第6話 僕らはノーワン
2
――僕は岩、僕は島。
これは彼が大好きな、一九六〇年代のアメリカのフォークロックデュオ、「サイモン&ガーファンクル」の曲だ。
その名も『I AM A ROCK』。
――I AM A ROCK. I AM AN ISLAND.
また繰り返す。
鴎はこの歌が大好きだった。
彼は札幌駅で清掃員の仕事をしていた。これ彼にとって天職と言える。最近の業務は清掃マシンによって機械化されて力仕事は少なく、体が傷つくこともない。給料が非常に安いのが玉に
鴎はいわゆる「無痛症」だった。痛みを感じることができないという、先天性の難病だ。
そのせいで激しい肉体労働は制限されるし、日常生活にすら気を付けなければならない。小さい頃はよく、転んで骨折したまま鬼ごっこを続けて骨が皮を突き破ったり、舌を噛みすぎて半分噛み切ってしまったりした。
これらのケガの頻度はある程度は訓練してマシになったが、相変わらず日常には危険が多い。不便で不自由だ。
だけどこの歌を口ずさんでいる時だけは、孤独を忘れられる。誰とも分かち合えない孤独を。
――だって岩は痛みを感じないし、島は泣いたりしないから。
実際、清掃員でも危険はある。特に札幌駅のような人通りの多い場所では、人にぶつかる可能性が高いのだ。だが鴎は敢えて、利用者数の多い札幌駅の清掃業務を請け負っている会社のパート求人に応募した。何故ならこの場所なら、仕事中も見守っていられるから。
――あの可愛い可愛い、環奈のことを。
彼女が会社を行き帰りするほんの少しの間だけど、その姿を確認できる。そうすれば、帰宅時刻も予想できる。自宅の場所だって、既に把握している。
勿論、そんなのは当然だろう?
全ては、環奈を守る為。あの可愛い僕の、「僕ら」の環奈に、変な虫がつかないようにする為。あの三笠とかいう会社の同僚の男も、最近出しゃばり過ぎている。今度ちょっと刃物で脅しとこうかな。
――全ては、環奈を守る為。その為に僕は……僕ら『
その時、鴎の視界に一人の女性が写った。そう、折茂環奈だ。
予想より遅かったな。あの千歳とかいう後輩の女と話が弾んだんだろうか?
後であの女も監禁してシメとかないと。調子に乗らないように。
「――『脱獄王』こと白石栄太被告は依然逃走を続けており、夕張市のカジノ施設でも目撃情報が――」
地下街の柱に埋め込まれた液晶から、ニュースが聞こえる。暴力団事務所の連続爆破事件といい、暴力団幹部暗殺事件といい、『
「――続いては、『不死身男』を名乗る犯人による、連続毒殺事件についてです――」
いや、例外がいた。あいつだ。『不死身男』だ。
僕ら『
あいつだけは、環奈に近づけちゃいけないんだ。
『
不死身男のニュースを聞きながら、鴎は環奈の後をつける。彼女が無事に改札を通るか確認する為だ。それが彼の日課であり、毎日の楽しみだった。
あぁ、彼女は相変わらず可愛い。いや、美しい。
可愛さと美しさが同居し調和している。
パリコレモデルたちが不細工な生ゴミに見えるほどに完璧な、愛おしい美のハーモニー。
一言でいうと、天使だ。
そうだね。人間如きと比べちゃダメだね。モデルだって、所詮は人の子なんだから。
君はやっぱり最高だよ。環奈。『
「生まれ変わった」後の君も、依然として最高さ。
しかし次の瞬間、突如として鴎の全身に悪寒が走った。
何かが、何かがおかしい。見えてはいけないものが見えている。
あれは、あの環奈に迫っている、黒いダッフルコートを着ているのは……!
コートのフードを目深に被っていて顔は見えないが、間違いない。
ヤツだ。不死身男だ! あの上着とセーターは、ヤツが好んでいる服装だ!
いかなくちゃ。と鴎は思った。
『
この命を、この体を。この
僕は、いや僕ら『
――全ては、環奈と神威の為に。
そう決意した鴎は、環奈とコートの男がいる場所まで駆けていった。
僕は岩、僕は島。
そう、僕は
岩は痛みを感じないし、島は泣いたりしないのだから。
3
環奈は改札機の上にある看板に目を配っていた。紙の切符に対応している改札機を避ける為だ。
最近では全てICカードやスマートリングで通れるが、一部でまだ時代遅れの紙の切符も使える機械がある。そういう改札の前では、よく切符を入れるのに手間取る人がおり、スムーズに通過できなかったりするのだ。
もう、みんなICカードにしちゃえばいいのに。
そんなことを考えていると、ドン、と背中に衝撃を感じた。
振り返ってみると、清掃員の制服を着た男がこちらに背を向けて立っている。その清掃員の前には、黒いダッフルコートの下に白のタートルネックセーターを着た男が向かい合っていた。男は、同じ黒色の傘を持っている。
何で、傘を持ってるんだろう?
環奈は、ふとそう思った。北海道の雪質はパウダースノーと呼ばれ、体に付着しても溶ける前に振り落せるほどサラサラだ。なので、札幌市民で雪を防ぐために傘を携帯する人間は少数派である。それに、今日は雪の予報もなかった。
そして次の瞬間、環奈は倒れた。
初めは何が起こったか全く分からなかった。だが半身で起き上がってよく前を見ると、清掃員の男が自分の足元に倒れている。彼が後ろに倒れた勢いで、ドミノ倒しの如く転がされてしまったようだ。
「ちっ……
清掃員の前にいた黒いコートの男が、そう呟いた後立ち去っていった。
その顔は、フードに隠れてよく見えなかった。
「あの……大丈夫ですか?」
いつまでも倒れたままの清掃員が心配になった環奈は、声を掛けてみる。更に手で肩を揺すって意識の有無を確認しようとすると、彼は小刻みに震え出した。
「いぃぃいいぃい……あぁああああーーっ!」
彼が叫び出すと同時に、その震えは「
すると何故か、環奈の頭に先ほどの黒いコートを着た男の姿が浮かんだ。
彼は黒い傘を持っていた。彼が去っていく時、その傘の銀色の先端部分に、何か黒いシミみたいなものが見えた気がしたのだ。「血」に見えなくもないようなシミが。
――もしかして、刺されたの? あの傘の先には、何か針とかが仕込んであって……。
しかし、清掃員の周りには血が流れていないし、それだけでは彼が痙攣している理由にならない。人が痙攣するのはどんな時? 大抵の場合、細菌や毒に侵された時だ。
こんな場所で毒を使う人間。無差別の毒殺魔。
――まさか、『不死身男』?
「きゃあぁぁあぁぁーーっ!」
環奈の体がようやく心に追い付き、彼女は悲鳴を上げた。清掃員は体を丸めて苦しんでいる。だが少しずつその苦悶の表情は和らいでおり、しばらく経つと彼は環奈の腕を掴み、小さく
「大丈夫だよ。環奈……。大丈夫だからね」
「……え?」
――なんで? なんでこの人、私の名前を知ってるの?
「僕は、痛みを感じにくいんだ。体の内側から来る痛みは、別みたいだったけどね……」
「あの……えっと……」
理解不能な状況の中で思考力が働かず、環奈は上手く言葉を繋げなかった。足には力が入らず、立つこともままならない。
「僕は、僕たち『
「……僕たち? ……ファミリー?」
「また……もう一度、生まれ変われたらいいのにな。『大草原の小さな家』とかに……。ホグワーツにも通いたい……」
彼は毒で意識が混濁しているのか、訳の分からないことを呟いていた。しかしその響きには、何故か懐かしさを感じた。そうこれは、この会話は、喋り方は……。
『大草原の小さな家』と『ハリーポッター』は。
自分を心配してくれるような言葉は、「生まれ変わり」の話題は……。
あの、折茂家の小屋に居た時みたいな。
――神威お兄ちゃん?
「あなたは……誰なの?」
「僕は……僕らは、『誰でもない者』。ノーワンだったんだよ」
「……ノーワン?」
「神威に、神威によろしく……」
「……え?」
今日初めて会った名も知らぬ清掃員の男は、彼女の義兄の名前を口にした。その後、環奈の手を掴んでいた彼の握力は段々と弱まり、だらんと腕を地面にぶつけた。全く動かなくなった彼の元に人混みをかき分けて駅員が近づいてくる。その後ろには、救急隊員がついて来ていた。誰かが通報したのだろうか。
「……脈がない」
いつのまにか彼の手首を掴んでいた環奈は、ボソッとそうこぼした。
彼女の意識は、白い世界へと遠ざかっていった。
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