土で埋めると、その場から素早く立ち去っていった。


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 ユジノサハリンスクの街には、旧樺太庁博物館を始めとした日本統治時代の史跡の他、ロシア文学の巨匠たちの銅像や、ガガーリン公園にあるロシア正教の教会など、歴史を感じさせる観光資源が案外多い。

 その内の一つ、旧王子製紙工場前の暗い雪道を、男が足を引きずって懸命に走っていた。

「冗談じゃねぇ。冗談じゃねぇよ。何なんだあいつは……」

 男は近くのマンホールを開け、その中に逃げ込む。そこへ誘導されているとも知らずに。

「ニコライ・カラコーゾフだな? 元マンホールチルドレンのお前なら、ここに逃げて来ると思ってたよ」

 その言葉を聞くや否や、男は梯子を掴んで地上に引き返そうとする。だがその手の甲を、銃弾が音もなく貫き、男は絶叫した。

「これはVSS‐Ⅱという、消音性能に特化したロシア製狙撃銃だ。といっても、有効射程は六○○m程度しかない。これでヤクザを殺していたら、日本で「スナイパー」と呼ばれるようになった。一km以下の狙撃でスナイパー扱いされるなど、極めて不本意だ」

 男の悲鳴を無視しながら、イヴァンは歩いて彼に近づいていく。

「だがこの距離なら、目をつむっていても頭を吹き飛ばせる。幸いこの辺は、可燃性ガスの濃度も低いようだしな」

「誰なんだよお前は! 何が目的で、俺らの組の人間を殺してんだよ!」

「『サハリン0』は、どこにある?」

「なんでそれを……」

「指の関節は、何箇所あるか知ってるか?」

 イヴァンは彼の左腕を捩じ上げると、何のためらいもなく小指の第一関節をへし折った。

「答えは、両手合わせて三十箇所だ。早く答えた方がいいと思うぞ? 軟体動物になる前にな。それとも、ロシアン・マフィアは拷問に強いってところを見せてくれる気か?」

 泣き叫ぶ男に構わず、第二、第三関節も折っていく。彼は痛みに耐えかねてひざまずいた。

「し、知らねぇよ! 俺みたいな下っ端には、『サハリン0』の正確な場所は教えられてねぇんだよ! ただ、ノグリキの港から出てる砕氷船を探せば、何か分かるかもな。……これでいいだろ?」

「なるほど、裏は取れた。……ところで、お前の息子の名前はなんていうんだ?」

「息子? あぁ、家を飛び出していきやがったクソ餓鬼のことか? 名前はコーリャだよ」

 男は痛みに呻きながらも、言葉を繋ぐ。

「せっかく俺がマンホールチルドレンから卒業して家を持てたのに、ちょっと殴ったぐらいであのアホはまたマンホールに逃げていきやがった。何か呪われてんのかね俺の家系は」

「ターニャのいった通りだな。負の連鎖は、誰かが断ち切る必要がある」

「は?」

「ロシアの孤児院にいる子供やストリートチルドレンは、両親が存命の場合が多い。親が生きている方が、最悪な時もあるってことだ」

「何をいって……」

「神がいなければ、全ては許される」

 言葉と共に、男の背後に血しぶきが飛んだ。

 彼の息子、コーリャを殺害した時と同じように血を拭き取り、イヴァンは弾痕をコンクリ―トそっくりの粘土素材で埋める。だが死体は、そのまま下水の流れの中に蹴り落とした。

 他のマフィアも拷問して聞き出した情報を総合すると、『サハリン0』の大体の場所は絞れた。あとは、もう少し下準備が必要だ。

「『爆弾魔ボマー』や『脱獄王』と、合流しなきゃな……」

 そう呟くと、イヴァンは銃を分解してアタッシュケースに詰め、地上へと続く梯子を登って行った。

 全ては、神威と環奈を守る為に。今はそれだけでいい。

 俺は『家族ファミリー』の暗殺者。そして『怒りの支配者』。

 

 ――俺の名は……『名無イヴァンし』。

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