制約




 どこからともなく出現した孤島に辿り着くと、これまで全く気にならなかった暑さを感じ始め、額に薄らと汗が滲み出す。

 島の最上部は分厚い雲に覆われていて全貌を見通す事は出来ない。ポジションを確認したところ、いまだ順位は四チーム中上から二番目のままで、今のところ周囲に他に人影は認められなかった。


「暫定二位。意外に好調だね。あたしたちってもしかして結構相性いいのかな?」

「え? あー、うん。どうなんですかね。まだ正直相性うんぬんが試されるとこまでは来てない気がしますけど」

「そう? あたしは中々バランスのいいメンバーが揃ってると思うけどなぁ。でもどうやってこのメンバーを選んだんだろうね」

「さあ。なんか適当にくじでも引いたんじゃないですか?」

「だとしたらきっと、こういうのを運命の出逢いっていうんだろうね」


 どことなく嬉しそうに運命という言葉を使うシオリの隣りで、私は必死に足を前に運び続ける。

 ナビゲーターに連れられるままに島の縁辺部を浜に沿って走る四人は先頭にリョウタロウ、少し離れて私とシオリ、また若干距離が開いてシンジという並びになっていて、自然と私はシオリと会話を交わす機会が多くなった。

 息も絶え絶えで皆のペースに合わせることに大変な思いをしている私とは違って、シオリはレースをそれなりに楽しむ余裕すらあるようで、自殺願望を抱く人物にしては元気な人だと不謹慎にも思ってしまった。


「シオリさん、凄いですね。まだまだ全然疲れてないみたいで。運動得意なんですか?」

「うーん、べつにそんなことはないと思うけど。というか逆にツカサさんはなんでそんなに疲れてるの? だってあたしたち、もう半分死んでるのに」

「え。あれ、たしかに言われてみればそうですね。なんでもう半分死んでるのに、疲れたりするんでしょう。この身体って、睡眠とか食事とか要るんですかね?」

「要らないんじゃない? だってこの身体、現実の肉体とは別でしょ? あ、でもなんか喉はけっこう渇くなぁ。あとお腹も空いてきた」

「痛みとかも一応感じますよね? だったら、ある程度は現実に引っ張られているんじゃ?」

「え? 痛み感じるの? この身体?」

「あ、はい。一度、頬つねってみましたけど、痛かったです」

「つねったんだ。ツカサさんって面白いね」

「そうですかね?」


 ここで私は根本的な疑問に直面する。自分は間違いなく疲労を感じているけれど、冷静に考えてみれば、それはやや違和感を覚える出来事だった。

 ここはすでに現実の世界とは次元すら超えた場所であることは間違いない。それにも関わらず、なぜ苦痛をここまで感じるのか。こちらの世界でも餓死とかするのだろうか。


「あれ。でもなんかあたしはあんまり痛くないよ?」

「え? 何がですか?」

「いやだから、頬つねってみても、なんか痛いというよりは、鈍いって感じなんだよ」


 すると隣りを軽やかな調子で走るシオリが戸惑ったような声を上げる。疲労が溜まりとうとう眩暈の気配までし出した私とは違い、そんな彼女はいまだ汗一つかいていない。


「というかツカサさん大丈夫? 顔色めちゃくちゃ悪いけど」

「正直全然大丈夫じゃないですけど、それより痛くないってどういう意味ですか?」

「それはそのままの意味。痛みをほとんど感じないってこと」

「そんなにつねってるのに?」

「うん。こんなにつねってるのに」


 シオリは右手の爪を頬に突き立て、捻じ切るかの如く思い切り捻っている。だけど彼女の表情は困ったように笑うだけで、痛みによる悲壮感は微塵も浮き出ていなかった。

 そのシオリの異様な状態を見て、まさかと思う。

 怠惰な日常のせいで十代とは思えないほど低下してしまった自らの肉体。それを差し引いても、普段以上に疲れが蓄積しやすいと思っていたけれど、どうも特異な状況下に陥ったことによる緊張以外に原因があるのかもしれない。


「あのさ、もしかしてなんだけど、疲れたり、痛みを感じるのって、ツカサさんだけなんじゃない?」


 やっと爪を頬から離すと、シオリは笑みを潜めて真剣な眼差しを私に送る。

 薄々察し始めて来ていた不平等過ぎる可能性に、何も言い返すことができなかった。


「リョウタロウくーん! ちょっと一回止まってー!」


 滝のように噴き出す汗を手の甲で拭いながら、私はシオリから提示された仮定に頭を悩ませる。

 私たちが立ち止まったことによって追いついてきた最後尾のシンジの表情からも明確な疲労の色は窺えず、私は自らの不運に中指を突き立てたい気分でいっぱいになった。


「なんだよ。まだ島についたばっかだぞ」

「ねぇ、リョウタロウくんは疲れてる?」

「は? 俺は全然余裕だ。こんなに体力的に絶好調なことはこれまでの人生で一度だってないくらいにな。言っとくが、こんな序盤で休憩なんてするつもりはないぜ」


 シオリの呼び掛けに応じたリョウタロウが、不満を隠そうともしない顔つきで私たちの方へ近寄ってくる。彼もまた疲労困憊とはほど遠い状態にあるようで、早くまた走り出したいのか苛立たしそうに足踏みを繰り返している。

 ただ少し眠いのか瞼が重そうではあった。


「シンジくんはどう? 疲れてる?」

「僕もまだ大丈夫。というより、こっちの世界ではあんまり疲れないようになってるんじゃないかな。僕はどちらかといえば体力には自信がない方だけど、不思議と今はまるで疲れを感じない」


 掌を開いたり、閉じたりしながらシンジは得体の知れないものを見るような目で自分の身体を眺めている。

 その動作はやけにぎこちなく、自らですら、彼自身の身体を信用していないかのようだった。


「じゃあ今度は二人とも、自分の頬をつねってみて」

「は? お前何言ってんだ? 状況わかってるか? 俺たちは今、命を懸けたレースをしてんだぞ?」

「いいから、つねってみて。これはたぶん大事なことなんだと思う」


 シオリの発言の意図が理解できないのか、短気なリョウタロウは多少の怒りを滲ませ彼女を睨みつけるが、見つめ返される視線には一切の迷いがない。結局彼はしぶしぶといった様子で自分の頬に手をかける。

 するとすぐに明るい茶色の瞳に困惑の色が混じり、説明を求めるようにシオリの顔を窺った。


「……痛みがやけに鈍いな。これがお前の伝えたかったことか?」

「まあね。シンジくんは?」

「そうだね。僕も痛みはほとんど感じられないかな。でもここは僕たちがこれまで住んでいた世界とは全く異なる場所だ。そこまで重要なことじゃないと思うけど」


 リョウタロウに合わせるように頬を軽くつねったシンジもまた痛覚の変調を確認したのか、思案気に目を細めている。

 だけどそんな二人の反応を見て、空気の抜けるような声を上げたのが私で、もっとも怖れていた事態が現実のものとなったのだとすでにわかっていた。


「嘘ですよね? 皆さん、痛くないんですか?」

「なんだよマキ、変な顔しやがって。まさかお前、痛みをちゃんと感じられるのか?」

「感じられるも何も、むしろ人生で一番敏感に痛みを感じますよ」


 私が泣きそうな声で訴えかけると、リョウタロウの貧乏ゆすりが止まり、シンジの黒い瞳孔が驚きに見開かれた。


「つまり、マキさんだけが僕たち四人の中で痛みを感じられるってこと?」

「その通り。しかもそれだけじゃないよ。どうもツカサさんだけは、あたしたちとは違って疲れもはっきりと感じるみたい」

「……たしかに、マキさんだけ凄い量の汗だね」


 チーム四人の内、たった一人私だけが痛みと疲労を強く感じてしまう。

 どうして自分だけがそんな役回りなのか、あまりの理不尽さに思わず叫び出したいくらいだったが、そうする体力すらも残されていない。


「いったいどういうことなんだよ? それがこのステージに関係する第二の関門ってことなのか?」

「……いや、それはたぶん違うと思う。マキさん、痛みや普段以上の疲労を感じたのは、この島に入ってから?」

「違います。あのずっとループしてた砂浜を走ってる時からです」

「やっぱりか。たぶんこれは、レースの間中ずっと僕たちに付いて回る条件、というよりは制約なんだと思う」


 下唇をリズミカルに叩きながら、どこを見るでもなく漆の視線を宙に泳がせてシンジは自らの推測を語る。


「この世界は普通じゃない。でも普通だったら、僕たちが感じなければいけないものが完全に消えたわけでもない。あの黒猫は僕たちが四人で一つの存在であり、このレースのことをゲームと呼んだ。つまりそういうことなんだと思う」

「何がそういうことなんだよ。わかりやすく言え」


 高速で思考を働かせながら喋っているのか、リョウタロウの催促にはすぐに答えず、しばしの沈黙を経てから再びシンジは唇から指を離す。


「たとえばそうだな……ツキモトくん、君は今、空腹を感じるかい?」

「まったく感じねぇな」

「僕もだ。マキさん、セラさんは?」

「私は今のところ疲れで身体はくたくたですけど、特にお腹が空いた感じはしないです」

「うーん、そうだねぇ。お腹は腹ペコって感じはしないけど、やたら喉が渇くかなぁ」

「なるほど。やっぱりか」


 空腹を感じるか否か。

 その問い掛けを受けて初めて私は気づく。自分が全く飢えを感じていないことに。

 疲労でこれ以上なく全身が重く気怠いのに、身体が求めるのは休息ばかりで、エネルギーの摂取は一切要求されていなかった。

 そしてシオリの口にする渇きもまたまるで感じない。これほど汗をかいているにも関わらず。


「私もわかったかもしれないです」

「そういうことかよ。ちっ、これは面倒な事になってきたな」


 疲労と飢餓。

 それは本来ならば、誰もが当たり前のように知覚するものだ。

 しかし、この場にいる四人の中でその知覚を留めているのは、それぞれ一人ずつしかいない。


「完全にというわけじゃないみたいだけど、おそらく僕たちの感覚の内四つが、四人それぞれに分配されてる。今、わかってる限りだと四人分の“苦痛”がマキさんに、そして四人分の“飢餓”がセラさんに圧し掛かっているんじゃないかな」


 単純に四倍というわけではないけど、他人の分までの苦痛、つまり痛みや疲労感を背負わされていると言われ、私は目の前が真っ暗になるようだった。

 ここから先、どれほどレースが続くのかわからないが、その中で傷を負うこともあるかもしれない。果たしてその時、自分が痛みに耐えきれるのか、レースを続行するための精神力を維持することができるのか。私は不安で堪らなかった。


「うわぁ。なんかシンジくんが言ってること、合ってるっぽい感じするね」

「苦痛と飢餓か。よりもよって厄介なもんを背負っちまったな、お前ら。でも、その仮定でいくと、俺も四人分の何かを背負ってるってことだよな? 俺は何の担当だ? 心当たりがねぇんだが」

「それは僕も同じだよ。いくつか予想は立てられるけど、今のところ断言はできそうにない。もしかしたら、僕の今言った仮説は全然違っているかもしれないし」


 不自然に感じない喉の渇きから、大よそシンジの考えは正しいのだろうと、私は個人的には納得している。

 だけどシオリ以外の二人、シンジとリョウタロウが何を私の分まで重荷にしているのかはまったく見当がつかなかった。


「とにかく、マキさんが僕たちの数倍疲れやすくなってることはたしかだ。だからここから先は彼女に合わせて進むべきだと思う」


 大まかな現状の認識を四人で共有し終わると、シンジがこれから先のレースに関するプランを一つ提案する。彼の発言の意図をすぐに理解した私は、自らの責任が増す気配を感じ表情を曇らせた。


「マキに合わせて進む? こいつを先頭にして、俺たちはこいつのペースに合わせて走るってことか?」

「それがベストじゃないかな。僕たちは四人で一人。マキさんの限界が僕たちの限界だ」

「くそったれ。なんでよりにもよって、このへなちょこ女が苦痛の担当なんだよ。俺だったらもっと耐えられるのに」


 リョウタロウは癇癪を起こす寸前といった様子で歯ぎしりをするが、シンジの発言自体に逆らう意志はないようだった。

 私は他の三人に迷惑をかけてしまっている罪悪感で、疲労以上の重荷を感じていた。


「でも、あたしたちが疲れを感じないなら、皆で順番にツカサさんをおんぶでもしながら走ればいいんじゃない?」

「それも悪い作戦じゃないけど、僕たちだって完全に疲れを感じないわけじゃない。このレースがどれだけ続く分からない現状だと、そこまではしなくていいと思う。それこそ、本当にマキさんに限界が来る時までは、彼女にも一応走って貰うべきだよ」

「そっかぁ。なるほどね」


 シオリの過保護とまで言えそうな言葉を、シンジはあっさりと切り捨てる。

 彼はどこまでも冷静かつ聡明に状況を見極めているらしかった。


「大丈夫です。まだ私は走れます。おんぶなんてそんな。そこまで足を引っ張りたくないです」

「とりあえずは気絶するまで走って貰うことにするか。どううらこいつもやる気だけはあるみたいだからな」

 

 そして私自身も、いくら自分だけが他の三人とは違い疲労を感じやすい状態になっているとはいっても、そこに甘えるつもりはなかった。出来る限り他の三人の足枷になってしまうことだけは避けたい。


「本当に大丈夫? もし、もう駄目だぁー、って思ったら、すぐ言うんだよ?」

「ありがとうございます。でも本当に大丈夫ですから。私は、大丈夫です」

「ならいいんだけど」


 自らに言い聞かせるように大丈夫と繰り返す私を、心配そうにシオリは見つめてくれるけれど、それ以上は何も言わない。私はそれを望んでいたので、彼女に感謝した。


「とりあえず話はこれで一旦まとまったな。ならさっさと行こうぜ。ほらマキ、先行けよ」

「あ、はい。えーと……ゴー」


 そして私は少し離れた場所で漂っているナビゲーターの傍まで近寄ると、慣れない調子で起動させる。

 輝きを増す蒼白光。

 何度かアップとダウンで速度調整をしながら、なんとかその球体の後ろをついていく。


「ちなみにあたしは気分悪くなったらすぐ言うからねー」


 後方から叫ばれるソプラノの声に背を押されながら、私は汗を跳ねさせ浜辺を駆け抜けていくのだった。






 しばらく私を先頭にして走り続けていると、雪の如く薄白かった砂が赤黒い岩場へと変わっていき、やがて洞窟の入り口のような場所に辿り着く。

 若干の逡巡に後方を振り返ってみるが、特に一時停止のジェスチャーは誰からも送られてきていない。

 私はそれに少し落胆したが、疲労で霞む目元を軽く擦り上げると、迷いなく暗黒の最中に潜っていくナビゲーターに続いた。


「うっわぁ。見通し悪いねぇ、ここ」

「あ、どうもです。どうですかね、私のペース。やっぱりちょっと遅いですか?」

「そんなことないと思うよ。まあ、たしかにリョウタロウくんはイライラしてるけど、彼はイライラしてない時の方が少ないからあんまり気にしなくていいんじゃないかな」


 洞窟の中に入ると、シオリが私に並走するような形をとる。隊列は今や最前列の私、シオリ、少し空いてシンジ、そして最後尾にリョウタロウといった順序になっていた。


「そうですか。あの人やっぱり怒ってるんですね。はぁ、胃も痛いです。これも四人分なんですかね」

「ポジション……順位もまだ二位のままだし、このままでいいと思う。リョウタロウくんなんか無視無視」


 あくまで気楽な調子のシオリに、最前列で孤独と罪悪感に耐えていた私は救われる思いだった。

 いくら気力を振り絞っても、足は鉄屑のように重く錆びついていて、駆ける速度は確実に遅くなってきている。その事をいつ指摘され、非難されるか怯えながら走っているのが私の現状だったからだ。


「でもやっぱりもうちょっと急いだ方がいいですよね。洞窟の中に入って、若干涼しくなってきましたし」

「えぇ? べつにこのままのペースで十分だと思うけどなぁ」

「いえいえ、皆の足を引っ張りたくないので。……アップ」


 おそらく段々と速度を下げている自分を案じてシオリは傍まで来てくれたのだろう。

 私はすでに悲鳴を上げている全身に鞭を打つ。私の命を言葉のまま受け取ったナビゲーターの速度が上がり、日差しの届かなくなった岩窟内で汗が噴き出す。

 時折り水滴が零れ落ちてくる洞中は進めば進むほど狭隘になっていき、人一人分程度の道幅しかなくなってしまう。

 濡れた岩肌はうねるような不規則な形状をしていて、足腰に否応なしに負担をかけていく。

 視野に暗い部分が増えていくが、それが洞窟の奥に進んでいるためなのか、それとも酸欠のせいなのか判断はつかなかった。

 


 あー、疲れた。頭がぼうっとする。



 休みたい。

 止まりたい。

 でも駄目だ。

 走り続けないと。

 私が止まったら、皆が先に行けない。

 足手まといにはなりたくない。

 皆に、失望されたくない。

 もし今、自分が足を止めたらどうなるだろう。

 

 ふと考えてみる。

 

 シオリは優しく自分に声をかけて一緒に休んでくれるだろう。リョウタロウはきっと憤怒に顔を歪め自分を叱咤するはず。シンジがどう反応するかはわからない。ただ何も言わず、星を失った夜空のような瞳で静かに自分を見つめるだけかもしれない。

 やがて足の感覚が、自意識から剥落していくのを自覚した。

 想像よりも簡単に限界を迎えてしまったみたいだ。

 もはや視界に映っているのは幽玄を思わせる蒼白の影だけで、他には何も見えない。

 それにしても私、けっこう頑張ってるなぁ。

 なんでこんなに頑張ってるんだろう。

 ここまで必死になって走るのなんて生まれて初めてだ。

 やはりあれかな。自分の人生がかかってるから、ここまで必死になれるのかな。

 自分がどうやって呼吸をしているのかさえ曖昧な闇の中で、私はどうして自分が光の跡を息も絶え絶えになりつつも追っているのか疑問に思った。

 たぶん違うんだ。

 私は自分のために走っているわけじゃない。

 きっと、皆のために走っている。

 だって私は、他の走り方を知らないから。

 自分のためではなく、他人のために走っている。

 私が苦痛に耐える時は、いつだって自分以外の誰かが理由だった。

 私は自らの肉体と魂が朽ち滅びることよりも、他者に失望されることを怖れる人間で、私はそんな自分が心底嫌いだった。



『ねぇ、ツカサ。あんたって紫陽花アジサイに似てるよね』



 ふと私は、姉に昔言われた言葉を思い出す。

 私の姉は優秀な人だった。追憶に浮かぶ姉はいつだって背中を向けていた。

 二人とも公務員で、変化よりも安住を好む両親の気質を強く受け継いだ私とは違い、姉は常に新しい刺激を求め、いつだって自らの好奇心のままに道を切り拓いていき、またその先駆者としての気質に見合うだけの能力を持っている人だった。

 そんな自分たちには与えられなかった天稟を持つ姉を両親は寵愛し、また私にも同等の才覚を期待した。

 姉にできたことなら、きっと私にもできるだろう。そんな残酷な期待に対し、失望されることを恐怖した私は出来る限り応えるようにした。

 明るく活発で運動神経の良かった姉には真似できない部分が多かったけど、それでも私は縦横無尽に人生という踊り場でステップを刻む姉になんとか付いていった。

 姉がピアノに興味を持ったため、私もまたピアノを熱心に弾く練習をした。

 すぐに飽き性な姉は鍵盤の前から立ち去っていったが、姉の滑らかな旋律を完全に再現することはまだ私にはできていない。

 特別な関心を持っていない学業においても常に平均より遥か上の結果を出す姉を見て、両親は安堵を多分に含んだ笑顔を見せる。その笑顔を自分の前で壊さないようにするため、私は平均より遥か上の努力を惜しまなかった。

 いつも私は誰かの期待に応えるために、自分という存在に失望されないためだけに人生をおくっていた。

 それ以外の走り方を、私は知らなかった。

 姉に紫陽花に似ているといわれた時、すぐに意味を理解することができなかったが今はわかる。

 紫陽花は自らが根を張る土壌の酸性度によって花の色を変える。土が酸性ならば藍色になり、塩基性ならば赤色といった具合に。

 きっと姉は私が自分の色を環境によって、すなわち他人によって変化させてしまう性質を持っていることを皮肉したのだろう。

 紫陽花に似ているといわれてから、私は自分のことが好きになれないでいた。 



「――ツカサ! 危ない!」



 するとその時、私は突然奇妙な浮遊感に全身を包まれる。

 色褪せた回想が途切れ、自分を導いていた一筋の光が視界から消失する。

 グラリ、と身体の向きが勝手に変化した感覚を抱くが、全方位を暗闇に囲まれているせいで、自分が前を見ているのか、はたまた別の方向に目を向けているのか判別ができない。

 誰かが自分の名を呼んでいることに錆びついた思考がやっと気づくが、そのソプラノがどこから響いているのか、なぜ叫ばれているのか理由は探れない。

 とうの昔に意識外へ飛んでいった下半身を足掻くかの如く動かそうとしたけれど、固い地面を踏む感触をどうやっても得られない。


 髪が靡く。


 どこからともなく風が吹き抜けたのか。それとも自分自身が風となってしまったのか。

 つい最近姉は事故にあって、私たち家族から少し離れた場所に行ってしまったけれど、その時もこんな感覚だったのかな。


 やがて後頭部に強烈な衝撃が走り、そこで私の意識は一度完全に途絶えた。




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