詩と花
四つの空を見せる神殿跡に辿り着いてから様々なことを試した結果、ある程度情報を整理することができたが進展はまるでない。
さらに神殿跡の外に出ることはできないということも発覚した。端に向かって歩いて行くと、知らない間に反対側に出てしまうのだ。
そんな風に何もできずに時間だけが無益に経過していく中で、四人の中にもどこか諦観したムードが漂い始めていた。
リョウタロウは睡魔と戦うように何度も目を強く擦り、欠伸を必死で噛み殺している。
シオリはまたもや飢餓状態に陥りつつあるようで口数が減り、喉の渇きを誤魔化すように首元を手でさすっている。
そしてシンジが最も危険な状態になっていて、彼は三人から露骨に距離をとり、神殿跡の端にある柱の裏側に座り込んでしまっていた。
これはもしかすると結構危機的状況かもしれない。
酷暑や積雪の世界ならまだしも、現在は夜の世界下にいるのでべつに疲れはしない。
唯一課せられた重荷を最小限に抑えていると言っていい私は、完全に団結力を失ってしまったチームに憂慮を抱いていた。
「あ、あの、やっぱりもう一度鍵を試してみませんか? 何か変化があるかもしれませんし」
「……んあ? なに言ってんだよ。手掛かりを掴むまで、鍵を試すのは止めるって全員で決めただろ?」
「……そうだよツカサー。あともう一回失敗したら、あたしたち脱落になっちゃうかもしれないんだよ?」
「だけどこのままではまずいと思います。私たち、完全に行き詰っているじゃないですか」
「そんなこと言われてもなぁ。まだレースが終わってないってことは、もう一つのチームも俺たちと同じでここで詰まってるってことだろ? ならべつにいいんじゃねぇか?」
「うんうん。それにもしかしたら、待ってれば残り一つのチームも自滅してくれるかもしれないしね」
あれほど行動力と決断力に満ち溢れていたリョウタロウは精神的苦痛を溜め込んだ結果なのか、すっかり意気消沈としてしまっている。
あくまで楽観的なシオリが口にした台詞、可能性は、そっくりそのままもう一方のチームも考えついているものな気がして、私はむしろ不安を募らせた。
なんとも嫌な流れだ。
もうひとつのチームの自滅を待つ。これは絶対にもう一つのチームも同じこと考えているはず。
もしこのまま互いに行き詰ったままだとどうなるのだろうか。一生ここに箱詰めなんて私は我慢できない。
何か変化を、行動を起こさなければいけない。
直感的に焦燥を抱いていた私は、どうにかしてこの現状を少しでも前に進めたい、ヒビを入れる程度で構わないから打破したいと思っていた。
しかしどうすればいいのだろう。
こういう時、いつも柔軟な発想で私たちに道を示してくれたのはシンジだった。やはり彼の力がいる。どうにかしシンジの不調の原因を取り除かないといけない。
三人から離れ夜の端に身を隠しているシンジの方を見つめながら、私は彼が存在感を失っていることが今最も解決すべき問題だと考える。
他人とは異なった、独特の視点から物事を見る希有な能力を持つシンジは、これまで何度も私たちを導いてきた。
しかし今や彼は思考すら放棄し、ひとりで何かに耐えることで精一杯になっている。そんな彼を復活させることが、この閉塞感漂う状況に亀裂を与える数少ない手段であると私は信じて疑わない。
「あの、二人とも。やっぱりシンジさんを助けてあげるべきだと思うんです。シンジさんも私たちみたいに、何かしらの重荷を背負わされてるはずですので、仲間の私たちにできることがあるならやってあげましょう」
「アマツカ? ……へっ、知らねぇよあんな奴。本人が大丈夫だって言ってんだからほっとけよ。だいたい仲間だって? 俺はたしかにお前とセラは仲間だって認めてるが、正直言ってあいつのことは認めてねぇよ。そもそも、あいつの方が俺たちを仲間だと思ってないだろ」
「うーん、あたしもシンジくんのためにいま何かしてあげるつもりは起きないなぁ。というより、何をして欲しいのかわかんないし。まあ、彼が優秀な人なのは認めるけどね」
しかしリョウタロウとシオリの反応はあまり芳しいものではなかった。
シンジを救うために力を合わせようと私が直接提案しても、二人は不機嫌そうに口を曲げるだけだ。
これは困った。どうしたものか。
想像以上に二人の心がシンジから離れてしまっている。
失敗したな。もっと傷が浅い内になんとかするべきだった。このままでは本当にここで終わってしまう。
少なくともゲームの開始当初は、仲が良いとはいえなくとも悪くはなかったはず。
仲間としての絆がかろうじてあったはずだけど、今やその信頼の糸はいつ切れてもおかしくないほど傷んでしまっていた。
頑なに自らの心内を明かさないシンジの態度に、リョウタロウもシオリも腹に据えかねる想いを抱いていて、きっとその些細なすれ違いの積み重ねによって、今や信頼関係が修復不可能な領域にまで到達しようとしているのだ。
「……間違ってます。二人はシンジさんのことを勘違いしています。あの人は二人が思っているような冷たい人じゃないのに」
いまだに私はシンジを全面的に信用している。それは洞窟で私が崖から落ちた時に交わした会話と、たしかに目にした無邪気な笑顔がその理由だった。
雨にも負けず。シンジは私を励ますために、私みたいな人になりたいとまで言ってくれた。
だったら今度は私が彼を助ける番だ。言葉だけだとしても、彼が憧れてくれた私にちゃんとなれるように。
覚悟を決めた私はシオリとリョウタロウに踵を返し、シンジがいるはずの方に向かって一人で歩いていく。
どうすれば彼から苦悶を取り除くことができるのか、まだ私には把握できていなかったけど、考えるよりも先に身体が動いたのだ。
「シンジさん?」
シンジがうずくまっていたはずの柱までやってきたが、彼の姿は見つけられない。
淡い月光だけを頼りに視界の悪い闇の中を注視してみても、白皙の肌をした黒髪の少年は探し出せない。
彼はどこに行ってしまったのだろう。
足下の鍵を踏みつけながら、私は闇の奥にどんどんと進んでいく。
思い返してみれば、洞窟の時は暗闇の中で私が探される側だったのに、今は立場が逆転していて、それをほんの少しだけ不思議に感じた。
「あの、シンジさ――」
――その時、突然何者かによって口元抑え込まれ、後ろ側へ力強く引き摺り込まれ私は倒れ込んでしまう。
完全に油断していた私は、自分の身に何が起きているのかさえ認識できずに、ただされるがままに石床に組み伏せられる。
腰の上に素早く誰かがまたがってきて、私の両手首が堅く固定された。
何がどうなっているのかわからない。
前兆のなかった急な出来事に混乱するが、目と鼻の先まで近づけられた襲撃者の顔を見て、私の戸惑いは一気に急冷される。
「……シンジさん、なんですか?」
私の身体の上に馬乗りになっているのは、間違いなく探していたアマツカシンジその人だった。
しかし彼の黒い瞳は真っ赤に充血していて、どうにも正気を保っているようには思えなかった。
「すまない、マキさん。こんなことをするつもりはなかった。でももう限界なんだ。僕はずっと誰にも迷惑はかけないと我慢していたけど、もう無理みたいだ」
シンジは謝罪の言葉を口々にしながら、熱のこもった吐息を私の顔に吹きかける。
彼の細身の身体からは想像できないほどの力が全身に圧し掛かっていて、まるで身動きがとれそうにない。
「……もしかして、これがシンジさんの重荷?」
「あぁ、その通りだよ。これが僕に課せられた十字架さ。マキさんが肉体的苦痛、ツキモトくんが精神的苦痛、セラさんが肉体的飢餓だとしたら、僕は精神的飢餓だ」
倒れ込んだ際に取れたのか、私のシャツのボタンが幾つか外れていて、控えめな谷間が覗いてしまっている。
その無防備な胸元をシンジは舌なめずりしながら見つめていて、欲情に鼻息を荒くしていた。
「セラさんが結局水を飲むだけで満たされた例を見て分かる通り、この飢餓は特に“渇き”の欲望が強い。つまり僕の精神的飢餓も、言い換えれば精神的渇きってことになる。どんな人でも必ず抱く心の、感情の渇き。この意味がわかるかい?」
「……四人分の性欲を、シンジさんはずっと引き受けていたということですか?」
「大正解だ。今の僕は
理性をほとんど失いかけているシンジを真っ直ぐに見つめながら、不思議と私は静穏な心持ちを保っていた。
思い返してみれば、一番初めに明確な変調をシンジに対して感じた時は、彼がシオリを背負い、私と肩が触れ合うほど近づいていた時だった。
あの時からずっと彼は、私たちをこうして組み伏せたい衝動と闘い続けていたのだ。
だが彼は並外れた理性を持って、それを無理矢理抑え込んでいた。
そのせいで自らがどれほど心的ストレスを受けようとも、仲間から負の感情を持たれようとも、決して自らの頭の中で暴れる獣を解き放とうとはしなかったのだろう。
それは私に置き変えてみれば、他者の四倍疲労溜めやすいのにも関わらず、ここまで一度も休むことなく走り続けてきた事と同義になる。
「まったく君は本当に困った人だよ。せっかく僕が自分の限界を悟って、距離を置いてたのに、なんでノコノコと近づいてくるんだ。しかもよりにもよってこんな闇夜の中、一番僕の衝動が疼くタイミングで」
喉の奥から絞り出すようにしてシンジは言葉を絞り出す。
沸騰した瞳は内出血しそうなほどで、彼が今も寸でのところで自らの枷を押しとどめているのが私にもわかった。
「……ごめんなさい、シンジさん。シンジさんの苦しみにもっと早く気づくべきだったのに」
「っ!」
強い眼差しを持って私はシンジに謝る。
私は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
普段は涼し気なポーカーフェイスを貫く彼に、今にも泣き出しそうな、発狂しそうな表情をさせてしまっていることを私は心の底から悔しいと思っていた。
「だから、シンジさん……」
「駄目だ。駄目だよマキさん。僕のことを拒絶してくれないと。それ以上僕を、そんな慈しみに満ちた目で見つめないでくれ」
すっと強張っていた身体から力を抜くと、私は大きく深呼吸し、見つめないでくれと言われたので瞳を閉じる。
この先に進むために、私は彼を必要としている。
それゆえに彼が私を必要とするなら、その全てに応えるべきだと思った。
「……私は、構いませんよ」
刹那、目の前で何かが弾け飛んだ。
ゲームが始まってからずっと溜め込まれ続けていた衝動がついに解放されたのだろう。シンジが擦りつけるようにして自らの唇を私のそれへと押し付けた。
「ん……あっ……」
舌を口腔に力任せに押し込まれ、ある程度の張りがある胸部と柔らかな臀部をそれぞれ手で何度も揉みしだかれる。
唾液が絡ませられ、息をすることすら忘れたように私の全てを彼は貪り尽くそうとする。
そうやって本能のまま唇を重ね合わせて、どれほど時間が経過しただろうか。
やがてホワイトアウトしていたシンジの意識が戻り始めたのか、彼は慌てて私の身体から自分の身を離した。
「……ご、ごめん」
「……いえ。べつに大丈夫です」
蕩けたような目つきでぼんやりとした返事をする私を眺めながら、シンジは茫然自失の状態になっていた。
さっきまで暴れまわっていた悪魔が嘘のように姿を潜めていて、彼は不運にも自らがつい今さっきまで何をしでかしていたのか冷静に考えるだけの精神的余裕を取り戻したらしい。当然私が彼を責めることはない。
正気を取り戻したシンジは、自責の念に駆られたのか身体中を掻きむしっている。
私もまだ熱が残っている唇に指をそっと触れてみれば、全てが自分の妄想ではなく、実際に起きてしまった現実なのだと理解できた。
「……私、その、初めてだったんですけど、たぶんこのゲーム中の出来事だから、ノーカンですよね?」
「え? あ、うん。そうだと思う。それに、僕も一応初めてだったから」
「そうなんですか? 意外です。シンジさんって、結構女子から人気ありそうなのに。頭も良いし、顔も悪くはないですし」
「買い被り過ぎだよ。だいたい、僕は異性の知り合いだってほとんどいないよ」
どことなく気まずい微妙な空気の中、まだ甘ったるい味が残る舌先を必死に動かして、私は言葉を紡ぐ。
頬が熱く、胸騒ぎが止まらない。
シンジの顔を真正面から見ることができない。それは私がこれまでの人生で一度たりとも抱いたことのない初めての感覚で、熱に浮かされるような心情にうまく対処できずに私は狼狽えていた。
「僕はさ、幼い頃から病気がちで、友達もまともに作れなくて、このゲームみたいに海辺を走ったり、山の中を駆けまわったりなんてしたことなかった」
その得体の知れない情動を抱いているのは私だけではないようで、シンジもいつもより軽くなった口を滑らかに動かし始める。
「だから僕はこのゲームをきっと楽しんでたんだよ。正直言って、終わらないで欲しいとすら思ってた。僕はこれまでずっと、自分のためだけに生きてきた。だけどここでは僕は他の誰かの役に立てる。僕も自分以外の人のために生きることができる。なんていうのかな、いつも病室で横になってるばかりだった現実よりも、よっぽど生きてるって感じがしたんだ」
ゲームの中で、時々誰よりも生き生きとした表情を真実が垣間見せていた理由を、私はここで初めて知る。
私が自分以外の誰かのために生きることしかできなかったように、彼もまた自分自身のためにしか生きてこれなかった。
どちらが正解とかではなく、他に選択肢を見つけられなかった。
痛みを感じず、疲労を気にすることもなく、自由に動き回れるこの世界は、彼にとって現実よりもよっぽどリアルを知ることができる場所で、そして生きるための理由を自分の意志で選べる初めての場所だったのだろう。
「……でもここには、ペンも紙もありませんよ」
「え?」
しかしそれでも、私はこれ以上ここで足踏みをしてはいけないと思った。
たとえ現実の方がつらく、厳しくとも、この箱庭の中で立ち止まることだけ決して認めなかった。
「私、シンジの小説、読みたいです。だから、帰りましょう。前に、進まないと」
前に進もう。
私の言葉には言外のメッセージが込められていて、頭の良い彼はその事に正しく気づいてくれた。
空を見上げてみれば黒一色で覆い尽くされていて、星々の輝きはどこにも見つからない。
もしこのままゲームを延々と続けていても、前には絶対に進めない。
この世界では彼は痛みも、疲れも、空腹も、眠気も感じることができない。
それは少しだけ生き苦しいはずだと思った。
「……そうだね。行こう。扉の向こう側に」
シンジはいつの間につけたのか、掌に薄く滲む小さな傷を見つめている。
奇妙なことに、その傷は私の掌からは見つけられなかった。
「“
「……詩、ですか?」
ふいにシンジは夜の空のように穏やかで静かな目をこちらへ向けると、私の知らない詩を詠ってみせる。
深く、淡い、藍色の眼差し。
彼の瞳に映り込む私は、不思議と美しく見えた。
「中国の白居易という詩人の残した詩の一つだよ」
「どんな意味なんですか?」
紫陽花に似ているといわれてから、私は自分のことが好きになれないでいた。
そんな私の卑下た心を見透かすように、菖蒲に似た微笑みをシンジは浮かべている。
「“せっかく人の世界にやってきたのにあなたの名前を誰も知らない。だからあなたに紫陽花という名を与えよう”。白居易が名も知らないとある紫色の花に魅了された時に、この詩を詠んだんだ」
冷たい雨が降り注ぐ梅雨。
薄暗い初夏に顔を伏せれば、いつもそこには強く美しく咲き誇る花がいた。
「マキさん、君は紫陽花に似ている。僕は花言葉とかは知らないけれど、素直にそう思っているよ」
きっとそれは彼なりの感謝の言葉。
それでもやはり私はまた救われてしまう。
紫陽花に似ているといわれたから、私は自分のことが好きになれそうな気がしていた。
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