苧環に似ている
水滴が顔にかかる感覚で、私は意識を取り戻す。
呼吸をしようと口を何度か動かすと、砂の不愉快な舌触りが感じられた。
なんとか私はまだ生きてるみたいだ。
本当に丈夫な身体だと思う。また痛みで気絶してしまったみたいだけど、気を失うのにも慣れてきた。
やっと本格的に覚醒してきて、私の脳内も次第に明瞭になっていく。
両手を地面につけて起き上がろうとすれば、少し掌が沈んでいくのがわかる。
芯まで冷え切った身体には時折り波がかかってきている。耳を澄ませば水と水がぶつかり弾け飛ぶ飛沫音も聞こえてきた。
「……結構私高いところから落ちたんだ。なんか私って、崖から落ちてばっかりな気がする」
どうやら私は川岸に打ち付けられていたようだった。
上流の方に顔を向けると、数十メートルはくだらない高低差の滝が見えた。おそらくあの滝の上から自分は飛び降りたのだろうと私は予想する。
あれほどの高さから落ちれば、たとえ下が水であろうとも身体が無傷で済むとは到底思えなかったけど、シンジの予想がやはり正しかったようで私の身体には今回も傷一つついていない。
「でもやっぱりちょっと疲れたな。だけどあんな全力疾走したのなんて、小学生の運動会以来だもんね。そりゃそうか」
意識が元に戻ったけれど、まだ完全に立ち上がることができていない。
それは全身に重く圧し掛かっている疲労感のせいで、再び山中を歩き回れるようになるまでは時間がかかりそうだった。
周囲を警戒に見渡してみるが、私をここまで追い詰めた元凶である機械仕掛け怪物の姿は目に入ってこない。
その事に少し胸を撫で下ろしつつ、この先自分がどう行動するべきか考えることにした。
とりあえずはシンジとシオリに合流する必要がありそうだ。
勢い任せで行動したことの結果は成功と言っていいものだったけど、いかんせん計画の不備が多くその事に私は後悔を覚える。
それでも何とか意識を切り替えると、やっと歩くことができる程度には回復した身体を立ち上がらせる。
川に流されたせいで服は水分を多量に含み重く、身体中の熱が奪われていくという非常に悪いコンディションなのは間違いなかったが、だからといっていつまでもゆっくり寝そべり続ける余裕はなかった。
あの二人がどこにいるのかはわからないけど、とりあえず頂上を目指そう。あの変な怪物にまた出くわさないように気をつけながら、いったんは滝の上まで戻ることにしよう。
私は頬を二度と叩き自らに気合を入れると、しっとりと濡れた長髪の毛先から雫を零しつつも再び前に進み始めた。
歯車で器用に関節をかたどった虎の追跡から命からがら逃げきった私は、自分が飛び降りた滝の麓までやってきていた。状態次第では、直接壁をよじ登ることができるのではないかと考えたからだ。
だけど岩肌を見る限り、私の運動能力ではそれは困難であろうとすぐに理解できた。一つ目のアイデアは無意味に終わる。
ただしその代わりに、私は意外なモノを滝壺付近の岩場で見つけ、嬉しいような、困惑するような複雑な気持ちでいっぱいになっていた。
「……リョウタロウさん、ですよね?」
男性にしては長めの前髪を濡らし顔に張り付け、仰向けで倒れ込んでいる一人の青年。
その青年の整った顔と高い背丈は馴染み深いもの。
どう見てもメンバーの一人で、シオリの飢餓を癒すものを探しに行ったまま行方不明になっていたリョウタロウで間違いなかった。
「あ、あの。リョウタロウさん? 大丈夫ですか? 生きてますか?」
口を半開きにして、瞳を閉じたままのリョウタロウにおそるおそる近づき声をかけてみるが、反応はない。
尖った岩礫に頭をぶつけて気を失っててしまったのか、耳元で何度か名前を呼んでみても、一行に起きる気配がなかった。
「リョウタロウくん。私です。マキです。マキツカサです。起きてください。朝ですよ」
まるで目を覚ます様子のないリョウタロウの頬を指でつついてみたり、つねってみたりするが、それでも微塵も反応はしない。
この極限状態の中であっても体力の消費がほとんどないはずの彼が、私以上のここまで深い眠りにつくことを不思議に思った。
それにしても、改めてこう見るとやはりリョウタロウの顔には見覚えがあった。しかもそれほど昔のことじゃない。ついごく最近、彼のことを見た気がしてならない。
いつまで経っても目を覚まさないリョウタロウの両頬を指でつまんで、自由自在に変形させながら私はずっと心に引っかかっていた感覚についてふと考えてみる。
涼し気な切れ長の目に特徴的な鷲鼻。
平行な唇から発せされるバスの声も、たしかに聞き覚えがあった。
でもツキモトリョウタロウという名前には覚えが全くなく、また彼の方もマキツカサという少女に心当たりはまったくないという。
間違いなく初対面のはずなのに、なぜこうも初めて会う気がしないのか。私はいくら考えてもその答えが出せず、どことなく落ち着かない気持ちだった。
なんだろう。
モヤモヤするな。
しかもなんとなく、この人の顔を見たのは一回じゃない気がする。幼い頃の同級生で、もしかして姓が変わったりしているのだろうか。だけどこの人は私のこと全然知らないみたいだし。
いや、それは単に私のことを忘れてるだけかもしれないのか。もしそうだったら若干切ないけれど。
自分の方は覚えが少しあるのに、向こうが全く自分を覚えていないようなので、腹いせにリョウタロウの顔を好き放題に弄り回す。
端正な顔立ちを、思うままに変顔にさせるのは中々に気分の良いものだった。
「……というか全然起きないなリョウタロウさん。本当に生きてる?」
しばらくリョウタロウの変顔ショーを堪能した私は、じわじわと不安を覚え始める。
ここまでしても一向に目を覚まさないのは、もはや異常といえる。
もちろん、私自身が生きていることから、彼もまた命に別状はないはずなのだが、そうだとしても睡眠が深すぎる。
「リョウタロウさん。起きてください。今すぐ起きてください。早く起きろ。目覚めろ。このイケメンヤンキー。いつまで寝てるつもりですか」
ぺチン、ぺチンと、小気味の良い音を立てながら、私はリョウタロウの頬を手で打ちつける。
こんな状況下にも関わらず、気持ち良さそうに眠り続ける彼にいい加減私は我慢の限界だったのだ。
どうせ痛みは大して感じないのだと、リョウタロウの頬が少し赤く色づくことにもお構いなしで一心不乱に平手打ちをし続ける。
「ほら。ツキモトリョウタロウ。ふざけてるんですか。今はレース中です。ここはあなたのベッドじゃない。成長期のつもりですか。これ以上大きくなってどうするつもりですかね。早く起きろオラ」
ベチン! ベチン! と段々と私の手に力が入り出す。
まさか自分の人生で男性相手に本気で平手打ちをする機会を得られるとは思ってもみなかった。
「……うぅん?」
「あ、起きた。リョウタロウさん。私です。マキツカサです」
するとやっとリョウタロウの方に反応が示され、私は慌てて彼の顔を上から覗き込む。
ゆっくりとこじ開けられる長い睫毛の瞼。
しばらくの間焦点を合わせる事に苦労していた瞳がじきに定まると、彼は不審そうな声色で目覚めの一声を放つ。
「……なんだよマキ。夜這いか? 見た目に似合わず肉食系だったんだな、お前」
「よばい? ……ち、違いますよ。なに言ってるんですか」
リョウタロウの寝起きの一言の意味を時間差で理解した私は、顔が耳まで熱くなるのを自覚しつつ勢い良く飛び退いた。
「わ、私は、ここでリョウタロウさんが気絶していたので、起こすのを手伝ってあげただけです」
「へぇ、そうかよ。てっきりそんな格好してっから、襲われてんのかと思ったぜ」
「そんな格好って……きゃ!? さ、最低ですね。この変態。見損ないました。シオリに言いつけてやる」
「変態ってお前……つかお前そんなキャラだったか? まあ最初の方のウジウジナヨナヨっぽい感じよりマシだけどな」
じっと自らの胸元辺りを見つめながら呟かれたリョウタロウの言葉の意味が一瞬わからなかったけど、それは改めて自分の今の状態を確認すればすぐにわかった。
元々私の服装は白いシャツに黒のスキニーだけという非常にシンプルなもの。
それがつい先ほどまで川の水に全身浸されていたのだ。いくら白シャツが比較的厚手なものだとしても、服が私の肌に張り付き透けてしまうのは仕方のないことだった。
「そ、そんなにこっちの方見ないでください」
「べつに見てねぇよ。自意識過剰かてめぇは。だいたいお前みたいなチンチクリンの餓鬼に誰が欲情するかってんだ。自惚れんな」
「チンチクリンの餓鬼って……私とリョウタロウさん、同い年じゃないですか」
たしかに私は同年代の中で、特別スタイルが良い方ではないけど、だからといって平均を著しく下回っているわけでもない。なので自分の浮き出たボディラインを目にしておいて、照れの一つもしないリョウタロウに、私は少し落胆しないこともなかった。
私だって、そこまで小さくないのに。それは姉とかと比べたらあれだけど、少なくともシオリとかには勝ってると思う。
そんな風に私が心の中でさりげなく友人の一人に対して失礼な発言をしていると、ふいに私の方に何かが投げ渡される。
手に取ってみればそれは私が着ているものと、サイズの差こそあれど全く同じシャツだった。
「それでも着てろ。ないよりはマシだろ」
「でも、悪いです。リョウタロウさんが寒いじゃないですか」
「馬鹿かてめぇは。俺は寒くない。俺の寒さは、俺の肉体的苦痛は全部お前が背負ってんだろうが」
「あ、そういえばそうか」
見ればリョウタロウは上半身裸になっていて、どうやら彼が着ていたシャツを私に貸してくれるらしかった。
寒さが気掛かりだったが、冷静に考えてみれば、暑さや寒さなどの痛みは自分以外のメンバーはほとんど感じないのだ。
「えと、じゃあ、お言葉に甘えて、お借りします」
「おう。着とけ着とけ」
筋骨隆々とはいえないが、無駄な脂肪が全て削ぎ落されているリョウタロウの上半身を真っ直ぐに見やるのがやけに恥ずかしかったが、なんとなくその羞恥を抱くのが悔しくて、私は全く気にしていないふりをした。
「そ、それにしてもリョウタロウさんはなぜこんなところに? それに自分じゃ気づいてないかもしれませんが、やたらと熟睡してましたよ? 起こすの大変でした。リョウタロウさんは疲れを感じにくいはずですよね? どうしてあれほどに熟睡を?」
「あー、そうなのか。やっぱり俺は眠りこけてたんだな。俺を起こしてくれたことには感謝するぜ。ありがとな、マキ」
「いや、べつにいいんですけどね」
「その点に関しては俺にもわかったことがある。それは歩きながら説明する。察するに、アマツカとセラはこの滝の上だろ?」
「え? あ、はい。そうです」
はぐれる前に比べて、どこかリョウタロウが冷静になって、感情に落ち着きを得た印象を受ける。
私もまた彼から見れば十分に変化しているのだろうか。確かめることはしない。
「それと、もし途中でまた俺が眠り出したら、その時は頼む。……おそらく俺に課された重荷も“苦痛”だ」
「苦痛? でもそれは私と同じということですか?」
再び疲労から自分の意志とは関係なく眠ってしまう可能性があるとリョウタロウは言う。それは彼に課された重荷で、彼もまた他者の分まで苦痛を背負っていたのだと。
「いや、完全に同じってわけじゃない。お前が“肉体的苦痛”だとしたら、俺は“精神的苦痛”ってとこだな。俺の頭と心はどうも疲れやすくてな、すぐにイライラしたり、眠気を感じちまうらしい」
肉体的苦痛と精神的苦痛。
リョウタロウは前者が私に課された重荷で、後者が自分に課された重荷だという。
外部からの衝撃など痛み。気温による寒暖差の影響。肉体の酷使による体力消費に起因する疲労。それらは肉体的苦痛に分類される。
そして不慣れな環境下における心的ストレス。思考などの知的活動による疲労から発生する睡魔。それを精神的苦痛とリョウタロウは便宜的に呼んでいるらしい。
「このクソ胡散くせぇレースが始まった時から、俺はやけに頭が痛くてよ。今思えば、あれは睡眠不足の前兆だったんだな。お前はここまでに眠くなったことがなかったろ?」
「たしかにそうですね。言われてみれば、何度も動けなくなるくらい疲れたりしているのに、全然眠くなっていません」
私にとって意識を失う時は常に強い衝撃による気絶だった。
疲労が溜まりやすい状態にも関わらず、眠気から寝落ちするようなことはなかったことに今さら気づく。
「やっぱりな。実はお前とはぐれる少し前、洞窟の中に入った辺りで俺は眠気を感じ始めてたんだ。それから今までしばらくの間は気力でなんとかしてたんだが、どうもこの崖を登ってる間に限界が来たらしいな」
「崖って、これですか? これをリョウタロウさんは登ろうとしてたってことですか? 自力で?」
「まあな。俺はお前と違って、ただ身体を動かすだけならほとんど疲れない。そんなに無茶なことじゃねぇ」
轟々と大量の水を流し落とし続けている滝。
その滝の岩肌にはかろうじて手足をひっかけることが可能なおうとつが見かけられたが、だからといって登り切ることができるようには思えなかった。
「そうだったんですね。でも、そもそもなぜリョウタロウさんはこんなところに? 食糧探しをしてたはずじゃ?」
「それはたぶんお前と同じ理由だと思うぜ? お前もあの殺戮マシーンに見つかったんだろ?」
「あ、もしかしてリョウタロウさんも?」
「そうだ。完全に動けなくなっちまったセラのために何か飲めるものを探しをしてたところに、あの気色わりぃ奴が来たんだ。一目でやべぇってわかったぜ。そんでもって、川に沿って逃げ回って、最終的に崖を飛び降りるはめになったってわけだ」
喋りながらリョウタロウは壁際に沿って進み始める。
崖を直接登ることは、一応私のことを気にしてか諦めたようだった。意外にそういった気遣いもできるらしい。
「滝壺に落ちあとは、また上に戻ろうとここを登ったんだが、さっきも言った通り途中で寝落ちしたってところだな」
脇から伸びてくる細い枝を何本か折って歩きやすい道をつくりながら、リョウタロウは滝の横にある急な斜面に足をかけていく。
不安定な足場に私が苦戦していれば、何も言わずに彼は手を差し出してくれた。
寝起きの彼は優しい。
「たぶんだが、俺は一度眠りについたら、誰かに起こして貰うまで起きれないんじゃねぇかな。寝落ちする寸前、マジでそんな感じがした」
「それって結構危ないですよね? もし寝てる間に、あの怪物が襲ってきてたらどうするつもりだったんですか?」
「どうするも何もねぇよ。死んでただろうな」
あっさりとそう断言するリョウタロウに、私は不満そうな表情を向ける。
そんな私の意図が伝わったのか、彼は鼻を鳴らして苦笑した。
「だからお前には感謝してるつってんだろ、マキ。だいたい俺は死ぬ気はねぇ。今でもこのレースに本気で勝つつもりだ」
「そうですか? なら、いいんですけど」
リョウタロウのモチベーションを心配したけど、それは杞憂に終わる。
ここで私は順位に変動があったことを思い出し、彼にも伝えておいた。
そして傷が共有されてしまうことも。
「……なるほどな。ライバルが一つ分減ったか。喜んでいいのか、悪りぃのか微妙なとこだな」
私の説明を聞いたリョウタロウは神妙な顔をすると、額に張り付いた髪を掻き上げる。
なるべく脳と心に負担をかけないよう心掛けているのか、やはり当初に比べて落ち着き払っている雰囲気だった。
私は最初彼を
「それにしても、その俺たちの傷が全員で強制的に共有されちまうってのは面倒くせぇシステムだな。なんでお前が俺と同じところ怪我してんのかと思ったら、そういうことだったのか」
「そういえば、その頬の傷はどうしたんですか? 元々私たちがリョウタロウさんを探しに行くことを決めたのも、この傷のせいなんですけど」
「ああ、これか? べつに大したことはねぇよ」
すでに血は止まっていたが、生々しい切り傷となっている頬を軽く手で擦りながら、リョウタロウ小さく欠伸をする。
「川の中で鉄の破片を拾ったんだ。眠くて眠くて仕方なかったからよ、いざとなったらこれで眠気覚ましでもしようと思ってな」
「冗談、ですよね? 何もそこまでしなくても」
「さっきも言ったろ? この眠気に負けたら、もう俺は一生起きれない。そんな感じがしたんだ」
リョウタロウは真剣な面持ちでそう言うと、スキニーのポケットから鋭利な角を持つ鉄屑を取り出して私に手渡す。
彼が言うには、それはおそらく機械虎の身体の一部だろうということだった。
「まあ結果的には全然痛くねぇから、何の眠気覚ましにならなかったけどな。でもおかげお前が来たってことを考えれば、ちっとは役に立ったと言ってもいいかもしれねぇ」
それお前にやるよ、とリョウタロウに言われたので、一応貰っておくことにした。
ただたしかに彼とは違い痛みを敏感に感じ取ることができるけど、代わりにそもそも眠気をほとんど感じることがないので、私にとっても役に立つことがあるかは怪しかった。
「でもまさか、お前が俺のところに来るとはな。もしあの化け物に見つかったとしても、お前だけは飛び降りれねぇと思ったぜ。来るとしてもアマツカかセラだと思った」
「それちょっと失礼じゃないですか? 私にだってそれくらいの度胸はあります」
「たしかにお前は崖から落っこちんの得意だもんな」
「う、うるさいですね。洞窟のはノーカンです。あれは、そういうあれじゃないです。今回はちゃんと私の意志で飛びました」
「へぇ、そうかよ。たしかお前がアマツカとセラを逃がすために、わざと見つかったんだったか? よくそんなことできたな。お前って一人じゃ何も決められない、責任を負えないタイプだと思ってたぜ」
「なんだかリョウタロウさんの私に対する評価低くないですか? ……まあ、正直あんまり否定できないですけど」
「お、おい、そこは否定しとけよ」
冗談で言っているであろう軽口に私が声を小さくすると、リョウタロウが少しだけ気まずそうな顔つきをする。
いつも強気で勝気な彼が見せるその罰の悪い表情が私はとても気に入り、くすくすと思わず笑ってしまう。
それに腹を立てたのか、リョウタロウは露骨に嫌そうにして、思い切り私を睨みつけた。
「なに笑ってんだよ」
「ごめんなさい。なんでもないです。……でも、リョウタロウさんが言ってること、本当に否定できないんですよ。私には姉が一人にいて、私はいつもその人の真似ばかり。自分で何かを決めたことなんて一度もなかった。いつも姉の、両親の目を気にするだけ。誰のために生きてるのかわからないような人生でした」
これまでずっと一人で抱え込み、鬱屈とさせていた胸中を私は外に出す。
どこかリョウタロウにも自分と似た何かを感じていて、彼に対してはなぜか素直に口を開くことができた。
「……でも、変わりたいんだろう? 変わったんだろ?」
「え? あ、はい。まあ、そうですね。私、変わりたいと思いました。だから、崖からも、自分の意志で飛べたんだと思います。それだけで変われたと思わないですけど」
「いや、それなりに変われてんじゃねぇか? 少なくとも、最初の方のお前は嫌いだったが、今のお前は結構好きだぜ」
「あ、えと、そ、そうですか? あ、ありがとうございます」
「ばーか。そういう意味じゃねぇよ。なに照れてんだ。気持ち悪りぃ」
「……言っておきますけど、私はリョウタロウさんのこと全然好きじゃないですからね」
再びリョウタロウがからかうようなことを言うので、私はむきになって言い返す。
しかしそこに不思議と険悪な雰囲気は全くなく、むしろどこか居心地の良い空気で満ち溢れていた。
「……俺にもさ、妹がいるんだよ。もし俺が誰のために生きてるかって訊かれたら、秒で妹のために生きてるって返すだろうな」
少し段差がある山道を身軽な動きでリョウタロウは駆けあがると、上から私の両手を取って勢いよく引き上げる。
私の息が上がり始めていることに気づいた彼は、そこで一旦進むの止め、小休憩を取ることにしてくれた。
「俺が高校行かずにバイトばっかしてんのも、全部妹のアヤコの学費を稼ぐためだ。俺とは違って、アヤコは頭の出来がよくてな。いい私立中学に通ってんだ」
リョウタロウの妹が通っている中学の名前を尋ねてみれば、私でも知っているような名門私立だった。
彼は嬉しそうに愛妹の話を続ける。
「でもうちの両親はどうしようもないロクデシナシでよ。クソ親父はろくに働きもせず、毎日ギャンブル漬け。お袋は俺が小学生の時に家出して以来、顔も見てねぇ。今は婆ちゃんと爺ちゃんからのちょっとした仕送りと俺の稼ぎだけで生活してる」
「凄いですね、リョウタロウさんは。尊敬します。きっとアヤコさんもリョウタロウさんに感謝していると思います」
「べつに凄くはねぇよ。アヤコもべつに俺に感謝しなくていいんだ。俺が好きでやってんだ。責任を果たさねぇ親父たちはたしかにムカつくけど、本質はそこじゃない」
斜めに生えている太木に寄り掛かりながら、リョウタロウは少しだけ寂しそうに目を細める。
大きな欠伸を噛み殺すがそれはどうもわざとらしく、狭まった瞼は眠気のせいだけではないらしかった。
「俺はあいつの役に立ちたい。アヤコにとって必要な兄になりたいだけなんだ」
「なに言ってるんですか? リョウタロウさんはアヤコさんにとって必要に決まってるじゃないですか。だってアヤコさんの学費を工面してるの、リョウタロウさんなんですよね?」
「まあな。補助金とかもあるから全額じゃねぇけど、たしかに俺のおかげでアヤコは学校に通えてる。だから今の俺はあいつにとって役に立つ、必要な存在だろう。あのただ産んだだけの両親とは違ってな。でもな、俺は時々考えちまうんだよ」
リョウタロウの口振りに自嘲的な響きが混じる。
その理由がわからず、私はどこか遠くを見つめる彼の横顔から目を離さないようにした。
「もし、俺の家が裕福でさ、アヤコの学費を俺の苦労なしに払えてたら、俺はあいつにとって役に立てる、必要な兄になれるのかってさ。俺はたしかにアヤコのために生きてる。でもそれはただ何の才能もねぇ自分から目を背けて、俺の存在価値を自分勝手にアヤコに押し付けてるだけなんじゃねぇかって。俺はさ、そう考えちまうんだ」
雨に濡れた子犬のような顔をしてリョウタロウは俯く。
優秀な妹と不出来な兄。
本来なら明確な優劣がその間にはできるはずだったが、幸か不幸か、妹の才を活かすために兄が必要不可欠な存在になった。
しかしその関係性は健全なものなのか。
この先いつか妹が独り立ちし、誰の助けも必要としなくなった時、これまでと同じように兄として慕ってくれるのか。
それがきっとリョウタロウには気掛かりで、彼の内なる苦悩なのだろう。
「“愚か”、ですね」
「……は? おいマキ、今お前なんて言った――」
「
誰かのために生きる人生。
それを彼は選択し、彼もまた誰かに強く必要とされる存在になった。それにも関わらず、彼は自分が生きる理由を、儚く、薄っぺらなものだと感じている。自分が誰かのために生きるのは、逃避なのではないかと悩み続けている。
私はそれは間違っていると、悩む必要なんてないと伝えたかった。
「いきなり何の話だよ。……というかよく苧環なんて知ってんな。植物好きなのか?」
「はい」
「それで俺は苧環に似ているって? いいぜ、認めてやるよ。たしかにお前はいい度胸してるよ、マキ。俺を馬鹿呼ばわりするなんてな」
苧環は五枚の花弁を二重に咲かせる、色鮮やかで美しい花だ。星のような形をしていて、まさに流星の如く最前で輝くリョウタロウに相応しい。
自分のために生きるという選択。誰かのために生きるという選択。
そのどちらもがきっと本当は同じことなのだ。
私がこれまで誰かのために生きてきたのも、それは誰かに必要とされたいという意味で自分のためで、その逆もまたしかり。
私が生きるために誰かを必要としているように、誰かも生きるために私を必要としている。
たとえその実感がなくとも、その事を信じること。人生で大切なのは、そう信じることだと私は思う。
「アヤコさんにとってツキモトくんがどういう存在なのかなんて、ちょっと考えればすぐにわかることです。お金なんて関係ありません。二人がどんな関係性だったとしても、絶対にリョウタロウさんはアヤコさんにとって必要な存在です」
「な、なんだよ。なんでお前にそんなことがわかんだよ」
「考えてみてください。もしアヤコさんに何らかの才能がなかったら、リョウタロウさんはアヤコさんのために何もしてあげないんですか? こいつのために自分の人生を賭ける価値はないって、切り捨てるんですか?」
「そんなわけねぇだろ! あいつは俺にとって唯一の妹なんだ! 才能のあるなしなんて関係ねぇ! 俺にとってアヤコより価値があって、必要な存在なんていねぇよ!」
「なら答えはもう出てるじゃないですか! 兄妹なんですよね!? なんでアヤコさんもリョウタロウに対して同じ思いを抱いてるって信じてあげられないんですか!」
本来ならば感情の揺らぎが普段より抑えられているはずの私は、自らの心の中に浮かんだ言葉をそのままリョウタロウに叩きつける。
私にとっては、どうやら感情をありのまま吐露させることよりも、気持ちを奥に隠し溜め込むことの方がよっぽど精神的苦痛だったらしい。
「……ちなみにお前は自分を花でたとえると何になるんだよ」
「
「花言葉は“活発な女性”か。全然お前っぽくないな」
「うるさいですね。紫陽花は色で花言葉が変わるんですよ」
ひんやりとした静寂が訪れ、風が草木を揺らす音と滝が流れていく音だけが辺りに満ちる。
私は薄ら潤んだ目元を拭って、鼻を小さく啜る。
「なんでお前が泣きそうになってるんだよ」
「べつに泣きそうになんてなってません」
再び繰り返される短い問答。
だけどそのアルトとバスの声色は、数分前のものよりいくらか優しい音を奏でていた気がする。
「苧環だって色によって花言葉が変わるんだぜ。知ってたか」
「はい。知ってます」
「紫色の苧環の花言葉は、“勝利への決意”だ。アヤコのためにも俺は生きなきゃならねぇ。急ぐぞ」
「はい。わかってます」
「あとマキ……ありがとな」
口元に手の甲を当て、リョウタロウにしては珍しく歯切れの悪い調子で私に感謝を示す。
彼を睡眠から目覚めさせた時に比べると明らかに小さな声量だったが、その五文字に含まれた想いの強さは比べるまでもなく大きなもので、それゆえに私も最後は笑顔で応えるのだった。
「……はい」
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