参
次の日は横山と共に会社に向かった。2人はまず、休憩室に行った。昨日の飲み会の後はきっちりと片づけられている。でも大事なのはそこじゃない。鈴蘭の動きは、テーブルの上のある物を見た瞬間、止まった。
「松坂の…携帯…」
何故か松坂の携帯だけがそこにあった。仕事で使う都合上、松坂が置き忘れて行ったとは考えられない。
「ねえ」
横山が鈴蘭の肩を叩いた。
「ねえってば。2人はここで寝たんだよね?」
「そう…だけど?」
横山の表情はどこか怯えていた。しかしどうしてなのか考える余裕は、鈴蘭にはなかった。
「地べたで寝たの?」
え?
その時、鈴蘭はあるはずの物がないことに気が付いた。
「ソファだ。ソファがないんだ…」
でもどうして? そこまで重くはないだろうけど、酔ってた2人が運び出したとは思えない。いや、動かす理由がない。
だが松坂の携帯はある。
「あるはずない物があって、ないはずの物がある…」
説明がつかないこの現状。2人は恐怖で動けなかった。
松坂の携帯を持って、鈴蘭は自分の部署に向かった。もちろん横山も連れて行く。何かに横山が巻き込まれて欲しくないからではなく、1人では心細すぎるからである。
「本当にこのまま、デスクに向かうの?」
横山が言う。自分の部署に戻れば、桜井はいるだろう。彼に聞きたいことがある。
同時に、桜井に対して恐怖心もある。飲み会で一瞬見せた表情の曇りが頭を離れない。
階段を上って廊下を渡って、いよいよ自分の机に着いた。机は、いや部署自体は、松坂がいないことに目を瞑れば昨日のままだ。
「特に問題は…ないみたいだ」
鈴蘭は隣の松坂の席に横山を座らせた。そして自分も席に座った。そして黙って、松坂の携帯を見ていた。開こうにもパスワードがわからない。ボタンを押しても、松坂の家族の写真しか表示されない。この携帯からは何もわからないが、きっと大事な物のはずだ。
「ねえあなた」
横山が鈴蘭の肩を叩いた。
「変じゃない?」
「何が?」
特に変わったことはないはずだが…?
「あなたの仕事仲間はみんなお寝坊さんなの?」
横山は壁にかかっている時計を見ていた。時刻はもう10時を回っている。ボーっとしていて気がつかなかった。
「みんなが出勤してこない?」
いつもと違うことがあった。課長も係長も、部下も誰もこのオフィスにいないのである…。
鈴蘭は携帯を懐にしまうと、立ち上がった。会社の他の部署を見に行くため、いやこの場にいるのが怖くなったためである。横山も連れてこの場から逃げ出そうとした時、
「やあおはよう。鈴蘭の
桜井が立っていた。
「…や、やあ、桜井…。」
声が震える。彼に聞かなければならないことがあるのに、1つも口から出て行こうとしない。
「今日は横山さんも一緒なのか。僕がワザと入れた、偽のチラシにまんまと釣られたね」
桜井が喋りながら横山に近づく。
「ねえ横山さん。鈴蘭が何も喋ろうとしないから君に聞くけど、僕に何か言うことがあるんじゃない?」
鈴蘭は横山の方を見た。横山は怯えている。でも口を開けた。
「松坂さんはどうしたの? 何で誰も出勤してこないのよ?」
聞かれた桜井は懐に手を突っ込む。取り出したのはコンパスのような何か。
「この世にいないんじゃない? もう既に、旅立っちゃったとか?」
そんな答えを返した。
「ど…どういう、意味?」
流石に見ていられなかった。鈴蘭は叫んだ。
「桜井! お前、昨日何をしたんだよ?」
はたしてまともに答えてくれるのだろうか…。そんな心配をよそに、桜井は語り出す。
「並行世界って知ってるかい? この世界とよく似てるけど違う世界。そんなものがあったら随分と面白いんだけどね」
何を語ってるんだ桜井は…。
「僕は必死になって研究したんだよ。もっとも君たちは否定することしかしなかったけどね。あの松坂みたいにさぁ?」
確かに飲み会で、松坂は桜井の考えを否定した。でもそれだけで人を殺める何て、流石の桜井にもできないはずだ。
「いや、できる。ちょっと違うな。殺してはないよ。この世界から出てってもらっただけだ。これを使えば、誰だって別の世界に行くことができるのさ。でも、帰っては来られない」
桜井はコンパスのカバーを外し、針を回し始めた。それが何を意味するのか、鈴蘭には全く理解できなかった。
「横山さん。鈴蘭なんかより僕と一緒に暮らさない? 君のような女性を見てると、とても興奮するよ」
手を差し伸べてきたが、横山は拒否して桜井の頬を叩いた。
「あんたみたいな人は、お断りよ!」
「そうなんだ。じゃあもったいないけど、残念だね」
コンパスから針を取り出し、それを桜井は横山に当てた。
チクリ、と音がした。それだけのはずだった。
目の前から、横山が消えた。
「……」
開いた口が塞がらないとは、このことだ。何が起きているのか、そもそもコンパスが何なのか、桜井の言動すら不明だ。
「鈴蘭、どうする? 愛する横山さんがこの世界から消えちゃったよ~?」
答えることができなかった。そこまでの余裕がなかった。
「何だ感想も教えてくれないの? じゃあ君も、消、え、る?」
コンパスの針を自分に向けた。そして桜井は迫って来る…。
あの針に刺さるのは危険だ、自分の本能がそう言っている。だが動揺し過ぎて思うように動けない。
桜井が突進してきた。そして針を自分の胸に突きつける。痛みは感じなかった。
針が折れた。桜井が狙ったのは左胸だったが、そこには松坂の携帯が入れてあったからだ。携帯の強度に針は勝てなかったのだ。
この機を逃せばチャンスはもうない。懐から重みが無くなったのを感じる。携帯が、横山のように消えてしまったのだろうか?
頭ではそんなことを考えていたが、体は折れた針を掴み取って、桜井の腕を刺していた。自分でも信じられない反射。だが…。
痛い。
もう半分の針は桜井がまだ持っており、その半分の向きを変えて、鈴蘭の頬を刺した。
刺し違えた。それが、この世界での最後の記憶。
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