菖蒲に似ている
やけに重たい瞼をこじ開け、私は目覚める。
埃っぽい空気に軽く咳き込みながら起き上がると、頭部に無視できないほどの鈍痛が走っていることに気づいた。
周囲には空闊なスペースが広がっているらしい。
岩壁に薄ら翠色に輝く苔が張り付いているおかげで完全な暗闇というわけではない。
全身に倦怠感が満ちていて、痺れに近い痛みも身体中から感じるが、なんとか立ち上がった。
ここどこだろう。皆はどこにいるのだろうか。
人気は一切感じられず、ずっと目の前にあったはずのナビゲーターの姿もどこにも認められない。
これまでの出来事全てが夢だったのかと一瞬思ったが、購入した覚えのない白のシャツ、黒のスキニー、灰色のスニーカー姿の自分を見て、いまだに人生をかけたレースの最中にあるのだと理解する。
服に付着した泥を手で落としながら上方に顔を向けてみれば、天井があるはずの部分が闇に溶け込んでいて、そこでやっと自分がどういう状況にあるのか予想をつけることができた。
最悪だ。やってしまった。足を引っ張るどころじゃない。戦犯クラスのやらかし。
がらんどうの上空を見つめれば、おそらくそこから自分が落ちてきたのだろうと分かる。
たぶん洞窟の道半ばに穴でも空いていたのだろう。意識を朦朧とさせながら最前列を走っていた自分はその穴に気づかず、見事に自由落下を体験してしまった。私はまだ自分が生きていることが恥ずかしくなった。
それにしても死ななかったことを不思議に思う。やはり元々半分死んでたおかげなのだろうか。
どれだけ目を凝らしても上部が見通せないことから、ある程度の距離は落下したのだと推測できる。後頭部の痺れから落下の衝撃で気絶してしまったことも予想できた。
しかし意識が耐えきれないほどの痛みを感じていながら、命を取り留めたことはおろか、目立った怪我すらしていない自分に驚きを隠せない。
いったいどのくらい気絶していたのだろう。早く皆と合流しないと。
段々と意識が明瞭になってきた私は、次にささくれだった焦燥感に棘を刺され始める。
ゴールに辿り着くためには四人全員が揃ってなければならない。私個人の思いとしては、自分などさっさと見捨てて先に行ってもらいたいところだったが、それはルールが許さない。
穴の一つや二つにも気づくことのできない自分が、どれほどに愚かだと反感を買っているのか想像するだけで私は吐き気を覚えた。
ああ、本当に死にたい。
消えてなくなりたい。絶対みんな怒っている。これはまずい。無事合流できたとしても、リョウタロウ辺りに殺される気がしてきた。
おそらく間抜けにも穴の中に吸い込まれていった自分を探しているであろう、他の三人の様子を想像して憂鬱に胃を痛くする。
三人の中で最も感情的で、批判的なリョウタロウはもちろんのこと、比較的穏やかで平和主義なシオリやシンジも間違いなく自分に不快感を抱いているはずだ。被害妄想だったらいいけれど、それはあまり期待はしないでおこう。
とにかく一刻も早く他のメンバーと合流しなくてはいけないことは確かだ。今ここで過ごす一秒一秒が、全て自分以外の三人の負担になっているのだと自分を奮い立たせ、とりあえず淡い緑光を放つ壁際に寄り、抜け道を探すことにする。
だけど壁に手をつき、乏しい光明を頼りに歩き出そうとしたその時、背後の方向に何か重たい物体が落下した気配を感じ、私は慌てて動きを止めた。
なんだろう。絶対今、何か落ちてきた。
お願いです。これ以上私を追い詰めないでください。私が何をしたというのですか。
空気を切り裂き、地面に追突した音。その両方をたしかに耳にした私は、背後に顔を向け目を凝らす。距離が案外離れているのか、闇の奥に何が降ってきたのかは見て取れない。
息を潜め、じっと身を硬直させる。
やがて布が擦れるような音が小さく聞こえ、闇の向こう側で何かが蠢いている気配を敏感に感じ取った。
たしかに何かが動いている。絶対動いてる。
これもしかして結構まずいかな。逃げた方がいいやつかな。
耳を澄ましてみても、獣特有の荒い息遣いは聞こえてこない。徐々に存在感を増す何かがすぐ傍にいるのは間違いないが、その正体を全く掴めなかった。
そしてついにその何かが明確な意志を持って動き始め、こちらの方に近づいてくるが、結局逃げ出すこともできず、私はひたすらに弱々しい光が届く範囲に留まり続けた。
もし近づいてくるのが危険な獣か何かだった場合、さすがにここで自らの命は終わってしまうだろう。私はそうなった時、強制的に他のメンバーもレース失格になることを思い、それだけが心残りで、申し訳なくて仕方なかった。
みんな、本当にごめんなさい。
「……あ、マキさん。よかった。無事だったんだね」
「……ってえ? シンジさん?」
しかし自分自身の命は度外視した心配のみをする私の前に闇の中から姿を現したのは、私の命を奪おうとする邪悪な怪物ではなく、無感動な表情で労いの言葉をかけるシンジだった。
「僕たちがまだレースを失格になってないことから、死んではいないと思ってたけど、まさか怪我一つないとはね」
私と同じように真っ白なシャツを若干泥で汚したシンジは、私の周りをぐるぐると回りながら自分の唇を小刻みに叩く。
やがて壁にびっしりと生えた揃った緑光放つ苔が気になったのか、指で試すように突いたり擦ったりし始めた。そんな彼の奇行が気になったが、それより気にするべき事はいくらでもあった。
「あの、なんでここに?」
「ああ、たしかに僕じゃなくてもよかったんだけど、一応こうなってしまったのは僕のせいでもあるからね。スペック的にはツキモトくんの方が適切とも考えたけど、向こうも向こうで大変そうだったから、僕が来たんだ」
シンジの少しずれた返答に私は困惑するが、彼の方は話が噛みあっていないことに気づいていないらしい。
「えと、要するに、私を助けるために、わざわざここまで降りてきてくれたってことですか?」
「それ以外に何があるの? 君がいないと、僕たちはこれ以上先に進めないんだ。当然のことだよ」
「あ、そうですよね。本当にごめんなさい。私の不注意のせいで」
「べつにいいさ。さっきも言ったけど、僕のミスでもある。疲労による注意力の低下を計算に入れてなかった。君を最前列にするべきじゃなかったんだ。今思えば前から二番目辺りがベストだったかもしれない。まあ後の祭りだ。今更後悔しても仕方がないけどね」
当たり前のように自らを助けるためにここに来たと言い切られ、私は恥ずかしさと申し訳なさで胸が張り裂けそうになった。
しかしシンジの方は大して気にしていないようで、怒った素振りも一切見せず、むしろどこか生き生きとした表情で辺りの注意深く観察していた。
「でも、いったいどうやってここまで降りて来たんですか? 穴を飛び降りて来たんですか?」
「穴? いや違うよ。マキさんが落ちたのは穴じゃなくて、崖。だから僕も崖を慎重に降りて来たんだ。最後の方の数十メートルはヘマして落ちてしまったけど、どうやらこっちの世界の身体はやたらと丈夫にできてるみたいだね」
シンジの話では、洞窟の奥の方は陥没地形のようになっていて、道の途中でいきなり断崖絶壁が出現する構造になっていたらしい。その構造に気づかず、私は思い切り飛び降りてしまったというわけだ。
最初は私の死を予期したが、しばらく待ってもレースの失格を知らされるような事が起きなかったため、シンジたち三人は私の安否を確認することにした。
ちょうどそのタイミングでシオリが喉が渇いて体調の悪化を訴え始めたため、三人はレースを一旦中断し、私を捜索する者と、シオリのために何か渇きを癒せるものを探す者で別れることを相談の結果決めた。そして私を探す役目を負ったのがシンジになったということらしかった。
「ナビゲーターは浮いてるからそのまま真っ直ぐに進んでいけたけど、あそこの崖は壁に沿うようにして遠回りしないといけない場所だったんだよ。いま思えば罠だったのかもね」
「そうだったんですか。すいません、私全然気づかなくて。本当にごめんなさい」
「だからべつにいいって。君のミスは僕たち全員のミスだ。話に聞いていた通りよく謝る人だね」
呆れたような眼差しを送られて私は閉口する。人の目を気にし過ぎる性格はあまり自分でも好きではなかった。
だけど今のシンジの言葉に少し引っかかるものを感じる。話に聞いていた通りよく謝る人。いったい誰に私のその悪癖のことを聞いたのだろうか。
「二人には先に洞窟の外を目指して貰い、そこで僕たちが追いつくまで飲み物探しをしてもらう予定になってる。だから僕たちも先を急ごう」
抱いた疑念を確かめる勇気と理由を持てなかった私は、覚えた違和感を忘れることにする。
いつまでも自らの失敗を悔やみ続けている私とは違い、シンジはすでに前を向いていた。彼は指を一本立て、何かを感じ取ろうと集中している。何をしているのかと尋ねてみてみれば、風を探しているのだと答えた。おそらく風が吹き込んでくる方向に出口があるはずだと。
その常に迷わず、自らが望む場所真っ直ぐに目指そうとする姿に姉の面影を見つけ、私は大きな羨望と、そして少しの嫉妬を感じた。
「
「……いずれ
「そんなことないです。菖蒲の花言葉は知性、良き知らせ。ぴったりだと思います」
シンジは菖蒲に似ている。私は菖蒲にも杜若にもなれない、ただの紫陽花。
明翠色の光が仄かに満ちる中で私は、同じ紫紺の花にも関わらず埋め難い差を菖蒲と紫陽花の間に感じていた。
「理由はわからないけど、僕のことを褒めてくれているみたいだから一応ありがとうと言っておくよ」
「感謝なんてしないでください。そんな価値、私にはありませんから」
「……ちなみにマキさんを花でたとえると何になるの?」
「私ですか? ……紫陽花、ですかね。花言葉は移り気。私には信念がないんです。いつも周りに流されてばかり。他人の顔を窺うだけの人生です」
「紫陽花、か」
自分勝手に劣等感を抱いている私に真っ直ぐとシンジは視線を送る。
その深い黒の眼差しにはどこか憂いが秘められていた。
「マキさんは花が好きなんだね。僕は菖蒲の花言葉も紫陽花の花言葉も初めて知ったよ」
「私は昔から下を向いて歩くことが多かったので」
「……マキさんが花を愛するように、僕は詩が好きなんだ」
「詩ですか。私はあまり詳しくないです」
自己嫌悪の言葉ばかりを繰り返す私。なんて面倒な女だろう。迷惑をかけるだけで本当に何の役にも立たない。
どうして私はここにいるのだろうか。なぜ私が選ばれたのかわからない。
よくも悪くも決断力と行動力のあるリョウタロウ、常にマイペースでムードメーカーとしての資質を垣間見せているシオリ、そして抜群の発想力と論理的思考能力を持ち合わせるシンジ。他のメンバーにはそれぞれ得難い長所があるが、自分には何もない。
私はすでに自分の居場所を見失っていた。
「……雨にも負けず」
「え?」
「雪にも夏の暑さにも負けぬ丈夫な身体を持ち」
すると俯く私の横で、とある詩の一節をシンジは語り始める。
宮沢賢治のあまりにも有名な詩。詩にそこまで造詣の深くない私にもすぐに分かった。
いま聞き直すとやけに共感を覚える詩だ。
たしかに昔から病気や怪我とは無縁の人生を私も歩んできた。しかしだからどうしたと宮沢賢治に言いたい気持ちもある。
それにしてもなぜこの場でシンジがこの詩をいきないり言い出したのか皆目見当もつかなかった。私は困惑の眼差しを彼に送る。
「皆に木偶の坊と呼ばれ、褒められもせず、くにもされず」
それでもシンジは構うことなく一人詠い続ける。
初めは自分を慰めてくれているのかと思ったけど、どうやら違うらしい。
それにしても改めてきちんと聞くと酷い詩だと私は苦笑した。詩の全文は覚えていないが、やはりまさに自分のことのようだと感じる。
「欲はなく、決して怒らず、いつも静かに笑っている」
でも古びた記憶を辿るように、飛び飛びに詩を詠うシンジはそこまで紡ぐと、珍しく顔を綻ばせる。そのくしゃっとした笑顔は、私が覚えている限り、初めて目にするものだった。
「ソウイウモノニ、ワタシハナリタイ」
羨望と劣等感に憑りつかれていた私にそんな
「……自分以外の誰かのために走れる人。僕はそんなマキさんが少し羨ましいよ。僕はこれまでそんな風には生きてこれなかった。それはきっと今もだ」
やっぱり私のことを慰めてくれているだけ。
きっとそこまで本気で言っているわけじゃない。そうだとわかっていても、私は暖かい嬉しさを感じてしまう。
「ありがとうございます。慰めて頂いてしまって」
「感謝なんていらないよ。僕にはそんな価値、ないからね」
ついさっき聞いたばかりのような台詞。
澄ました表情からはそれが意趣返しなのか、本気で言っているのか判断はつかない。
だから自分の意志とか関係なく零れる笑みを隠すために唇を噛み締め、これまで常に憧れる、追う側だった私も、シンジの真似をするように指を一本立てた。
不思議と今なら、彼より先に風を見つけることができる気がしていた。
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