七章

ルカは脇目も振らず後宮へむかった。シアはルカの切迫(せっぱく)を感じ取ったのか、大人しくされるがままになっている。性質の悪い冗談であればいいと願いながら、息を切らして走る。迷路のように入り組んだ宮内を進み、広場を突っ切り後宮へとつづく渡り殿で、アグラと鉢(はち)合わせた。

 アグラは一瞬目を瞠ったものの、厳しい面持ちのまま無言で目的の場所へと駆け出した。そのあとに続きながら、この道の先に待つ恐怖が、逃れようなくやってきたことを悟る。門を越え、点在する四阿(あずまや)があらわれた。食事がふるまわれた広間につづく回廊のすぐそばにある四阿の入り口付近に、后妃たちが集まっている。

「すまない、通してくれ」

 焦りからか、アグラは言葉少なに声を張り上げた。すると后妃たちは静かに道をあけた。だが通り過ぎる間際にみた后妃たちの表情は、一様に沈み手巾で涙を拭う者も少なくなかった。彼女らの間を通るその瞬間に、ようやくシアは状況を察したらしい。ルカの腕から逃れ、いの一番に扉をあけた。

 むせかえるような白檀の(びゃくだん)香りに包まれる。あたりは靄(もや)が立ちこめるように白っぽく、視界がかなり悪かった。

「早かったのう」

 明るい声に、胸を撫で下ろしかけて言葉を失う。寝台に臥したユエルの掛布には、痛ましい吐(と)血(けつ)の痕(あと)があった。だがこんなときにも彼女は晴れやかな笑顔でルカたちを迎えた。だが白い面で、ゆったりとした衣服から覗くその身は筋が目立ち肉はなく、ほとんど骨と皮のようだ。昨日の絢爛(けんらん)な衣装の下に、こんな体を抱えていたのかと愕然(がくぜん)とする。

「喋んなこの糞婆!(くそばばあ)」

 罵(ば)声(せい)がして、ようやくこの場にカグラがいたことに気づく。荒い言葉とは裏腹に、カグラは強く彼女の折れそうな手を握りしめている。

「糞などと……昔からほんに可愛げのないやつ……じッ」

 烈しく咳き込み、ユエルは口元を覆った。けれどその骨ばった指の隙間から、鮮烈な紅(あか)が零れ落ちる。

 ルカの目の前に立っていたシアの背が、ぐらついた。カグラの言葉を思い出し、その身が崩れ落ちる瞬間に抱きとめ、視界を遮るように自らの胸に押しつけた。腕のなかで、シアは小さく震えている。すると荒い呼吸のまま、ユエルは申し訳なさそうに呟いた。

「悪いの……いやなものを……見せた」

「ユエル殿、もう喋るな。無理を」

「この阿(あ)呆(ほう)。もう、おぬしの出番などないわ。言いたいことくらい言わせんか」

 一喝(いっかつ)し、また彼女は咳き込んだ。すると腕のなかで、かすかにシアがルカの腕を押しのけて寝台のもとへと駆け寄った。

 シアは腕を伸ばして、ユエルの頭を抱きこんだ。待っていたかのように、ユエルもシアの身体に枯れ枝のような腕をまわした。

「……なんで、ゆうてくれへんかったん。わたしが、昨日無理さしたから? こんなに悪くなってるのに、もうゆうてくれへんかったらわからへんのに……!」

「おぬしのせいなどではない。もうとうにわかっていたことじゃ。しかしこの瞬間までは、わからぬのでな。然(しか)るべきに物事は進むものじゃ。いまここに、ぬしがここにおる。言葉を交わせる。それで……よいではないか」

 しあわせそうに、ユエルは穏やかに笑う。シアは子どものように頭を振って、濡れた声で問いかけた。

「よくない。なんで、ユエルちゃん。やることいっぱいあるってゆうてたやん」

「だからじゃよ。やるべきことのために、力を酷使(こくし)した。ゆえにすこし迎えが早まっただけじゃ。だが、望みをかなえるためにできることはすべてした。あとは、託(たく)すのみよ」

 ルカを、まっすぐにユエルは見据えた。ユエルを抱きしめるシアと、手を握るカグラ以外が、みな無力に立ちすくむしかない。彼女の命の灯火(ともしび)がいまにも消えるかと揺らめくのが見えるように、死を予感していた。

「そんなん無茶してまですること違うやん。生きてやな、命がなかったら、どんな望みも意志も意味ないやないの。託さんと、自分で生きてやり遂げやなあかんやん!」

「命を擲っ(なげう)てでも叶えたい願いがある。そしておぬしやここにいる者たちが、わらわを覚えておる限り、望みも意志もけして途絶えることはあるまいて」

 激情をぶつけるシアに、ユエルは悠然と笑う。シアは力なく幼子が母に縋るように、ユエルの膝に崩れる。慈愛に満ちたまなざしで、シアの髪を撫でていく。

「ほんまにわたし、いつも役立たず。肝心なときに肝心なことができへん。昔のわたしやったら、この命をあげられたのに。病気かて癒してあげられたのに………!」

「もうおぬしは人の子であろうに。わらわもそうじゃ。互いに天命に従い、自らの道を進むのみ。これでいい。おぬしの幸せ以外に、おぬしに望むことはない」

 シアの頬を涙が伝い落ちてゆく。次々にとあふれるそれを、ユエルは愛おしそうに指で拾い集めていく。

「まあ――なんじゃ。みな、達者での。それなりにやるじゃろがの」

 あっけらかんとした声に、みな言葉もでなかった。アグラはこらえるように唇を食いしばり、カグラはいつもの渋面のまま、唇をふるわせていた。

「………約束する。より善(よ)く生きよう」

「最期がそれかよ、婆。お前こそ、達者でやれよ。化けて出るなよ」

 二人はやっと、それぞれ言葉を絞り出した。もう目を開けているのもやっとのようで、ゆっくりと何度もまたたきながら、それでも満足げにユエルは笑った。

「ルカ」

「はい」

「おぬしに会えて良かった。どうかおぬしの母を救ってやってくれ。おぬしの行く先に光あらんことを祈ろう」

 母という言葉に、目を剥いた。どうして彼女が、ルカの母を知っているのか。

「愚(ぐ)妹(まい)であろうと、あれも愛しい血を分けた家族じゃ。――シア」

 名を呼ばれ、シアは泣き濡れた目を拭った。瞬きすら惜しいように、まっすぐにユエルをみつめている。シアの頬をふるえる手のひらが包みこむ。ひたいにひたいを押し当てて、吐息のような声で囁いた。

「――愛しておるぞ」

 シアの胸に、ユエルがもたれかかる。美しい金糸が彼女の肩口からこぼれていき、シアを埋めていった。抱きとめたシアは、とうとう堰(せき)をきったかのように声をあげて泣いた。痛ましくもたおやかな白い指先は、力なくシアの頬から滑(すべ)り落ちた。



 冷えた風が室内を吹き抜け、ルカは瞼を押しあげた。

開け放たれた窓の外には、茜色の空が広がる。落日(らくじつ)があたりを焼き尽くしていくのを、悄然と(しょうぜん)みていた。太陽が去りゆくまでが緩慢(かんまん)に長く感じられる。宮殿内の喧騒(けんそう)が遠く聞こえる。一帯を満たす困惑と悲哀の感情が扉越しに忍び寄ってくるようだった。

ルカの腕のなかにはシアがいた。蒼白な面に目尻だけが紅い。すがるようにルカの服を掴んだまま、昏々(こんこん)と眠りつづけている。

ユエルの訃(ふ)報(ほう)をうけたアレクセイが四阿に駆け込んできたのは、すべての始末が終わったあとだった。亡骸(なきがら)を手放そうとしなかったシアが、やっとその手を離した。息を切らしてやってきたアレクセイの頬を打った。静かに平手を受けた彼に、遅いと一言だけ枯れた声で言ったあと、意識を手放した。公務の隙間を縫いやってきた彼を非難する者はなく、気を失ったシアを責めることもできず、アグラはただ深く頭をさげた。

ルカはシアを連れて退室を促された。四阿の外には、后妃たちがいた。すすり泣く彼女らの前に立ち、ただひとりハスナはルカを待ち構えていた。ユエルの最期を伝えると、昨日と変わらぬ穏やかな笑みでルカを見送り、后妃たちを奥の広間へと誘った。

滞在している部屋に辿りつくとルカの足から力が抜け落ちた。頼りなげな背から腕からシアの深い悲しみが沁(し)みてくるようで、そこでようやくルカも涙を流すことができた。

瞼(まな)裏(うら)にうかぶのは、先程の血にまみれた痛ましい姿よりも、はじめて出会ったころの燦然とした輝きの笑顔だった。あの最期を看(み)取(と)らなければ、きっと彼女が死を迎えたことなど信じることもできなかっただろう。ユエルの残像は光りそのもののように強く鮮烈で、いまもなお圧倒的な存在感があった。

ルカは彼女と出会い会話をしたのはたったの数時間だけ。それなのに、大きな喪失感がある。昔からのつきあいだというシアやカグラたちは一体どれほどのものか。

そして、気がかりなのは最期の言葉だ。ルカの母ははるか遠くテムサの村にいるはずだ。口ぶりから、ユエルは母を妹と呼んだ。だが姉の存在など母からついぞ聞くことはなかった。それになにより、ユエルの容姿と母の容姿は似ても似つかない。子であるルカですら、母とは面差しが異なる。愚かな妹という言葉も、結びつかない。ルカに偏執する以前は、厳格さと優しさを併(あわ)せもったすばらしい人だった。

ユエルの夢は、いったいどういったものなのだろうか。点在する事項を繋ぐ糸は絡まり、結びつかない。だが答えを求めようとも、ユエルはもうこの世にいないのだ。

シアを抱えて、開け放たれた窓を閉めた。すっかりと室内は冷え切っていた。

彼女は身動ぎひとつせず、目覚める気配はなかった。かつてルカと出会ったころのように、精神的に疲労したのだろう。腕のなかの彼女はいつもよりずっと小さくか弱く、消えてしまいそうに儚かった。迫りくる夜闇に攫(さら)われてしまわないように、ユエルを失った絶望に潰されないように、ルカはシアを抱きしめたまま掛布をかけた。

もし彼女が目覚めなかったら。そのまま意識を深く沈めてしまったら。

言いようのない恐怖に、背が冷えた。

 やわらかな黒髪をかき分けて、シアの頬を包みこんだ。あたたかさと吐息があることに安堵(あんど)し、目覚めを祈りながらそのくちびるに口づけた。



 その日は海を見に行ったのだ。

 近くには岬があり、そこで広大な景色を臨(のぞ)みながら、まばゆく光りを返す地平線に想い馳(は)せるのが好きだった。天も地も風もそこにあるすべてが愛おしい存在だった。

 ふたりの幼い目付役とともに、指南役の老女の目を盗んでよく出かけた。

 あらゆる能力を有し、世界は美しく発展していた。よりいっそう、より善く世界を導こうとしていた。それができる力と知識を生まれながらに持っていた。かつては絶望し息(いき)絶(た)えた世界に、再び希望を持って生を享(う)けたことをすべてに感謝した。無力な民に慈悲を、守護を、祝福を以(もっ)て生きていた。

 ――一瞬にして光に満ちた幸福と未来は奪われた。

 郷里(きょうり)は蹂躙さ(じゅうりん)れ、野は焼かれ灰塵(かいじん)に帰(き)していた。愛した民が長い年月をかけてつくりあげた文明と、棲(す)み処(か)。慈しみをもって作物を育て、家庭を築き、子を育て、連綿(れんめん)と営ん(いとな)できたものが、すべて無にかえってしまった。幸か不幸か人の姿はなかった。

 足を竦(すく)ませる目付の子らを置き、別世界のように絶望に満ちたその地を歩く。道端に事切れた家(か)畜(ちく)が横たわっており、痛ましい気持ちで冥福(めいふく)を祈りながら、愛した民の姿を探した。倒壊した民家をかき分けるも、未熟な肉体では持ち上げることも叶わず、隙間から覗き見ながら名を呼び駆けた。

 最奥の、里のものがこしらえた屋敷に辿りついた。そこでようやく気づく。彼らは信仰にも似た思いで尽くしてくれたことを。この何事かの異変が起きた際、わが身よりもこの身を守るべく動くのではないかと。

 

 果たしてそこには、さらなる絶望が広がっていた。

 むせかえる血のにおいと、硝煙の(しょうえん)香が入りまじっている。生まれながらにわが身を包む清い香を呑みこんでしまうほどに、それは濃密なものだった。老若男女の差はなく、平等なまでに死が蔓延(まんえん)していた。見知った民から見知らぬ民まで、手に武器を携え、虚しくその手を投げ出している。知るも知らぬも、この世に生きるすべての民を愛しているのに、なぜその者たちが争いあったのかが理解できなかった。

 とっさにかの者たちに跪き(ひざまず)、傷口に手をやった。わずかな熱とともに傷口はふさがるが、とうに肉体から過ぎ去った魂は戻ることがなかった。白い手が血に濡れても、彼らのもつ武器をかすめて傷だらけになろうとも、治癒も祈りも無力だった。いくらこの身に人を越えた力があろうとも、死を乗り越えることは叶わない。

 なぜ、なぜ、いったいどうして愛する者たちが――。

 自問するわが身に、激しい怒りの炎が忍び寄る。

この身に眠っていた未熟な魂が、ゆらりと目覚めるのを感じた。

生を享けたときより常に共にありながら、けして表に立つことはなく静かに眠りすべてを見ていた者。

その者は、煮え滾(たぎ)るような想いでわが精神を害さんとする。苛(か)烈(れつ)な憎しみが、深淵(しんえん)のような悲しみが押し寄せてくる。これまで意識すらしなかったその者は、驚異的な想いの強さでわが身を滅ぼさんとした。その者がなぜ、なにに対して怒りに狂い悲しみにむせび泣くのかが、想いにふれてようやく思い知る。

すべてを招いたのは己だった。身に宿した力を過信し、愛した民がすべて思い通りになると知らずに奢(おご)っていた。そこに悪意はなかった。今度こそやり直したかった。彼らのために力を使いたかった。だがそれは真に民を想う心からだろうか。彼らの本質を見抜くことができていたのだろうか。かつての過去を忘れ、無邪気に力をふるった挙句――力を求めた民の心に眠る争いの種を撒(ま)いてしまった。

わが身がなければ、この憐れで愛しい民はいまもここに生きていたのではないか。この力を欲し、我(が)欲(よく)に囚われることがなかったのではないか――。

――おまえさえいなければ、と絶望そのものの声がした。かの者は泣いていた。その根幹には、郷の者への思慕があった。わが身とかの者を産み落とした父母への愛着があった。愛するがゆえに、争いを選んだ民に対して憤り(いきどお)、わが身に憎悪の念をむけた。

これまで幸福に生きた自我が、すべてを愛したわが身が、かの者に吸い上げられていく。力はいうまでもなく、圧倒的であった。かの者を打ち消すことは容易い。だが、その想いの強さは言いようなく美しく、かの者も愛すべき民の一人であると思い至った。そして、生まれてわずかながらに、幾千年の時を生きた者を凌駕(りょうが)する意志の強さを見せたかの者がどのように生きるのかを見たくなった。


わたしの想いは、見込んだ以上だった。

煮え滾るような強い意志の力のみで人の想いを鎮(しず)め、わが身に蓄えらえた知識を利用して、愚かなわが身が招いた争いを収めてみせた。



ついにそれはやってきた。

髪も膚も異様な汗に濡れて、全身が冷えていた。彼とふれあう箇所だけにぬくもりがあった。甘言に囁かれるままに、鉛の(なまり)ように重い身を持ち上げる。視界も考えも、なにもかも泥に沈んだように澱(よど)んでいた。それでも訪れた安堵と喜びに、打ち震える。

――ようやくこのときがきた。

 きっと日々の努力が実を結んだのだ。かのひとが教えてくれたように、救いのときがきたのだと信じることができた。

 伸ばされた手をとる。もう、手を伸ばすのは終わりだ。



 諍い(いさか)の声が聞こえる。静かに諭(さと)す女性の声と、怒りを露(あら)わにした男性の声だ。

 ――ああ、これは見たことがある。そう、いちばん最初に感じた異変だった。

 男性の声はみるみるうちに烈しさを増し、やがて女性の声も届かなくなる。扉が閉まる音がして、静寂のなかに取り残された女性がすすり泣く。

 自分さえいなければ。

 ――父と母は幸せになれたはずだったのに。

 


 伸ばした手は、虚しく空を切った。

 すべてが夢であったかのように、新しい朝がきていた。

 小鳥のさえずりにまぶしい朝陽。薄青の空は高く雲ひとつない。あたりは輝きに満ちている。けれどルカの腕の中にはなにもなかった。

ああ、目覚めたのかと胸を撫で下ろす。だが、すこしだけ見慣れた室内の彼女の姿も気配もなかった。

「シア……?」

 慕うユエルが亡くなったばかりだ。もしかすると、面影(おもかげ)を求めて後宮へ向かったのかもしれない。身支度を済ませて、念のために顔を隠せる外套(がいとう)を手に持った。一人で出かけることすら、初めてのことだ。シアの荷物は、きちんとまとめて部屋の隅にあった。だが寝台の棚のうえに、見慣れない紙の包みを見つけた。鎮静剤、と美しい書体で記されている。そこで、いつかマリアが処方するといっていたことを思い出した。あれから、彼女とは会っていないはずなのに、いつの間にもらっていたのだろうか。

 不思議に思いながら、ふと思い立ってそれを外套の隠し収納にいれた。すぐそこに出かけるとはいえ、もしものことがあってはまたシアに迷惑をかけてしまう。そっと周囲をうかがいながら、部屋を出た。

 するとすぐに、知った顔に出会った。

「おうルカ。よく寝たか?」

 疲労のにじむ顔で、カグラは気軽に声をかけてくれる。いつもより眼光に力がなく、目の下には隈(くま)ができていた。

「カグラさんは……」

「俺あ完(かん)徹(てつ)だ莫(ば)迦(か)野郎。まあでもあの婆が後宮内の引き継ぎも荷物の整理も全部済ましてたから、比較的早く後始末ができてよかった。陛下の公務の関係もあって、葬儀は明日になるそうだ。それよか、シアはどうした?」

「あのあとずっと眠り続けて、朝起きたら、いなくなっていたんです」

「はあ?」

 カグラは眉を吊り上げた。いつもより、顔面の凶悪さに磨きがかかっている。

「もしかすると、ユエルさんの部屋に行っているのかなと思って」

「いや。んなこたあねえ。俺は、さっきまでアグラとあの婆の部屋にいた。いつあいつが目を覚ましたのか、お前は知らねえのか」

 咎(とが)めるようなまなざしに、力なく頷い(うなず)た。嘆息をひとつして、カグラは尋ねた。

「荷物はあるのかよ」

「はい。そのままです。ただ、鎮静剤が置いてありました」

 こたえると、カグラはまたも怪訝な顔をした。

「んだそれ。アグラの野郎か?」

「マリアさんです。教会本部に寄ったときに」

 頭痛をこらえるように、カグラは眉間を揉みほぐす。そして先程ルカが出たばかりの室内に無遠慮に入っていく。

「どうしたんですか?」

「扉閉めろ集中する。念のため、気配を探る」

 なにごとかもわからないまま、言われるままに扉を閉めた。肩の関節を鳴らして、部屋の中心に片膝をつく。首に下げた数珠を左腕に巻きつけて、手をついた。ルカが息を呑んで見守るなか、カグラは目を伏せて小さな声でなにごとかを唱え始めた。

 大気がふるえるような心地がして、足元から微弱な痺(しび)れがやってきた。扉も窓も閉ざされているというのに、カグラの周囲に風が起こる。やがて、彼は大きく肩で深呼吸した。すると風は止み、震えと痺れが身体から抜け落ちていくのを感じた。どっかりと部屋の中心にすわりこみ、カグラは髪を掻き毟り、珠のような汗のうかんだ額を拭う。

「なに考えてんだあいつは」

「なにかわかったんですか?」

「精霊の力で、大気に震動を起こしてシアの気配を探ったがあいつ――とんでもねえとこにいやがる」

 とんでもない、という言葉についルカは身を乗り出した。ということはやはり、ユエルの部屋にはいないのだろう。だが、荷物もなく一体どこに向かったのだろうか。

「いったい、どこにいるんです?」

「あいつは、マリアと海の上にいやがる」



 行き先を告げると、我ながら無茶な場所だとは思ったが、快く了承された。


 久しぶりに浴びる潮風は、心地よかった。

 商船上では、屈強な船乗りたちが忙しなく働いている。ぼんやりと海を眺める人間など、自分しかいない。そしてだれも自分のことなど気にかけていない。

とても孤独で、気楽だった。

 陽が昇り、きらきらと光りを弾く水面が美しい。海鳥の声に耳を傾け、魚影を見つけては嬉しくなる。いつも海を見るのは遠く離れた場所からだったので、こんなにも近くで海を感じることができるのは新鮮だった。

「飽きないのねえ。潮風で髪も顔もベタベタして、気持ち悪いわあ~」

 せっかく一人で自然を満喫していたのに、邪魔が入った。だがいつもと違い、無意味な接触がないことが救いだった。

「どお? この船旅はシアちゃんのご期待に添えたかしらあ?」

「うん……。こんなとこ乗せてもらえるなんて、どんな汚い手え使ったん?」

「いやあんひどおおい。わたしが美しいお・か・げ!」

 蠱(こ)惑(わく)的な微笑みで、マリアは船員に片目を瞑った。営業妨害も甚だ(はなは)しい。

 相変わらず、彼女の意図は読み取りにくい。感情と表情と言動が見事なまでに一致しないのだ。気味が悪いが、もうなんでもよかった。なぜかシアの望みを叶えてくれるが、利用できるものは利用したほうが得だ。シアはふたたび視線を海へとむける。下手な探りあいや面倒なやりとりをするより、自然に癒されるほうがずっといい時間の過ごし方だ。

「もうすぐ着くわあ。意外と早いものねえ」

 目的地が、目の届く距離に近づいてきた。

 切望した場所に、ようやく帰ってくることができたのだ。



 降りたった小さな島には、ちいさな漁村があるのみだった。だが、これまでとは空気も緑の鮮やかさも、すべて異なるように思える。物珍しげにこちらを見る老人たちに笑みを含んだ会釈をした。しばらく見ぬうちに、わずかに活気を取り戻している。見慣れた面立ちに、親しんだ黒髪。カグラやアグラと会うのはまたちがい、この土地におなじ種の人間が生活を営んでいることが嬉しかった。

 集落へとつづく道からそれで、道なき山道に足を踏み入れる。

「こんなところへいくのお?」

 ふだん出歩かぬマリアは、悲鳴のような声をあげた。

「わたしひとりでも行くからええよ」

「もう~、お転婆(てんば)さん!」

 なにをいまさら、とシアはつい笑いそうになった。ずんずんと獣道を登り始めていく。この道を通らずとも、目的の場所へは辿りつくことはできる。けれどシアが、そうしたかった。平坦な道を気まずい思いでゆくよりも、体を思いきり動かして目的地に向かう方が気楽だった。――それにすこしだけ、ルカとすごした三年間を思い出す。

 行き先も別れも告げずに、自分の薄情さに苦笑する。出会ったときから、ずっと慕いつづけてくれた少年の、穏やかな笑顔がうかぶ。混乱してはないだろうか。自分にも一因があると自覚しながらも、彼の平穏を願わずにはいられない。運良く、カグラもアグラもそばにいる。きっと彼らなら、助けてくれる。手立てを示してくれる。

 ひとのことを棚上げして、自分もずいぶんと他人本意なものだ。昔から、カグラにもアグラにも頼ってばかりで、きっと受けた恩の一部も返せていないだろう。自分の人生のはずなのに、自分に未練はないのに、ひとつまたひとつと他者への未練があふれてくる。


――恩を返すまで、そばを離れません。


 はいはいとシアの言葉を頷くだけだった少年は、いつかそんなことを言った。まっすぐに見つめ、穏やかなのに強いまなざしで。一人また一人と他者と関わるごとに、吸収してちがう一面を見せる彼の変化は、恐ろしくもあり嬉しいものだった。いつまでもおなじ場所に立ち止まったままで動けないシアとはちがう。彼はちゃんと強さを身につけた。もう自分がいなくとも、自らの意志をもって生きていける。

 そして、つい昨日世を去った愛するひとがうかんだ。

 父母をなくした自分を、かつて愛するひとを奪った自分を愛してくれたひと。

 幸せになることを願ってくれた。だから、シアはここにいる。生涯に悔いはないといい、最期まで笑ってくれたひと。赦されたことが、とても嬉しかった。

 彼に見せた最後の顔は、どんな顔だっただろう。

 きっと取り乱したみっともない姿だろう。けれど美化したままでいるよりずっといい。ユエルの美しい笑顔を思い浮かべるたび、胸が締めつけられてしまうから。幻滅して、いやなものとして忘れ去ればいい。

 結局なにもかも中途半端だった。けれど、これは最初からわかっていたことだった。

 


 しだいに視界は開けてきた。心地よい汗が背にひたいにと流れ落ちていく。背後を振り向くと、ひいひい言いながらもあとをついてくるマリアがいた。どれほど時間が経ったかわからないほどに、言葉なく道なき道を進んできた。彼女もずいぶんと変わっている。こんなところまで、つきあわなくてもよいものを。

 だがそれも終わる。

 目的の地は、すぐそこにあった。



 唸る機械音が、全身に震動を伝えた。これまで聞いたどんな音よりも烈しくて、空気もすこし薄かった。それでも興奮に声をあげずにいられなかった。

「すごいです! 空を飛んでいるなんて!」

「ああ? あんだって?」

 互いに声を張り上げるも、機械音にすべてを遮られてなにも伝わらなかった。

 ぐんぐんと空を越えてゆき、海を渡っていく。

 ルカとカグラは、小型の航空機のなかにいた。狭苦しい機体のなかは、激しい隙間風に晒されている。とても快適とは言い難い空間だが、そんなことはどうでもよく思えるほどに高揚していた。

「こんなのを操縦できるなんて、やっぱりカグラさんはすごいです!」

「あんだって?」

 声は届かないが、なんとなく意志疎通ができている気がした。

 やがて、眼下に巨大な群島が現われた。カグラからもらった地図を見て、確信する。

「着陸するぞ」

 その言葉は短すぎて、ルカは心の準備をすることができなかった。

 あれがシアの故郷。そこに彼女はいる。



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