障害
「僕は目の前で人が殺されるのを見た」
シンジは普段と変わらない、平然とした調子で自らが目の当たりにした出来事を話す。
すでに半分死んでいる状態だというどこか夢想染みた前提。崖から飛び降りても、痛みこそ感じさえすれど、掠り傷一つ追わなかったという経験。
それゆえにシンジが語る話の内容は、どうにも自分たちと隔絶した遠い世界の話にしか私には思えなかった。
「ツキモトくんを探して森の中を歩き回っていた時だった。遠くから女性の悲鳴が聞こえたんだ。声質からマキさんやセラさんじゃなくて、他のチームの誰かだとすぐにわかった。でも僕は偵察や、僕のやりようによっては同盟を組める可能性もあると思ってその声のした方に近づいていったんだ」
別のチームとの偵察、接触。
まず自分では選ばないであろう選択肢を、迷わずとった事をこともなげに語るシンジを私は信じられない思いで見つめる。
だけど彼はそんな私の驚嘆に満ちた瞳には視線を返さず、いつもと全く同じ、もはや畏怖すら感じれるほど冷静なまま話を続けていく。
「そしてその先で僕が見たのは、一つの殺戮と虐殺だった」
殺戮と虐殺。
剣呑な響きの言葉が鼓膜に届くと、私の身体が震える。シンジの瞬きをする回数が極端に少なく、それがやけに気になった。
「そこにいたのは四人組のグループ、たぶん全員アングロサクソン系の人達で、先頭の人がナビゲーターを起動させずに手で抱えて走っているところだった。一人他のメンバーに背負われてた少女がいたけど、たぶんあの子がセラさんと同じ飢餓の制約をつけられてたんだろうね。それで一旦ゴールに向かうのを止めて、僕らみたいに飢餓を癒すものを探していたんだと思う」
私にとって、ナビゲーターが直接手で動かせる事実は中々に驚きのものだったが、どうやらシンジの様子を見る限りそれは大したことではないらしい。
「だけど彼らは単純に森を捜索しているだけじゃなかった。彼らは追われていたんだよ……鋼の獣にね」
鋼の獣と聞いて、私はある一つの記憶を思い浮かべる。それはシオリと合流する少し前に見かけた、歯車で身体を取り繕った機械の蛇だった。
艶めかしく輝く鈍色の肌に、異質な挙動で匍匐させられる硬質な身躯。思い出すだけで身の毛がよだち、生理的嫌悪感が催される。
「虎のような形状をした、鉄の怪物。それに追われていた彼らの内、恐怖感からか飢餓で動けなくなった少女を背負っていた青年が投げ捨てたんだ。当然彼女は逃げられない。そして、一つの殺戮と虐殺が行われた」
一つの殺戮と虐殺が行われた。
そう言われてもいまだに私に実感はわいてこない。崖から墜落しても無事だった自らの身体に、傷がつくイメージがどうしても浮かんでこなかった。
「身動きの取れなくなっていた少女に機械の虎が爪を薙ぎ払い、いとも簡単に彼女の右腕と胴体を切り離した。血飛沫が舞い。そして同時に、彼女以外の三人の右腕も同じように宙に舞った」
シンジが静かに語る言葉から浮かぶ情景は、あまりに凄惨で、どこまでも奇妙なものだった。
感情を持たない獣の姿をした機械に襲われ、一人の少女の右腕が刎ね飛ぶ。するとなぜか、関係ないはずの他の三人の右腕もただに肉片に成り果てる。想像しただけで私は気分が悪くなった。
「次に虎は、右腕を失い茫然自失とするだけの少女の頭蓋を大きな咢で噛み砕いた。すると今度は、他の三人の頭が針を刺された水風船みたいに突然弾け飛んだ。僕はそれをただ見てた」
僕はそれをただ見てた。
そう呟くシンジは目を瞑る。
狂気に満ちた記憶を呼び起こしているのか、それとも忘れようとしているのか、私には判断がつかなかった。
「それで虎は満足したのか去って行ったよ。もちろん右腕と頭部を奪われた四人は二度と動かなかった。全員死んだんだ。ファンタジーよろしく死体が光の粒子になって消えることもなく、ただ熱を失った血肉が地面に転がっているだけ。あれは明確な死だった。まやかしなんかじゃない」
だから僕はここに戻ってきた。シンジはそう続けると、また目を開き、冷め切った黒い瞳孔で辺りを注意深く見渡した。
話を受け止めきれない私は縋るようにシオリの方を見やるが、彼女も彼女でいつもの柔和な表情を引っ込め、何か思案に暮れているようだった。
「……それ、全部本当、なんですよね? 私、どうしても信じられないんですが」
「嘘じゃないさ。こんな悪趣味な冗談はつかないよ。それに自分で見たはずだ。ナビゲーターの順位を」
当然私も、シンジの話が作り話だとは思っていない。実際自分も歯車で身体を構成した白銀の蛇を目撃している。ただあまりにも現実味がなく、心が追いついてこないのだ。
森は静寂を保っていて、どこにも自らの命をつけ狙う怪物の影は見つからない。
「でもどうしてですか? なぜそんな怪物が?」
「おそらく、“障害”、なんだと思う。この大自然の中にあの機械の身体は不釣り合い過ぎる。向こうが紛れ込ませた意志のある存在だ。マキさんだって痛みこそ感じるけど、その身体がこの世界の自然に傷をつけられることはない。だから代わりに、あの機械の身体が僕たちの身体に傷をつけることができる。つまりそういうことなんじゃないかな」
障害。
その表現がいやに適切に思えて、私は不快感に顔を歪める。
互いのことを相互理解し、足りない部分を補うだけでは、ゲームを最後まで終えることはできない。必ず障害が立ちはだかり、私たちの能力を、信頼を、運命を試す。
どこか皮肉を感じさせるそのゲームの構成が不愉快で仕方がなかった。
「……あれ? シオリ、どうしたんですか? 血、出てますよ?」
その時、私は知らない間にシオリの頬から薄ら血が流れ落ちていることに気づく。
何か鋭利な刃物に切りつけられように刻まれた一本の線。
真紅の鮮血が零れ落ち、涙のような軌跡をつけていく。
「あ、ほんとだ。でも、それツカサもだよ?」
「え?」
私はそっと左手で頬に手を当ててみる。感じたのは生温い感触。鉄臭い匂いが仄かに香り、おそるおそるシンジの方に目を向けてみれば、彼はシオリと全く同じ箇所に傷をつけていた。
「マキさん、セラさん、今すぐ三人でツキモトくんを探そう。もしかしたら僕たちは今死にかけているのかもしれない」
痛みの配分は四人の中で一人に偏らせられるのにも関わらず、傷はその大小関わらず全員で共有しなければならない。
それがシンジが予想したゲームのルールの一つで、私はどこか納得いかない不条理を感じていた。
「というかさ、なんか後付けルール多くない? あたしにだけ飢餓を背負わせたり、誰が怪我しても、全員その怪我を受けるとか。そんなの聞いてないもん。ずるいと思うなぁ」
「後付けとは言わないんじゃないかな。説明していないだけで、そのルールは最初から効力を発してたわけだから。それに説明不足はたしかに不親切だと思うけど、他のチームの現状を見る限り、全チームに対して説明を怠っているわけだからゲームの公平性は保たれてる。ずるくはないよ」
姿勢を低くし、木々の隙間から慎重に辺りを見渡すシンジの背には、限界に近い飢餓感によって完全に動けなくなったシオリがおぶられている。
その二人のすぐ傍で私は機能をストップさせたナビゲーターを抱えながら、なぜすでに生死の境目を彷徨っているのに現世より惨い死に方を迎える可能性があるのかと憤慨していた。
「へぇー? 意外にシンジくんは運営側の肩を持つんだね? 不満とかはないの?」
「肩を持ってるつもりはないよ。ただ不満があるかどうかでいえば、たしかにないね」
「そうなんですか? シンジさんは不満ないんですか? 信じられません。だって私たち殺されるかもしれないんですよ?」
「だけど僕たちは生き返らせて貰えるかもしれないんだ。そう考えれば、相応のリスクがあるのはむしろ自然なことだよ」
すでに私は強制的に参加させられた悪趣味なレースの主催者である黒猫に対しての信頼、好感はほとんどない。
それゆえいまだにどこか達観し、状況を冷静に分析することができるシンジに感嘆の思いを抱くのと同時に、少しの苛立ちを感じた。
ゲームが進めば進むほど、シンジの洞察力、推察力は増していく。彼だけは生き生きとしていく気さえしていたのだ。
「なんかさ、シンジくんってこのゲームを楽しんでる感じするよね」
「……そんなこと、ないよ」
ぽつりと、何の気なしに呟かれたシオリの言葉に、シンジの動きが一瞬止まる。
でも彼はすぐに何事もなかったかのようにまた歩行を再開させ、リョウタロウを見つけ出すべく周囲に気を配らせる。
ゲームを楽しんでいる。
それは一歩前に踏み出すことにさえ気力を振り絞らなければならない私からすれば、到底考えられないことだ。どうすればこの状況を楽しめるようになるのか、何が起ころうとも動じない余裕があればいいのか、それとも天性の才が必要なのか。まるで私にはわからなかった。
「それにしてもリョウタロウくんはいったいどこにいるんだろうね。死んではないと思うんだけど」
そしていつものように、狙ってか狙わずか、若干緊張し始めた空気をシオリが入れ替える。
彼女は飢餓に身動きがとれなくとも、その稀有な性質を変えなかった。
「私たちが生きてるということは、リョウタロウさんも生きてるってことですよね。頬に傷がついたのは心配ですけど」
「そうだね。彼が無事なのは間違いないと思う。それにあまり遠くにも行ってないはず。だから考えられるのは、どこかこの辺りに身を潜めて、何らかの事情でそこから移動できなくなっているパターンかな」
山中でまともに進んでいける道は限られている。そのためある程度リョウタロウが辿ったと推測できるルートは絞ることができていた。
それでも数多の緑葉で視界は悪く、小枝を踏み折ることすら躊躇われるほどの息苦しさが充満している。
時々聞こえてくる源がわからず不気味な甲高い高音。風が木々を揺らす音すらストレスになる。私は早くこの森林地帯から抜け出した気持ちでいっぱいで、今や洞窟の崖底の方がましだとすら考えていた。
「……止まって」
するとシンジが手を静かに掲げ、一時停止のハンドサインを私に見せる。
何も言われずとも、細心の注意を払わなければいけない場面に差し掛かったことが分かり、私は生唾をごくりと飲み込む。
「虎だ」
たった数文字だが、最も聞きたくなかったワードを耳にして、私は軽い吐き気を覚えた。
シンジが指をさす方向に目を凝らしてみれば、やはりそこには一生目にしたくなかった光景が見て取れる。
自然の造形美の中で一際異質さを放つ、統制された躍動感を纏う金属の塊。視覚情報だけで理解できる圧倒的な質量。両の眼空には紅いランプのようなものが点灯していて、無機質な挙動で周囲を見回している。
「うわぁ、なにアレ。怖すぎでしょ。いったいなにを原動力にして動いてるのかなぁ」
清流がしずしずと音を立てる沢の中州付近に立つ、歯車と鉄がグロテスクに組み合わさった異形の怪物は全長三メートルほど。金属の牙は非常によく研磨されていて、触れるだけ骨肉を容易く切り裂いてしまうだろうと推察できた。
「……水か。水を守ってるのか」
シンジが囁き声で独り言を漏らす。
たしかにずっと探し求めていた水分を補給するならこの沢が適切な場所だと思う。私こそまだそこまで喉の渇きは感じないが、それは四人分の飢餓をシオリが請け負っているおかげだ。
ゲームが開始されてからすでにかなりの時間が経っている。
普通ならば脱水症状を起こしてもおかしくはなく、実際に気怠そうにしているシオリにはその気配があった。
「……どうしましょうシンジさん。向こう岸に渡りますか? それともべつの道を探しましょうか?」
「そうだね。多少足場が悪くても、べつの道を探すのがベターかな」
機械仕掛けの怪物を注意深く観察しつつ、シンジは他のルートを選ぶことにする。私も特に異論はなく、むしろ彼の選択に心底安心した。
「こっちに行ってみよう」
姿勢を低く保ったまま、シンジは草木を分け入っていく。青臭い独特の芳香が鼻に付いたが、文句を言う余裕は一切なかった。
金属質の虎も私たちには気づいていないようで、真紅の点滅は反対方向に向けられている。
それにしても、本当にリョウタロウはどこに行ってしまったのだろう。あんな化け物がここにいるということは、やはりあまり遠くに行けないと思うのだけど。
洞窟の出口から沢までそこまで距離があるわけではない。
これほど異質な存在を発見したのなら、一度引き返してシオリに情報を伝えそうなものだが、リョウタロウは今の今まで姿をくらましたままだった。
「あ、二人とも、ちょっと止まって」
するとその時、少しでも体力を温存しようと考えたのか静かにしていたシオリが制止の言葉を私たちにかける。
微かに苦悶の表情を浮かべていたシンジはそこではっと顔を上げ、しまったと小さく溜め息を吐いていた。
私にはまだその溜め息の理由が掴めていない。
「どうしました?」
「ほら、あれ見て」
私はシオリが顎で指し示す方に目を凝らす。そうすればすでに警告の意味を悟っていたシンジが歯噛みしているわけが理解できた。
「もう一匹、いる」
シンジが膝をつき木の幹に身を隠す。慌てて私も彼に倣うが、この行為だけでは自分たちが陥った窮地を脱する事ができない気がしていた。
「くそ。僕としたことが、集中を欠いた」
「ちょっとこれまずくないですか? まずいですよね? 私たち挟まれてます」
進行方向の先に見えたのは、沢を見張るように立つものと全く同じ外見をした機械の虎。私の心臓は戦慄に高鳴っている。
「うーん、あたしもこれはまずい気がするなぁ。あたしたちは移動速度が遅いから、このままだと確実にどっちかには追いつかれる。まあ、移動速度が遅いのはあたしのせいなんだけどさ」
「どうしましょうシンジさん? このままだと私たち捕まってしまいますよ」
「わかってる。今、考えてる。考えてるから」
体力の消費がほとんどないはずのシンジはやけに乱れた呼吸を必死に整えている。その様子を見て私は不安と疑問を抱く。普段だったらどんな状況にあっても冷静さを失わない彼が、これほどまでに焦燥を顔に浮かべるのは初めてのことだった。
でもなんとなく、シンジはあの機械の化け物に対する恐怖に苦しんでいる感じではなかった。
なぜだろう。彼は何にあれほど心をかき乱されているのだろうか。
沢に鎮座する機械の虎と、彼らの方へ一定のテンポで近づいてくるもう一体の虎。その両方を交互に観察する真実の瞳に恐怖の色はない。
それにも関わらず、なぜか彼は痛みに、或いは飢餓に耐えるような顔つきをしているのだ。
いったいどうしたことだろうと考えて気づく。
もしかすると、シンジの“重荷”に関係してるのかもしれない。
苦痛と飢餓。それは私とシオリに背負わされた重い十字架だ。しかしそれは私たちだけでなく、シンジとリョウタロウにも何らかの重荷が課されているはずだった。
木の幹の裏で、身体がほとんど密着するほど物理的な距離は縮まっているのに、彼の心の内にある痛みに気づけないことを私は寂しいと思った。
「ねぇ、さっきから思ってたけどさ、シンジくんなんか身体熱くない? 熱でもあるの?」
「そうかな? あんまり自覚はないけど。それにもし今僕の身体に変調がきたされていたとしても、それは些細なことだよ。今はそんなこと気にしてる場合じゃない」
「本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫。大丈夫だから、それ以上僕の傍で喋らないでくれ」
シオリもまたシンジの異変に気づいたのか声をかけるが、それを彼は気にする必要はないと拒絶する。
私はそんな彼の顔を心配に覗き込むが、視線すら合わせようとしてくれなかった。
「アレが一体とは限らないことは十分わかっていたのに、どうして僕は……いや、駄目だ。反省してる場合じゃない。何か手を考えないと。僕たちはまともに動けない。ならどうする? 何か、注意を逸らすことができれば……」
一度足を止め、三人で小さくまとまって隠れ始めてから、加速度的にシンジの顔色は悪くなっていく。
熱にうなされるような独り言は彼の思考が漏れ出ていることの証明で、熟考する際に唇を自分の指で閉じるいつもの癖が出てないことも彼の不調を明確に示していた。
そんなシンジを見て、私は決意する。
やろう。そうだ。私がやるべきだ。
いつも彼に私は助けられてばかり。
彼が苦しんでるときは、私も一緒に苦しむ。だって私たちは、四人で一人だから。
原因は不明だが、調子を崩しているシンジに代わり、私は自らがこの危機的状況を打破すること心に誓う。
チームのブレインであるシンジほど鮮やかで、画期的な手段は思いつかないが、実にシンプルで陳腐な方法なら私はすでに一つ思いついていた。
「……シンジさん、あの虎たちの注意を逸らすことができればいいんですよね?」
「え? ま、まあそうだけど。何かいいアイデアでも?」
「はい。私に一つ作戦が」
いよいよ徘徊型の虎がいつこちらに気づいてもおかしくないほどの距離まで迫りつつあった時、私は熱を帯びた声で自らの決意を口にする。
私が今何を言おうとしているのかシンジはまだ把握できていないようで、それもまた彼の不調を露わにしていた。
「私が、おとりになります」
「……は?」
そして私は極端なほど簡潔に作戦の全てを話し終えると、返事を待つこともなくすっと立ち上がる。
緊張と恐怖で胸が張り裂けそうになっていたけど、私はその事を努めて忘れようとした。
「いやいや、正気? マキさんは僕たちの中で一番体力の消費が激しいんだよ? もしその愚かなアイデアを採用したとしても、その役割に最も不適任なのが君なんだよ?」
「でもシオリはまったく動けない状態ですし、シンジさんだって走れる状態じゃない。だったら私しかいないじゃないですか」
「僕は走れるよ。僕の状態を勝手に決めつけないでくれ。そもそもそんなのリスクが大きすぎる。もっと良い手があるはずだ」
「でも、私、もう決めました」
「ふざけるなマキツカサ。君は馬鹿なのか?」
頬を紅潮させ、珍しくシンジが明確な感情を表に出す。
でも私は一歩も退かずに、無言で抱えていたナビゲーターから手を離す。シオリはそんな私たち二人を見て驚きに目を真ん丸にさせ、同時に面白そうに口元を緩ませていた。
「馬鹿かもしれません。でも、私だって馬鹿やりたいんです。これまで私たちがシンジさんを信じてきたように、シンジさんも私を信じてください」
今こそが、翼を開く時なのだと、飛ぶ時なのだと、私は直感していた。
もし失敗すれば、自分だけではなく、他の三人全員の命が奪われる。
それだけは嫌だったし、最も避けるべきこと。
だけど、だからこそ私はここで一歩前に踏み出した。
「それでは再会は山頂で」
いつも自らの意志で何かを選択することを私は怖れていた。
ただそれは選択に失敗することを怖れていたわけじゃない。選択に失敗した後の、その責任を負う事に怯えていたのだった。
だから私は変わりたかった。私も選択の責任を背負ってみたかった。
「行っちゃえ、ツカサ。あたしはツカサを信じてる」
蒲公英の風に乗って、背に翼が生えたような感覚の中、私は思い切り沢の方に向かって飛び出す。
視界の隅で、真っ赤な光の点が四つ分自分の方に向けられる。
一瞬時が止まる。だがその静寂はすぐに突き破られた。
――ウウウウウウウウウウウウゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ。
空気を劈くけたたましい警告音。
一拍置いて、木々に何か重い物体がぶつかる衝突音が聞こえてきた。
「あ、これ死ぬかも」
寸前確固たる覚悟はどこへとやら。
完全な恐慌状態に陥った私は無我夢中で沢の傍の泥道を駆け抜けていく。
沢の中州で周囲を監視していたもう一匹の虎も私のことに気づいたようで、森奥から姿を見せた虎と全く同じサイレンを鳴り散らかした。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……はぁっ……!」
走り出して数秒で酸欠になり、視界が霞み始める。
二対の殺戮マシーンと、自分の距離がどれほどなのか確認する余裕はない。
ひたすらに沢の下流方向に足を進める。泥が跳ねて口の中に飛び込んでくるが、その味もよくわからなかった。
「死ぬ。私これ、絶対死ぬ。みんな本当にごめんなさい。私調子に乗ってました」
知らない間に涙が流れてきて、私の顔が不細工に歪むのがわかる。
すでに後悔と謝罪で頭の中は埋め尽くされていて、先ほどまでの勇猛果敢な姿勢はどこにも残っていなかった。
段々と背後の圧迫感が迫って来ている。死の気配がどんどんと濃くなっていく。
何度も足がもつれそうになり、冷たい鋼の刃が己の首を刎ねるイメージに襲われる。
でも決して足は止めない。恐慌状態に頭が真っ白になろうとも、私は走り続ける。
「ああああああっっっ!!!!!」
現実の世界では大人しく、清廉潔白な少女として過ごしていた私は、これまでの人生では一度も出したことのないような汚い声を上げる。
なんでそんな声を上げたのか自分でもわからない。どこからそんな声が出てきたのかもわからなかった。
すると水気で灰色のスニーカーが重くなり始めた頃、沢の先が不自然に途切れていることに私は気づく。
おそらく断崖絶壁になっているのだろう。
過去の経験から崖の気配に敏感になっていた私は、道がなくなりつつあることがすぐにわかった。
それでも足は止められない。
もはや背中に、何かが飛び散らかさせている水飛沫がかかっていて、カチンカチンという不吉な硬質音が鼓膜を満たしていたから。
『ツカサにも翼はちゃんとあるよ。ツカサだって飛べる。ただあんたは飛び方を知らないだけ』
ふいに足下の感覚が消え、懐かしい風圧を私は全身で受け止める。
きっと自分は崖から飛び降りたのだろう。
飛び方を知らない私は、方向感覚を失い、真っ逆さまに落ちていく。
二度目の転落。
しかし前回の時のような鬱屈とした思いはなく、私は晴れやかなまでに満足だった。
だって私は、たとえ翼がなくとも、落ちることしかできなくとも、今回は自らの意志で、自らの選択で飛んだのだから。
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