第8話 私は誰なの?

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「せぇーんぱい! 聞いてますぅ?」

 千歳晃代の甘ったるい声で、環奈は我に返った。

「あっ……その、ごめん。何の話だっけ?」

「だからぁ、宗谷トンネル通って電車でロシア旅行とか行ってみません? って話ですよぉ。もう全然聞いてないんだから」

「うん。ちょっと考え事してて……」

「これじゃ私、面倒くさい彼女みたいですね? 仕事のことばっかり考えないで! みたいな。もっと楽しいこと考えましょ? 『JRで、ロシアへ!』って最近CMでよくやってるじゃないですかぁ。あの子かわいいですよねぇ。ロシア人タレントの子。ほらぁ、STVに出てるアリョーナちゃん」

「……STV?」

「札幌テレビですよ! 道民の常識じゃないですかぁ! 本当に、大丈夫ですか? 先輩」

「うん。……ごめん」

「……辛いときは、甘いもの食べるに限りますよぉ? 考え事するのにだってエネルギーいるんだから、脳に糖分補給しなきゃ。その為に、ビュッフェに来たんじゃないですかぁ」

「そうだね。……いつもありがと。晃代」

「何ですかぁ? 突然素直になって。愛の告白なら無駄ですよ? 私にも彼氏ぐらいるんだから」

「じゃあ愛人でイイから、考えといて」

「んー……チェンジで!」

「なぁーにぃ~」

 環奈は千歳の髪をくしゃくしゃと手でかき混ぜ、彼女のセットを乱した。こんな馬鹿馬鹿しいやり取りでも、自分が平和な日常の中に戻って来れたことを確認できる。やはり、千歳は気配りのできる良い後輩だった。

 二人はサッポロファクトリーの建物内に新しくできたレストランにいた。

 オープンテラス方式の席からは、四階まで吹き抜けになったファクトリー内部が見渡せる。ここは中庭になっており、木々が洋風庭園の如く配置されていた。広場は小さなイベントが開ける程度には大きく、またガラス張りになった壁のおかげで屋外にいるような解放感が味わえる。

 ――やっぱり、「岩島鴎」なんて名前に聞き覚えはないし、顔も見覚えがない。

 千歳がケーキを取りに行っている間に、環奈はまた思考に戻った。

 どう考えてもおかしいのだ。何故彼は、自分と神威の名前を知っていた?

 彼は兄とは似ても似つかない顔だし、『大草原の小さな家』や『ハリー・ポッター』の世界に生まれ変わる想像の話は、この世でたった一人、義兄の折茂神威としかしていない。

 もしや、彼は折茂学が経営していた非合法な養護施設の子供? 兄が私を守ってくれていたように、他の子供も売春から守っていたとしたら? 岩島も兄に守られた一人で、それに恩義を感じて……。

 いや、ありえない。兄はいつも私と一緒に小屋に住んでたし、離れていたのは小学校で授業を受けていた時ぐらいだ。私以外の誰かの「身代わり」になんてなれる時間も場所もなかった。

 じゃあ何故?

 というか、「ノーワン」って何?

 「ノーワン」は確か、無国籍難民を指す差別用語のはず。「僕たちはノーワンだった」っていうのは、「僕たちは無国籍難民だった」って意味? それはあり得ない。少なくとも私は日本で生まれた日本人だ。赤ちゃんポストに捨てられていたけど、ちゃんと「環奈」という日本人の名前が書いた紙が置いてあったから。

 それに、無国籍難民大量発生の原因になった『中央アジア大戦』が起こる十年前には、私は既に中学に入ってる。たとえ日本人じゃないのだとしても、ノーワンなんて最近作られたスラングを私に当てはめるのは凄く不自然だ。

 一体何で私は『不死身男』に狙われたの? 

 『不死身男』に襲われ、『兄の名を知る男』に助けられたのは、ただの偶然?

 あの無差別毒殺魔と私に、何の関係が?

 何で私は命を狙われ、そして命がけで助けられたの?

 ――何故、私なんかの為に……いつも誰かが犠牲になるの?

「ひゃっ!?」

 頬に冷たい感触を感じ、環奈は驚いて飛び上がった。

「ほら、先輩の分のコーラです。もぉ酷い顔してますよ? 事件について考えるの禁止!」

「ご……ごめん」

「正確には、『一人で考えるの禁止』です。殺人現場に居合わせちゃってトラウマかも知れないですけど、先輩は一人じゃないんですからね。辛かったら、私に話してください。私、環奈さんは会社の先輩である以上に、大切な友達だと思ってるんですからね」

「……ありがと」

 環奈は、不意に涙がこぼれそうになるのを感じた。

 本当の親の顔も知らず、養父からは虐待を受け、自分を守ってくれるのは兄しかいないと思っていた。そして、その兄も失踪した。でも自分にはまだ、大切な友達が残っているのだ。

「だからほら、悩みは千歳お姉さんに話してスッキリしちゃいなさい? ほらほらぁ」

「……生意気」

「痛ぁ!」

 千歳に軽くでこピンを食らわせる。こうやってじゃれ合えるのも、友達の証だ。

 そんな二人の楽しそうなやり取りを、吹き抜けの二階部分から、黒いコートのフードを目深に被った男が観察していた。


         6


「せやからいつも言うてるやん? 桃子が一番なんやて」

「わっや嘘臭い。それに一番なんだとしても、何人の女の中で一番なわけ?」

「他におらへんてぇ。もう全部別れた言うてるやん。そろそろ堪忍してぇや」

「まだ保護観察期間中ですので、判断はいたしかねます」

「本気で事務的な対応せんといてぇーな」

 環奈と千歳の隣りの席では、関西弁の男と北海道弁の女が痴話げんかをしていた。

「なんか微笑ましい応酬ですねぇ。浮気性のチャラ男なんですかね? あの関西弁」

「チャラ男っていうか女たらしじゃない? イケメンだし、関西弁要素はモテそうだしね」

 千歳と二人で、小声で痴話げんかの分析をする。環奈の好みではないが、男は確かに整った顔をしている。まるで作り物にすら思える程に。その非現実的な美しさと、陽気な人柄や関西弁がギャップを生み、彼の魅力になっているのだろう。と、二人は考察した。

 女の方が飲み物を取りに席を立つと、関西弁の男がこちらに向かって手を振って来た。爽やかな笑顔には、白い歯がよく似合っている。

「うわー。鳥肌たちません? 言ってるそばから私らにアピールですよぉ? あれは女たらし歴二〇年は超えてますねー。どう思われますか? 環奈さん」

「イタリア男じゃあるまいし、って感じですねー。彼女に信じてもらえない原因、そういうトコだよ! って突っ込み待ちにすら思えるよね」

 たまにこのオープンテラスのレストランに来て人間観察するのも、環奈と千歳の休日の過ごし方だった。環奈は一時的にしろ、岩島鴎や不死身男の件を忘れることができ、すっかりいつものペースに戻っていた。


 関西弁の男、堺慶一さかい けいいちは、まだ横目で環奈たちを観察していた。いつもはこんなに大胆に二人に近づいたりはしないし、話し掛けたりもしない。だが、今回は特別だ。

 何故なら奴が、不死身男が環奈に迫って来ているからだ。

 堺は、いわゆるヒモ男だった。その美形のルックスと口の上手さで、色々な女の元に転がり込んでは居候をしている。自分の家すら借りてはいない。定職にもつかず、バイトや日雇い仕事を転々としていた。これは彼の本来の性分から来る生活スタイルでもあるが、一番の理由は他にあった。そう、定職に縛られない方が、守り易いからだ。

 ――あの、可愛い環奈のことを。

 しかし堺にとってその可愛さは「妹」に向ける愛情のようなものであり、決して岩島鴎のようなストーカーじみた気持ちではない。いや、鴎も「妹思い」ではあったが、その気持ちが少し暴走しすぎていたのだ。

 『アーサー』にも注意されている。自分たちはあくまで、個人の自由意志に基づいて環奈を守る。自分の生活を犠牲にし過ぎてもいけないし、環奈の生活に干渉するのはもっと御法度だ。それに自分としても、「生まれ変わった」あとの人生を謳歌したい気持ちはある。

 織田桃子。今の彼女とは、結婚まで考えている。

 正直、居心地がいいのだ。彼女といると。色んな女と付き合って来たが、ここまで気の合う子と巡りあう機会は、もうないかも知れないとまで思える。

 身を固めるのも、いいかも知れない。

 環奈を守ることは、義務ではないのだから。

 そう考えていると、桃子が二人分の飲み物を持って戻って来た。

「はい、慶一の分のジンジャーエール」

「おぉ、分かってはりますねぇ。もう俺の好物全部把握してんのとちゃう?」

「当たり前でしょ。もう何年の付き合いになると思ってんの?」

「……あんな、実は正社員にならんか言われてんねん。あのジーンズショップの店長から」

「えーすごいっ! よくこんな問題起こしそうな男に声かけたね! その店長聖人なの?」

「そこは別に突っ込み入れへんでええやん。……あんな、これは真剣に聞いて欲しいんやけど、俺が言いたいんはな……」

 堺の緊張した声のトーンを察し、桃子もまた背筋を伸ばした。

「……なに? 焦らさないで、言って……?」

「……何年もふらふらして、アホなこともして桃子に迷惑かけたけども、俺やっぱ桃子がめっちゃ好きやねん。せやから……せやから俺と……」

 その時、小さな風切り音と共に、堺の視界を何かが横切った。隣りの席を見ると、テーブルの上に細長い棒のようなものが刺さっており、小刻みに振動している。

 あの短い棒は……矢か? クロスボウの?

 堺の考えがまとまらない内に、隣の席にいた女が悲鳴を上げた。確か、千歳とか言う名前だったっけか? 

 そして堺は、矢が斜めに突き刺さっていたことからその発射地点を推測し、吹き抜けの二階部分を見上げる。そこには、コートのフードを目深に被った男がクロスボウを構えていた。

 ――アカン、不死身男や。

 そう思った瞬間、体が勝手に動いていた。

 全速力のダッシュで環奈のいる席まで距離を詰めると、ラグビー選手のタックルよろしく彼女に抱き付き、覆いかぶさる。すると先ほどまで彼女のいた場所に矢が突き刺さっていた。銃と違いクロスボウは発射音がないに等しいほど小さいので、周囲の人間は千歳の悲鳴に注目するだけで、何が起きているか分かっていない。

 堺の背中に、熱い衝撃が走った。

 考えなくても分かる。クロスボウの矢だ。

 あぁ、今日は桃子に似合う指輪、うてく予定やったのにな。と堺は思った。 

 

         7


 環奈が気が付くと、そこにはファクトリーの天井が見えた。

 あれ? 私はさっきまで千歳とお喋りしてて……。

 何か生暖かい風を感じて斜め横を見ると、関西弁の男の顔があった。彼の息が環奈にかかっていたのだ。 

「自分無事か? 矢は刺さってへん?」

「矢……?」

 何故か関西弁男に押し倒された挙句、心配そうに喋りかけられてる状況に、環奈は困惑していた。矢? 何を言ってるんだろう、この男は?

「撃ち尽くしたんか。なんや……案外あいつ、下手くそなんやな。武器の扱いは……」

 堺はそう言うと、ごろんと横に転がった。環奈が自分の体を起こすと、仰向けに寝ている彼の背中側から血が流れているのが目に映った。よく見れば何か棒のようなものが二本、彼の体を貫いていた。他にも一つ、穴の形をした傷から血が噴き出ている。

 あぁ、これが矢か。

 妙に冷静な気持ちだった。たぶんまだ、心が現実に追い付いていないのだ。

「すぐに死なれへん……。あいつ、毒の濃度薄めたんか? 苦しめる為に……。どのみち、出血はヤバいねんけど……」

「あなたは……誰?」

 環奈は朦朧としている中、無意識に彼にそう聞いた。

「俺は……俺たちは『誰でもない者』。ノーワンやったんやで。環奈」

 なんでこの人も、私の名前を知ってるんだろう。

 それに、また「ノーワン」。

 もういいよ、それ。

「俺はもう、生まれ変われへんけど……。本物の『大草原の小さな家』に、住めるとええな。ホグワーツで、フクロウも飼って……」

 生まれ変わる?

 なんなの? 誰なの? なんでそれを知ってるの? 

「神威と……兄ちゃんと、幸せにな……」

 そう言ったきり、関西弁の男は動かなくなった。

 しばらく経つと、彼と痴話げんかしていた女性が駆け寄って来た。

「慶一っ! 慶一、なんでなの……? なんでこの子を庇って……」

 彼女も呆然とした顔で、男の死体を見つめていた。現実を受け入れられない気持ちは、環奈にもよく分かる。

「あなた……一体、誰なのよ……」

 彼女は、こちらを見つめながらそう呟いた。

 そんなこと、私が知りたい。

 彼らが命懸けで守っている私は……。


 ――私は、一体誰なの?

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