第5話 誰でも無い犠牲者たち

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 北海道札幌市中央区にある大型複合商業施設、『サッポロファクトリー』の内部。

 折茂環奈は、会社の後輩の千歳晃代ちとせ あきよと共に一階にあるカフェにいた。

「それでぇ、三笠さんとどうなったんですかぁ? あの後。お持ち帰りされちゃったり?」

「ないない。なんもないよ。タクシーで送ってもらっただけで、料金も割り勘にしたし」

「え? ホテルの料金ですかぁ?」

「だから違うってー。ただのタクシー代。玄関にだって上がらせてないからね」

 千歳晃代はゴシップ好きで喋り方も甘ったるいが、細かい点にも気を配れる良い後輩だった。実際、環奈は今日のような休日にも一緒に買い物に出掛けたりするほど、彼女とは気が合う。

 ただ会社の飲み会があるたび千歳に根掘り葉掘り詮索されるので、もう軽く受け流す術を身に付けてしまっている。

「じゃあお疲れ様でぇーす」

 千歳が手を振って、地下鉄東西線の駅の方向へ消えていった。

 環奈は札幌駅へと足を向ける。吐く息が白く、歩道のコンクリートは雪に覆われていた。春の雪解けまで消えることはない、いわゆる根雪というやつだ。

 この冬独特の張り詰めた空気は、彼女に子供時代を思い起こさせた。

 ――神威と二人で小屋にいた時も、こんな寒さだったな。

 環奈は身震いをする。

 それは氷点下の冷気のせいではなく、思い出したくもない記憶が頭をよぎった為だ。

 養父の折茂学に受けた虐待は、過酷を極めるものだった。二人は小学生の頃から児童売春をさせられており、それは養父によって「お仕事」と呼ばれていた。

 折茂学本人は決して性的虐待に加わることはなかった。ただ毎回連れて来る色々な「顧客」の後ろから、切れ長の目でにやにやと、汚されていく環奈を観察したり録画したりしていただけだ。勿論、男である義兄の神威も例外では無く、少年好きの顧客の相手を強要されていた。

 また折茂学は非合法な児童養護施設を経営していたらしく、環奈たちの他にも沢山の児童たちに「お仕事」をさせていたようだ。事実、小屋からは毎晩「他の子供たち」の泣き叫ぶ声が聞こえたし、男の神威が連れていかれた日には、環奈以外の女の子が犠牲にされていた。折茂は何故か、一日に神威と環奈の内どちらか一人にしか「お仕事」をさせなかったからだ。

 そして神威はいつも必死に「お仕事」嫌がるふりをして、環奈を守ろうとしてくれた。

 ――神威は今、どうしてるんだろう。

 二人が中学生になる頃、性的な虐待は突然止まった。

 その訳は、今なお全く分からない。

 年齢的に、いわゆる幼女好きや少年好きの「顧客」のニーズから外れた為かも知れないが、養父が理由を語ることはなかった。だが彼らは相変わらず小屋に住まわされ、同じ敷地内にある豪華な折茂の邸宅には上がることすらできなかった。

 必要最低限の食事と、ボロボロの断熱材。そして壊れかけのストーブだけが、彼らを生き延びさせてくれた。要するに、ネグレクトという虐待は続いていたのである。

 環奈が高校二年生の時には、二歳年上の神威は工業高校を出て働き始めた。折茂学からは、高校までしか学費は出さないと「通達」を受けていたし、だからこそ彼は資格の取れる工業高校を選んだのだ。

 全ては、妹を大学へ行かせる為に。

 義兄の神威にとって、最早それは唯一にして絶対の行動原理だった。

 神威は働いて得た金で、環奈の大学の入学金や学費を払い続けた。二人は本当の兄妹でもなく、ただ養護施設から折茂家へ一緒に引き取られたというだけの関係だったのだが、神威は「妹を守る」ことを心の支えにして虐待に耐え抜いてきたので、もう他の生き方が分からなくなっていたのだ。

「相変わらずの、既読スルーか……」

 歩きながらスマホのメッセージアプリを見た環奈は、白いため息を吐く。

 現在は手首に映像を映し出して操作するスマートリングが主流になってきているが、手首が隠れる厚手の上着を着ることが多い北国では、スマートフォンも生き残っている。

 彼女が国立の北海道帝都大学を卒業し札幌の大手製薬会社に就職した後、神威とは連絡が取れなくなっていた。

 働いていた工場は音信不通になった一か月前に潰れており、住んでいたアパートはもぬけの殻だった。大学時代は環奈も奨学金を借りて生活費や学費に回していたが、それでも学費の大部分は高卒労働者の神威が払い続けた。つまり、彼にはもう貯金なんてほとんどないはずだ。

「お願いだから、返事してよ。お兄ちゃん……」

 小さな声で悲痛な叫びをこぼしながら、札幌駅の地下街に入る。

 会社での人間関係も上手くいってるし、給料も待遇も悪くない。それでも、環奈は自分の人生を素直に楽しむことができなかった。まるで神威を犠牲にし、彼の人生を奪って生きているような気がしたからだ。

 千歳と遊ぶ時も楽しいし、会社の同僚の男に言い寄られても悪い気はしない。

 でもこの楽しさも全て神威がくれたものだ。高校の時に、汚れた自分が嫌になって始めた自傷行為を止めてくれたのも、彼だった。

 もし男とホテルに行く展開になっても、体の傷を見られたら逃げられるに決まってる。と、環奈は思った。

 性的虐待を受けていた過去を打ち明けても、引かれることだろう。

 環奈は一般的に見れば美形の顔をしている為、異性に好意を持たれる頻度は高い。だが性行為になど嫌悪感しか抱けないし、暴力やレイプで受けた傷は体からも心からも消えない。当然、恋愛などする気にはなれなかった。

 ――あの偽物のクソ親父。お金が貯まったら、絶対に訴えてやる。

 環奈は、静かにそう心に誓う。

「――『脱獄王』こと白石栄太被告は依然逃走を続けており、夕張市のカジノ施設でも目撃情報が――」

 札幌市民には「アピア」の名で知られる札幌駅地下街の一角には、側面に液晶画面が埋め込まれた柱が多数ある。そこから聞こえるニュースが、環奈の頭の中を通り抜けていく。

「――続いては、『不死身男』を名乗る犯人による、連続毒殺事件についてです。昨年から起きているこの事件について、詳しい解説をお願いできますでしょうか? 竹尾教授?」

「――はい。この『不死身男事件』は、本来十年以上前に発生した別の連続殺人事件を指すものでした。つまり現在の犯人は、過去の不死身男事件の模倣犯だと言えます。過去の事件の特徴としては、被害者に数十か所の刺し傷がある点や、男女を問わず性的暴行を受けた跡がある点などが挙げられます。しかし最大の特徴は、犯人が被害者の血液を使って『俺は不死身や』との謎のメッセージを現場に残していたことだと言えるでしょう」

「――その『俺は不死身や』という血文字のメッセージを、今回の事件の犯人も用いていることから、巷では『不死身男が蘇った』などといった噂が流れていますが……」

「――断定しておきますが、有り得ませんね。神戸から始まった過去の連続強姦殺人事件は、結局は北海道で犯人の焼身自殺という形で既に決着がついています。自殺現場の焼死体のDNAと、殺人現場に残されていたDNAが一致したことで、犯人はその焼死体だと確定しています。要するに、科学的に考えて犯人がまだ生きている可能性はありません」

「――つまり、今回の犯人は完全な模倣犯だと?」

「――その通りです。強姦殺人と毒殺という手口の違いからも、それは明らかでしょう。過去の事件と同様のメッセージを用いて注目を浴びようとする、典型的な劇場型殺人の傾向がみられ――」

 なんだか最近、物騒だな。

 地下街をJRの改札に向かって歩きながら、環奈はそう感じた。

 ニュースが報道していた『脱獄王』や『不死身男事件』の他にも、道内では暴力団事務所だけを狙った連続爆破事件や、暴力団幹部の暗殺事件などが相次いでいる。稚内に『宗谷トンネル』が開通して以来、北の大地には殺伐とした空気が流れていた。

 札幌で普通にOLをしている限り、これらの事件に巻き込まれる可能性は極めて低い。しかしシベリア鉄道との合流によって観光地化と建設ラッシュが進む札幌にも、仕事を求めた「無国籍難民」たちが増えて来ており、『難民街』が形成されつつあった。一部の家のない難民は、地上では冬を越せないので地下街にホームレスのように居座り、社会問題となっているのだ。

 家の鍵は、閉め忘れないようにしとこう。

 そんなありきたりな防犯対策を心に浮かべた後、環奈は「SAPICA」を取り出す。札幌を中心に使える、交通系のICカードだ。

 改札が近づき、人混みの密度が増していく。


 そんな中環奈の後ろから、白のタートルネックセーターに黒いダッフルコートを着た男が、殺意を隠した微笑と共に、黒い傘の先端を不気味に光らせながら迫って来ていた。

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