第4話 空白はいずれ終わりゆく
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「あかぴらっ! ゆーごはんわ、びーふしちゅ?」
「ホントそれ好きだな北斗は。んな毎回ビーフシチューじゃねーよ」
北斗が学園にやって来てから一週間が経ち、彼の日本語もかなり上達していた。簡単な意思疎通ならもう問題なく行えるし、何より一度覚えた単語の意味を彼は忘れなかった。
「いやしかし、何だったんすかね。あのピアノ演奏は。実はこの子天才じゃないんですか? ほら、サヴァン症候群でしたっけ? 発達障害とかでコミュニケーションが苦手な子が、超人的な記憶力発揮することあるじゃないですか」
「サヴァン症候群とはまた違うだろ。その場合は言語などの他の分野で知的障害が生じるケースがほとんどだけど、北斗は日本語を『知らなかった』だけで障害がある訳じゃない。現にたった二週間足らずで、ひらがな・カタカナ・簡単な会話をマスターしてる。これはむしろ、常人と同じかそれ以上の言語学習能力があるといえるんじゃないか?」
「んー、じゃあ、普通の天才ってことっすか?」
「そういうことになるな……」
夕飯を終え、二人は食器を片づけながら北斗の正体について議論していた。「ピアノ」という言葉も知らず楽譜も読めないことから、彼が以前ピアノを習っていた可能性は非常に低い。つまり一度聞いただけで、曲のコードを覚えたのだ。
正確には指が動く順番だけを完全に真似たということなので、見て覚えた「目コピ」というべきなのだろうが。
見たものや聞いたものを完全に記憶してしまう。こんな能力を、大林は以前に聞いた覚えがある気がした。
けれども、かなりSF的かつ非現実的な発想だが、例えば彼が人間の記憶力を高める為に実験的に創られたミュータントか何かだとしても、矛盾が生じる。彼が言語を知らなかった理由を、説明できないからだ。
記憶力を分析するならば、三歳児などの早い段階から言語を教え、一般的な児童の能力と比較する必要がある。要はこの場合はむしろ、彼は豊富な知識を持っていなければおかしいのだ。にも関わらず、彼の人間社会に関する知識は、ほぼ「真っ白」の状態だった。
「――十年ほど前に始まった世界規模の『医療革命』により平均寿命が延び、日本の少子高齢化は一層加速しているといわれていますが、そもそもこの『医療革命』とは一体どのような理由で始まったのでしょうか? 前川先生――」
「――そうですね。実はその原因は、はっきりとは分かっていません。しかし創薬業界で劇的な技術革新が生じたのが十年前だと言われています。以来、臓器再生医療の進歩も目覚ましく、性転換技術なども高度化し、妊娠や出産以外なら全てが女性と変わらない肉体を得ることも可能になりました。また『人工子宮』が開発されたことも画期的です。当初は生命倫理の観点から忌避感が強かったこの新技術も、七〇年代に『試験管ベビー』と言われ議論になった体外受精が今や一般的になったように、着実に世間に浸透しています。そして不妊症の夫婦や同性婚のカップルに限りその使用が各国で認められ始めるなど、以前は考えられなかった選択肢が――」
「それで恩恵受けてんのは、金持ちか老人連中だけだべや」
赤平が例のごとく、テレビのニュース番組に対して愚痴をこぼす。
老人が圧倒的多数派になった近年では、介護の予算は増えても子供の福祉に関する補助金は年々減少している。そのせいで、児童養護施設では子供同士のいじめや暴力を防ぐ為に夜勤職員を増やす必要があるにも関わらず、その予算配分は厳しくなるばかりだった。
各政党は選挙の度に教育の無償化を公約にしては、当選した途端に財政の悪化などを理由に先送りにし、約束を果たさぬまま任期を終えるいつもの日本的政治を繰り返している。
「――続いてのニュースです。網走市のカジノ施設から多額の現金を盗んだ疑いで網走拘置所に収監されていた、通称『脱獄王』こと白石栄太被告が、今日未明に再び脱走したとの情報が――」
「また逃げたんかよ、あのハゲ」
「藍ちゃん、ご本よんでっ!」
「はーい。今行くからねぇ」
赤平の批評をよそに、他の皆は片づけを終えていた。食後の遊び部屋では、相変わらず熊切藍は子供たちに大人気だった。
「今日はどれがいいの?」
「だいそーげんの、ちいさな家がいい!」
「『大草原の小さな家』ね。りょーかい」
最近では世界的な名作も、絵本として児童向けに翻訳されている。中でも藍が選んで買ってきた『大草原の小さな家』は、何故か子供たちに人気があった。おそらく「北の星学園」と状況が似ていて感情移入しやすいからだろう。と、大林は考えていた。
実際この学園は稚内市内といっても、市街地から車で二十分ほどかかる「
だが一番の理由は、虐待などで市内で保護された児童が、加害者である親とは別の生活圏で暮らせるようにする為だ。
声問村には小中学校があり、村にもその先にも特に重要な施設はないので、市内の親と偶然出くわすことは通常考えられない。
親の方から、意図的に会いに来たりしない限りは。
「だいそーげんの、ちさないぇー」
北斗は絵本の読み聞かせにも興味深々だった。藍の周りに集まっている数人の児童たちと一緒に、目を輝かせて話に聞き入っている。
だが、彼がどの程度話を理解できているかは定かではない。彼は具体的な人や物の名前を記憶するのは早いが、抽象的な概念を理解することが苦手だ。「友達」という言葉の意味を分からせるにはかなりの時間を要したし、「家族」の意味も未だに理解しているか怪しい。
「はい。今日はこれでおーしまい。もう遅いから、みんな寝ようね」
「やだー! つぎはピノキオ読んで―っ!」
藍が、駄々をこねる子供たちをあやしているその時だった。
北斗が絵本の内容を、最初の一行目から暗唱し始めたのだ。
相変わらず発音は所々おかしいが、話自体は一語一句間違っていない。そして、最後の一文まで絵本を見ることもなく話し終えてしまった。
児童たちはポカンとした顔で彼を見つめている。
「……おいおい、音楽だけじゃねーのかよ。絵本も暗記できちゃうわけ?」
「悔しいなぁ……」
子供たちに聞こえぬほどの、微かな声でそう呟いた熊切藍は、
これは理解力や知能には問題がないにも関わらず、文字の読み書きが上手くできない障害だ。原因は遺伝性だと考えられており、文字を情報として処理する脳の領域を上手く使えないのである。しかしハリウッドスターのトム・クルーズやキアヌ・リーブスなど、失読症を克服して大きな業績を残している人間も多数存在する。
藍の場合は、ここ数年で電子書籍化が進んだ「デジタル教科書」の読み上げ機能を活用して覚えることで、大学受験などを乗り越えて施設の職員となった。施設にある絵本も全て、大林が音読したものを録音して暗記していたのである。
だが北斗は、たった一度聞いただけで暗唱してしまった。
「……彼と自分を比べるなよ。藍くん。君の努力と母性で、どれだけ子供たちが救われてきたか分かっているかい? 北斗の能力は確かに凄いが、それは君の朗読と代替可能なものでは決してない。君の普段の努力と素晴らしい人間性のおかげで、ここは子供たちの帰れる場所になってるんだ。まさに母親と呼ばれても仕方ないほどさ。北斗がいくら君の動きを完全にコピーできても、君自身にはなれない。君は君だ。だから自分を卑下するなよ」
職員用の部屋に戻った後で、大林は沈んだ様子の熊切に話し掛けていた。
「おーおー。藍ちゃんがヘコんだ時だけは、なまら熱心にフォローしますねぇ園長。オレもたまには褒めて欲しーなぁ。もう、とっとと結婚すりゃあイイのに」
「なっ……お前、バカっ! 彼女の前で何いってるんだ! それに俺は園長だぞ?」
「出た! 園長のクソ真面目! まぁた立場とかパワハラとかセクハラとか気にしてんすか? もう相思相愛なの子供らにすらバレバレでしょ。みんな「まだ結婚しないの?」って聞いてきますよ」
「おうっぱやしぃーは、アイちゃんとけっこんする? みんなのおとーちゃになる?」
いつの間にか部屋に侵入していた北斗が、火に油を注ぐ。藍の頬は真っ赤に染まり、絵本に顔を埋めて表情を隠そうとしていた。
「北斗、勝手にこの部屋に入って来ちゃダメだ。それに俺の名前の発音は『おおばやし』だ。『おうっぱやし』じゃない」
大林は、結婚を勧める流れに必死に逆らい、誤魔化そうとする。
「おーば、おっぱ…………おっぱばやし?」
「なぜそうなる」
「おっぱ
「もう一回言ったら懲戒解雇だからな赤平」
「うわー、職権乱用。ブラック養護施設」
「おっぱばやし、おとーちゃ!」
「北斗、残念だけど俺はお前の本当のお父さんじゃないんだ。でもお前がここに来る前には、親と暮らしてたはずなんだ。名前、言えるか? お父さんとお母さんの名前」
北斗は首を振った。大林の言葉の意味が通じていないのか、それとも通じているが親の名を覚えていないのかは判然としない。
「おとーちゃは、いっぱいいた。おかーちゃは、いなかった」
「は?」
何人もの男を相手にしている娼婦や尻軽女が母親の場合は、子供が「父親は沢山いた」と勘違いすることはあり得る。だが母がいないのに父親が複数人いたとはどういう状況なのか、大林は理解に苦しんでいた。
代理母か『人工子宮』から生まれたゲイカップルの子供だとしても、「いっぱいいた」という表現は少しおかしい。北斗は、数の概念に関しては割合正確に理解しているからだ。たった二人なら「いっぱい」という言葉は使わないはずだ。
「やっぱ『家族』って言葉の意味は、まだ正確に理解してないんすかねぇ」
「アイちゃ……くまぎりぃアイちゃんわぁ、おかーちゃ!」
「あら……違うんだけど、嬉しいな」
「おーおー、お似合いのご夫婦ですこと。焼けるね~」
大林が父で藍が母ということは、北斗の目にも二人は夫婦に見えているのだ。もっとも、彼がまだ夫婦と言う概念を理解しているかは怪しいが。
だが藍の方は三テンポほど遅れてその意味に気付き、また赤面する。
「あかぴらわぁ……あかぴら!」
「なんでよ! オレにもなんか役職くれよ! まだ「お兄ちゃん」とか残ってるべや!」
「お父さんか……まぁ、悪い気分じゃないな」
大林は、周りに聞こえない程度の声でそう口にする。
この子が何者であろうと、一つだけ分かっていることがある。
子供たちは、幸せになる為に生まれてくるのだ。
そしてこの子も、例外じゃない。
「おとーちゃ! おっぱばやし!」
その語感が気に入ったのか、北斗は何度も大林の名を叫び続けていた。
人生の悲劇の第一幕は、
親子となった事に始まっている。
芥川龍之介
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