八章
潮風が心地よく
一面に広がる光景に、シアは言葉をなくした。
かつては瑞々しい草の生い茂る、自然そのままの場所だった。だがいまそこにあるのは草の緑ではない。まぶしく
あまりにも美しくて夢のようで、
波を返す
海にいちばん近しい場所に、
「ただいま」
いまシアが
彼らを抱きしめるように、シアはその場に寝そべる。両手を広げて、
それを、マリアは冷淡に見ていた。美貌にはもうこれまでの笑みはない。菫色の瞳は燃えるようにゆらめいている。艶めく唇が紡ぐ言葉だけ、甘ったるく響いた。
「再会ができて、よかったわねえ」
足音で、シアはマリアが近づいてきているのを感じた。ぴりぴりと膚を刺すような感覚がする。彼女はいつもちぐはぐだ。烈しい感情を持ちながら、甘えたような声で心にもないことばかり言っていた。体を起こして、シアはマリアを見上げる。
「ありがとう。あなたが、こんなに我が儘を聞いてくれるとは思わんかった」
「いつだって、愛しているって言ってたじゃなあい」
「嘘ばっかり。憎んでいるのまちがいやろ」
「愛と憎しみはおなじようなものでしょお?」
マリアのくちびるが、三日月のように歪んだ。ちらりと覗いた舌は異様に紅く、しゅうしゅうと
「わたしはずっとあなたを見ていたの。あなたを想って生きてきたの。だれよりも愛しているし、だれよりも近しいものでいたいの」
愛の告白のように、陶然とマリアは言葉を紡ぐ。
「あなたは美しい姉妹愛があるとでも思っていたのかもしれないけれど、わたしのいちばんはあなたなの。姉さまから記憶を奪い愛するひとを奪い、そして自由を奪ったことなんて――そう。どうでもよかったわあ」
「――え?」
シアはそこでようやく目を見開いた。満足げに、マリアは笑う。愛おしげに手の伸ばし、シアの頬に触れた。指先は熱くて烈しい感情の奔流に呑みこまれそうだった。ユエルのつめたく優しい手とは違う。
「姉の仇とでも思ったのかしらあ? むしろ逆よ。あなたが姉にしたことは、わたしの世界を変えてくれた出来事だったのだから」
いよいよわけがわからなくなる。ずっとマリアが烈しい感情をシアに向けていたことは知っていた。彼女の持つ気配から、美しい容姿から、ユエルとの繋がりを見いだせた。憎まれて当然だと思っていた。いつかきっと、彼女はシアに報復をするのだろうと勝手に思い込んでいた。でも、そうじゃないという。じゃあ一体、マリアはなにを想いここまでやってきたのだろうか。
「わたしにとって姉はねえ、すごいひとだったのよ。あなたも知っているとおり、夢見の力を持っていた。父も母もみんな、姉を持て
味わったことのない熱量の感情に、シアは
「あのときあなたは、まだ幼い子どもだった。可愛かったわねえ。でもそんなただの子どもに、姉はまるでなすすべもなく記憶を奪われたの。ただ、触れるだけで。あんなに強い意志をもっていた姉に、そんなことができる人間がいるなんて――やっぱり姉は、ちょっと特別なだけの、ただの
それはわたしじゃない――。その言葉を告げることを、きっと彼女は赦さないだろう。マリアの瞳には過去のシアへの
「あなたに近づくために、わたし、がんばったの。あなたのように人を変えることができるようになりたいって思ったから、人体への影響の強い調香学を(ちょうこうがく)修めて、教会へのコネをつくったわあ。そしてあなたという伝説を世に刻むために――障害も用意したの」
口内はかわいて、声も出ない。悪寒がシアを襲う。この感覚を知っている。かつて幼いシアが、目覚めたばかりのシアが味わった絶望が目の前にあった。
「カフカフスコスを
気づいたときには、マリアの胸倉を掴んでいた。ぎりぎりと締めつけると、それさえも愉快といった様子で彼女は嬉しそうに笑う。
「ねえわたしが憎いかしら。わたしと同じように、あなたもわたしに想いをくれるのかしら。もしそうなら、それほど幸福なことはないわ」
なけなしの理性で手を離した。もうなにも考えられないほどに、頭のなかは真っ白だった。じりじりと
こんな化け物が、愛に満ちたユエルと血が繋がっているなどと思いたくなかった。
「……犠牲になった人間に、申し訳がない。……顔向けできへんわ」
「力ないものは、
マリアにはひとかけらの悪意もない。
「だれよりも特別なあなたが為すべきは、新たな伝説をつくり神話を築き上げていくこと。
彼女は無邪気だった。もはや、言葉は届かないだろう。彼女のすべてを否定してやりたい。けれど、どうにも力が出なかった。あまりにも悲しくて虚しくて苦しくて、言葉を紡ぐのも辛かった。
「ねえ、蒼月宮から連れ去ったのは、あなたを楽にしてあげるためなんかじゃないの。あなたが為すべきことを教えてあげたかったの。あなたは、わたしが時間をかけて造りあげた生きて立ちはだかる障害たちを越え、新たな伝説を刻むのよ――」
それは一体なんのことだと、問いかけようとした。
「シア!」
木々の茂みから、見知った人物が走ってくる。もう二度と見ることはないと思った姿に、その変わらぬ笑顔に、シアは知らず涙が出た。どうして、なぜ、とさまざまな疑問が胸を渦巻くのに、声にならなかった。当然のようにそばに駆け寄り、抱きしめられる。あたたかな頼もしい腕に、またひとつ雫が落ちる。
「どうして、泣いているんです?」
困ったように笑いながら、ルカはシアの涙を優しく拭った。言いたいことは山ほどあったが、彼女に会えたことがなによりも嬉しかった。なにより子どものように涙を流すシアを見て、責めることなど到底できなかった。
「だって……。なんで、こんなとこに……」
「それはこっちの科白です。気を失っていたかと思えばこんなところまでやってきて。こんなことがないように、閉じ込めてしまいますよ」
冗談めかして言って、抱きしめる。甘い香りとぬくもりが愛おしかった。意外なほどの抵抗はなく、シアは弱々しくルカの服を握りしめる。
「いやね。せっかく二人きりだったのに」
マリアは可愛らしく頬を膨らませて拗ねる。
「お久しぶりね、ルカちゃん。シアちゃんをふつうの女の子みたいに可愛がっちゃあ、いけないわ。……やっぱり教育を一般人に任せたのが失敗だったかしら」
「……まさか」
腕の中で、シアが呟いた。状況の理解できないルカにも、彼女の蒼白さは只事ではないとわかった。
「そうよお。そこにいるのがわたしの人生の最高傑作。わたしがあなたのために為したいちばんの障害。――ベースはわたしと優秀な遺伝子をもつ提供者なのだけど、そこに調香学もアレンジして、人類を
「え……?」
一体、マリアはなにを言っているのだろう。呆然とする二人を眺めて、彼女は
「わたしが、ルカちゃんの本当のママよ。産んだわけじゃないけどねぇ」
ルカが動くよりも先に、シアが俊敏に動いた。目にも留まらぬ速さで、マリアの頬を拳で殴った。荒れた呼吸で吐き捨てる。
「――冗談きついわ」
「信じて。あなたのために費やした研究の日々を。愛の力って偉大なのよ。世界各地に散らばった、人を惑わす悪魔を鎮めて
マリアの瞳は真摯だ。これ以上なく真剣な表情だった。
握り閉めたちいさな拳から、血が滴り落ちていく。
「だれかのためって言葉を使ったら、なにしてもええんとちがう! わたしは、そんなん望んだ覚えはない! そんなんいらん!」
「………わたしは、あなたのためにいらない存在?」
苦しげに叫ぶシアに対して、ひどく傷ついたようにマリアは言った。ふるえながら、シアは頷いた。
「それなら、わたしもわたしがいらないわ。姉にしたように、わたしのことを、わたしのあらゆる意志のすべてを消して。それができないなら、あなたのその手でわたしを殺してちょうだい」
「なにを――」
「ねえ、お願いよ。わたし、あなたのためならなんだってできる。なんだってなれる。特別なあなたでいてくれるのであれば、それでいい。わたしという悪魔を
「もうあんなことはだれにもしたくない! あんたは一体なんなんよ!」
またシアの銀の瞳から涙があふれた。
「もうずっと昔から、ただわたしはあなたという存在に恋をしているだけよ」
うっとりと夢見るように、マリアが凄絶に笑う。いままでみたどんな笑みよりも美しく、人に非ざる狂気に満ちていた。
「そんな感情なんかいらん。自分の命は自分で責任もって。いちいちわたしを巻きこまんといて」
「嫌よお。ここでわたしを始末しないと困るのはあなたよ。大好きなあなたに、可愛さ余ってもっとすごい意地悪をしてしまうわ。それでもいいのかしらあ?」
「なんで困ることわかってて……」
「だって、それがわたしの愛だから」
ここまで追い詰められた彼女を見るのは、初めてだった。
ルカはずっと、ユエルの言葉を
どうすれば二人を救うことができるのか、考えていた。二人の間になにがあったのかは、ルカはわからない。けれどそこに横たわる確執の深さは見て取れた。
マリアの
実の母といわれても、実感など湧かない。けれどユエルもマリアも、真実を述べているように思えた。証拠などなにひとつない。事実なのかもしれない。けれど、そんなことはどうでもよかった。いま目の前にある二人を救えと、ユエルは言っていたのだ。そのときが、きたのだ。自分がなにをするべきか。
相反する二人が共に幸福になる道は、なきに等しい。けれど救え、と言っていた。ルカの出した結論は、けして正解ではないだろう。それでも、
奇妙なまでに穏やかな気持ちだった。いまルカの胸の内に迷いはない。
ゆっくりと、二人に歩み寄る。
「俺は、しあわせですよ」
ふわりと笑うと、二人は虚を突かれたようにルカを見た。
「この力があったから、シアに出会えました。もし本当にマリアさんがこの力を持つように生み出してくれたのなら、感謝こそすれ恨みなどありません」
固く握りしめられたシアのてのひらをやわらかくほどいた。そしていつものように、その手を取った。マリアは笑みを浮かべたままこちらを見ている。その筋張った骨ばかりが目立つ肩を、ルカは空へと押しやった。あまりにも容易く彼女の身体は後ろへと傾いだ。
二つの視線が交わり、シアとマリアは互いに手を伸ばす。けれどそれが繋がることはなく、マリアの
最期の
「ありがとうございました。あなたもどうか――しあわせでありますように」
――彼女は笑っていた。
それが本当に恨みがましくて憎らしくて、そんな感情を抱く自分の醜さに嫌気がさす。生きているのは自分で、彼女は死にゆく。なのにどうして、あんなにも勝ち誇っているのだろう。どうしてこんなに、敗北感でいっぱいなのだろう。彼女は幸福そのものの笑顔で、自分は不幸みたいに涙と鼻水でぐしゃぐしゃの汚い顔。
体中が熱くて、苦しくて燃え盛る炎のなかにいるようだった。
頭が真っ白になって、自分が消えていく。
抱きしめたシアの体から、力が抜け落ちた。異常なほど体温が上昇し、支えきれなくなる。あまりの熱さに離したてのひらを見るも、常と変わった様子もない。けれど近くにいるだけなのに、炎のそばにいるように熱い。するとみるみるうちにシアの髪から色が抜け落ちていく。濡れたような黒髪が、陽に透ける
慌てて抱き起そうとすると、シアの瞳が突如見開かれた。
「おまえは、なぜあのようなふるまいをした」
知らない声がした。低くて平坦な、少年のような声だった。だが間違いなく、言葉を紡ぐのはシアの唇だった。
「かの者の意識は、精神疲労により眠りについた。いつものことだろう。いまここに存在する私は、幾度となく
「――始祖」
「かつてはこの身に混沌を宿した祖であった。だが、同じく産み出された
教会本部で見た、ステンドグラスに
マリアがルカに語った物語が蘇る。
「
シアの顔をした始祖を名乗る者が、嘆息した。
「けれどそううまくはいかなかった。結局私はまたも道を踏み外した。あのマリアという者は、かつてわが身を穿った者だ。
彼女の瞳の濡れた輝きに、目を逸らすことができない。
「我らは愛し憎み合い、互いを想うあまりに傷つけあった。だが我らは、それでも互いに巡り合える運命を心底
世界、という言葉にルカは息を呑む。
たとえどんな理由があろうと、人の命を奪った罪は重い。それを背負う覚悟はしていた。だが、まさか世界という言葉が出てくるとは想像だにしなかった。背を嫌な汗が伝うのを感じながら、静かに尋ねた。
「俺がしたことは、だれかの不幸や迷惑に繋がりますか?」
「わからん。だが始祖たる我らの魂は、この世界にあまりにも深く根づいたもの。その在り様が変わるということは、世界そのものの在り様すら変わる可能性を秘めている。その先になにがあるかは、私にも想像ができない。もうこの世界は、我らの魂と切り離されたといっても過言ではないのだ。それが皆にとって
「礼を言おう。私と共に生まれ、我らの因果に巻き込まれた憐れなかの者を救ってくれた。父母を亡くし故郷を亡くし血に塗れ深い悲しみと絶望ばかりの生を歩んだかの者は、お前が解放した。始祖の一柱である奴が造りあげた、この世界の理から
彼女は吐息のような声で言って、崩れ落ちた。
抱きとめた腕のなかで、彼女は温もりを取り戻す。それに伴い、色素の抜けたような髪が黒々と艶めく色彩に戻った。長い睫毛が影を落とす瞳が、一度瞬く。
――幻でも見ていたのだろうか。
そう思ってしまうほどに、あたりは
だが、ルカの手には命を奪った瞬間の感触が生々しく残っている。
聞いたことのない声が紡いだ空想のような言葉を、忘れることなどないだろう。
なんのために命を奪ったのかを、だれのために命を奪ったのか。
もしも世界が変わったとしても罪は雪がれることなく、新たな罪が塗り重ねられていく。
それでもルカに後悔はない。この先も後悔をしたくない。
行いを悔いるより、この先に胸を張れるように歩んで生きたい。
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