六章

 窓の外で、夜風がうなっている。木々のざわめきと硝子戸が風にたわむ音が、いやに室内に響く。部屋に灯りはなく、ルカは寝台の上で耳を澄ませていた。風が止むと、壁掛けの時計の規則的な音と、自分の心臓の音すら聞こえるようだ。どこか懐かしさを覚えて、思い出す。かつて自室で聴いていた、馴染なじみのある音だ。

 隣の寝台は、綺麗に整えられたまま。

 まぶたを降ろすと、より己の心臓の音を近くに感じた。

 この音を懐かしいと思うほどに、この三年間ルカは独りではなかった。

 いつでもそばにいたシアは、いまはいない。彼女の不在が、胸にくらい影を落とす。夕刻別れ、しばらく経っても戻らない。

 何度深く息を吸いこんだところで、どうにも神経がたっている。雨の日の頭痛のように鈍くルカをさいなむ。気持ちを鎮めるために、雑念を排除しようとしても、影のように寄り添い、離れてはくれない。

 どうしようもなく、シアがアレクセイのそばにいることをゆるせなかった。

 こんな想いを抱えて、自分を制御し続けられるのかが不安だった。だけど、ルカが自分を抑えられなければ、すべての負担はシアに圧し掛かる。これからもそばにいるために、こんな感情は奥底に封じこめなければならない。

 きつく瞼に力を込めて、意識を遠くに押しやった。



 ――皇帝が倒れたという知らせに、アグラとなぜかシアが呼び寄せられた。

 私室に通され、寝台に臥せる胡乱うろん気な皇帝がうすく目をひらく。目元が赤く染まり、端麗な面は白い。潤んだ瞳が二人をとらえ、すがるように手を伸ばす。

 シアはアレクセイを一瞥し、呆れたようにつぶやいた。

「大袈裟やわあ。ただの熱とちがうの」

「こら!」

 かるい拳骨に、シアはアグラを恨みがましく見上げた。アレクセイはもうこちらを見ていない。だからこそ、シアはなぜ真実を述べた自分が叱られたのか、不本意で仕方がない。扉の前から動こうとしないシアをよそに、寝台のそばに寄り腰掛け、アグラはてきぱきと触診や視診を行っていく。

「どこか、お辛いところはありますか?」

 ぼそぼそと病人らしくアレクセイは何事かを囁く。しおらしいさまがまた憎らしかった。昔から彼は体が弱く、すこしの熱でも倒れてしまう。だいたい目元が赤くなるときは、大抵が発熱だった。体質は本人のせいではないとはいえ、自己管理がなっていない証拠だ。熱にかこつけてシアを呼び出すというそのやり方が、気に入らない。

 アグラはシアの心中など知る由もなく、にこやかに薬を処方していく。だが彼はシアよりも年嵩としかさの大人として、教会を支援する皇帝に尽くしている。教会という組織に属するということは、そういうことだ。シアはしぶしぶながら勝手知ったる部屋の水場にいき、桶につめたい水を汲み、手ぬぐいを二つ沈める。寝台のそばにもっていき、一つを固く絞ってアレクセイの額に乱暴に乗せてやる。

「どうせやるならもっと優しくしなさい」

 非難がましく囁かれたが、シアは無言を貫いた。枕元に用意された水差しをとり、杯に注ぐ。そこでようやく、アグラは笑い、アレクセイは掠れた声で言った。

「すまんな、アグラ。シアも、ありがとう」

「アっくんにもありがとうでしょう」

 つい口をついた言葉に、またもアグラが表情を強張らせた。また怒られた、とくちびるを尖らせるシアをみて、アレクセイは笑って訂正した。

「そうだな。ありがとう、アグラ。薬を飲んで、しばし休むとしよう」

「では、俺は下がりましょう。またなにかあれば、すぐに駆けつけますゆえ」

 臣下然と頭を下げるアグラに、シアは頭が下がる思いだ。ともあれ、存外早くの解散宣言だ。そそくさと共に退室しようとする。

「シア、すこしいいか?」

 案の定呼び止められ、シアはしっかりと思いの丈を表情にのせてみた。それを見て、アグラの拳骨が振り下ろされたが、これくらい赦してほしい。不機嫌を包み隠さず、シアは憮然と言い放った。

「すこしやったらええですよ」

 だれにものを言っている、というアグラの声なき怒声は無視した。では、と最後まで爽やかな笑顔を崩さずに退室する。シアはじっとアレクセイをみつめ、扉の前で仁王立つ。絶対に、シアからは話しかける気はない。そんな義理はない。そう思っていると、押し殺したような声が低く耳に届いた。

「くく、なんという顔をする。思わずアグラの前で笑いそうになった」

「ほら出た仮病。すぐ仮病する。ほんならわたし忙しいからじゃあ」

 眉を吊り上げ扉の取っ手に手をかけたシアを、笑いをこらえながら静止する。

「人聞きの悪いことをいうな。そういうなら触ってみろ。ちゃんと熱はある」

「たかが熱やないの。触りたくない」

「そう言うな。すこしならよいと言っただろう」

 甘い声で懇願される。仮にも病人と思うと、慈悲の心が持てなくもない。そして荒い呼吸のなか、アレクセイは嬉しそうに笑っている。その顔を見ていると、毒気が抜かれる。昔から、シアよりもアグラよりも年上のくせに子どもとそう変わらない。諦めて、先程までアグラがいた丸椅子に腰かける。

「こんな冷たくされて、なにが嬉しいんよ。ちょっときもちわるいわ」

「皇帝としてではなく、お前は私を見ている。私をよく理解し、嘘がない。それだけで、心休まるというものだ」

「――それは、誤解やわ。嘘はついてないけど」

 後ろめたい気持ちで、否定する。シアは、アレクセイを理解しているのではない。感情の機微をとらえているだけだ。そこに起因する心こそ知らない。幼少のころから、彼との深い溝はなかなか埋まらない。

 昼間のことを思い出す。初めてといっていい、ルカが声を荒げた。見たこともないきつい表情をして、悲しさと怒りと――よくわからない恐ろしいものが雑じった感情をぶつけてきた。思いだし、心身が冷える。考えるのをやめて、顔をあげると心配そうにアレクセイがシアを見ていた。

「で、用件はなにかな。もうほんまに戻らんと」

 焦れてそういうと、手を掴まれた。あまりの熱に身をひいてしまう。それでも、アレクセイはけしてシアの手を離そうとはしない。体温に引けをとらない熱さと湿度のある感情が雪崩こんでくる。また、シアは困惑する。最近、このよくわからない感情に似たものがルカの胸にも存在する。それは彼らの内に留まるだけではなく、人に対して放たれるので、どうすればいいかわからなくなる。

「あの者のところへいくのか」

 咎めるような声に、シアは眉根をよせた。彼にそんなことを言われる筋合いはない。

「あかんみたいな言い方、やめてくれます? あの子、だいぶ落ちついてきたと思ったらまた不安定みたいで――そばにいてあげやんと」

「私のそばにはいてくれぬのか」

「後宮にいっぱいいはるやん。呼んでこよか?」

 呆れていうと、傷ついたような怒っているような表情になる。

「私はお前がいいと、昔から幾度言えばわかる」

「その役目はわたしと違うでしょ。陛下にはいっぱい、まわりにひとがいるでしょう。あの子には、まだわたししかあかへんの。昔から寂しがりなんはよく知ってるけど、いつまでもわたしに固執することあらへんからね」

 努めて優しく、アレクセイを諭す。捕虜だったころは、比較的年齢の近いシアやカグラたちがよく彼の相手をしていた。だが、昔といまはちがう。

 ルカと彼では、根本が違う。いつかは、ルカもだれかのそばにいくはずだ。落ちついた気持ちで自分をしっかりと制御できるようになればシアの元を離れる。でもいまは、そのときではない。だからシアは、必要性をもってそばにいる。アレクセイのそれは、ただの気儘でしかない。

「私も、お前じゃないと嫌だ」

「それは、我が儘よ。ほんまにお願いやから、一回後宮に行って、みんなとお話ししてみてよ。それぞれ、すごい素敵なところいっぱいあるんよ。わたしと比べることもないくらい。いろんな魅力のあるひとたちやのよ。人見知りなんかしやんと、じっくり腰据えてお話したら、そんなこと思わへんくなるから」

 手を握り返して、どうか彼の心に言葉が届くよう祈る。これを伝えたくて、ここに残ったようなものだった。幾分か澄んだまなざしが、シアを見つめ返した。通じたのかもしれない、と胸に喜びが灯る。ふわりと気持ちが弛緩しかんし、笑みがうかんだ。

 泣きそうに歪んだ彼の顔に、心得違いを思い知る。

 手を引かれて、アレクセイの胸に倒れ込む。苦しいほどに、きつく抱きすくめられた。今日はこんなことばかり、と哀しい気持ちでいっぱいになる。

「どうして、想いもしない相手のもとへ通わねばならない。私が真に想うのはシア、お前だけだ。世界で唯一に私を理解するお前と結ばれ生きてゆきたいと渇望するのに、どうしてよりにもよってお前に、ほかの女を進められなければならぬとは、なんの拷問ごうもんだ」

 手が頬に伸びて、気づけば唇を奪われていた。味わったことのない感触に、目の前が真っ白になってしまう。すぐさま正気を手繰たぐり寄せて逃れる。すると、泣きそうな顔をした熱に喘ぐアレクセイの瞳とかち合った。

 ――どうして彼が当然のように被害者面をしているのかが、わからない。無体を強いられたのは、間違いなく自分であるというのに。

「教えてくれ。なぜ、私を受け入れてくれない。想いをわかってくれない……」

 なにかが事切れたかのように、急速に頭が冴えていく。火照りを移された体からは熱が退き、心地よい清涼感で満たされる。一切の雑念のない思考と鮮明な視界を取り戻し、シアは心から歓喜した。

 急に大人しくなったシアの体を両腕で抱きしめる。片手でゆっくりと髪を梳り、もう片方の手は小さな顎にかけられた。その手から、力が抜け落ちる。

 ゆっくりとシアは立ち上がる。寝台には、虚空を見据えたアレクセイが力なく横たわっていた。慈しむような優しい手つきで、シアはひらいたままの彼の瞼をおろした。

 やすらかな眠りにつく皇帝を、彼女は無感情に見下ろした。

 

 

「やあ少年」

 気安い調子で、彼女は高く笑う。瞠目どうもくすれば、満面の笑顔が飛びこんできた。

 あたりは白く明るい。先程まで、闇に沈んだ寝台の上にいたというのに。

「これもまた夢じゃ。そうこわい顔をするでない。美人が台無しじゃよ」

 優しい声でユエルはルカの頭を撫でた。瞬く間に、彼女はそこにいる。状況が把握できずにぼんやりと見上げると、ユエルは困ったように苦笑する。

「なんじゃ調子が狂うのう。せっかく逢瀬にきたというに。まあなにせ夢じゃ。ここでは大抵のことが思うがままよ。思うことがあるならいうてみい。聞いてやろうぞ」

 尊大な言葉なのに、押しつけがましくないのが不思議だった。そこでようやく、ルカは表情をゆるめることができた。だがそれも束の間、次の瞬間ユエルから洩らされた言葉に、声を失う。

「よいのう。恋じゃの~」

 聞くといっておきながら、さっさと結論づけられてルカの全身から力が抜けた。

「なんじゃそうじゃろうに。まあ、一番がそれかの。二番めに、わらわの言葉が気になり、三番めあたりに――ほうじゃの、カグラの小僧に言われたことでも気にしておるのかえ?」

 まさに妖怪、と失礼な言葉が真っ先にうかんだ。カグラが猫婆などというから、とつい人のせいにしてしまう。大方あっているのが、恐ろしい。そんなにも自分はわかりやすいのだろうかと心配になる。

「結局、なにもかも曖昧なままで、気になってます。不確定とはいえ、きちんとお話を伺いたいとは思っていました。シアのことは――どうすればいいか、わからなくて」

 悄然と吐露すると、ふうむとユエルはうなった。

「おぬしから見て、シアはしあわせかのう」

 問われて、考えた。苦難の道を歩いてきた彼女は、いまもなお他者を救うことを目的に生きている。それが自らの幸せに繋がると信じている、といつかシアは言った。だが、彼女を見ていると、彼女の視界みらいに、彼女は存在しているのかと心配になってしまう。目的に対する強い意志こそあれど、それは自らに直結するものとは思えない。

「しあわせだと言っていました。でも俺はもっと、シアにしあわせになってほしいのです。シアが俺を、しあわせにしてくださったみたいに」

 言うと、やわらかくユエルは目を細めた。

「おぬし、素直じゃのう。ではもうひとつ、シアがなにを求めておるか、わかるか?」

 質問の意図が、いまいち掴めない。そしてその回答も。

「人々の平和……ですか?」

「うん、それもしかり。まあこれは、正解を求めて質問したわけではなくての。なにせ正解はシアにしか決められぬことじゃ」

 当たり前のことを言って笑うユエルを、ルカは訝しげに見つめた。では一体なんの意図をもって質問したのだろうか。

「おぬしは聡い子じゃ。よく相手を見て、その相手の求めるものを適切に与えるということが、人と生きる秘訣といえよう。これは、シアにも教えたことよ」

 なるほど、そこに繋げたかったわけかと納得する。そしてそれは道理であるとルカにもわかった。

「わらわの夢に、シアもおぬしも深くかかわっている。夢を行き来せねばならぬほど気がかりなのは、おぬしらが強い力の持ち主であるからじゃ。わらわが死したとき、おそらくシアは不調をきたす。そのときに、あやつを踏み留まらせることができるのは、おそらくおぬししかおらぬ」

 口元には艶のある笑みが刷かれているのに、瞳は真剣そのものだった。

「わらわは常に、取り留めもなく夢を見る。普段より見ることができるのは、眠り以外で面識のある人間や、己に関わりのある事項のみ。おぬしを見たのは、シアに関する夢のなかであった。夢における視点もさまざまなため、シアの感情に同期することも多々あっての。あの者が、おぬしに特別に想いをかけておるのはよくわかった」

 特別な想い、という言葉に反応すると、ニタリとユエルは笑う。

「特別といってもおぬしが考えるものとはちがう。シアはおぬしにかつての自分を重ねておる。力に苦しみ、他と異なる孤独を知るおぬしを幸せにすることで、自己投影による自己救済を行っているように感じた。そういう特別じゃ。わかるか。シアがおぬしに対して、自分に近しい感情を抱いておるのが、おぬしということ」

「わかるような……。わからないような……」

「おぬしが思うしあわせを、あやつに与えてやればよいのではないか、ということじゃよ。わらわもかつては恋をしていた。その言いようない甘さと幸せは――よくわかる」

 遠くをみるユエルは、穏やかな微笑を湛えている。ゆっくりと目を伏せる仕草につい惹かれてしまう。

「だれに、恋をされたのですか?」

 問うと、彼女は頭を振った。晴れやかに笑う。

「わらわには、想う人の面影すらない」

「どういうことですか?」

「後宮にあがる際、想い人に関する記憶を消されておるのでな」

 はっはっは、とユエルは高笑いする。だがけして笑いごとには思えない。

 消されるということは、皇帝ではないということはわかる。后妃になるうえで、障害になると判断されたためだろうか。だが、人間の記憶を消すなどと――思いかけて、気づいてしまう。

「そんな顔をするでない。このカフカフスコスの後宮は、かつてのシアの力の恩恵おんけいによって生まれた。もっともそれは、戦がはじまるより前のことじゃ。まだ会話もたどたどしい、世にも愛らしい女童めのわらわであった」

 波打つ黒髪をもつ白い膚の子どもが、脳裏にうかぶ。

「あの夢は、あなただったのですね」

然様さよう。あれは、見せようとしたものではなかった。けれど、シアの力に関するわらわのいちばん鮮烈な記憶じゃ。幼いがゆえに迷いなく力を行使しておった。見目も声も女童そのものであったが、あれは本当に人間なのかと思ったよ。実際神の子と――いや神のように扱われるさまは、異様であったがのう」

 あの夢のなかで、ユエルは泣いていた。あの痛ましさは、忘れることができない。

「だが、いまとなっては過去のこと。うまい具合に哀しい記憶だけを消してくれた。羽根が生えたような心地ですらあった。わらわたちのような経緯で後宮にあがったものは、ある意味幸福じゃ。いらぬ感情に惑わされずに気楽に生きていけた」

 そこで初めて、ユエルの面に悲しみが差した。

「……憐れなのは、シアじゃ。捕虜となってこの国にやってきたときには、ただの小娘に成り下がっていた。六歳のあやつがわらわの室に忍び込んで言うたのは、謝罪の言葉じゃ。すべてはおのれの行いの報いだと、子どもが涙して償いを誓いおる。すべて忘れてしまったわらわが、申し訳なかったほどにの。だからこの後宮の一因をつくった者として、あやつは過敏にわらわたちを気にかけるようになった。負わぬでもよい負い目を、勝手に背負いおってからに」

 重苦しく、息がつまりそうだった。そんな話を聞いてなお、ルカのなかのシアは凛としたまなざしで前を向いている。視線に気づくと、やわらかく笑うのだ。

「ようわらわに尽くしてくれた。不器用じゃが、憐れで可愛い我が娘そのものじゃ。だからだれかに託しておきたかった。――そして叶うなら、我が愚妹ぐまいのことも」

 頷いてから、耳慣れない単語に、首を傾げた。

「妹さん?」

「そう―――だ、――の――お?」 

 声がどこか遠のき、ユエルの姿は透けていく。目を丸くして、彼女は自分の半分ほど消えかけた両腕を眺めた。にかっと笑い、片手をあげる。それじゃよろしく、とでも言わんばかりに。現われたときと寸分違わぬ気安さで去っていった。



 優美に上を向く睫毛が、ようやくふるえた。闇夜に輝く瞳が自分の姿をとらえて、一瞬泣きそうになった。

「なんじゃおぬし、こんな夜更けに」

 のんびりと言い、ユエルはシアの頭を優しく撫でた。慈しみの気持ちが、指先から伝わってくる。それでも、ぬくもりと感触から先程の記憶が蘇った。背を走る怖気に耐えきれずに、その優しい手を払いのけてしまう。

「なんぞあったかえ?」

 それでも、ユエルは穏やかに尋ねた。枕元の花の形をした灯りを点すと、美しい笑顔でシアをみつめる。昔から変わらぬ微笑みに、全身から力が抜け落ちて、彼女の寝台に突っ伏した。目を瞑り、ふかふかした掛布の感触に集中する。そうしていないと、涙がこぼれそうだった。

「体、つめたくて。起こしても起きてくれやへんし。それに、どこにもおらんから。なんかあったんかと思って。こわかった」

 そっと細い指先が両肩にふれる。今度は壊れものにふれるようにそっと。シアも抵抗しなかった。降る声はどこまでも明るくてあたたかい。

「なあにいつものじゃよ。めずらしいことでもあるまい。それより、おぬしじゃて。なにか別な用件でいつぞやのように忍び込んできたのじゃろ?」

 黙っていると、髪を滅茶苦茶にかきまぜられた。ぼさぼさのまま顔をあげると、昼間よりもすこし声を抑えてユエルが笑う気配がする。やっと勇気が出て、声を絞り出す。

「あのね、昼間ね、怒って拗ねて、出てって、ごめんなさい」

 視界が髪で隠れていると、素直になれた。隙間から見えたユエルは、とびきりの微笑みひとつで、なにも言わなかった。でも、これから告白することを耳にしたら、今度こそ彼女はその顔を曇らせてしまうかもしれない。けれどなにより、だれにも告白せずになかったことにしてしまうのも恐ろしかった。

「あのね、わたし、やっちゃった……」

 声とともに、体までふるえてしまう。怪訝な顔をしながらも、ユエルはシアの声に耳を澄ませている。彼女の緊張が伝わって、怯んでしまう。一息に言った。

「陛下の心、……」

「それは、まことか。あやつは無事なのか」

 声こそ冷静さを装っていたが、肩に添えられた手から動揺が伝わる。言えたということに少し安堵し、首肯しゅこうした。咄嗟とっさに理性が働いたため、ほんのわずかなことだった。けれど、あれだけ他者に制御を強いておいて、過去の罪状がありながら、自分の勝手な都合で力を行使してしまったことは、赦されることではない。

「わたしに関するものを、ほんのちょっとだけやから、なんともないと思う。けど、ちょっとでも、なんともなくても、やったらあかんこと、しちゃった……」

 項垂うなだれるシアの頭を、ユエルは抱きしめてくれた。濃い白檀の香りに包まれる。すこし粉っぽいような、日常的に彼女が服用している漢方かんぽうの香りとまざった、ユエルのにおい。アレクセイにふれられたときは恐怖と不快感ばかりが勝ったが、いまは安らかな気持ちで彼女の腕のなかに収まる。こんなときだというのに、そんな気持ちになる自分が奇妙だった。けれどこれが、触れ合いによって安堵するということなのだろうか。

「大事ないならそれでよい。もともと自我の強い男じゃ、些末さまつなことよ。だがに落ちぬ。なぜ、そんなことになった。普段のおぬしなら、そのようなことはあるまい」

 すこし逡巡し、シアは詳細を告げた。手を下してしまった時点で、シアの失態だ。もっとうまく立ち回る術はあったはずだった。そもそも、彼と二人で話をしようとしたのが、間違いであったのかもしれない。だが悔いても事実は変わらない。すべてを話し終わり、審判を待つ罪人のような気持でユエルの言葉を待った。

 ――はじめてここにきたときも、そんな悲愴な気持ちだった。

「おぬしの瞳は美しいな」

 髪をすべて掻きあげられ、彼女とシアを遮るものは消えた。優しい手つきで髪を整えられる。驚きに、あふれかけた涙がひっこんだ。

「それはさぞ、恐ろしかったじゃろう。案ずるでない。すべてあやつのせいにしてもかまわん。わらわが赦す。許可もなく乙女の唇に触れるなど、男のすることではない」

「こわくなんか。こわいとかちゃうもん。あんな、人の話も聞かんと、信じられへん!」

 思い出して怒りまかせに声をあげると、愉快そうに笑い声をこらえたユエルに制される。

「それだけ、おぬしのことを想っておるのじゃよ。だが、想っておるからといってなんでもしてよいわけではないがの。まあそう邪険にするでない」

 片目を瞑って見せたユエルに、肩の力が抜けた。

「なんか、ユエルちゃんが陛下の保護者みたいやわ」

「そのようなものじゃ。まったく世話のかかるやつじゃて。いくつになっても男というものはどうしょうもない。それでも、この世には男と女とで出来ておる。両名そろっておるからこそ世は続いていくというもの。おぬしもわらわもあやつも、みな等しく意義あってこの世におるのじゃからの」

「――はい」

 神妙にうなずくと、ユエルは満足げに笑った。また、ふと過去の記憶が蘇る。

 もう覚えていないほど昔、シアは彼女から恋しい人を奪った。

 直接手を下したわけではないが、後宮にと望まれた彼女を納得させるため、その記憶だけをまるまる奪うという芸当を、過去の自分はやってのけた。ほとんど覚えていないが、記録や大人たちに話を聞いてまわり、自分の罪を知った。いまも昔も、未熟な自分を赦し導いてくれる、大きな器のユエル。シアがいなければ、この後宮に縛られることなく、かつての恋人と家庭を築き、子を為し、幸福な生活を送れたのかもしれない。過去は変えられないが、彼女から普遍的な幸せを奪ったかと思うと、やるせない気持ちになる。

「……ごめんなさい」

 何度言ったかわからない言葉を口にすると、頬を容赦なく両側に引っ張られた。しかも長く美しく整えられた爪が喰いこんで、かなり痛い。

「ひひゃい」

「そういう意味で言うたのではない。わらわにはおぬしや青臭い后妃たちの面倒を見るという役目がある。これもまたやりがいのある幸福な人生じゃった。申し訳ないなどと言いのたまうのであれば、わらわができぬぶん、おぬしが幸福な家庭をつくればよい」

 ようやく解放された。きっと頬は赤くなっているにちがいない。だが予想だにしない言葉に、つい顔中に力がこもり表情がこわばってしまう。

「むりむり」

「なんじゃおぬしすぐに否定しおってからに。中途半端な謝罪ほどいらぬものはない」

 どこまでも的を射た言葉に、シアは二の句が継げなくなる。それを見て、またユエルは吹き出した。彼女の笑顔は、シアの大好きなものだ。ふいに、彼女は起こしていた体を寝台に横たえる。長いまつ毛を伏せて、夢見るように陶然(とうぜん)とつぶやいた。

「おぬしの子か。この腕に抱けたなら、この上ない幸福よの……」

 深く呼吸するユエルを見て、シアはようやく真夜中であることを思い出す。あまり無理をさせては、病弱な彼女の身体に障ってしまう。掛布をユエルのうすい肩にかけて、灯りを消した。

「夜中に、ごめんね。また、来てもええかな?」

「なんの。せっかくこの国におるのだ、いつでもくるとよい」

 吐息まじりの声で言ったあと、ユエルは枕元を探る。頼りなげな腕を伸びて、ユエルの香りとぬくもりに包まれた。なめらかな生地の、肩掛けだ。

「さあ、少年の元へ帰っておやり。今宵も冷える。それをかけてゆくがよい」

「ありがとう、ユエルちゃん。すこしでも、すてきな夢でありますように」

 目を伏せて、シアはユエルを想って祈る。おぬしも、とひそめた声を聞いたあと、シアは部屋を後にした。



 気配を感じて、ルカは目を覚ました。

 夢からユエルが消えたあと、より深い眠りへと落ちたらしい。弾かれたように身を起こして、隣の寝台を見る。変わらず整えられたそこには、待ち人はいない。細く幽かな月の光りを頼りに時計を見ると、草木も眠るような深夜だった。さすがに遅すぎる。じりじりと胸を焼くような不安に駆られながらも、ルカは待つしかできない。

 すると、続き部屋の奥から簡素な寝間着に身を包んだシアが現われた。ルカを見ると、申し訳なさそうに眉を下げた。

「起こしてもたかな、ごめんね」

「こんな時間までなにをしていたんです」

 つい責めるような口調になってしまう。そんなことを言うつもりはなかったのに、と胸の内で悔いる。

「心配さして、ごめんね。……陛下はただのお熱やて。……ちょっと昼間のこと謝りたくて、そのあとユエルちゃんとこ行ってたら遅くなっちゃった」

 素足のまま寝台のそばまでくると、シアはやわらかくルカの頭を撫でた。心地よい感覚に身を委ねつつ、合点がいく。とたんに安心して、眠気がやってくる。欠伸をなんとか噛み殺しながら、ルカは念を押した。

「女性なんですから、あまり夜分に一人で出歩かれるものではありませんよ」

 言うとシアは目を丸くして、そのあとおかしそうに笑う。

「いまさらやね。わたし、ルカくんに会うまでずっと一人やったんよ」

「それでもです。俺が、心配なんです」

 つい意地になって言うと、シアはくすくすと笑ってから目を細めた。つられて、ルカも微笑んだ。いつも以上にやわらかい雰囲気に、ルカもほっとした。

「そっか。ありがとうね」

「やっと安心して寝られます」

 心からそういうと、束ねた髪を引っ張られた。なにごとかと目を瞠ると、シアはすこし憮然として上目遣いにルカを睨んだ。

「このままはあかんやろ。せっかく綺麗な髪なんやから、きちんと手入れしてからやないと寝やせへんよ」

「はあ……」

 だが、ルカはもう睡魔に勝てる気がしなかった。昔からシアはルカの髪を気に入り、入念な手入れを求めてくる。ついに堪えきれずに欠伸をすると、シアはルカの後ろにまわって髪をほどいた。背に届く髪が無造作に肩に落ちていく。目をこするルカを尻目に、寝台横の棚から櫛を取りだし、丁寧にくしけずりはじめた。

「ルカくんは寝てていいよ。わたしが綺麗にしたげる」

「……………シア。俺は横になりたいのですが……」

「我慢して。終わったらちゃんと横にころがしたげる」

「…………」

 なんと無体な、と思いつつもシアの手つきが心地よくて、瞼がとろりと落ちてくる。

 ルカは胡坐あぐらをかきながらうつらうつらと船をぎ、シアは黙々と髪を梳かした。



 ルカの意識が落ちる瞬間は、すぐにわかった。細い絹糸のような髪は、さらさらと櫛をくぐりぬけるが、なにぶん背を覆うほどの量がある。なんとなくやる気になってみたものの、シアにも睡魔がやってきた。あとすこし、あとすこしと思いながらなめらかな髪を梳かし続ける。ひんやりした感触はなんとも心地よく、つい夢の淵へと誘われる。

 とうとう、最後の一房を手に、シアも意識を手放した。ルカの背にもたれて、おのれが入念に手入れしたなめらかな髪に埋もれながら健やかな吐息をたてる。



 しあわせな夢をみた。

 なにもかもが曖昧で、なにがどうしあわせなのか説明することはできないが、これまでになく良い夢であると断言できた。

 とろとろと目を覚ますと、妙に体があたたかい。腹のあたりにまとわりつく心地よい重さの掛布はやわらかく、ルカを包んでいた。肩までかけようと掴むと、掛布にしては弾力のある、吸いつくようななめらかな感触にゆるりと瞼を押しあげた。人間の白い腕が、ルカの腰にしがみついている。一体どこから伸びているのかと首をひねって視線を遣ると、見覚えのある黒い髪が白い敷布に広がっていた。背中に押し当てられた言いようのないやわらかな感触に、瞬時に頭が冷えていく。

 むずがるような吐息とともに、腕に力がめられる。

 状況を把握して、ルカは飛び起きた。もれなく、シアもついてくる。ぶらんとぶらさがりながらも熟睡する恩人を目にして、ルカは顔を真っ赤にして叫んだ。

「なにをしているんですかあなたはっ! 起きなさい!」

「お――う邪魔するぜー。朝飯いくぞ――」

 同時に、客室の扉が低い声とともに蹴破けやぶられた。とたんに青ざめたルカと、カグラの双眸がかちあう。冷や汗と脂汗が同時に背を流れるのを、ルカは人生ではじめて体験した。



「なんでそんなに二人そろって朝からぷりぷり怒らなあかんのん?」

 短い睡眠時間が祟ってか、いつもよりも間延びした調子でシアは言った。

「だれのせいで怒ってると思うんです。だから俺の髪なんて放ってさっさと自分の寝台で寝れば良かったんです。もし間違いでも起きたらどうするんですかっ!」

 めずらしく眉を吊り上げ怒りを露わにするルカに、覚醒しきっていないシアはゆっくりと瞬き首を傾げて尋ねた。

「間違いってどういうのん?」

 大仰にため息をつき目を覆うルカに、おおよその経緯を把握したカグラは申し訳なさそうに声をかけた。彼が理解を示してくれたことが、せめてもの救いだった。

「なんか悪いな。今回は、おまえ悪くねえわ」

「嫌やったんなら、ごめんやで。でもねえ、すごい発見。寝てるひとって余計なこと考えへんでしょ。あったかいし、なんかにしがみついて寝るって発想わからんかってんけど、安心感あって、寝心地よかったわあ。抱き枕をつくったひとって、すごいんやねえ」

 ルカの心配をよそに見当違いなことを言い、シアはしきりに感心していた。挙句(あげく)の果てにはルカを抱き枕扱いだ。嬉しいような哀しいような、ルカは全身から力が抜け落ち地面に崩れ落ちた。悪気も恥じらいもないのが、性質たちが悪い。第一ちょっと抱きしめたり触れ合ったりするのが「さわらんとって」で、同じ寝台で眠ることに関して鷹揚おうようなのかが、ルカには理解できなかった。

「嫌とかじゃないですけど………なんていうか」

「まあ、お詫びに髪綺麗にしてあげる。ね」

 名案とばかりに手を打つシアに、頭痛を覚えた。

「それ、シアがしたいだけでしょう」

「ようわかったねえ。大正解」

 呑気に笑うのがまた、恨めしい。

「頭痛がしてきました」

「あら。じゃ、アッくんに薬もらいにいこか」

「………そうですね」

 力なく、ルカは投げやりな相槌をうった。やりとりを見守っていたカグラは、かつてないほど同情に満ちた面持ちでルカの肩に手をおいた。

「なんだ、その……。おまえのこと誤解してたわ。……苦労かけるな」

 たいていシアは頭の回転が速く、理知的だ。だがその感性は一般のものとわずかにずれがある。いまも涼しく賢そうな顔で二人を眺めるさまが、なんだか憎らしい。

「昨日は心配かけちゃったし、ごめんね」

 申し訳なさそうにシアは笑った。だが、それではない。そこではないのだ。



 カグラとともに朝食を終えると、シアはまっすぐに厨房へと向かった。

 案の定、そこにいる人間とも顔見知りだったようで、当然のように料理人のなかに溶け込み後片付けをしながら日々の世間話に花を咲かせた。会話の隙間にしっかりとルカにも指示を飛ばして働かせるという抜け目のなさが、彼女がただの天然娘ではないところだ。そして程よい労働で体があたたまり、厨房が見違えるように美しくなったころには、二人分の昼食を詰めたかごが用意されていた。

 料理人たちに丁寧に礼を述べたあと、市井巡回にむかうと意気込むシアとともに、ルカは蒼月宮を出た。

 はじめてこの国にきたときのように、彼女は家々を転々と渡り歩いた。のんびりと話に耳を傾けるだけのこともあれば、次々に飛んでくる端的な指示をこなしてゆき、あらゆる雑務を行うこともあった。だがシアはルカに指示した以上にくるくると動き回っている。家人から礼を言われるたびに深々と頭を下げて、そしてこの上なくしあわせそうに笑う。



 すっかり陽が高くなったころ、ルカの身体は心地よい疲労感に包まれていた。そして狙い澄ましたように空腹がやってくる。つい腹を押さえると、シアがつないだ手をひいた。ふと視線を落とすと、ふわりとシアが微笑んだ。

「朝からいっぱいお手伝いありがとうね。お天気もいいし、お外でお花見でもしながらお昼にしよっか」

 願ってもない提案に、ルカはシアに促されるまま歩き出す。

 整然と住居が並び建つ街並みは、やわらかな乳白色とあいまって絵画のように美しい。田舎育ちのルカとしては、蒼月宮に比べると格段に緑が少なくもの寂しさがある。けれど、洗練された都会の雰囲気と異国情緒漂う風景が、故郷をはるか遠くに思わせた。広大なこの国に孤独を感じないのが不思議なほどに、ルカはおのれを小さく感じた。

 地元民がゆくような細い路地を、庭のようにシアは進みゆく。

 昨日は朝から濃厚な一日だった。シアのまつわる人間に関わるたびに、三年間共にあり、だれよりも近しい存在であると思いあがっていた自分が恥ずかしい。そしてあれだけ多くの時間を共にして、なにも聞かされない自分が惨めで寂しかった。

 けれどそれ以上に、そばにあるだけで満足し、彼女を理解しようとしなかった自分自身の薄情さと浅ましさを悔いた。敏感に察したシアは、問うように振り仰ぐ。この手のひらからも、自分の感情が伝わっているということを恥ずかしく思いながら、なんでもないというように首をふると、言葉なくシアは道を見据えて歩き出す。

 想いが伝わるならば、すべて伝わればいい。もっと想いを知ってほしいと願う気持ちがあふれてくる。シアのてのひらがわずかに強張るのを感じながらも、けして逃さないように握りしめた。

 やがて住宅の隙間に埋もれるように、白い煉瓦造りの建物が現われる。重厚なつくりの門をくぐりぬけていく。外観からの想像を裏切られる光景に思わず吐息がこぼれた。

「うわ……」

 吹き抜けの天井は吸いこまれそうに高い。乳白色の円柱に支えられた建物の壁一面が、緻密ちみつな細工のステンドグラスで出来ている。蒼をふんだんに用いてつくられたそれは、まるで別世界に迷い込んだかのようだ。あらゆる角度から光りが差し込む鮮やかな空間は、神聖さに満ち満ちている。中央には白磁の膚をもつ女神像が合掌し、祈りを捧げていた。

「ここが、この国の教会支部。ほかの地域に比べてちょっとだけ狭いけど、建物としてはいちばん綺麗やと思う」

 蒼い光りに包まれながら、シアはうっとり見惚れている。息をのむような美しい横顔に、ルカはうまく声を出すことができない。

「ルカくんに見せたかったから、来られてよかった」

 ほほえんで、シアはルカを見上げた。たまらず、シアを抱きしめる。

 感動と嬉しさがあふれて押さえられなかった。彼女は大人しく腕のなかに収まり、子どもをあやすように背を撫ぜる。ふと我に返り、ルカは舌を巻く。シアは、恐ろしいほどによくわかっている。ルカの行動が、どういった想いが原動になっているかを無自覚に把握しているのだろう。だから、いまのルカの行動は受け入れられた。

 心地よさに甘えてしまう前に身を離した。そっと見たシアの瞳は、無垢なおだやかさがある。きっとこれ以上を彼女は望んでいないのだ。言葉はなくとも確信する。

 シアは前をむいて、手を引いて歩き出す。一歩踏み出すごとにふわりと揺れる髪にすらふれたいと思う。彼女が赦すかぎりの領域にいれば、ふれることができる。小さな背中をだきしめることもそばにいることも、赦されているだけで嬉しいことだ。

 いま以上のものを求めさえしなければ、手の届く場所にある。

 昼食時だからだろうか、教会内にはだれもいなかった。二人分の靴音だけが響く。ぐるりと一周すると、壁際に歩み寄る。ステンドグラスの一部であるそこは、扉になっていた。  

 手をかけると、まばゆい太陽に目がくらむ。そこには小さな緑あふれる庭があった。そして視界に広がる、可憐にさざめく淡い色彩に目を奪われた。

「これは………」

「こっちはいまが開花時期やて聞いて、ここでお昼食べたらええかなって思ったの」

 ニールでも見た、シアの故郷からきたという桜だ。ややつぼみこそ目立つものの、陽をうけてゆらめくさまは何度見てもため息がこぼれてしまう。シアも愛おしそうに見上げたのち、木陰にひっそりとあった木製の椅子に昼食を広げた。

 あたたかな陽気のもと、パンに瑞々しい野菜と加工肉、そして炒(い)り卵を挟んだものを、二人で並んで食べる。

 風がたつたびに、はらはらと淡い花弁はなびらが舞い落ちた。蒼い空と薄紅の桜を映した猫のひたいほどの池に、ひとつまたひとつと波紋を広げていく。どこか世俗の声は遠く、どこか浮世を離れ神々が住まう幻想世界にまぎれこんだかのような心地がした。

 景色に見惚れていると、視線を感じた。嬉しそうにシアが笑っていた。

「うん、似合うわあ。昨日後宮にいって、みんなの髪みて思ったん。ぜったいルカくんも編み込み似合うやろなあって」

 言われて、ルカは頭の側面に手をやった。いつもは無造作にまとめるだけだが、今日は宣言どおりシアが丁寧な編み込みを施してくれた。常であれば、ルカの細い髪はするするとこぼれ落ちていくのだが、いまはすっきりとまとめられている。

「ありがとうございます。とても過ごしやすいです。器用なものですね」

「どういたしまして。孤児院とかで女の子と遊んだりするときに、こういうふうに髪の毛してあげると喜んでもらえるん」

 無邪気な笑みは可愛らしいが、すこし腑に落ちず無言で微笑みを返した。それに対して不思議そうにシアは首を傾けて、ひらめいたように提案する。

「もしよかったら、またわたしがしたあげるね」

「――では、毎日。お願いしてもいいですか?」

 無垢な瞳を見据えると、わずかに目を瞠ったのちに快諾した。

「ええよ。ルカくんの髪さわるの、すきやし。美少女にしか見えんくて可愛いし」

「…………………」

 ぎりぎりと渾身の力でシアの頬をひっぱっていると、空を裂くような烈しい子どもの鳴き声がした。幽霊のようにかすかな声と、ぐずつく声はだんだんと近づいてくる。なにごともなかったようにシアは立ち上がり、声のほうへと歩き出す。

 乱れに乱れた長髪の女性が、暴れる赤子を抱えて庭にやってきた。あやしているのか、なにやら声をかけているが赤子の鳴き声にかき消されてしまっている。見るからにおろおろとする母親に対し、赤子は腕から飛び降りんばかりにもがいていた。見かねたシアが二人に近づき手を伸ばした。そっとひたいにふれ、目を覆うようにやさしく撫でる。すると赤子はようやく深く呼吸をし、落ちつきを取り戻した。

「………しーちゃん?」

 シアが声をかけようと口をひらくより先に、女性が尋ねた。目を丸くしたシアは、爪先立って、女性の顔を覆っていた乱れた髪を掻きあげる。泣き黒子ほくろがしっとりとした印象の美人だった。だが憔悴しきり、表情に生気がない。

「だれか思たらアキちゃんやん」

 どこかで聞いた名に、ルカは記憶を手繰る。

「ベルちゃんから結婚して子どもちゃんできたて聞いてたけど……。えっといろいろおめでとうやねんけど、なんでまたこんなとこおるん?」

 さすがのシアも戸惑いながら尋ねた。そういえば、初対面で乱心していたベルが言っていた人物だと思い当る。

「ありがとう……。わたしの……旦那さん、この国に出張できていて……。去年、子ども……ミリアが……生まれて……。今日は……天気がいいから……外で食べようと思って、出たのだけど……機嫌が悪くて……困ってたのよ……。助かったわ……」

 焦れてしまいそうなゆるやかな調子のうえ、声がか細く聞き取りにくかった。だがシアは辛抱強くだまって話に耳を傾けた。

「ほんなら、ごはんまだなんやね。そこの椅子すわって。あれやったら食べるあいだ預かったげるよ。寝かして大丈夫なんやったら、この子寝かしとくし」

 言うが早いが慣れた手つきで赤子を抱きあげて、椅子をすすめる。シアは手巾を取り出して赤子の涙と鼻水にまみれた顔面をきれいにした。

「ほんとに………助かるわ。……お願いしてもいいかしら」

 ルカのとなりに腰掛けたアキは肩にかけた荷物から昼食の包みを取り出し、広げた瞬間中身のパンがころころと転げ落ち、あっという間に砂にまみれた。

「あらあ………」

 なんといってよいかわからず、ルカはアキとともにシアをみた。大人しくなった赤子を抱き、あやすように左右に体をゆらしながら、さして気にした風でもなく冷静に言った。

「ルカくん、そこにあるわたしのパンわけたげて。にしてもアキちゃん、相変わらずなんか幸薄いなあ」

「久しぶりに会うのに……迷惑かけてばかりで……ごめんなさいね」

「ううん。頂きものやからええのよ。遠慮せんと食べて」

 うっすらルカが思っていたことを率直に述べるシアに感心する。だがアキも嬉しそうにパンに手を伸ばしている。そこでようやくルカの存在に気付いたようで、アキはゆっくりと咀嚼したのちに口をひらいた。

「こちらの……お綺麗な方は……お知り合い? はじめまして……アキです」

「うん。わたしらもごはんしてたの」

 目線で促されて、ルカは居住まいを正して名乗った。

「ルカです。初めまして」

「ごめんなさいね……お食事中に……お邪魔して……。昔から……しーちゃんには……お世話になってるの……わたし……どんくさくて……」

 初対面ながら、過去の二人のやりとりが目に浮かぶようだった。

 孤児院にいたベルとは対極といっていい人物だ。なんとなく、ベルが腹をたて乱心し、落ち込む気持ちが想像できる。それに、赤子といっしょにいるところを見なければ、きっとルカは彼女が母親であることを信じられなかっただろう。

「旦那さんはお仕事なん?」

「そうなの……ほとんど……家を空けてるわ……」

「へえ、近くでだれかたすけてくれるひとはおるん?」

「きたばかりで……、てんてこまいよ……」

 きわめて真面目にシアはアキと会話する。てんてこまいという言葉があまりにも彼女となじみすぎて、その様子すら想像できた。

「あ、寝たわ」

「………うそ。……さすがだわ。……わたしは……だめね。………勢いで結婚して……。子どもを授かって……したけれど……。自分のこともできないのに……子どものことまで……行き渡らなくて……。彼にも………ミリアにも……申し訳ないわ……」

 シアの腕のなかで健やかな寝息をたてる我が子をみて、アキは涙ぐんだ。勢いで結婚、という言葉に違和感はぬぐえないが、消沈した様子と疲れ果てた風貌から彼女の苦労がみてとれるようだった。もしかするとアキはなにか救いを求めてこの教会にやってきたのかもしれない。

「でも、この子のお母さんはアキちゃんだけやん。自分のお母さんが、自分のことだめとかいうてたら、悲しいよ。わたし、寝かすのとは得意やけど………人の気持ちに寄り添ったり、理解したり、苦手なこと、いっぱいあるよ。相手は人間やもん。思うとおりにいかへんよ。ほんまやったら、アキちゃんも慣れへんことばっかりで自分がしんどいとこを、相手に申し訳ないって思えるその優しい心、伝わるしわかってくれはるよ」

「……そう……かしら……」

「みんなできることと、できへんことちがうから、自分にできること、がんばろ。わたしも、昨日いろいろ失敗しちゃって、落ち込んでたけど。次に繰り返さんように、できること増やしていけるように、いっしょになんとかやってこ。弱音も吐いていいし、無理なときはしっかり頼れるひとつくって、甘えてええんやからね」

 ルカの膝のうえにどっかりとすわり、片手で赤子を抱きながらアキの濡れた頬を指でぬぐった。子どもをあやすように手櫛で髪を梳き、撫でていく。だが彼女の涙は止まることなくあふれつづける。シアはそれ以上なにも言わず、静かに見守った。

「あの……なんでまたこんなところに。言ってくれれば席を空けたのに……」

「アキちゃん背え高いからこれでちょうどいいんよ。そのままでええよ」

「いやええよって……。なにかちがいませんか?」

「こまかいこと言わんと。静かにしとって」

 そう言われるとルカが間違っているような気がして、釈然としないままルカは押し黙る。するとアキが嗚咽をこらえるようにふるえだした。

「ああもうルカくん余計なこと言うからあ」

「えええ俺のせいですか……?」

 理不尽な物言いに、つい不満の声をあげる。すると、アキがこらえきれないといった様子で笑い出した。はじめて見た笑顔だった。

「……しーちゃん、良いひとに……出会えたのね」

「うん。ルカくん良い子やよ」

「……ふふ。それに……明るくなったわね。……嬉しいわ……」

 伏し目がちに微笑むアキの表情に、シアはわずかに目を見開いた。なにか言葉を紡ごうとして、逡巡する。ややあって、意を決したように神妙な表情で尋ねた。

「アキちゃんも……変わったね。血のつながりのないひとと家族になって、自分の身体から新しい命を生み出すのは……どんな気持ちなの?」

 まなざしは曇りなく、声は常と同じく清らかだった。

 シアの問いはこの世で喜ばしいものとされたことばかりなのに、異(い)端(たん)の恐ろしい秘密に踏み入ったかのような面持ちだった。

 不思議そうにシアを見つめ返すアキのこたえを待つ。その他の少女ならいざ知らず、彼女の口からそのような言葉が紡がれるとは夢にも思わなかった。世間から見れば、シアとて年頃の少女であり、なんならアキのように家庭を持っていてもおかしくない。なのに、そういったことを彼女が口にするのは、ひどく似つかわしくないと思ってしまう。

「……しあわせなことよ。……血のつながりだとか……そんなこと……考えられないくらい。……なににおいても……彼と生きたいと思ったから。……こわがらなくても……ときがくればわかるわ。……愛しいという気持ちだけよ。……それだけで……なににでも……立ち向かえる勇気が……出るの……」

 吹けば飛びそうに頼りなげな印象を裏切る、静かな情熱がそこにあった。慎ましやかながら、うちに秘めた想いの強さに驚く。それは、まごうことなく母の風格があった。

 アキが言葉を結んだのち、沈黙が訪れた。シアはようやく、そっと目を伏せた。無垢な少女のものとも、老成した女性のものともとれる横顔に、ルカは息を呑む。シアの重みも体温もすぐそばにあるのに、彼女を遠くに思う。

 やっと、シアがルカの膝を降り、立ち上がる。彼女は、腕のなかを見ていた。そこには、アキの子どもが安らかな表情で眠っている。白く小さな手は丸められ、産毛のような色素のうすい髪が太陽をうけて輝いていた。愛おしげにみつめたのち、顔をあげる。

 やわらかな微笑をうかべて、言った。

「教えてくれて――話してくれて、ありがと。アキちゃん、大丈夫やからね。強い気持ちさえあったら、なんでもできるよ」

「そう……そうね……」

 虚を突かれたように目を丸くして、アキも笑う。

「それにしても……よく寝ているわ。……よっぽど寝心地がいいのかしら……」

「それは知らんけど……。よう寝てると思う」

 ちらりとそこで何故かシアはルカを見た。

「だっこしてみる?」

「えっ」

 動揺するルカに、のんびりとアキも同意する。

「……美少女になれるかも……しれないわ……」

 どういう理屈だと突っ込む暇もなく、シアはルカに赤子を差し出した。おそるおそる両腕を差し出すが、どうしていいかわからない。

「左で首と頭を、右で背中とお尻を支えたげたら大丈夫」

 言われるままに、腕に抱く。衣服のうえからも感じられる、頼りなげな重みとやわらかさに、足がふるえそうになる。椅子にすわっていてよかったと心から思う。ちょっとでも力を籠めたら壊れてしまいそうだ。すると、腕のなかの赤子がわずかに身動ぎし、丸い瞳とかちあった。美しい翡翠(すいのなかに、緊張に強張るルカがいた。意志を感じさせる強いまなざしに、どうしていいかわからなくなる。ちいさなくちびるから、わずかな声がもれ、とうとう赤子は泣きだした。

 その体のどこにこの声を発する熱量があるのかと思う声をあげ、熱いと感じるほどに体温があがる。一体全体どうすればよいかわからない。つい頓狂とんきょうな声が出た。

「し、シア、熱いです。病気ですかっ?」

「泣いたらだいたい大人も子どもも体温あがるけど……」

 平素と変わらず落ちついた調子で言い、ひょいと赤子を抱きあげる。体を揺らしながら片手で背を撫でてあやす。シアの手つきとともに声は小さくなっていった。赤子を抱いたまま、シアは庭を歩き出した。

 ルカはアキと二人、取り残されてしまう。並んで、残りのパンに手を伸ばす。陽光まぶしい晴天のもと、シアのささやきのような子守唄と鳥のさえずりが聴こえた。穏やかな沈黙のなか、わずかな風にも舞う花びらの隙間に見え隠れするシアを見る。

 幼い容姿なのに、子を抱く姿がいやに堂に入っていた。いつか、彼女も母になるのだろうか。だれかと共に、家庭を築くのだろうか。ルカは勝手に、シアをそういったものと無縁として――というよりずいぶんと先のことのように、考えすらしなかった。だが母となった旧友と話す姿をみて、子をあやす姿をみて、現実味をもつ。彼女の未来に、自分はいるのだろうかと考える。もし、ほかのだれかのもとへ行くのなら、自分はどうなるのだろう。なにより、彼女の隣にいるのは、やはり自分でありたいと願ってしまう。

 気配がして隣をみると、アキは背をふるわせて顔を覆っていた。

「どうかされましたか? ご気分が悪いのでは……」

 慌てて背に触れかけて、こらえる。もしや自分のせいで気分が悪くなってしまったのなら、むしろ触れるのは危険だ。シアを呼ぼうと顔をあげると、彼女は首を振った。耳を真っ赤にしている。首を捻るルカに、彼女は弁明した。

「……ごめんなさいね……。だって……あなたあまりにも……」

 アキは顔をあげて、目尻にうかんだ涙を拭う。

「にこにこしていたかと思ったら……この世の終わりみたいな顔をして……最後には泣きそうになって……いるんだもの……。なんとなく……考えが……わかって……。そんなにも……綺麗なお顔を……しているのに……、なんて素直な……ひとなのかしら……って」

 喉で笑いを押し殺すアキに、ついルカは自分の顔に触れた。そんなにもわかりやすい表情をしていたのかと恥ずかしくなる。どうりで、よく考えを読まれることが多いはずだ。

「……ほら……そういう……ところよ。……こんどは……顔が真っ赤だわ……。なんてあなた……可愛いの……。うちの子も……あなたくらい……わかりやすかったらいいのに……。しーちゃんが……懐く……わけだわ……」

 羞恥に火照る顔の熱を冷ますように仰ぐ手をとめて、ルカは尋ねた。

「シアが、懐く?」

「……同郷のお兄様たち……以来かしら。……いつも……澄ました顔をして……気位の高い……猫みたいな……しーちゃんが……。あんなふうに……人と近い距離をとるのは……。めずらしいわ……」

 嬉しくなり、表情がゆるむ。するとまた、アキはうつむく。そこでようやく気づく。もしかすると、大変わかりにくいながら、彼女は相当な笑い上戸なのかもしれない。そこまで笑うことでもないだろうに、腹を抱えて震えている。初対面では、暗く沈んだ幸薄そうな女性だったが、すこし話をするだけでずいぶんと印象が違う。世の中には、ルカの知らないいろんな人間がいる。そしてそれを知ることは、とても興味深い。

「……自信をもって……いいわ」

 ふわりと含みのある微笑みに、ルカは力なく笑う。

 言葉を返そうとしたそのとき、視界がくらんだ。体中から力を抜き取られるかのように、強制的に世界が暗転する。呼吸が苦しくなり、心臓が早鐘はやがねのように打った。猛烈な吐き気とともに、脳裏に響く声がした。


 ――時がきた。

 ――最期じゃ。


「ルカくん!」

 凛とした声がして、急速に引き戻される。弾かれたように顔をあげると、シアが蒼白になってルカの手を掴んでいた。月色の神秘的な瞳に映るルカも、彼女に劣らず顔色がなかった。鼓動はしだいに落ちつき、不快感から解放される。かすむ視界は徐々に輪郭を取り戻し、常と変わらぬ鮮明なものになった。

「どしたん?」

 安堵の吐息をついてシアは尋ねた。もう大丈夫であることを伝えようとして、思い留まる。先程の感覚と声は、幻覚などではない。これまでの出来事が脳裏を駆け巡り、また心臓が速度をあげていく。

 ルカはシアの手を取り立ち上がった。眠る子を抱きながら、アキが目を白黒させているが、それにかまう余裕はなかった。走り出さんばかりのルカに、シアが声をあげた。

「ほんまにどうしたん? なんかあったん?」

「早く、早く行かないとユエルさんが!」

「え?」

 焦燥感に、理由を説明することすら煩わしかった。ルカはシアを抱え上げて、外に向かって走り出す。蒼月宮の道筋は把握している。本気で走っていくのなら、二人で歩くよりもルカが抱えて駆けたほうが早い。扉を蹴破り、振り向きざまにアキに叫んだ。

「失礼します!」


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