五章

 やはり彼女は、回廊の隅でうずくまっていた。叱られた子どもを見つけたような気分だった。

「シア、もう部屋に戻りますか?」

 声をかけると、ちらりとルカを見上げて首肯する。ルカが手を伸ばすと、シアは素直に握り、立ち上がった。不安げにゆれる瞳がルカを映す。なにも言わずに見つめられると、じわりと手に汗がにじむ。脳裏にユエルの言葉がうっすら蘇るのを、振り払った。

「ユエルちゃん、怒ってた?」

 おずおずと問われ、妙な期待を抱いた自分を愚かに思う。即座に切り替えて、笑みをうかべて否定した。

「いいえ。笑っておられました。ユエルさんは美しいだけではなく思慮深く、慈悲にあふれたお方ですね」

 ぱっととたんにシアは表情を輝かせる。だが、すぐに沈痛な面持ちになった。

「そうなん。いつも、優しいの。でも、いつまでも甘えてたらわたし、あかんね。それにごめんね、ルカくん。連れてきておいて、先に出ちゃって」

 殊勝に謝るシアに、ルカは首を振った。だがシアが退室したおかげで、気がかりであったことがひとつ解消した。シアがいてはあの夢の話をユエルとすることはできなかっただろう。もしも、出て行くことも算段に入れていたとすれば、ユエルはどんでもない知略の持ち主だろう。だが、肝心な話をすることはできなかった。だれが夢に現れたのかがわかっても、どうふるまうことを望んでいるのかがわからない。

「ルカくん? つかれちゃった?」

 心配そうにシアが覗きこんでくる。ルカの額に手を当て、首をひねった。

「熱はないみたいやけど……午後からは街行こうかと思ってたけど、やめとこか?」

「いえ、大丈夫です。すみません、あ」

 大事なことを思い出し、腰帯に括りつけた包みを開いた。ふわりと甘酸っぱい果実の香りとクリームの甘い香りが漂う。整然と並んだつやめく苺を目にして、シアは無邪気な子どものような満面の笑みになる。

「苺タルトやん! うわあ美味しそう。どないしたのこれ?」

「ユエルさんとハスナさんから、シアに。あとでいっしょに食べましょう」

 嬉しそうな笑顔に、ルカも嬉しくなった。こうした笑顔を見られると、とても幸せな心地になる。大切そうに包み、シアは手に持った。ルカの手を引いて歩き出す。

「みんな明るくて、楽しそうやったでしょ。最初はみんなああやなかった。自分の研究ばっかりしてて、服装とかも嫌がって。でも、ユエルちゃんがいろんなひとと関わって綺麗にしてあげて、ハスナちゃんが美味しいごはんつくって、たくさんたくさんいっしょに時間をすごして、あんなふうに仲良くならはった」

 あの宴会の盛り上がりからは想像できない話だった。

「わたしも、あんな空間をつくりたくて、タルトの作り方教えてもらった。うまくいくことばっかりやなかったけど、孤児院のみんなとか、ちょっとおうちお邪魔したときとか、仲良くなれるおまじないみたいにつくってた」

 そんな理由があったのか。たしかに孤児院でタルトをつくるとき、みなには笑顔がうかび初めて会うルカも、近い距離で関わることができているように思えた。

「でも、ここの――ほかの国からきたお嬢さんたちは、美味しいものを一緒に食べてもたくさん話を聞いても、わたしにその寂しい気持ちを埋めることができへんかった。あのひとたちは、わたしだれかになにかをしてほしいんやなくて、陛下に寂しさを埋めて欲しがってた」

 見たこともないような哀しさをたたえて、シアはルカを見上げた。真摯な瞳には、変わらない深い慈愛がある。神に懺悔するように、シアはつづけた。

「陛下もおなじ。いろんなひとに囲まれているのに、寂しい気持ちを抱えてる。やから、わたしはお嬢さんたちと陛下が仲良くしたらええと思ったの。だから陛下にお願いしたの。後宮に通ってって。それが、みんなが幸せになれる道やと思った」

 黙ってルカは耳を傾けた。

 彼女なりに彼らを想い提示した、合理的な解決法。だが、人と人に流れる感情に、彼女の理屈は通用しないだろう。アレクセイは、シアを求めている。シアが孤独を埋めようとした后妃たちは、皇帝を求めている。そして皇帝と后妃が求めているのは、シアの普遍的な慈愛ではない。ルカはシアより生きた年数も世に触れた年数も遥かに劣るが、それはよく理解していた。

「陛下は、後宮のひとらを決して無下にしていないことはわたしにもわかる。だって、忙しいなか、みんなが不満のないように、たとえそれがお金や権力でも――望むように応えてはる。でも、お嬢さんたちは足りひんていう。陛下も。わたしは陛下が穏やかでおれるように心を尽くしてきた。嫌なことでも協力してきたし、出来る限り寄り添ってきたつもりよ。やのに――どうして乞う心が尽きひんの……」

 悲痛なつぶやきは泣いているようだった。

そこでようやく、ルカはシアの心に触れた気がした。

きっと彼女は見返りのない慈愛を知っていても、焦がれる恋を知らないのだ。

これだけ心の機微をみるというのに。あれだけはっきりとユエルが口にしていたというのに、その意味を理解していない。

「――シアは、恋を知っていますか」

「知ってるよ。特定の異性に強く惹かれること、深く想い寄せること……」

 まるで辞書をそのまま読んでいるようだ。シアの瞳は遠く、木蓮の咲く庭園を見据えている。その瞳は宝珠のように透きとおり美しいのに、無機質で冷ややか。

「人間が子孫を残すための戯れ」

 ルカは堪らずシアの体をかき抱く。

 まるで自分シアが人間ではないかのような科白セリフだ。自分は無関係だと突き放すような声に、胸が締めつけられる。

 腕にはあたたかなぬくもりがあり、彼女のあまくやわらかな香りもルカを包む。すべての感触がこんなにも優しくあるのに、あまりにもシアの存在が希薄きはくに思えた。

「……いたい」

 消え入りそうな声に、腕の力をゆるめた。シアを見ると、困惑しながらルカを見上げている。だがその表情は、ルカのよく知るシアのものだった。

「シアも人間でしょう。俺も、陛下も、みんな」

「せやよ。なんでそんなに、悲しいん? わたし、なんか、嫌なこと言うた?」

 この悲しみがわかるのに、それがどこからくるものかをなぜわかってくれないのだろう。

「ちがいます。ちがうんです。心の機微がわかるのに、どうして俺の――人の心を理解しようとしないんです!」

 荒げた声に、シアは怯えたように身をすくめ、逃れるようによじり、瞳を潤ませる。

「だって。わたしがわかるのは、膚から感じる感情だけやもの。なんで、怒るん? 陛下も、いまのルカくんもこわい。なにがあかんの。言わな、わからへん。ねえなにが足りひんの? なにを求めてるの?」

 まっすぐにルカを射抜く瞳に曇りはない。

深く息を吸いこんだ。シアと、木蓮の香りが胸に満たされる。

腕をゆるめ、シアを解放する。繋いでいた手を取り、てのひらに口づけた。

 シアは目を丸くしてじっとルカを見ていた。先程の気迫はどこかに消え去り、すとんとその場にすわりこんでしまった。もう片方のシアの手に握られた包みをほどき、苺のタルトを取り出す。ぽかんとするシアの口に、それを荒っぽく突っ込んだ。

「ふえ?」

 問うような視線を無視して、ルカは自分のぶんを手にした。先程のやりとりで、整然と並んでいた苺は規律を失っていた。口いっぱいに頬張ると、爽やかな甘酸っぱさとクリームの甘みが絶妙に絡み合い、香ばしいタルト生地の食感が心地よく広がった。

「なんで急に?」

 咀嚼を終えたシアが、毒気の抜けた表情で尋ねた。

 あのまま言い合いを続けていても、わかりあうことはできないと結論づけた。これからは言葉ではなく、態度で示そうと心に決めた。シアが錯乱しないようにすこしずつすこしずつ。

「食べたかったんです。フルーツタルトは食べ損ねたので、今回も食べ損ねてしまいそうな気がしたんです。シアの好物なんでしょう?」

「あ、そやったね。――うん、苺のタルトがいちばんすき」

 気抜けしたようにシアはふにゃりと笑う。どこかほっとした笑顔に、ルカも安堵する。

「ほんまは、苺がいちばんすきやねんけど、ほら苺ってちょっとお高いから。妥協していつもわたしつくるときはごちゃまぜフルーツのタルトになるの」

 思いのほか、庶民的な理由に和む。これまでの五年間は粗食ばかりで、シアがすこし高価な苺を好むというのは意外だった。

「そうだったんですね。ちなみにどうして、苺が好きなのですか?」

 色が可愛いとか、甘くて美味しいとか、ルカの想像の斜め上をいく答えが返る。

「だって、皮剥いたり切ったりせんでも、美味しく食べられるやろ」

 


 後宮から伸びた入り組んだ回廊を抜けると、広々とした中庭がある。街中の広場のようなそこには、瑞々しい芝生が敷かれ、よく整備されていた。

ルカたちが滞在することになる宮の出入り口付近の空間に、黒衣の集団が整列している。厳(いか)めしい面構えの男たちだ。年齢はさまざまだが、みな遠目から見ても屈強そうな肉体を持ち、潔く頭髪をっている。太陽を弾くまばゆさに、ルカは目を眇(すが)めた。シアは手で庇(ひさし)をつくり、爪先つまさき立って様子を見ている。

「あれは――」

「そこになおれバカタレがあ!」

 ドスのきいた罵声ばせいに、ルカは肩をすくめ、姿勢を正す。強制的に背筋が伸びてしまうこの声を、知っている。懐かしさとともに、わずかなおそれが身を引き締めた。隣立つシアは、嬉しそうに声をあげて、大きく手を振った。

「カグちゃん、舎弟しゃていのみなさん、ご無沙汰してます~」

 すると、唯一黒髪をもつ青年が、突進してきた。衣服の上からもわかる、鍛え上げられた肉体に長身。逞しい首には、黒真珠の数珠が揺れる。信徒に非ざる野性的な印象は変わらず、大きな瞳はとろける笑みに細められた。瞬く間にこちらまで駆け寄り、シアの頭をくしゃくしゃと撫でまわす。

「シア~、久しぶりだなあ、元気にしてたかあ?」

 ぞっとするほどの猫なで声に、黒衣の集団とルカは青ざめた。シアといえば、穏やかな微笑をうかべてされるがままになっている。

「ほんまにお久しぶりやねえ、カグちゃん。わたしもルカくんも元気よ」

 ぴたりと笑みが硬直する。壊れた人形のようにゆっくりと、カグラの黒い双眸がルカを捉えた。ひたと射抜かれたが最後、獲物をとらえた狩人のごとく逃れることはゆるされない。彼のいびつな笑みにつられて笑うも、冷や汗が背を伝った。

「よお、色餓鬼いろがき

 地を這う声に、魂を掴まれたかのように動けなくなる。なにかを見定めるように睨めつけられた。笑みの消えたカグラの風貌は、荒々しい戦士のように圧迫感がある。

 五年前をまざまざと思い出す。ルカは、カグラが苦手なわけではない。言葉も態度も行動も乱暴だが、生真面目で高潔な根本が、シアによく似ている。シアと二人で登山修行をするときは、よく彼の言葉を思い出しては励んでいた。

カグラはルカの理想の男性像だ。雄々しく潔く逞しい。背丈は伸び、多少なりと筋力もつきそれなりになったつもりでいたが、いま目前にすると自分の未熟さが浮き彫りになる。最近は山を下り各地を転々として、人生経験が豊かになりつつあるが、やはり根本の自己鍛錬に励まなくてはと意識を改めさせられる。

 呼吸をするのも躊躇われるようなわずかな静寂は、忌々しげな舌打ちによって破られた。

「ちったあマシになったじゃねえか」

「本当ですか!」

「そんな喜ぶ?」

 不可解そうなシアに、ルカは満面の笑みをうかべた。そういえば、彼女はルカとカグラの初接触を知らない。怒鳴られけなされた。あの厳しい彼に認めてもらえたと思うと、嬉しくてたまらない。ほくほくと喜びに浸るルカを、黒衣の集団がじっと見つめていた。そういえば、シアが〝舎弟〟と言っていた。あの様子では、日頃から碌(ろく)な扱いをされていないだろう。

突如現れた人間に肯定的な声をかけたとなると、あまり気分の良いものではないはず。

 身を竦めていると、その様子を観察していたシアが耳打ちする。

「ちがうよ。ルカくん、美人やから見惚れてるんよ」

「えっ」

 二つの意味で驚き、ルカは声をあげた。まるまると考えが読まれるほど表情に出ていたことに対してと、同性に見惚れられたということに。まだ女性に、というのならわかる。それに先程後宮に行ったが、女性たちは自然だった。

「だって、さっきはみなさん別に」

「あのひとらは別格。研究以外ぜんぶ――そもそも美醜びしゅうに興味ないから」

 すこし沈んだ声で、シアは切り捨てた。それこそ奇妙なことだ。どちらかといえば、女性のほうが美醜や趣を大切にする印象が強い。

「てめえらボケッとすんなボケッ」

「「「アッス!」」」

 鼓膜を震わす声量の一喝に、黒衣の集団たちは低く統一された声をあげた。それらを一瞥し、カグラは溜息をつく。

「てめえ男の癖にダラダラ髪伸ばしやがって。おかげで免疫ねえうちの莫迦どもが色めき立って仕方ねえ。坊主にしろお前も。俺がそっくり綺麗に剃ってやる」

「だめだめカグちゃんそれだけは。わたしルカくんの髪すきやからいやや」

 すき、という言葉をルカは嚙みしめた。たとえ髪に対してでも、嬉しいことだ。半眼でそれを眺めて、カグラの相がまたも険しさを増した。

「てめえ……約束は破ってないだろうな」

 後宮を出てすぐの出来事が脳裏を過ぎり、反射的にシアを見る。彼女はいつものごとく涼しい面持ちのままだ。カグラを振り仰ぎ、返事をした。

「はい!」

「いまの間はなんだてめえ五年も独占しやがってこの野郎」

 胸倉を掴まれ、いともたやすく宙に体が浮きかけたところで、シアがようやく仲裁に入る。加減されているのだろうが、あまりの迫力に気圧されてしまう。

「まあまあ。で、なんでまたカグラくんまでおるん? アッくんもおるし」

「あぁ? あいつまでいるのかよ。陛下がよ、新兵に訓練つけてくれとかアホなことを抜かしやがって教会が押し切られたんだよ」

「それはなんですか?」

 つい問うと、口を挟むなといわんばかりに睨まれる。

「そだ。こちらの方たちを紹介するね。教会のご法守護のためにいる、武装した修行僧さん。いまでこそ教会を広く知ってもらえてるけど、昔はちごてね。わかってもらえずに迫害されたりも襲われたりもしょっちゅうの時代があったんよ。それで一般の教会員さんを守るためとか、場合によっては賊(ぞく)の被害に遭(あ)った地域守ったりするのにいはるの。ここにいる方たちは、カグラくんの舎弟さんたちだけで構成されてるんよ」

 ね、とシアに同意を求められるとカグラは得意げに仁王立ちになった。

「自慢だが、ほかの奴らと違って俺らの訓練はハンパねえからな。各国の軍事関係からよく訓練を依頼されるんだよ。それに航海術に航空術もたしなむ。教会よりもそういった関連で動くことが本職になりつつあるくらいだ」

「――ここには、その件で何回か来たことあるん?」

 シアが尋ねると、カグラは首を振った。そう、とだけ呟き、シアの表情が神妙に曇る。それを見て、カグラはシアの頭をかるく撫でた。

「そう心配すんな。あの陛下は、余程のことがなければ戦争を起こさねえよ。だが、どれだけ万全を期しても予期せぬ出来事は起こる。いざというときに動ける人間を育てておくのは大事なことだ。それはお前もよくわかっているだろうが」

 安堵と不安の入り混じった複雑な面持ちでシアはうなずく。

 戦争を危惧きぐするシアも、それを察するカグラも、故郷が戦禍に見舞われている。ぬくぬくと平和な村で育ったルカとはどこか根本が異なる。そしていま滞在するのは故郷を襲った当事国。懸念して当然のはずなのに、ルカは身に迫る危機として感じられなかった。なんとなくシアに申し訳ない心地になる。

 だが意外なのはカグラだ。あれだけシアが毛嫌いしているアレクセイなのに、どこか信頼しているような口ぶりだった。それになにより、彼はシアに好意を抱いている。シアを溺愛する彼にとっては悪い虫に等しいのではないだろうか。

「カグラさんは、陛下……を、信頼されているんですか?」

 おずおずと尋ねると、シアもカグラも意外そうに目を瞠る。黙して応えを待つ彼女の顔をみて、ちらりとルカを見た。――鼻で笑われた。

「国を治める者としては認めている。よく諸国をまとめ、上に立っているだろう。なんだおめえ、もしかして陛下に会ったんか」

「……はい。朝目覚めたら、枕元に」

 つい正直にいうと、カグラの眉が跳ね上がった。

「あんのバカタレが。妙なツラしてっからなにかと思えばそういうことかよ。だがまあ安心しろ。シアはあいつ嫌いだもんな。いざとなったら叩きのめせと許可は出している」

 こっくりと頷く二人に、ルカは苦笑いするしかなかった。一国の主を堂々と嫌いなどと公言するのは如何なものか。さらに叩きのめしてはいけない気がする。それに第一、シアがいくら体術の心得があれど、相手は帯剣する男性だ。

「でも、叩きのめすといってもシアは女性ですし……」

 苦笑まじりの呟きに、全員がルカを見た。耳を疑うといった風情だ。街中でひったくりに飛び蹴りを喰らわせるような女性だが、アレクセイの体躯は一般のそれとは異なり、カグラやアグラのそれに近しい。加えてシアは女性としても小柄であるうえ、ある程度の筋力はあれど男性の力に敵うとは到底思えない。

 なにかを思いついたように笑い、カグラはシアに提案する。

「よし。いまから手合わせでもどうだ?」

「わあ、ありがたいわあ。体動かすの久しぶりやし、よろしくお願いします」

 おっとりと言い、シアは折り目正しく頭を下げた。心なしか、嬉しそうにすら見える。

 カグラが手をあげると、黒衣の集団は黙して分散する。距離をとり、一対一で向かい合う。シアは縦にも横にも二倍はあろう巨躯きょくの青年の前に、怯むことなく堂々と立つ。張りつめた緊張感漂うなか、どうするべきかとあたりを見渡すルカの頭をカグラが掴んだ。指先が頭蓋ずがいを粉砕するのではないかと心配するほどの力で引っ張り、全体がよく見渡せる木陰で解放された。

「おめえは見学だ阿呆。基礎体力こそあれど武道は仕込まれてねえだろ」

 古来より、武道は教養のひとつだ。ルカの母は教養として身につけることを望みながらも傷や怪我を恐れた。上達する間もなく周囲の人間の変異のため、部屋に引きこもったので、心得はない。予測できてもなんら不思議ではないが、確信を持った言い方だった。

「――はじめ」

 腹に響くカグラの声が、厳かに告げる。ついルカは、シアの小さな背を見つめた。

 わずかに距離を取りながら、空を切る拳や蹴りが繰り出されている。どこか組手の型を見ているように整然とした動きだ。

「基本は組手だ。それぞれの技の流れは決められているが、技を受けるも流すも反撃するも、自己判断で行う。まずは一対一。それから相手取りを増やしていく。どんな状況にも対応できるように執り行っていく」

 シアはほぼ技を受け流し、跳躍によって躱している。まわりの男性に比べてしなやかで余裕が見える動きは、どこか舞踊のようにも映った。転じて地に足を踏みしめ突きや蹴りを繰り出す。真っ当に渡り合っているのか、手加減されているのかはわかりにくいが、けしてルカにはできない芸当だ。

「あいつらには、たとえ相手が女であろうと真剣に相手取れと指導している。シアは、腕や足の長さの不利を、普通よりも多く動くことによって補っている。それに、跳躍することによって重力を利用し、靴も重しと鉄板が仕込まれている特別性だ。鍛練と工夫をこらしたあいつの拳や蹴りの重さは、あいつらと変わらん」

 首から下げた笛を取り出し、カグラが短く吹くとまたも動きが変わった。今度は一人に対して三人になる。まさかと思い見ると、シアの目の前には三人の青年がいた。体を動かし頬を紅潮させるシアには、笑みがあった。ひらりひらりと舞い、翻弄しながら、重心の低い蹴りで体勢を崩し手刀をいれ、一人また一人と沈めていく。

 そこからは、また一人、また一人と相手が増えていく。だが汗を流しながら、飛翔しながら、シアは水が流れるように自然に動く。

「すごいですね……」

「おう。泰平たいへいに生きる者と、戦場に身を置いた者は、比べるまでもねえ」

 こぼれた感嘆に、カグラは冷えたまなざしで言い放つ。

深く眉間に皺を刻み、感情なく語り出した。

「この国のかつての皇帝は、俺らの故郷へとやってきた。俺らの島の――宝を寄越せと言ったが、それはできなかった。だから、武力をもって報復された。狙われた宝は壊れ、多くの人間が死んだ。それを目の当たりにしたのが当時六歳のシアだ。あいつは血の海で記憶と精神をやられた。それでも、大人の目を盗んで戦場へ赴き、兵士に襲われながら死線を潜り、戦地を取り仕切る将軍に交渉を求めた」

「そんな、いくらなんでも――」

 あまりの話に、ルカは声をあげた。さすがに信じることはできない。ましてや、当時六歳だなんて。ただの子どもにできるわけがない。

「お前は、人を狂わすような子どもだろうが。シアは、人を壊すことができる子どもだったんだよ」

 吐き捨てるようにカグラは言った。視線の先で、手合わせを終え疲労にすわりこむ黒衣の青年たちのなか、シアは笑顔でなにごとか談笑している。

「あいつはいまでこそ、人を抑制することができる。抑制というと聞こえがいいが、もともと人の意志を刈り取り奪うものだ。人の心を落ちつかせるのではなく、乱れた心を奪い、なかったことにしているだけだ。だからシアは人間に対して圧倒的優位に立てる。自分自身を人質として交渉材料として戦争を収めた」

 ふるえる体を両腕で抑えた。淡々とした言葉に、声がでない。アレクセイの言葉が脳裏に何度も反芻はんすうされていく。

「意志を奪われた人間は生きたしかばねも同然となる。シアは脅しとともに交渉した。二度とこんな戦場が生まれないように統治することを皇帝に課した。そして使、この蒼月宮に能力あるもの才あるものを己の傍に貪欲なまでに集めた。先帝も、現皇帝も、シアの能力を全世界に示すことで勢力を拡大した。それが、いまの世だ」

――こんな妙な性質持ってても、いいことなんかほとんどない。なんでかなあ、て思いながら修行してた。なんでわたしがこんな苦しいことをせなあかんねやろって。どうしてわたしにはこんなこわい力があるんやろて。

――泣いてもだれかにすがっても、なにも変わらんかった。自分を変えるのは、自分しかおらへんかったわあ。

――わたしはわたしを生かしてくれている世間様にご恩返しをすることが、わたしのいまのやりたいこと。

 どんな想いで、シアは吐露したのか。これまで生きてきたのだろうか。

「シアは、もう二度と能力で人を制圧することがないよう、能力の制御と武道に打ち込んだ。だからあいつは戦争も、血への恐怖と憎しみから刃物も、み嫌っている。そして自分が生きるために摘み取った命への贖罪しょくざいのため、全国を渡り市民の声を聞き、信仰を広め、安寧の世を願っている」

 きっとシアは、本気で実現しようとしている。なにがなんでも意志を貫きとおすという姿勢が、彼女にはあった。涼しげな面差しの下に秘めた、煮えたぎる鋼鉄の意志がかなしい。それほど思い詰めるほど、傷ついたのだろうか。それではきっと、ルカの想いもアレクセイの想いも、なにもかも燃やし尽くされてしまっても仕方がない。高潔な彼女の意志の前では、あまりにも浅薄せんぱくに思えてしまう。

「――だれも、彼女を守ってはくれなかったんですね」

 つい、恨みがましく呟く。自分を棚上げして。きっといまの自分でさえ、過去のシアを救うことなど到底叶わない。

「そうだな。俺もアグラも無力だった。自分よりずっとちっせえシアが死にもの狂いで走るのを止められなかった。俺はちょうど、おめえぐらいの歳だった。アグラは三つ上だった。俺らもシアが見た地獄を見たが、どうにも動けなかった。だから、俺もシアとともに修行と武道に励みいまに至り、アグラは医者になった」

 怒鳴られることを想定していたが、存外穏やかな様子にルカは驚いた。あまりのしおらしいさまに、天を仰いだ。空は快晴そのもので、かげる気配はない。身ぶり手ぶりで体を動かし、シアは青年たちと真剣な面持ちで話に熱中している。先程よりもずいぶんと顔色がよく、晴れやかだ。大人しそうに見えて、シアはわりあい体育会系らしい。

「シアがしあわせになるために、どうすればいいんでしょうね」

 笑ってカグラを見上げると、汚いものでも見るかのような目で睨まれる。だがあまり嫌な気分にならないのが、彼の不思議なところだ。

「知るかボケ。笑うな気色の悪い。自分で考えろや」

「そうですね。俺も叩きのめされないように頑張ります」

「あぁ?」

 カグラの目の色が変わった。気づいたら、世界が逆さまになっていた。容赦なく腹を足で踏みつけにされ、蹴飛ばしひっくり返した挙句に馬乗り固めをめられる。

「おめえええその記憶洗いざらい検分してやろうかああああ」

「いだだだだだだ」

精霊あいつらとの誓約せいやくさえなければ思う存分やれるのによぉおおお」

 カグラの絶叫に、シアがようやくこちらを見た。だがほほえましげに笑うのみで、救けはない。それに満足したのか、カグラがようやく力をゆるめた。咳き込み、ルカは力尽きて芝生に倒れ込む。

「誓約ってなんですか?」

「おめえらみたいに自分の力じゃねえから不便なんだよ。精霊にも自我がある。力を使うときには条件があんだよ」

 自分の力、と言われてもルカに実感はない。力などというほど、良いものとは到底思えない。人を狂わし、自分を失う忌まわしいものだ。見目を褒められたとして、ルカに利はない。だがこの力があったからこそ、シアと出会い、共にあることができる。

それだけだ。自分が自分らしく意志を持つということは、当然のことだろう。だがルカは、その尊さを、喜びをだれよりも深く胸に抱いている。

とにかく、記憶を読まれないことに安堵した。数々の出来心を彼が知れば、挽肉ひきにくにされてしまうかもしれない。

じっとカグラの黒い瞳がルカを見ていた。そして、思い出したように言った。

「あいつ、死ぬのか?」

 一瞬、なんのことだかわからなかった。目を丸くする。本気で名前を忘れているのか、ぐしゃぐしゃと短髪を掻き乱しながら言葉を絞り出した。

「あの猫婆ねこばばあ――夢を飛ばしたとかいってたが」

 その一言でようやく察することができた。あの美しい女性を猫婆などとは、口が悪いにも程がある。カグラも、彼女のことを知っているらしい。

「ユエルさんですか?」

「ああ、そんな名だったかあいつ。俺、名前覚えんの苦手なんだ。俺んとこの夢にも出たんだ。新兵訓練の名目で陛下を使って俺を呼んだのもあいつだ。この国の大半は、あの婆が支えてるようなもんだ。嫁っていうよか軍師ぐんしに近い」

 出た、などというと妖怪変化の類に思えてしまう。だがその言葉で納得した。シアが戦争を危惧したときに、真っ先に否定できたのはそのためか。

「おまえんとこに行くって言ってたが、来ただろ?」

「はい。なんなら先程、お会いしました」

「後宮に行ったのか? まさか奥まで行ってねえだろうな」

 怪訝な表情で念を押すカグラに、うなずきひとつでこたえる。

「いいか、婆が治める区域はいいが、おめえはけして奥に行くなよ。なんも知らねえメス餓鬼どもがうようよいる。おめえがいけば戦場になりかねん」

 あんまりな言葉に、息を呑む。当初、シアも後宮も刺激になると言っていた。そこに思い至り、ルカはふと浮かんだ疑問を口にした。

「そういえば、シアもそうですがカグラさんも、ずいぶんこの国――蒼月宮のことにお詳しいですよね。後宮のユエルさんとなんて、どういった経緯で面識ができるんです?」

捕虜ほりょだよ。俺ら餓鬼三人、ここで過ごした。本来シアが一人で申し出たが、俺とアグラも志願した。年齢もあって、温情をかけられた。まあ故郷を滅茶苦茶にされて温情も糞もねえが。まあこの宮殿は庭みてえなもんだ」

 カグラの言葉はどこまでも淡々としている。遠くに視線を馳せて、つづけた。

「エリシャばあさんっつう教会の重鎮じゅうちんが後見人だったから、扱いは悪くなかったしな」

 ひとかけらも恨み辛みが見えないのが、不思議だった。彼は恥じることも負い目に感じることもしていない。それは他人のルカからもとてもよくわかった。カグラにとって、それらはただの過去であり、囚われることもなかったことにするでもない。ルカや他者に厳しいだけあって、彼の心もまたしなやかな強さでできている。

自分の歩んだ道とは、とことん規模がちがう。シアの前で、彼らの前で、口が裂けても不幸などという言葉を吐くまいと心に誓う。

「カグラさんは、昔もいまも、俺の憧れです」

 そんなふうに揺るぎなく自分を肯定し、堂々と生きたい。

「うわー、きめえ」

 不味まずいものを吐くかのように、カグラは顔を歪めた。あんまりな仕草に、ルカは苦笑する。だが、あの過去を語ったというのにあっけらかんとした態度は、本当に賞賛すべきことだと感じた。

「おっ、なんだお前たち! 揃いも揃って鍛練か!?」

 千里まで通るような声量の明るい声に、視線が集まる。

「アッくん!」

 シアが嬉しそうに声をあげて、駆け寄っていく。黒衣の集団は衣服を正して整列する。アグラは彼らにむかって片手をあげて、笑顔で首を振った。

 精悍な笑顔は眩しく、白い歯が爽やかに映える。駆け寄るシアを抱きあげて、二人そろってくるくると回った。シアの小柄さも相まって、ただの仲睦まじい父娘にしか見えない。

 つかつかと二人に向かっていき、カグラは破落戸ごろつきのように絡む。

「おいてめえ、会うたびシアを甘やかすな」

 甘いのはあなたもです、という言葉をルカは呑みこんだ。地面に降ろされたシアは、笑いながらもバッサリと言い放つ。

「もうカグちゃんただのやからやん」

「おお、カグラ久しいな!」

 アグラは頭一つぶん背の高いカグラに手を伸ばし、ぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜた。渋い面持ちながら、カグラは黙ってそれを受け入れている。きっとルカがそんなことをした日にはしばきまわされるに違いない。不遜ふそんなカグラのそんな姿を見ることなど、きっと多くはないはずだ。目に焼きつけていると、ぎょろりとした猛禽類もうきんるいを思わせる瞳が、ルカを見据えた。

「てめえ……」

 ぎりぎりと首を絞められる。

「はっはっは仲良しなのだなおまえたち!」

「せやねん。さっきから仲良くお話してはるのよ」

 にこやかなシアとアグラは、けして助けてはくれない。カグラの腕の力は本気に近いものだ。そろそろ意識が遠のきかけた頃合いに、カグラは力をゆるめた。出会ってから何度も技をかけられているが、さすが見極めが巧い。咳き込むルカの背を、近づいたシアが優しく撫でてくれる。

「ところで、アグラくんはいまからどこいくん?」

「なに、先程ハスナ殿より薬草をわけて頂いてな。陛下の往診にむかうところだ!」

 彼女はべろんべろんに酔っていたはずなのに、と疑問に思ったが、ルカは口を噤んだ。溌剌はつらつと宣言するアグラに、のんびりとシアは尋ねる。

「まだなんかお加減悪いん?」

「昔から陛下はお体が弱いからな。いまも時折せることがあるそうだ。おまえはなにも聞いておらんのか?」

「しら~ん」

 ふるふると首を振り、どこ吹く風とシアはそっぽを向いた。笑顔のアグラにがっしと頭を掴まれて固定され、低い声で諭される。

「俺の言葉は忘れてはいまいな? 恩を返すのだぞ?」

 無表情でシアは頷くが、心ここにあらずだ。

 ある種、カグラよりアグラのほうが厳しい。本心を偽り、教会という組織の恩に重きを置くというのはなかなかできることではない。明るく快活にふるまい、翳りを見せぬアグラの姿勢も、ルカが見習うべきものだと思う。

「カグラとシアはどうするのだ?」

 二人は天を仰いだ。雲がかすかに橙がかり、蒼天が朱に染まりつつある。わずかな時間に感じたが、そうでもなかったらしい。カグラは静かに待機していた黒衣の集団を見た。

「俺らはもうあがりにするかな。せっかく王宮に厄介になる。普段なかなか骨休めもできねえからな。思う存分食べて疲れを癒せ。以上、解散!」

「「「アリアッス!」」」

 見事に唱和し、彼らはカグラに向かって一礼した。

 心なしか穏やかな面持ちで、一斉におなじ方向へと歩き出す。それを見送り、カグラはシアを見下ろした。彼女は両手で自分の頬を包みこみ考え込む。

「んー、ほんまはまた巡回行きたかったけど、今日はもうやめとこかな」

 ね、とルカに問いかけた。もとより異存はなく、微笑んでうなずくと、シアもやわらかく笑った。年齢に似つかわしい、もしくはずっと幼い笑顔をうかべる彼女は清らかだ。

「お部屋に戻って、ちょっとゆっくりしよか。いろんなひとに会って、疲れてへん?」

 シアがするりとルカの手をとり、見上げてくる。いつでも、シアはいちばんにルカを気遣ってくれる。それがなによりも嬉しくて幸せなことだ。多少の精神的な疲れなど、取るに足らないことだと首を振る。穏やかにシアと過ごせる時間に、ほっとした。

 面白くなさそうにきびすを返したカグラと、微笑ましげに笑うアグラ、シアとルカが並んで別々に歩みだしたそのときに、前方から駆けて来る者がいた。


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