黒猫


 優しい風が頬を撫で、涼し気な潮の香りが鼻腔をくすぐっている。雲一つない青空の下で目を覚ました私は、まずその自らの五感に疑問を持った。


 ここはどこだろうか。


 ゆっくりと上体を起こし、そこで初めてこれまで自分が横になっていたことに気づく。

 前方を見てみれば、深い蒼の大海原がどこまでも広がっている。腰元の白砂を手に取ってみれば、指の隙間から流れるように零れ落ちていく。

 一切見覚えのない風景に囲まれながら、私は茫然と潮風に髪を靡かせることしかできなかった。



「こいつで三人目だな」

「っ!?」



 すると突然、背後から唸るような声が聞こえてきて私は少し身体を強張らせる。

 慌てて振り返ってみればすぐ傍に背の高い青年が立っていて、値踏みするような視線でこちらを見つめている。その刺々しく近寄りがたい雰囲気は花で例えるなら鳳仙花ホウセンカだ。鳳仙花の種は触れると弾け飛ぶ。


「この間抜け顔。どうやらこいつも何にも知らねぇみたいだな。おい、あと何人来るんだ?」

「さあ、知らない。そんなことあたしにきかれても」


 よく見れば、その青年の隣りで小柄な少女も顔をのぞかせていて、私の方を興味津々な様子で眺めている。


「ねぇ、あなたの名前は?」

「私ですか? 私はマキツカサですけど」

「へぇ、そうなんだ。あたしはセラシオリ。よろしくね」

「あ、はい、えと、よろしくお願いします」


 私は現状がまるで飲み込めないままだったが、とりあえず目の前の少女――シオリから差し出された手を握った。どことなく牧歌的で自由な印象の彼女を花で例えよう。きっと蒲公英タンポポが相応しい。風に乗って彼女はどこまでも飛んで行くことだろう。


「あの、すいません、ここはどこなんですか?」

「知るかよ。俺がききてぇっつうの」

「はあ、すいません」


 危険な状態にあるわけではないと判断し、近くの青年に話しかけてみるが、それはすげなく突っぱねられてしまった。目つきの悪い彼は苛立ち気に貧乏揺すりを繰り返している。どうやら機嫌が悪いみたいだ。


「ごめんね。あたしたちもツカサさんが知っている以上のことは知らないんだ。ちなみに彼の名前はリョウタロウ。一番最初にここに贈られてきたのが彼みたい」

「送られてきた?」

「うん、そう。……ほら、見て。ちょうどまた新しい人が贈られてくるよ」


 シオリがいきなり空を指さすので、そちらの方向に私も目を向けてみると、そこには不思議なものが視えた。

 淡い白光に包まれた、一人の少年。

 癖のない黒髪をゆらゆらと揺らしながら宙に浮かんでいて、段々と私たちの方へ近づいてくる。

 燦燦と照りつける太陽を身に受ける少年を、まるで天使のようだと思った。


「こいつで四人目だな」


 やがて白砂の絨毯に背を預けた少年を上から覗き込み、青年――リョウタロウがつまらなそうに呟く。

 あどけない童顔は雪のように白く、染み一つない。

 少年の服装は無地の白いシャツに黒のスキニーで、自分と、そして横に立つリョウタロウとシオリもまったく同じ格好をしていることに私は遅れて気づいた。


「……ん? ここは……?」


 ほどなくして少年も目を覚まし、瞼を擦りながら身体を半分起こす。

 そこまで見て、私もやっと自分がどのようにしてこの場所へやってきたのか理解した。すると意味もなく恥ずかしい気分を抱いてしまう。私の悪い癖だ。


「ねぇ、あなたの名前は?」

「……君は?」

「あたしはセラシオリ」


 シオリの問い掛けには答えずそのまま質問を返し、差し出された手も握ることなく少年は身体に付着した砂を落としながら立ち上がる。

 冷めた目つきで辺りを注意深く観察し、何かを考え込むように唇に手を当てたと思うと、彼はそのまま黙り込んだ。


「おい、お前。やけに冷静だな。何か知ってるんじゃねぇのか?」

「……そんなことないよ。十分混乱してる」

「どこがだよ。そこの女なんて、目覚めるなり口を半開きにして思考停止して、ちょっと声をかけただけで悲鳴を上げてたぜ」

「悲鳴なんてあげてないです。嘘はやめてください」


 唐突に自らがやり玉にあげられたので、私は抗議の声をあげる。意地悪な鳳仙花だ。

 でも少年はそんな私に興味はないようで、威圧的に睨みを飛ばすリョウタロウの方だけを見ていた。


「その服装から察するに、君たちも僕と同じような立場みたいだね」

「俺は新聞配達のバイト中だったんだ。なのに気づいたらここにいた。まったくもって意味がわからねぇ。早く俺を元いた場所に戻せよ」

「新聞配達のバイト中? もしかして、その前日も夜勤のバイト入れたりしてた?」

「あ? それがどうしたんだよ。というかよくわかったな。やっぱりお前、なんか知ってんじゃねぇのか?」

「なるほど。そういうことか」

「おい。なにがそういうことなのか説明しろ――」


 ――瞬間、目を眩ませる閃光が走る。

 思わず目を閉じてしまったが、すぐに光は収まり、おそるおそるもう一度目を開いてみる。

 そうすれば瞬きの間に五人目の客人が招かれていたことを知ることができた。

 全く同じ服装をした私たちから少し離れたところにぷかりと浮かぶ、球状の光体。

 そしてその発光球体の上に寝そべる瞳の色が左右で異なる黒猫。左目は海空を思わせるライトブルーで、右目は黄金に近いレモンイエローだった。



「やあ、ご機嫌よう。これで君たちのチームもメンバーが全員揃ったね」



 空漠の世界で、そんな黒猫が私たちに声をかける。


「は? なんだこの猫?」

「え、いま喋りました?」


 驚きの連続で麻痺しつつあった私の感情が、ここにきてまた衝撃を受ける。

 宵闇の如き黒毛で身体を覆った猫は、たしかに私たちに向けて言葉を話していた。黒猫が人間の言葉を発しているのか、それとも私が猫語を理解できるようになったのかのどちらかだ。


「まず君たちには申し訳ないけど、つらい現実を伝えなくてはならない。……今、君たちは生死の狭間にいる。要するに、半分死んでるってことだ」


 唐突に告げられた台詞が、時間をかけて脳に伝わっていく。

 

 私は、半分死んでる。

 

 ここが現実の世界ではなく、夢のような場所であろうことは私もある程度予想していたが、ここまで救いのない夢だとは思ってもみなかった。


「意味がわかんねぇよ。なに言ってんだこのクソ猫は?」

「私の声は真実しか伝えない。たとえばそうだね。ツキモトリョウタロウ。君の場合を例として説明しよう」


 隣りで名指しされたリョウタロウが生唾を飲み込む音を聞いて、私もまた緊張に身を固くさせる。


「夜通し道路工事の作業を行った後、君は早朝新聞配達のバイトに向かった。しかし連日のアルバイトの疲労が溜まっていた君は、うっかりバイクの運転を誤り交通事故。結果意識不明の重体に陥り、その後生死の境を彷徨っている」

「て、適当なこと抜かしてんじゃねぇぞっ!」

「全て真実だ。それに君も本当は薄々自覚があるんじゃないかな?」


 リョウタロウの震える咆哮に対し黒猫は冷然と切り返す。

 彼はそれ以上何も言えず、苦々しい顔つきで口を噤むだけ。


「このままいけば、おそらく君たちは死んでしまうだろう。でも君たちはまだ若い。そこで私は、せっかくの贈り物を不幸にも若くして手放してしまいつつある者達を、四人だけ救うことにした」


 黒猫は淡々と言葉を紡いでいく。話す内容は荒唐無稽なものばかりだったが、なぜか私にはその全てが真実だと理解できていた。あの黒猫は真実のみを口にしている。


「その半死半生の若者というのが、あたしたち四人のことで、あなたはそんな私たち四人を救ってくれるってことですか?」

「いい質問だね。でも残念。答えはノーだ」


 ふいにシオリが疑問を挟むと、なぜか黒猫は嬉しそうに否定する。

 私もてっきり、目の前の猫の形をした超常的存在が自らを救ってくれるのかと思っていたけど、その悪戯っ子のような微笑を目の当たりにしてその考えはしまい込む。


「おい、クソ猫。どういうことだよ。ここにまだ他の奴らが来て、そいつらと生き残るための席争いをしろってことか?」

「惜しいね。この場所にくるのは君たち四人で全員だよ。ただ生き残るための席争い、その認識は正しい。だがおそらく君は少し勘違いしているようなので言っておくけど、これは個人戦じゃない。団体戦だ」


 そこまで黒猫が喋ったところで、リョウタロウの顔が不愉快そうに歪み、彼は次いでシオリ、少年、私の順に顔を見回し、最後に特別大きな舌打ちをした。なんて失礼な人だろう。


「君たちは今から運命共同体になる。君たち四人全員が助かるか、または君たち四人全員がここで人生を終えるか、そのどちらかだよ」


 運命共同体。自分が無事この場所で生き残り、元の世界に戻れるかどうかは他の三人次第。

 思いもよらない展開の連続で、私はすでに卒倒寸前だった。


「これで今の自分たちがどういう状況にあるのかは理解できたね? それじゃあ、これから肝心のどうやって救う四人を決めるのかを説明しよう」


 これが夢だったらどれだけよかったことか。私は自らが陥ってしまった、この限りなく空想に近い現実に恨みを隠せない。

 私は意識を失いここに運ばれてくるまでのことを懸命に思い出そうとしていたが、どうしてもたしかな記憶を取り戻すことができなかった。最悪だ。今の私にとっては自分自身すら信頼が置けない。


「ルールは簡単だよ。さっきも言った通り、君たちは四人一組のチームをつくってもらい、それぞれレースを行って貰う。つまりは、私が設置したゴールに最も早く辿り着いたチームの四人が生き返る権利を手に入れるということさ」


 黒猫がレースという言葉を使ったところで、私は胃の辺りに痛みを感じ始める。

 根っからのインドア派で、自ら進んで運動をするような経験がなかった私にとって、他人と何かをやり遂げる速度を競うことは喜ばしいことではなかった。


「レースだと? そのゴールまでのコース設定はどうなってんだよ」

「ゴールまでの道のりに関しての心配は要らないよ。コレが全てを教えてくれる」

 コレ、と言いながら黒猫は自らが乗っている発光球体を前足の肉球で叩く。

「コレの名前はナビゲーター。コレに“ゴー”、といえば目的地まで先導してくれる。その先導速度も“アップ”、“ダウン”の二つのキーワードで調整可能だ。休憩したいときは“ストップ”と言えばいい。さらに君たちの気になる現在順位も“ポジション”と言えば教えてくれる便利機能付きだよ」


 ゴー、ストップ、アップ、ダウン、ポジション。それがナビゲーターを操作するための五つのキーワードだと黒猫は簡単に説明する。

 どういった仕組みでそんなことが可能になっているのか気になったけど、今自分が半分死んでいる状態なのを思い出し、言葉に反応する発光球体の構造など些細な問題だと気にすることはすぐに止めた。


「さて、それじゃあこれで私からの説明は以上だ。何か質問はあるかい?」

「ゴールに辿り着くのには四人全員必要なのか? 途中で誰かが脱落したらどうなる?」

「さっきも言っただろう? 君たち四人は運命共同体だ。一人でも脱落したら、君たち全員が脱落ということになる。四人全員でゴールするか、四人全員で脱落するのかどちらかだ」


 真っ先にリョウタロウが鋭い声を上げるが、それにも黒猫は澱みなく答える。

 足を引っ張ることは許されない。私は改めて責任の重大さを噛み締め、身体が小刻みに震えるようだった。今すぐ家に帰りたい。


「……他のチームの人たちはいったいどこにいるんですか? レースというのなら、普通スタート地点は同じだと思うんですけど」


 するとこれまで静観に徹していた少年が唇に指を当てながら、小さいが力強い声で黒猫に問い掛ける。

 ライトブルーとレモンイエローが発言者である彼の方に注がれ、彩色を異ならせる瞳が興味深そうに細まった。


「たしかにスタート地点は全チームバラバラにしてあるけど、コースの公平性は保たれている。前はスタート地点を皆一緒にしてた頃もあったんだけど、そうすると少し問題が生じることが多かったらしくてね。だから今回は皆違う場所からスタートしてもらう。だけど改めて強調しておくけど、レースの公平性に関しての心配は要らないよ」

「そうですか。わかりました。ありがとうございます」


 少年は黒猫の説明に納得したのか、軽く頭を下げる。

 一方私は少し引っかかるものを感じていた。いったいこのレースはいつから行われているもので、これで何回目になるのだろうか。

 しかし脳裏に浮かぶ幾多の疑問を、結局私が実際口にすることはなかった。


「ではこれで質問も以上かな? なら早速“ゲーム”を始めさせてもらう。おっと失礼、ゲームというのはこのレースのことだよ。通常私たちはこのようなレースのことをゲームと呼んでいるんだ」


 ゲーム、生と死の狭間で行われるこのレースは彼らからすればお遊び感覚なのかそう呼ばれているらしい。

 気づけば穏やかな潮風はもう吹いておらず、どこまでも続いているように見える水平線は凪に動きを止めていた。



「……ゲーム、スタート。君たちの旅に幸運を祈っているよ」



 やがて再び刹那の閃光を走らせると、黒猫は現れた時と同様に忽然と姿を消す。

 残されたのは不安定に宙を漂う球状の光体だけで、他には何一つ残されていない。

 まず動いたのは痩身痩躯のリョウタロウで、寸刻前まで黒猫が乗っていた球体の前に立つとぶっきらぼうに言葉を投げかける。


「ポジション」


 これまで淡い白だった光の色が真紅に変化し、球体の中心部に薄らと数字が浮かび上がる。

 初めは2/4で、数秒置いて3/4になり、そして最後には4/4を示した。



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