八章

潮風が心地よく火照ほてった身体を撫でていく。

 一面に広がる光景に、シアは言葉をなくした。

 かつては瑞々しい草の生い茂る、自然そのままの場所だった。だがいまそこにあるのは草の緑ではない。まぶしく可憐かれんな、白い花が咲き乱れている。

 あまりにも美しくて夢のようで、覚束おぼつかない足取りで花畑を進む。

波を返す潮騒しおさいの音と、海鳥のはるか遠くをゆく声。空も大地も海も、すべてが臨めるこの場所を、シアは命がけで愛していた。まるで知らない場所のようで、美しく見違えたことが嬉しくて、子どものようにあたりを見渡す。

 海にいちばん近しい場所に、墓標ぼひょうはあった。といってもただの木の板に、子どものつたない文字が刻まれているだけのもの。けれど涙ににじむ視界で刻んだ、精いっぱいの言葉だった。まざまざと過去がよみがえり、シアは目を伏せて両手を合わせた。

「ただいま」

 いまシアがたたずむこの大地の下に、かつて自分が愛したひとたちが眠っている。父も母も、そして争いを逃れたばあばも、のちに自ら望んでこの地に眠った。

 彼らを抱きしめるように、シアはその場に寝そべる。両手を広げて、抱擁ほうようをかわす。満たされた気持ちで土と花の香りを吸いこんだ。それだけで、なにもかもが報われるような心地がした。

 それを、マリアは冷淡に見ていた。美貌にはもうこれまでの笑みはない。菫色の瞳は燃えるようにゆらめいている。艶めく唇が紡ぐ言葉だけ、甘ったるく響いた。

「再会ができて、よかったわねえ」

 足音で、シアはマリアが近づいてきているのを感じた。ぴりぴりと膚を刺すような感覚がする。彼女はいつもちぐはぐだ。烈しい感情を持ちながら、甘えたような声で心にもないことばかり言っていた。体を起こして、シアはマリアを見上げる。

「ありがとう。あなたが、こんなに我が儘を聞いてくれるとは思わんかった」

「いつだって、愛しているって言ってたじゃなあい」

 茶化ちゃかすような声で、瞳は恐ろしく冷えている。シアはゆっくりと首を振った。くちびるからこぼれた声は、思った以上にやわらかく響いた。

「嘘ばっかり。憎んでいるのまちがいやろ」

「愛と憎しみはおなじようなものでしょお?」

 マリアのくちびるが、三日月のように歪んだ。ちらりと覗いた舌は異様に紅く、しゅうしゅうと蜷局とぐろをまく蛇のようだ。

「わたしはずっとあなたを見ていたの。あなたを想って生きてきたの。だれよりも愛しているし、だれよりも近しいものでいたいの」

 愛の告白のように、陶然とマリアは言葉を紡ぐ。

「あなたは美しい姉妹愛があるとでも思っていたのかもしれないけれど、わたしのいちばんはあなたなの。姉さまから記憶を奪い愛するひとを奪い、そして自由を奪ったことなんて――そう。どうでもよかったわあ」

「――え?」

 シアはそこでようやく目を見開いた。満足げに、マリアは笑う。愛おしげに手の伸ばし、シアの頬に触れた。指先は熱くて烈しい感情の奔流に呑みこまれそうだった。ユエルのつめたく優しい手とは違う。

「姉の仇とでも思ったのかしらあ? むしろ逆よ。あなたが姉にしたことは、わたしの世界を変えてくれた出来事だったのだから」

 いよいよわけがわからなくなる。ずっとマリアが烈しい感情をシアに向けていたことは知っていた。彼女の持つ気配から、美しい容姿から、ユエルとの繋がりを見いだせた。憎まれて当然だと思っていた。いつかきっと、彼女はシアに報復をするのだろうと勝手に思い込んでいた。でも、そうじゃないという。じゃあ一体、マリアはなにを想いここまでやってきたのだろうか。

「わたしにとって姉はねえ、すごいひとだったのよ。あなたも知っているとおり、夢見の力を持っていた。父も母もみんな、姉を持てはやしたわあ。わたしも、幼いながらに姉を絶対的な存在に想っていたの。強くてまぶしい姉。だれからも愛される姉。でも、幻滅したのは、恋人をつくったときね。あのときの姉は、くすんでいたわあ。ああ、姉もほかの生き物と一緒だったんだって一気につまらなくなったわ。父と母も姉と恋人の仲を反対していた。だから、遠い異国に住まうあなたの噂を聞きつけて、すがった。そしてわたしは――あなたという存在に、ようやく出会うことができたの………」

 味わったことのない熱量の感情に、シアはおののく。

「あのときあなたは、まだ幼い子どもだった。可愛かったわねえ。でもそんなただの子どもに、姉はまるでなすすべもなく記憶を奪われたの。ただ、触れるだけで。あんなに強い意志をもっていた姉に、そんなことができる人間がいるなんて――やっぱり姉は、ちょっと特別なだけの、ただの有象無象うぞうむぞうだったの。真に特別なのは、そう。シアちゃん、あなただったの。そこからわたしの人生は鮮やかな色彩に満ちたものになったの」

 それはわたしじゃない――。その言葉を告げることを、きっと彼女は赦さないだろう。マリアの瞳には過去のシアへの妄信もうしんの色があった。

「あなたに近づくために、わたし、がんばったの。あなたのように人を変えることができるようになりたいって思ったから、人体への影響の強い調香学を(ちょうこうがく)修めて、教会へのコネをつくったわあ。そしてあなたという伝説を世に刻むために――障害も用意したの」

 口内はかわいて、声も出ない。悪寒がシアを襲う。この感覚を知っている。かつて幼いシアが、目覚めたばかりのシアが味わった絶望が目の前にあった。

「カフカフスコスをそそのかしたのはわたし。やっぱり障害があってこそ、あなたの伝説がより一層輝くと思ったからよ。あなたがいたから、わたしは人の心を操ることさえできたわあ。そして見事に、あなたは災害を乗り越えて、ひとつの伝説をつくりあげた……」

 気づいたときには、マリアの胸倉を掴んでいた。ぎりぎりと締めつけると、それさえも愉快といった様子で彼女は嬉しそうに笑う。

「ねえわたしが憎いかしら。わたしと同じように、あなたもわたしに想いをくれるのかしら。もしそうなら、それほど幸福なことはないわ」

 なけなしの理性で手を離した。もうなにも考えられないほどに、頭のなかは真っ白だった。じりじりとくすぶるそれは、炎のように勢いを増して心をおかしていく。

 こんな化け物が、愛に満ちたユエルと血が繋がっているなどと思いたくなかった。

「……犠牲になった人間に、申し訳がない。……顔向けできへんわ」

「力ないものは、淘汰とうたされるの。それは自然の摂理せつりよぉ。だから、あなたが気に病むことなんてひとつもないのよ?」

 マリアにはひとかけらの悪意もない。

「だれよりも特別なあなたが為すべきは、新たな伝説をつくり神話を築き上げていくこと。贖罪しょくざいだとか善行だとかそんなことは、力ない凡夫ぼんぷにさせることよ。大丈夫よぉ、最初は理解されなくたってわたしがいるわあ。あなたという存在の大きさに、いずれ人類はひざまずくはずだから……」

 彼女は無邪気だった。もはや、言葉は届かないだろう。彼女のすべてを否定してやりたい。けれど、どうにも力が出なかった。あまりにも悲しくて虚しくて苦しくて、言葉を紡ぐのも辛かった。

「ねえ、蒼月宮から連れ去ったのは、あなたを楽にしてあげるためなんかじゃないの。あなたが為すべきことを教えてあげたかったの。あなたは、わたしが時間をかけて造りあげた、新たな伝説を刻むのよ――」

 それは一体なんのことだと、問いかけようとした。


「シア!」


 木々の茂みから、見知った人物が走ってくる。もう二度と見ることはないと思った姿に、その変わらぬ笑顔に、シアは知らず涙が出た。どうして、なぜ、とさまざまな疑問が胸を渦巻くのに、声にならなかった。当然のようにそばに駆け寄り、抱きしめられる。あたたかな頼もしい腕に、またひとつ雫が落ちる。



「どうして、泣いているんです?」

 困ったように笑いながら、ルカはシアの涙を優しく拭った。言いたいことは山ほどあったが、彼女に会えたことがなによりも嬉しかった。なにより子どものように涙を流すシアを見て、責めることなど到底できなかった。

「だって……。なんで、こんなとこに……」

「それはこっちの科白です。気を失っていたかと思えばこんなところまでやってきて。こんなことがないように、閉じ込めてしまいますよ」

 冗談めかして言って、抱きしめる。甘い香りとぬくもりが愛おしかった。意外なほどの抵抗はなく、シアは弱々しくルカの服を握りしめる。嗚咽おえつもなく、ただ静かに泣いている。じわりと胸元に熱い雫がみていく。

「いやね。せっかく二人きりだったのに」

 マリアは可愛らしく頬を膨らませて拗ねる。

「お久しぶりね、ルカちゃん。シアちゃんをふつうの女の子みたいに可愛がっちゃあ、いけないわ。……やっぱりを一般人に任せたのが失敗だったかしら」

「……まさか」

 腕の中で、シアが呟いた。状況の理解できないルカにも、彼女の蒼白さは只事ではないとわかった。

「そうよお。。わたしがあなたのために為したいちばんの障害。――ベースはわたしと優秀な遺伝子をもつ提供者なのだけど、そこに調香学もアレンジして、人類をまどわし精神を攪乱かくらんするべく造りあげた、記念すべき人工生命体の第一号よぉ」

「え……?」

 一体、マリアはなにを言っているのだろう。呆然とする二人を眺めて、彼女は嫣然えんぜんと笑う。

「わたしが、ルカちゃんの本当のよ。産んだわけじゃないけどねぇ」

 ルカが動くよりも先に、シアが俊敏に動いた。目にも留まらぬ速さで、マリアの頬を拳で殴った。荒れた呼吸で吐き捨てる。

「――冗談きついわ」

「信じて。あなたのために費やした研究の日々を。愛の力って偉大なのよ。世界各地に散らばった、人を惑わす悪魔を鎮めてはらう聖女―――素敵な台本でしょお? そのために、わたしがどれほど頑張ったか」

 マリアの瞳は真摯だ。これ以上なく真剣な表情だった。

 握り閉めたちいさな拳から、血が滴り落ちていく。

「だれかのためって言葉を使ったら、なにしてもええんとちがう! わたしは、そんなん望んだ覚えはない! そんなんいらん!」

「………わたしは、あなたのためにいらない存在?」

 苦しげに叫ぶシアに対して、ひどく傷ついたようにマリアは言った。ふるえながら、シアは頷いた。崖下がいかから吹き上げる風が、彼女の長く美しい髪をもてあそぶ。断崖だんがいは、二人のすぐそばにあった。愛おしげに、マリアはシアの頬に手を伸ばす。

「それなら、。姉にしたように、わたしのことを、わたしのあらゆる意志のすべてを消して。それができないなら、あなたのその手でわたしを殺してちょうだい」

「なにを――」

「ねえ、お願いよ。わたし、あなたのためならなんだってできる。なんだってなれる。特別なあなたでいてくれるのであれば、それでいい。わたしという悪魔をち祓う聖女になって」

「もうあんなことはだれにもしたくない! あんたは一体なんなんよ!」

 またシアの銀の瞳から涙があふれた。

「もうずっと昔から、ただわたしはあなたという存在に恋をしているだけよ」

 うっとりと夢見るように、マリアが凄絶に笑う。いままでみたどんな笑みよりも美しく、人に非ざる狂気に満ちていた。

「そんな感情なんかいらん。自分の命は自分で責任もって。いちいちわたしを巻きこまんといて」

「嫌よお。ここでわたしを始末しないと困るのはあなたよ。大好きなあなたに、可愛さ余ってもっとすごい意地悪をしてしまうわ。それでもいいのかしらあ?」

「なんで困ることわかってて……」

「だって、それがわたしの愛だから」 

 ここまで追い詰められた彼女を見るのは、初めてだった。

 ルカはずっと、ユエルの言葉を反芻はんすうしていた。

 どうすれば二人を救うことができるのか、考えていた。二人の間になにがあったのかは、ルカはわからない。けれどそこに横たわる確執の深さは見て取れた。

 マリアの愛執あいしゅうは、手の施しようのないほどに歪みきっている。

 実の母といわれても、実感など湧かない。けれどユエルもマリアも、真実を述べているように思えた。証拠などなにひとつない。事実なのかもしれない。けれど、そんなことはどうでもよかった。いま目の前にある二人を救えと、ユエルは言っていたのだ。そのときが、きたのだ。自分がなにをするべきか。

 相反する二人が共に幸福になる道は、なきに等しい。けれど救え、と言っていた。ルカの出した結論は、けして正解ではないだろう。それでも、曇天どんてんに光明が差すようにひらめいたそれは、すんなりと心に落ちてきた。 

 奇妙なまでに穏やかな気持ちだった。いまルカの胸の内に迷いはない。

 ゆっくりと、二人に歩み寄る。

「俺は、しあわせですよ」

 ふわりと笑うと、二人は虚を突かれたようにルカを見た。

「この力があったから、シアに出会えました。もし本当にマリアさんがこの力を持つように生み出してくれたのなら、感謝こそすれ恨みなどありません」

 固く握りしめられたシアのてのひらをやわらかくほどいた。そしていつものように、その手を取った。マリアは笑みを浮かべたままこちらを見ている。その筋張った骨ばかりが目立つ肩を、ルカは空へと押しやった。あまりにも容易く彼女の身体は後ろへと傾いだ。

 二つの視線が交わり、シアとマリアは互いに手を伸ばす。けれどそれが繋がることはなく、マリアの肢体したいは崖下へと落ちていく。

 最期のはなむけに、ルカはシアを抱きしめながら祈りを捧げた。

「ありがとうございました。あなたもどうか――しあわせでありますように」


――彼女は笑っていた。

 それが本当に恨みがましくて憎らしくて、そんな感情を抱く自分の醜さに嫌気がさす。生きているのは自分で、彼女は死にゆく。なのにどうして、あんなにも勝ち誇っているのだろう。どうしてこんなに、敗北感でいっぱいなのだろう。彼女は幸福そのものの笑顔で、自分は不幸みたいに涙と鼻水でぐしゃぐしゃの汚い顔。

 体中が熱くて、苦しくて燃え盛る炎のなかにいるようだった。

 頭が真っ白になって、自分が消えていく。


 抱きしめたシアの体から、力が抜け落ちた。異常なほど体温が上昇し、支えきれなくなる。あまりの熱さに離したてのひらを見るも、常と変わった様子もない。けれど近くにいるだけなのに、炎のそばにいるように熱い。するとみるみるうちにシアの髪から色が抜け落ちていく。濡れたような黒髪が、陽に透ける薄氷はくひょうのような銀色に染まる。やがて急速にあたりの大気が冷えていった。恐る恐るシアの体に近づき触れた。そのはだは、死人のように冷え切っていた。

 慌てて抱き起そうとすると、シアの瞳が突如見開かれた。

「おまえは、なぜあのようなふるまいをした」

 知らない声がした。低くて平坦な、少年のような声だった。だが間違いなく、言葉を紡ぐのはシアの唇だった。

の意識は、精神疲労により眠りについた。いつものことだろう。いまここに存在する私は、幾度となく輪廻転生りんねてんせいのち、依代よりしろとなるとともに産み落とされた、三柱みはしら始祖しそである」

「――始祖」

「かつてはこの身に混沌を宿した祖であった。だが、同じく産み出された同胞はらからに七つの穴を穿うがたれ、人の身にちた。以来幾度となく私は――輪廻転生りんねてんせいを繰り返してきた」

 教会本部で見た、ステンドグラスにえがかれた宗教画。

 マリアがルカに語った物語が蘇る。

彼奴きゃつらはその振る舞いによって私が人に堕ちるとは知らずに、善意からしたことだった。けれど私はその想いを知ることなく、ただ恨んだ。そして彼らをも人におとしめた。我らの犯した罪は、容易にそそがれることはなかった。何度も何度も転生し、そして。――だがかの者と産み落とされた今生こんじょうでは、過去の記憶を有しかつての力の片鱗へんりんをも有していた。この知識と力で、道を誤らずに済むと、なんという幸福なのだと私は歓喜かんきした」

 シアの顔をした始祖を名乗る者が、嘆息した。

「けれどそううまくはいかなかった。結局私はまたも道を踏み外した。あのマリアという者は、かつてわが身を穿った者だ。過去生かこせいの記憶こそないが、わが身に対するあの並外れた執着は、見紛みまごうことなく奴だ。想いをこじらせ、とうとう人まで造りあげるなど、正気の沙汰さたではない。だが、奴が造りしお前が、幾千も繰り返された過去生の因縁いんねんを――我らに課せられた定義をくつがえした」

 彼女の瞳の濡れた輝きに、目を逸らすことができない。

「我らは愛し憎み合い、互いを想うあまりに傷つけあった。だが我らは、それでも互いに巡り合える運命を心底いとうことはできなかった。世界が終わるまで、形を変え姿を変え立場を変え、不変に続くもののはずだった。だがいま、奴が定めにない死を迎えたことにより、この世界のことわりは変わった」

 世界、という言葉にルカは息を呑む。

 たとえどんな理由があろうと、人の命を奪った罪は重い。それを背負う覚悟はしていた。だが、まさか世界という言葉が出てくるとは想像だにしなかった。背を嫌な汗が伝うのを感じながら、静かに尋ねた。

「俺がしたことは、だれかの不幸や迷惑に繋がりますか?」

「わからん。だが始祖たる我らの魂は、この世界にあまりにも深く根づいたもの。その在り様が変わるということは、世界そのものの在り様すら変わる可能性を秘めている。その先になにがあるかは、私にも想像ができない。もうこの世界は、我らの魂と切り離されたといっても過言ではないのだ。それが皆にとってきものか悪しきかはわからぬが――」

 ひたいを突き合わせ、彼女は目を伏せた。頬を宝石のようにひやりとした涙が濡らした。

「礼を言おう。私と共に生まれ、我らの因果に巻き込まれた憐れなを救ってくれた。父母を亡くし故郷を亡くし血に塗れ深い悲しみと絶望ばかりの生を歩んだかの者は、お前が解放した。始祖の一柱である奴が造りあげた、この世界の理から逸脱いつだつしたお前だからこそ為し得たこと。そのおかげでようやくかの者は、として生きることができる。わが身に宿った愛しい分身かの者に、どうか希望と幸福を見せてほしい。そして叶うなら、ありったけの愛を」

 彼女は吐息のような声で言って、崩れ落ちた。

 抱きとめた腕のなかで、彼女は温もりを取り戻す。それに伴い、色素の抜けたような髪が黒々と艶めく色彩に戻った。長い睫毛が影を落とす瞳が、一度瞬く。双眸そうぼうには、黒曜石こくようせきの輝きが宿っていた。それきり開くことはなく、穏やかな呼吸で彼女は眠っている。その寝顔は、昔と変わらず無垢で清らかなままだ。

 ――幻でも見ていたのだろうか。

 そう思ってしまうほどに、あたりは長閑のどかだった。潮騒と木々のざわめき、かすかな花の香り。空は高く青く、海は果てしなく蒼い。特別なことはなにひとつなく、命がひとつ消えたのに、世界は変わりなく泰然とそこにある。

 だが、ルカの手には命を奪った瞬間の感触が生々しく残っている。

 聞いたことのない声が紡いだ空想のような言葉を、忘れることなどないだろう。

 なんのために命を奪ったのかを、だれのために命を奪ったのか。

 もしも世界が変わったとしても罪は雪がれることなく、新たな罪が塗り重ねられていく。

 それでもルカに後悔はない。この先も後悔をしたくない。

 行いを悔いるより、この先に胸を張れるように歩んで生きたい。



 

 

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