問題


 陽光の眩しさに目を細めると、久し振りに感じるぬるい空気を肺いっぱいに吸い込む。

 後ろを振り返ってみれば、小さな穴から這いつくばるようにしてシンジが顔を出し、先に外に出ていた私の隣りに並ぶ。二人とも全身汚れに塗れていて、元は真っ白だったシャツの至るところに乾いた泥がこびり付いている。


「ふぅ……疲れたましたね。でもこれでなんとか脱出成功です。ありがとうございます。全部シンジさんのおかげです」

「僕たちはチームだ。君を助けることに理由は必要ない。それと同時に、助けられたことに対して感謝を述べる必要もないんだよ」


 少し乱れた呼吸を整えるシンジはいつもの無表情で、恭しく頭を下げる私には特別な反応を見せない。

 しかしそれが彼の平常であり、また美徳でもあると私はよく理解していた。


「さて、あとはセラさんとツキモトくんと合流するだけだね」


 疲労の蓄積に耐え切れず集中力を欠き洞窟内の崖の下に落ちてしまい、他のメンバーとはぐれてしまってから、いったいどれほど時間が経ったのかはわからない。

 時々迷いながらも、無事二人とも洞窟から抜け出すことができたはいいが、現在地がまるで把握できていなかった。

 辺りは密林のように緑の生い茂った樹木で覆い尽くされていた見覚えのない場所で、シオリとリョウタロウの姿はどこにも認められず、どうやら近くに彼らがいる様子もなさそうだ。


「ここって一応あの島の中なんですよね?」

「たぶんそうだと思う。わかりづらいけど地面が傾斜しているみたいだし、島の上の方まである程度来てるんじゃないかな」

「どれくらいですか? まだあんまり頂上って感じはしませんけれど」

「わからないな。何か目印とか、木が拓けた場所があればいいんだけど」


 私はどちらかといえば人見知りをしやすい性格をしていたが、二人っきりで洞窟内を右往左往したおかげか、シンジとはそれなりに砕けた雰囲気で会話ができるようになっていた。

 そのおかげで当初よりは緊張のため一言話すだけで気落ちするようなこともなくなり、やっと素の自分の口調に近づきつつある。


「とりあえずはこの洞窟の外側に沿って、二人を探してみよう」


 予定では洞窟の出口でシオリとリョウタロウとは合流することになっているらしい。

 そのため、灰黒の外観をしている岩窟の周囲を辿っていけば、いつかは残りの二人の姿を見つけられるだろうとシンジは判断していた。

 特に異論のない私は静かに頷きを返すと、屈み込んでスニーカーの靴紐を結び直す。


「それにしても奇妙な感じがするよ。まさかこの僕が全身泥まみれになったり、深い森の中で岩に登ることになるなんて思わなかった。憧れがなかったわけじゃないけど、想像していたより楽しくないね」

「私もこんなにアウトドアするの、小学生の頃の林間学校以来です」


 硬質な部分と脆弱な部分が混在していて、注意しないと足を滑らせてしまう露頭を慎重に渡り歩きながら、私は顔が引き攣るのを自覚していた。

 私とは違い体力的な心配がないシンジも別段運動が得意なわけではないらしく、一歩進むたびに冷や汗で額を濡らしていた。


「マキさんもインドア派なのか。趣味とかあった?」

「本を読むのが結構好きなくらいで、他には特に趣味といえるようなものはないです」


 姉の影響で沢山の習い事を経験してきたが、その中に能動的に私がやってきたものはほとんどなく、趣味といえるレベルで私生活でも行うものは全く思いつかなった。

 心底つまらない人間だと心内で自虐する。しかしそんな負の想いもすぐにまた心の奥底にしまい込むことができた。気持ちの切り替えが知らぬ間に上手くなっていることに気づき、ささやかに喜ぶ。


「シンジさんはどうなんですか? 何か趣味とかありましたか?」

「僕もマキさんと同じで、本をよく読むよ。最近は書く方にも挑戦してたんだ」

「え? 書く方? それって小説を執筆するってことですか? 凄いですね。私、尊敬します」

「そんな大したことじゃないよ。僕はただ他人より暇だったから、他にやることがなかっただけさ」


 シンジの黒瞳に寂しげな色が少し混じる。私は彼が手術を必要にするほどの重病に罹っていたことを思い出し、その寂寥の理由をすぐに察した。

 彼も私と同じように内向的な趣味しか持たないと言っているけど、おそらくそれは私とは異なり、自ら選んだわけではなく、他の選択肢がなかっただけなのだ。

 同情は失礼だと感じ、努めて明るく私は小さなお願いをする。


「それなら、今度シンジさんが書いた小説、私にも見せてください」

「え? 僕の小説を?」

「はい。私、読んでみたいです。シンジさんの小説」

「言っとくけど、面白くないと思うよ? まあ僕はべつに構わないけどさ。だけどそのためにはまずこのレースに勝たなくちゃいけないね」

「そうですね。私、シンジさんの小説を読むために頑張ります。それを今から私が走る理由にしようと思います」

「なにそれ。マキさんは変わってる」

「そうですかね?」

「そうだよ」


 真面目で融通の利かない優等生。

 私は姉に溜め息混じりによくそう言われていたゆえに、シンジから見た私の印象はあまりに印象的で、そんな些細な会話の中で自然と笑みを零してしまう事に自分自身でも驚きを隠せない。

 これまでずっと他の三人のためだけにこの人生を賭けたレースを走っていたはずなのに、気づけばそれが変わり始めているらしかった。

 

「少しだけ私、やる気が出てきました。未来の大小説家アマツカシンジにとって初めての読者になるために頑張りたいと思います」

「やる気出してるところ悪いけど、もしこのゲームに勝ち残っても、僕にとって初めての読者になれるかはわからないよ」

「え? どういうことですか? もう誰かに読ませたことあるんですか?」

「いや、断言はできないってだけ。実は前にも僕の小説を読んでみたいって言ってくれた人がいてね。その人に僕の小説を渡したことがあるんだ」

「そうですか。残念です」

「ただ、結局その人が僕の小説を読んでくれたのかはわからなくてさ。飽きっぽい人だったから、もしかしたら最後まで、いや下手をしたらまともに一ページすらも読んでくれてないかも」


 どこか遠く懐かしむような眼差しをして、シンジは土に覆われた岩壁へ慎重に足をかけていく。

 飽きっぽい人と聞くと、どうしても私は自分の姉を思い出してしまう。

 でも姉は本を全く読まず、興味も示さない人だった。

 誰よりも自由を愛し、一つの場所に留まることを嫌うあの人にとって、白背景に羅列された真っ黒な文字列を目で追うだけの作業はあまりに退屈過ぎたのだ。


「でもなんとなく、君の手元に僕の小説がいつか渡る気がするよ。もし君がそう望むならね」


 どこかからかうような調子で、シンジはテノールを投げかける。その声からはなぜか僅かではあるが確信染みた気配も感じることができた。

 感情がほとんど顔に出ることがない彼が、どんなことを考えているのか少しずつ分かるようになってきたことを私はやけに嬉しく感じる。

 やがて道が険しさを増し始め、私に疲労が溜まり始めると、二人の間に無言の時間が多くなってきた。しかしその静寂が不思議と嫌ではなく、適宜私のために休憩を挟むシンジに対してもわざわざ感謝を伝えることもなくなっていった。言葉を交わさずとも構わないほどの信頼関係を私は抱き始めていた。

 向こうはどう思っているか知らないけれど。


「……ん? なんでしょう、あれ?」

「どうしたの?」


 ふいに視線の先に奇怪なものを見つけ、思わず私は呻きに似た声を漏らしてしまう。

 立ち並ぶ照葉樹林の太枝の先に、蠢く長細い物体。色は白銀で気品を感じさせなくもないが、いかんせん挙動が本能的に嫌悪感を抱かせるものだった。


「ほら、あそこです。なんか蛇みたいなのいません?」

「……あぁ、あれか。たしかに、なんかいるね」


 外見と動き方を見る限りでは中には毒を持つ種類もいる爬虫類を想起させるが、それは明らかに私たちが知っているものではなかった。記憶にある野生の生き物とは決定的に異なる点があったのだ。

 そう、それは間違いなく有機物ではなく、無機物。

 もっと断定的に述べれば、機械と呼ぶべき代物だった。

 金属光沢によって艶やかな反射をさせる歯車が幾重にも絡み合っているのが、遠目からでもよく分かる。見慣れた森景の中に紛れ込んだ機械の蛇はあまりにも異質な存在感を放ち、視線を奪う。

 その得体の知れない生き物、或いは物体を見つめながら、シンジは深い思考を行う時の鋭い気配を纏い、一定の間隔で薄い唇を叩いていた。


「あれ、なんですかね。凄い不気味です」

「……わからない。観察する限りだと今のところ害はなさそうだけど」


 しばらくすると蛇を模した白銀の機械は葉々の裏側へと姿を消していったが、これまで目にしてきたのは海や岩砂、木々ばかりだったせいもあり、明らかな意図をもって運動していた光景が脳裏に焼き付いて離れない。


「蛇の機械、だと思うんですけど。誰があんなものを?」

「誰が、と訊かれれば、それはこの世界を創った存在によって、だろうね。ただ問題はそこじゃないと思うよ」

「え? では何が問題なんですか?」


 何かを予感しているような顔つきで、シンジは一瞬瞳を閉じる。

 唇から指が離され、同時にまた目が開かれれば、彼は止まっていた足をまた動かし始める。先を急ぐための理由ならいくらでもあるらしかった。



「あの機械が他にも存在しているのか。存在しているとしたら、それがどれくらいの数で、どんな形をしているのか。そっちの方がよっぽど問題さ」

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