第12話 もし神がいるのなら

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 日が沈んだ後、神威が乗った列車が出発する。

 目的の町、サハリン北東部の「ノグリキ」までは六一三kmもあり、電車で半日近くを要する。その寝台列車はブルートレインと呼ばれ、日本の統治時代には詩人の宮沢賢治が乗り、かの『銀河鉄道の夜』を着想したといわれている。もっともその時代と同じなのは列車の色だけで、車両自体は最新型だった。

 車内のチケットで指定された部屋に行くと、二段ベッドの上の段にはもう男が一人横たわっている。顔は西洋系ではなく、少し強面のアジア人だ。

「ブリヴィエート。カーグジュラー?」

「え?」

 聞きなれない言葉で、男が喋りかけてきた。その耳にはピアスをしており、手首にはヤクザ系の顔に似つかわしくない、派手な色のスマートリングもつけている。

「何だ日本人か。間違えてロシア語使っちまったよ。ここいらにはアジア人とのハーフも多いし、兄ちゃん外人っぽい顔してるからな。あっ、俺は赤平一馬あかひら かずまってんだ。よろしくな」

「僕は折茂神威です。いやぁ、日本の方で良かった。もうキリル文字は一文字も分からないし、どうしようかと思ってたんです」

「そりゃ随分と準備不足な旅行だな兄ちゃん。まぁ最近は翻訳アプリが発達してきたから、大丈夫なんだろうけどよ」

「いや旅行じゃなくて、一応働きに来たんですけどね」

「働きに? ロシア語の挨拶も分からねぇのにか? こりゃ中々チャレンジャーだな。若いってのは羨ましいわ。……ん、ノグリキまでの汽車に乗ってるってことは、天然ガス採掘関係かい? もしかして商社マンとか?」

 長距離列車を「汽車」と呼ぶ点から、神威は彼が北海道出身ではないかと推測した。

「いえ、天然ガスというか、メタンハイドレードです。えっと、確か『サハリン・ハイドレード社』って名前の会社で……」

「何だと……」

 男の顔つきが一気に険しくなる。そして何故か周りを見渡し、慎重に言葉を選んでいる感じでゆっくりと口を開いた。

「悪いことは言わねぇ。ノグリキに着いたらすぐ引き返して、日本に帰りな。詳しくはいえねぇが……その会社はろくな所じゃねぇ。最悪、生きて日本に帰れねぇぞ」

「は? いや、えっ? どういうことです……?」

「そのまんまの意味だ。あんま気は進まねぇが……いいか、これを見ろ」

 赤平と名乗った男は、おもむろに着ていたトレーナーを脱ぎ始めた。その裸の上半身は、龍と雲が描かれた見事な入れ墨で覆われていた。

「この通り、俺はヤクザもんだ。つっても今は堅気で『元ヤクザ』なんだけどな。別に兄ちゃんを脅したくてこれを見せたんじゃねぇ。重要なのは、元ヤクザなんざ大抵まともな職にはつけねぇってことだ。そして俺は今、兄ちゃんの言った会社の海上プラットフォームで働いてる。いいたいことは、分かるな?」

 神威は彼の迫力に圧倒されていた。日本人なら入れ墨の意味するところは分かるし、今の時代に一般人に対してそれを見せるのは、相当な覚悟がいることだ。

「ちょっ、ちょっと待って下さい。詳しく、説明して頂けませんか?」

「残念ながら、それができねぇから困ってんのさ。今は、帰った方がいいとしかいえねぇんだわ。ある理由があって喋れねぇ」

「ある理由……? でも、僕本当に来月生きてくお金すらないんです。勝手に帰ったら交通費を請求されるかも知れないし、今更戻れないんです」

「なるほどな……兄ちゃん、もしかして孤児か?」

「え? なんで分かったんです?」

「そういう人材を集めてるってワケか……」

 彼は静かに考え込む。元ヤクザと喋るのは緊張するが、沈黙はその倍の緊迫感を生んだ。

「現地についたら俺の指示に従え。可能な限りは守ってやる。だがいいか、できるなら引き返した方がいい。借金してでもだ。……警告は、したからな」

 それっきり、男は二段ベッドの上段のカーテンを閉じて引きこもった。

 規則的な電車の音だけが、辺りに響いている。

 神威は、夜の静寂の中に取り残されていた。


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「やっと見つけたわ。イヴァン・イヴァノフさん」

「は?」

 女性の声に反応して、イヴァンは顔を上げる。ユジノサハリンスク駅内部に新しく出来たカフェで電子書籍を読んでいると、突然話しかけられたのだ。

「失礼ですが、どちらさんで?」

「あぁ、名乗るのがまだだったわね。私はタチアナ・テレシコワ。ターニャでいいわ。マンホールチルドレンや孤児を支援するNPO法人の職員よ」

「NPOの職員さんが、俺に何の用だい?」

「とぼけないでいいわ。あなたでしょう? うちの孤児院の前に大量の読書用タブレットとスマートリングと、電子書籍を置いてったのは。絵本や日本の漫画に古典文学、高校と大学受験用のデジタル参考書まで贈ってくれたのは、あなたが初めてよ。『名無しの権兵衛(イヴァン・イヴァノフ)』なんて素敵な偽名ね。本名は何?」

「何のことだか分からないな」

「あなたが使ってるそのタブレット、孤児院にプレゼントしたのと同じ型でしょ? それに玄関前の雪に残ってた足跡と同型のブーツも履いてる。あと、朝早く用を足しに起きた子が窓から見てたの。背が高くて補聴器をつけた、目の下に傷があるおじさんだったって」

「中々の名探偵だな。そっちで開業した方が儲かるんじゃないのか?」

 軽口を叩きながらも、イヴァンは警戒していた。

 心を落ち着ける為、カプチーノを一口すする。

 まだロシアでは情報収集のみで暗殺はしていないし、日本の警察にも顔はバレていない。それ故に油断してしまった。

 まぁ日露で捜査協力や犯人引渡しの協定を結んでいない以上、彼女が『暴力団幹部暗殺事件』の捜査官であることはあり得ないのだが。

 ――この女に目を付けられたことを、『アーサー』に報告した方が良いだろうか?

「警戒しないで。別に心優しいサンタさんの個人情報を盗もうって訳じゃないの。お礼が言いたかったのよ。本当にありがとう」

「ジェド・マロース(サンタさん)か。どういたしまして。ただ、これは補聴器でもないし、目の下にあるのは傷でもない」

 そういうと、イヴァンは耳の近くにあるスイッチを押す。すると傷のように見えた左目の下の赤黒い直線から、正方形の透明な小さい板が飛び出し、イヴァンの目の前を覆った。その勢いで、イヴァンの銀髪に近いブロンドの前髪が揺れる。

「ウェアラブル端末ってやつさ。いちいちスマホやスマートリングに視線を落とさないでも自然にマップを見れるし、声で検索も可能だ。骨伝導スピーカーで通話もできる」

 イヴァンは嘘を吐いた。このウェアラブル端末は、本当は盗聴器だ。柔軟性の高い有機ELディスプレイで作られたゴーグルも、狙撃の際に用いる。気温・湿度・風速などを計測しリアルタイムで表示する為のものだ。これを使って日本の暴力団幹部を殺してきたし、今はサハリンのロシアン・マフィアの情報収集に活用している。つい先程までも、二つ離れた席にいたマフィアのメンバーの会話を盗聴していた所だ。もっとも『サハリン0(ゼロ)』に関する情報は得られなかったが。

「で、こっからが本題なんだけど……。あなた、うちのNPOに入る気はない?」

「何だって?」

 日本の裏社会で名の知れた暗殺者を、孤児を支援するNPO法人の職員にするなど、正気の沙汰じゃない。と、イヴァンは思った。

「ジェド・マロース(サンタさん)には『スネグローチカ』が必要ってことかい?」

「茶化さないでよ。『雪の娘』なんて歳じゃないわ」

 ロシアのサンタクロースである「ジェド・マロース」には「スネグローチカ」という孫娘がおり、二人のペアで新年会やパーティーなどに現れるのが定番である。だが確かにターニャは二十代後半ぐらいに見え、「娘」という歳ではない。

「今ロシアの孤児院で働いている職員は、孤児院出身者が多いの。それはそれで良いことなんだけど、そのせいで孤児たちは『外の世界』を知らないのよ。孤児院で受けられる中等教育だけで完結していて、社会との繋がりがない。だから結局選べる職の幅が極端に狭くなってしまって、マフィアの下っ端になったりするのよ。その負の連鎖を断ち切る為に、あなたみたいな高等教育を受けた人にも孤児の支援に参加して欲しいの」

「期待に応えられず残念だが、俺も元は孤児だ。それに『外の世界』は知ってるかもしれないが、高等教育は受けていない」

「嘘よ。じゃあ何故、子供たちに教材を送ったの? 孤児院には資金面の支援は足りていて、教育面での支援が足りてないってことが分かってたんでしょう? それに高等教育を受けていない人間は、古典文学なんて読まないわ」

 そういって、ターニャはイヴァンの持っている極薄の小型タブレットを指さした。そのディスプレイには、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』が映っている。

「それは大きな偏見だな。中卒だって古典を読む人間はいるさ」

 『アーサー』から、高等教育じみたものを受けたといえなくもないが。と、心の中で呟く。

「それと……俺は、子供を沢山殺している。『中央アジア大戦』に行ってたんだ。三年前までね」

 ロシアには「柔らかい下腹部」と呼ばれる地域があり、それが中央アジア周辺であった。元来イスラム教の影響が強いこの地方には、アフガニスタンを始めとしてイスラム過激派のテロ組織が各国に散在している。自国内にもイスラム系住民を多数抱え、更に旧ソ連圏を挟んで隣接するロシアにとって、それは危険な火種といえた。

 しかし『中央アジア大戦』のきっかけとなったのは、古くからこの地域に存在した組織ではなく、中東で一時代を築いた新興イスラム原理主義組織「イスラム《ISIS》国」の残党だった。

 イラク軍やクルド人組織によって壊滅状態に陥っていたイスラム国のメンバーは、国境管理が甘く、また多くの戦闘員の故郷である中央アジアに逃れて活動を続けており、アフガニスタンの地方軍閥などと合流して新たに「IN(イスラミック・ネイション)」と名乗り始めた。

 INはSNSを使って再び兵力を集め、中央アジア各国の国境地帯を侵略した他、中国からの独立を目指すウイグル自治区のイスラム系テロ組織とも連携を図るようになる。これを放っておけなくなった中国やロシアは、次々と「対IN戦争」に参戦した。そして中央アジア地域に元々あった国境紛争なども複雑に絡み合い、十年以上に渡る泥沼の戦いは『中央アジア大戦』と呼ばれるようになったのだった。

「俺はロシア軍の兵士だった。INに洗脳された少年兵たちを、十人以上は殺した。ロケットランチャーでこちらを狙っていたからな。やらなきゃやられていた。だが言い訳する気はない。今更子供たちを救うだなんて、偽善もいいところだ。俺にそんな資格はない。……何故、君が泣いているんだ?」

「ごめんなさい。辛いことを思い出させてしまって……。でも、だからこそ罪滅ぼしの為に、孤児院へ寄付をしているんでしょう? 神はきっと、あなたの贖罪を見ておられるわ」

 このターニャという女には、ペースを狂わされる。彼女の感受性が妙に高いせいか、それに乗せられてこちらまで余計なことを喋ってしまう。

「君はロシア正教徒かい? 生憎あいにくだが、俺は神など信じていない。もし神がいるのなら、どうして彼は虐待に苦しむ子供たちを救わないんだ? 罪なき者の味方じゃないのか? 根本的に矛盾している」

「それは『カラマーゾフの兄弟』の一節? 確か、次男のイヴァンのセリフよね。そうね……私は、神は我々を試してらっしゃるのだと思うわ。子供たちが大人と共に、信念を持って試練を乗り越えられるのかを。だから、しっかり教育も受けさせなきゃいけないのよ。大人が頑張れば、きっと子供たちは救われるわ」

 彼女のブルーの瞳は澄み切っていた。神の存在や救いの訪れを、信じて疑わない目だ。その美しい輝きは、ブロンドの髪によく似合っていた。

 ――なら、信仰心が足りなかったから、神威や環奈は虐待されていたとでもいうのか?

「だとしたら神というのは、随分とスパルタなんだな……」

 そういった後、イヴァンは席を立った。

「待って! まだ名前を聞いてないわ!」

「……1つ、質問に答えて欲しい。君は『生まれ変わり』を信じるか?」

「生まれ変わり? 輪廻転生のこと? 仏教やヒンドゥー教の概念ね。あなたは無神論者じゃないの?」

「いいから、答えてくれ。重要なことなんだ」

「……ロシア正教では、洗礼を受けた時に人の魂は生まれ変わるといわれてるわ。でもこれは、それまでの人生が洗い清められるという意味であって、魂が他の肉体に移るってことではないの。そういった意味での転生の概念は、キリスト教にはないわ。正教会では、明確に否定してるわけでもないけど」

「宗教上の定義を聞きたいんじゃない。君の意見が聞きたいんだ」

「……個人的には、転生なんてない方が良いと思ってる。一度きりしかない人生だから、人は後悔のないように懸命に生きるのよ。私はそう思う」

 あぁ、そうだよな。一度で充分だ。

 ――「生まれ変わった」ところで、ろくなことは起こらない。

「俺の本名も、イヴァンだ。イヴァン・アレクサンドルヴィッチ・ミハイロフ」

 イヴァンはまた嘘を吐いた。「本名」などというものを、彼は持っていない。ミハイロフという苗字も、買った戸籍に書かれていたものだ。

 自分はイヴァン。ただの「名無イヴァンし」だ。

「……NPOに入る件、前向きに考えておくよ」

 これまで、イヴァンは神威と環奈を守る為だけに生きてきた。ロシア軍に入って銃器の扱いや戦闘技術を学んだのも、全てその為だ。『アーサー』には計画があり、それが無事終われば神威と環奈の安全は確実なものとなる。イヴァンが日本のヤクザを殺して回っているのも、その計画の一部だ。

 だが「計画終了後の人生」など、イヴァンは何も考えていなかった。

 孤児たちを支援する団体か。それも、いいかも知れない。

「本当に!? あぁ、神よ! 感謝します」

「また神か……」

 少しうんざりした口調でイヴァンがため息を吐いても、ターニャは一向に気にとめない。

「何かおごらせて? 未来の同僚に」

「まだ考えておくといっただけだろう。……まぁ、好意は有難く受け取っておくよ。そうだな、セーコマのおにぎりが良いな」

「『セーコマ』? 『オニギリ』……?」

「知らないのか? セイコマは、最近は駅の近くにも出店してる、日本のコンビニだよ。オニギリは米を固めた食べ物さ。これが結構美味い」

 サハリンには北海道内で有名なコンビニの「セイコーマート」の他に、北海道銀行やチョコレート販売の「ロイズ」など多数の日本企業が進出してきており、宗谷トンネルの開通後は更にその数を増していた。

「ところで、そのブレスレットも信仰には大切なのかい?」

「あぁ、これは孤児院を卒業した男の子からもらったの。私がロシア正教徒だと知ってたから、初めての給料で正教会の十字架のデザインが入ったものを買ってきてくれたのよ。スマートリングの三分の一以下の値段だけど、私の何よりの宝物よ」

 宝物か。金メッキの剥がれかけた安物のブレスレットが、宝物になるのか。

 そんな価値が得られるのなら、孤児の支援も悪くない。

 コンビニでおにぎりを買った後、二人は連絡先を交換して、それぞれの帰路に着いた。

 

 一週間後、イヴァンはターニャの勤める孤児院を訪れていた。

 数日前に、アイスホッケーの試合を見に行かないかと誘われたのだ。彼女は勧誘が目的なのだろうが、ロシアのトップリーグであるKHLのサハリン遠征試合を見れるとあっては、行かない選択肢はなかった。イヴァンはホッケーに目がないからだ。

「こんにちは。タチアナ・テレシコワさんはいます? 会う約束をしてるんですが」

 玄関を開けたところにいた中年の女性職員が、彼の問いかけに答える。

「ターニャ? ターニャは……」

 そういったきり彼女は押し黙り、すすり泣き始めた。

 傍らには『強盗殺人。被害者はNPO法人の女性職員か』と書かれた新聞が落ちていた。

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