四章

白くけぶる部屋から、厳かにだれかが出てくる。人々はみな頭を垂れてそれを待つ。

 出てきたのは、三つほどの女児。はだは透けるように白く、頬と唇は瑞々みずみずしくあかい。澄んだ黒曜石こくようせきの瞳は、子どもらしからぬ落ちつきが備わり、腰元では黒髪がたゆたう。白い衣に身を包んだ少女は、ゆったりと笑みをうかべる。

 彼女の前に、やつれた壮年の夫婦が進み出る。その夫婦の陰に隠れるように、目を真っ赤にはらした美しい少女がいた。涙に濡れた瞳は、怯えたようにまつ毛をふるわす。

 夫婦は少女を残して、人の波に消えた。身を抱いてふるえる少女に、白衣の子どもが静かに近づく。顔面を蒼白にして、少女は金髪を振り乱して泣き叫んだ。

 白衣の子どもは爪先立ち、いつくしむように両腕で少女の頭を抱きしめる。暴れる少女をあやすように優しく頭を撫でていくと、しだいに少女は腕のなかで大人しくなった。白衣の子どもが腕をほどくと、少女は地面に崩れ落ちそれを先程の夫婦が抱きとめる。目に涙をうかべて彼らは笑い、子どもに手をあわせた。彼女は鷹揚おうように首を振り、夫婦それぞれの手を小さな手で握りしめたあと、慈愛に満ちた笑みをうかべてきびすを返す。

 


 大気は冷えているのに、体中が汗に濡れていた。あたりは暗く、静かだった。見慣れない天井も壁も緻密ちみつな意匠を凝らした美しいものであるはずなのに、いやに空虚に感じられる。姿を確認すると、幾分か気持ちが落ちついてきた。

 生々しい夢だった。まるで現実にあったことを思い起こしたかのような、奇妙な感覚に手がふるえる。しかし、夢のなかの建物も人々もまとう衣服も、ルカの記憶にはないものばかりだった。三つほどの幼い子どもからは、およそ人間の子どもに非ざる圧迫感と存在感が放たれていた。そして周囲の人間も、明らかに畏怖いふと尊敬の念を向けていた。けれど、あの泣き叫ぶ少女の顔が、頭から離れない。あの少女は一体どうなったのか。あれは一体なにをしていたのか。

――わらわができるのは、夢を与えることだけ。

 先日見た夢で聞こえた声がよみがえる。足元から全身に怖気(おぞけ)が走った。

 あれは、とりとめのない夢ではないのか。でも、体の奥底が、意志ではない本能が、現実だと訴えかける。

 その声は、もうすぐ死ぬ、と言った。ということは、いまはどこかで生きている。だが、死期を確信し、ルカに懇願した。だれかに安寧を与え、しがらみから解放してほしいと。不明なことばかりだが、なぜか逃げられない気がした。

 だが、一体なにができるのだろうか。いまのルカは、シアという存在なしに一人で行動することは困難だ。いくら多少制御できるようになったといっても、最終的にいつもシアが後始末をしている。彼女がいなくては、きっとまた自分は自分を見失い、人を狂わしてしまう。その恐怖は、三年経ったいまも鮮明に骨のずいまで刻まれている。また人目を避け、関わりを絶ち、耳をふさぎもの言わぬ書物と対話し、役に立たぬ外界の知識だけを満たし、絶望する日々には、もう戻りたくない。

 安寧も得られず、しがらみにいまも縛られているのは自分自身だ。

 息がうまく吸えず、肺腑はいふまで行き届かない。視界がくらみ、ふるえる体を自ら掻き抱く。

 こんなにも、ルカは弱くみじめだ。

 思うより先に、体は救いを求めてシアのもとへ這ってゆく。枕元に投げ出された、彼女の手を重ねた。なめらかな皮膚のてのひらはあたたかい。ルカの肉がげ筋張った手のひらよりも小さくやわらかく、あまりにも異なる。

 ただふれたそれだけなのに、呼吸が楽になった。いつもふしぎなほどに心が休まり穏やかになっていく。

 心を抑制する力がシアにあるのか、シアだから心を抑制できるのか。彼女も、かつては苦しんできたのだろうか。ルカのように自分の性質にさいなまれ、葛藤かっとうしていたのだろうか。

 シアに目覚める気配はない。無防備に眠る姿を見るのは、三年前以来はじめてだ。いつもルカよりも早く目覚めて支度を終えているため、寝顔を見ることは滅多にない。このうえなく安らかでしあわせそうな表情に、ついルカに笑みがこぼれた。本当に心地よさそうだ。もともとシアは、年齢より上に見られるルカよりかなり童顔なため、眠っているとそれがよりいっそう際立つ。

 容姿に違わぬ膚は、月光を弾くように白くきめ細かだ。同じものを食べておなじように過ごしているというのに、ルカとなにがどう違うのだろうか。寝具から覗く首の細さや華奢な肩のなだらかさは、どう見ても女性のもの。なんとなく見てはいけないような気がして、掛布をかけて視界から隠した。

 あたたかな手と、健やかな寝顔だけがそこにある。すぐ触れられる場所にそれがあるのが、この上なく幸福なことに思えた。シアの寝台に掛布をかぶってすわりこみ、ずっとずっと眺め続ける。室内がうっすら輪郭をあらわす。そろそろ夜明けだろうか。しかし、手のひらから伝わるぬくもりに、とろりと睡魔が訪れる。



「おい」

 小突かれてまぶたを持ち上げた。

部屋中はすっかり明るく、掛布の白に反射された光りが寝惚けた目を刺す。目をこすり、あたりを見渡す。またひとつ、見慣れないものが増えている。

彫像のように端整な風貌ふうぼうの青年が、ルカの隣に坐りじっと寝台を見つめていた。涼しげな瞳と針のようにまっすぐな髪は深い藍。豪奢ごうしゃな衣服は髪と瞳よりも鮮やかな蒼をしており、腰にはさやに収まった剣をいている。大儀そうに足を組み、厳しい面持ちで一点を見つめる姿は一枚の絵画のようだ。

「おまえ、男か?えらく美人だな」

 失礼な物言いに、ルカは表情が強張る。すると、存外やわらかく男は微笑む。

「そう凄むな。冗談だ。私はアレクセイだ。おまえは名をなんと言う」

「ルカです。あなたは一体? どうしてここに?」

「皇帝だ。しかしかしこまる必要はない。当然、シアに会いに来た」

 さらりと告白され、ルカが知る限りの礼をとろうとしたが、手で制される。

 これが、噂の皇帝。鋭利なまなざしや衣服、堂々たる存在感は、皇帝であるなら納得だ。しかし、シアにあれだけ邪険にされ、ボロカスに言わしめた皇帝である。よく関わりもせずに噂だけで判断するのは如何なものかとは思うが、つい警戒してしまう。

「当然とは?」

 ずいとアレクセイが顔を近づける。初対面とは思えぬ距離間に、ルカは苦笑をうかべたまま身をひいた。

「三年も放置された挙句、迎えまで寄越したというのに逃げるわごねるわ、やっとわが宮殿にきたかと思えばニコライを丸めこみ挨拶にもこない。せめて逃げる前に捕まえてやろうと早朝に来たまでだ」

 経緯を聞くと、シアの行動もなかなかにひどい。密かに同情するルカに、アレクセイは挑戦的に笑った。

「部屋に入れば、仲良くお手手繋いで添い寝を見せつけられるとは思わなかった。厄介な病を抱えた同行者がいるとは報告をうけていたが、男とはな」

 いろいろと事情があったうえでのこの体勢であるが、非常に説明しづらい。そもそも手を繋ぐ所以を、勝手にルカが事情を話してよいものなのか。

「まあいい。それにしても、よく寝ている。珍しいものだ。あれほど人の気配に敏感なやつが、人前でこうも無防備に眠っているのをはじめて見た。それに……」

 勝手に納得したかと思えば、おもむろにシアの掛布をめくる。なにをするのかと目をくルカを尻目にしげしげと眺めたあと、元に戻した。一体なにがしたかったのかと怪訝なまなざしで見ていると、感心したように頷きだす。

「餓鬼が女になっている。三年もすれば変わるものだな」

 なにを指してそう言っているのかは理解したくないが、アレクセイが失礼なことはわかった。シアも時折率直すぎて失礼なことを言うことがあるが、方向性がまったくちがう。アレクセイが喋れば喋るほど不信感が募る。そして追い打ちをかけるように言った。

「おまえの女になったか」

「違います」

 断言し、シアが邪険にする理由がわかった気がした。そしてルカ自身、アレクセイという人間を好ましく思えない。

「だが、おまえは好いているだろう」

 図星を突かれ、押し黙る。絶妙にルカの神経を逆なでしていく。そこでようやく、マリアを毛嫌いし、めずらしくも感情的になっていたシアの気持ちがわかる気がした。けれどルカとアレクセイは初対面。ましてや相手は大国の皇帝だ。努めて冷静さを意識しながらシアの手を握り、深く息を吸って首を振った。

「シアは、俺の恩人です。けして嫌いになることはありませんが、そういった疚しい目では見ていません。シアを助けて、恩を返したいとは思っています」

 言うと、アレクセイは低く笑う。

「恋情のなにがやましい。恋情なくして世は繋がらない。おまえも私も恋情によって世に誕生している。私はシアが欲しい。恥じることも罪に思うことも、ひとつとしてない」

 清々しいまでに言い切るその姿には、傲慢ごうまんさともとれる自信がみなぎる。ただそれを裏打ちするように、その言葉は理路整然りろせいぜんとしていた。ルカはなにも言えない。ただ、胸の内をいやな感情が這うのを感じた。その感情が何者かであるかはわからないが、あまり綺麗なものではないことはわかった。

 早く会話を終え、この部屋から立ち去ってほしい。そう願うのに、アレクセイは次々と言葉を吐いていく。

「だがひとつ忠告してやろう。どこまでシアを知っているか知らんが、あれは世に持て囃されるようにお綺麗な聖女ではない。虫も殺さぬ小動物のような顔で、かつてなにをしたのか、人生をかけて人に尽くすことに死にもの狂いになっているか、おまえは知るまい」

 酷薄こくはくな響きの声が、ルカに刺さるようだった。それらはルカが、疑問に思っていたことばかりで、否定したいのにうまくできない。それでも一矢報いたくて、喉奥から必死に言葉を紡ぎだす。

「………あなたは、知っていてなおシアを好きなのですか」

「好きなどという生温いものではない。血塗られようと罪にまみれようと、シアの価値に比べればとるに足らぬもの。手に入れるためなら、多少の自由も与えるし不敬も赦す。それで我がものとなるのであれば、なんでもする」

 言葉のひとつひとつが、かんに障る。不穏な言葉の羅列られつが、どうあってもシアと結びつかない。それなのになぜか、胸が騒ぐ。物言いすべてがあまりにも不遜で、つい感情的になりそうになった。

「手に入れるだの、与えるだの――シアを物のように言われますね」

「気に入らんなら、そう言うといい。正直な人間の方が好ましい」

 けしてアレクセイに好かれたいわけではないが、無神経なまでに率直な彼の前で、気を遣い取り繕うことが莫迦らしく思えてしまう。鬱陶しい髪をかきあげてまっすぐにアレクセイを見据える。ふつふつと胸の奥が煮えたぎるように、感情が沸き立つ。

 アレクセイこそ、シアのなにを知っているのか。この五年間だれよりも近くで彼女を見てきたのは、ルカだ。そして人のためにと献身することの、なにが悪いのか。どんな理由があろうと、それで救われた人間がいるのなら、それは価値のあることのはずだ。少なくとも、ルカは理由なんてどうでもよかった。

「そうですね。俺は、あなたが気に入りません。それに、どんな過去があろうと、シアから受けた恩はけして消えないものです」

 言ったあとに、ふと夢の残滓ざんしが脳裏を過ぎる。

人々からあがめられる幼女と、腕の中の少女。幼女の腕から解放された少女が、ごとんと地面に崩れ落ち、血を流し息絶える。物言わぬ空虚な瞳がこちらを見据える。

 必死にその映像を振り払い、けしてアレクセイから目を離さない。いまのはただのまぼろしだ。それにあの夢とシアは関係ない。ルカの視線をうけとめ、わずかに瞳が揺れる。喉奥で、ほんのかすかに笑ったような息を詰まらせたような音とともに、アレクセイはつまらなさそうに吐き捨てた。

「……よくしつけられているな」

 これ以上話をする気にならなかった。

 アレクセイは、ルカの知らないシアの過去を知るのだろう。どれほどの関係があったのか、その過去とはなにか、気にならないわけではない。それ以上に、彼の言葉ひとつひとつが不愉快だ。だが、きっとアレクセイとてルカを快く思ってはいないだろう。それがなぜかはわからない。知ったところで、ルカに彼との関係を改善したり歩み寄ったりすることはきっとないだろう。

 く、と服の袖を引かれた。

 迷子のように不安げで、白い顔をさらに蒼白にしたシアがルカの手を握る。いつの間にか、手を離してしまっていたらしい。濃いまつ毛が落とす影が、わすかにふるえているような気がした。こぼれそうなほど見開いた瞳に、ルカの顔がうつっている。自らの形相に、背が冷えた。寝起きでやや舌足らずな声が、ためらいがちに尋ねてきた。

「なんでそんなこわい顔しとるの? なにかあったん?」

「……ごめん、シア」

 急速に頭が冷えていく。そこで、冷静さを欠いていたことに気づいた。これまでシアが懸命に教えてくれていたことを、無下にしてしまったようで申し訳ない気持ちになる。そっとシアの目尻にふれる。不思議そうに首をかしげて、優しい声で問いかける。

「どしたん? 謝らんでいいから、教えて」

「泣かしてしまったかと思って」

 黒目がちな瞳が、驚きに見開かれる。

「なんで? わたし、泣かへんよ。ルカくんが、いつもにこにこ優しい顔してるのに、こわい顔しててびっくりしたから――あ」

 そこでようやく、シアはアレクセイに気づいたようだった。目があうと、とたんにシアはいつもの涼しげな仮面をかぶる。眉ひとつ動かさないまま、無機質な声で言った。

「おはようございます。ご無沙汰しております、陛下。なぜ、こちらに?」

 アレクセイがシアに手を伸ばす。しかし、澄ました顔でかわされる。シアに他意はないだろうが、それを見てルカはつい――うすら暗い優越感を抱いてしまった。ちらりとシアがこちらを見たような気がした。

わずかに苦笑しながら、アレクセイは口をひらいた。

「……私に触れられるのは嫌か。早くおまえに会いたくて、ここに来たというのに」

「嫌じゃなくて苦手なだけです。あなただけじゃなくて、だいたいみんなそうです。ルカくんは、事情があるので触れています。そんな急がなくても、ゆくゆくは会いに行きます」

 淡々とシアは訂正する。皇帝に対しても、シアは平素と変わらぬ態度だ。

「他人行儀なしゃべり方をするなと何度言えばわかる」

 言葉こそ命令のようだが、先程よりも幾分かアレクセイの表情がやわらかい。その口調に、シアは困ったように眉尻を下げた。それは不愉快というより、困った子どもを見る母親のような表情に似ている。

「その口調。わたしもひとのことは言えませんが、その高圧的な態度と嫌味な言い方を治したほうがいいです。大方、ルカくんがこわい顔していたのも陛下のせいでしょう」

 大当たりだ。アレクセイは、憮然と口を噤む。シアはため息をひとつついて、ルカの手をひいた。

「神経質で繊細な性格をこじらせて、素直にしゃべられへんの。我がままなんは素やけど、本心以上に嫌な言い方してまう損な性格しとるの。嫌なこと言うのに変わらんから、ゆるさんでもええけど、思いのほか小心者やし意外と悪いひとでもないのよ」

 弁明しているのか貶しているのかわからない。だがシアの言葉添えがあったとしても、なかったことにできない。アレクセイの言葉のひとつひとつが胸に重く沈んでいる。自分はもうすこし寛容であると思っていたが、そうではなかったらしい。彼を見ると、なぜかすこし照れくさそうにしている。その心象が読めない。

「弁明するなら、もうすこしちゃんとしろ」

「事実を述べただけです。不器用ですからなんて通用しませんよ」

 すこし嬉しそうに言ったアレクセイに、シアは辛辣しんらつだった。だが、彼は気を悪くしたふうでもない。シアはそれを知ってか知らずか、まっすぐに出入り口を指差した。ルカもアレクセイも、思わず目で追った。

「早く出ていただけませんか? わたし、支度して行きたいところがありますので」

「私か。支度するならそやつも退室しなくてはならないだろう」

「彼は信頼しているので問題ありません」

 きっぱりと言い切るシアに、アレクセイは不本意そうだ。またしてもうすら暗い優越感が忍び寄る。

「私は信頼できないということか」

 沈んだ口調のアレクセイに、シアは首を振る。あわい銀色の瞳は凪いだ湖面のように透きとおり、意志が窺えない。感情が見えないのに、まなざしは強くアレクセイを見据える。射抜かれたように動かない彼に、シアはやわらかな声音で言った。

「あなたはなにもわかっていない。五年ものあいだ、なにも変わっていないみたいですね。なにかを相手に求めるには、あなたも相手に応えなくてはならない。わたしは、ずっと待っています。わたしはこれまで約束を果たし、力を尽くしてきました。そしてこれからも、約束は守ります。ですがあれから、わたしの願いは叶えてくれましたか?」

 問いかける声は穏やかだが、アレクセイを見据える瞳は鋭く、見定めるようだ。アレクセイは視線を受け止め、まっすぐに見つめ返す。ただ、彼の瞳にも揺らぎはなかった。緊張感漂う沈黙が、息苦しい。きっとルカなら、視線を逸らしてしますだろう。朝靄のような静けさをたたえるシアのまなざしに対し、アレクセイのそれは情熱あふれる意志がうかがえるようだ。

「支援して頂いている身です。感謝はあります。嫌いだとか信頼できないとかじゃありません。あなたのその意志の強さは尊敬に値します。ですがわたしは、約束すら守れないひとに心を開くことはできません。また夕方に伺いますので、いまは退室してください」

「いつもおまえは、私に酷なことばかり言うな。また夕刻に、待っているぞ」

 寂しげに笑い、アレクセイはようやく立ちあがり部屋を出た。シアは猫のように伸びをして、布団に寝そべる。

「ああびっくりした。つい寝心地よくて寝過ごしちゃった。ごめんね、あのひと常識ってものがなくて。陛下と、なんにもなかった?」

 小首をかしげるシアは、いつもの穏やかさを取り戻していた。

 嫌なこと、といえば嫌なことだが、シアに言ってもよいものか。アレクセイの言葉は呪いのように重く圧し掛かる。そしてシアとアレクセイが交わした暗号のような言葉の数々が小さな棘のように気にかかる。だが、シアを問いただすには躊躇いが勝った。思い出すと、また顔が強張りそうになる。ルカは安心させるように笑って、首を振った。できる限り、シアに心配をかけたくない。

「いえ。俺が、嫌な夢を見てしまって。その」

 嘘は吐いていないが、うまく誤魔化すことはできなかった。シアはなにも言わないが、曇りないまなざしに責められているようで辛い。

 なにも言わず、シアはそっとルカの頭を抱きしめた。子どもにするように、何度か背を撫ぜる。あたたかさとやわらかさに包まれて、ささくれだった気持ちが鎮められ、暗い靄が晴れていくようだ。触られるのが苦手だというが、こうして触れてくれることもある。出会ったころは、医療行為のようなものだと言っていた。いつもルカの様子から的確なさじ加減で心を鎮めて癒してくれる。

 なぜ触れられるのが苦手なのに、触れて癒されるということを理解しているのか。心を読んだかのように的確に触れることができるのか、よくよく考えるといくつかの矛盾を感じた。

 つい悪戯心いたずらごころで、ルカも膝立ちになるシアの腰に腕を伸ばす。

「うひゃっ」

「だっ」

 気抜けた声をあげてシアはのけぞり、そのつぎの瞬間ルカの額に強烈な頭突きを見舞った。脳震盪のうしんとうを疑いたくなるような激痛に悶え、ルカは寝台に沈んだ。

「なにをするんよもう。ちょっと悪意あったやろ。ほんまそういうのあかんよ」

 痛みに対しては無反応であるが、かなり驚いたらしい。いつもは心が読めるのかと疑いたくなるほど勘がいいのに、先程は気づかなかったようだ。

 やっとのことで体を起こし患部に触れると、わずかに腫れている。シアを見ると、目立った外傷はない。彼女はルカの額を見て、口元を押さえ黙りこむ。荷物から手巾を取り出して、水場へ行き固く絞ったものを、熱をもった患部にあててくれた。ひんやりとした冷たさが心地よい。ばつが悪そうにシアは謝る。

「ごめんね。でも、さわるの苦手ってゆうてるでしょ」

「こちらこそ、すみません。そこまで驚くとは思わなくて」

 シアは気にするなというように首を横に振ったあと、明後日の方向をみて首を傾げて黙りこむ。あの頭突きには参ったが、そもそも悪戯心を起こしたルカが悪い。だがいよいよ、気になったことがある。

「シアは、触られるのが苦手なんですよね」

「せやね」

「でも、いつも頃合いに抱きしめてくれるのは、どうしてなんですか?」

 頬に手を添え、また首を傾ける。可愛らしい仕草に和みそうになるが、シアの面持ちは真剣そのものだ。しばらく吟味するように思案し、端的にこたえた。

「野生の勘と、それに関しての師匠がおるよ」

 勘はまあ、わからないでもない。だが、師匠とは一体どういうことか。

 戸惑うルカに、シアは尋ねた。

「いっしょいく?」

「は?」

 あまりの脈絡のなさに間の抜けた声が出てしまう。

「わたしにそういうことを教えてくれたひとがおるんやけど、会う?」

「会えるんですか」

 まさかそんな提案をしてくれるとは思わなかった。こともなげにうなずいて、シアはふわりと笑う。散歩に出かけるような気軽さでつづけた。

「もともとわたしだけ行こか思ってたんよ。ルカくんにはこの部屋おってもらって。でもまた陛下に襲撃されても可哀想やし、社会勉強にもなるし、いこっか」

 世間に疎いルカにとって、外界はすべて社会勉強といっていい。書物による知識とはまた異なる、生きた情報を得られるのは嬉しいことだ。

「いいんですか? ぜひ、行きたいです。どこに行くのですか?」

「ここの後宮」

 


 ルカは、後宮という存在をよく知らない。実家の豊富な蔵書のなかで、ちらりとその存在を知った。辞書を引いて、意味を知る。後宮とは、皇帝や王などの后妃が住まう場所だというらしい。それなりの高貴な身分の女性がいるのだろう。だが、そんな場所にはたして自分が足を踏み入れていいものなのだろうか。なにより、どうしてシアが後宮の女性と面識があるのかが気になるが、ついていけばなにかわかるかもしれない。

 白と蒼で統一された宮殿の渡り殿を二人並んで歩く。広々とした中庭には、天を臨むとうに咲く木蓮が彩りを添えている。清しい風が心地よく吹き、先をゆくシアの髪を揺らす。それとともに爽やかな香りがたつ。

「きれいやねえ」

 シアは愛おしそうにその景色を眺める。穏やかなそのさまに、ルカまで笑顔になる。ふと実家にいたころのことを思い出し、ルカはとなりに並ぶ。

「木蓮は、人間が生まれる前から変わらぬ姿で存在する花だそうですね。花言葉は自然への愛、崇高、持続性……。母が好きで、家の庭に植えてありました」

「そっかあ。よお知ってるねえ。アグラくんが、木蓮の蕾は方角も見られるし、頭痛とか鼻炎に効く薬にもなるから、実用性を兼ねたいい庭やゆうて、褒めてたなあ。それに、役に立つだけやなくていいにおいするし、わたしも木蓮すきなんよ」

「へえ……。アグラさんは、博学なのですね」

 思いもよらない情報に驚いていると、シアは誇らしげに胸を張った。

「だって、教会一のお医者さまやからね。体術もすごいし頭も賢いし、アッくんはすごいのよ」

 豪快な印象が強いだけに意外な事実だった。だがシアの時折見せる知識が彼から与えられたものであると言われれば納得できる。ふと素朴な疑問が首をもたげ、シアに尋ねる。

「シアとアグラさん、カグラさんは一体どういうご関係なのですか?」

「んー、アッくんとカグちゃんは親戚。わたしにとって二人は、教会でよく面倒みてくれるお兄さんとか先生みたいな存在かな。すごくお世話になってる恩人よ」

 笑うと一層、シアは幼く見える。いつもの毅然とした涼しげな表情もいいが、本当にやわらかな表情をするようになったと感慨深くなる。初めて声をあげて笑うシアを見たときのカグラの表情が、ルカはいまも忘れられない。

「人生のお手本で、憧れやね」

 はにかむ顔を隠すように前を向き、シアはふたたび歩き出す。

 もう充分にシアは彼らに近づいているだろう。ルカにとってのシアは、そういう存在だ。

 手を引かれながら歩き出すと、木蓮の香を打ち消すような濃く清しい香りが漂う。奥深い甘さと爽やかさがまじりあっている。嗅ぎなれないが、どこか懐かしさを感じる。不思議と不快感はなく、どこか心が穏やかになっていくようだ。

やがて碧く塗られた門があらわれる。等間隔に連なるように三つ並び、ひとつは鳥の意匠が、もうひとつは蝶の意匠が、最後は煌びやかな花の意匠が施されている。あたりには絢爛けんらんな花々が生けられており、まるで天女が住まう異界へつづく道のように思えた。シアはやはり堂々と進んでいく。

「この白檀びゃくだんのにおいもすき。落ちつくなあ」

「ビャクダンって、なんですか?」

香木こうぼくよ。浄化作用が強いから、よく教会でもくお香やの。免疫力とか自然治癒力を高めてくれるの。わたしの知り合いのひとが体弱いから、いつも焚いてはる」

「においに、そんな効能もあるんですね」

 驚くルカに、シアはすこし渋面になる。

「そうよ。薬草も香木も香草も、たかが植物やいう人もおるけど、使い方によっては人間におっきい影響を与えるものになるん。やから、マリアは調香師として教会で重宝されてる。気に食わんけど、ほんまにすごいん」

 悔しそうな姿に、ルカは苦笑した。

 四阿あずまやのような住居が点在する様は、ひとつの集落のようにも見える。それらを取り囲む外壁は、宮殿のそれよりも遥かに高くそびえている。茨のように絡みついた鉄格子はが、華やかなこの場において異質なまでにそぐわない。大国の妃たちを守るために致し方ないのだろうが、すこしばかり物々しい雰囲気を醸し出す。

 じっとルカを見上げるシアの茫洋とした瞳からは、感情が読み取れない。

「まるで牢獄ろうごくみたいやわ。これは警備やないんよ、人を逃がさないようにする、檻やわ。いくら昔からの慣習やからって、やめたらええのに」

 吐き出された言葉には、静かな憤りがあった。あどけない容姿に似つかわしくない剣呑なつぶやきに、ルカはどうこたえればよいかわからず苦く笑う。

 すると、こらえきれないといったように高らかな笑い声が起こった。

「あっはっはっは。おぬしは、まあだそのようなことをいうておるかえ?」

 よく通る声とともに、門の奥にある扉が軋みながら開かれた。

 あらわれたのは、絢爛な衣服をまとった世にも美しい女性たち。

 繊細な色遣いの衣が何枚も重ねられた独特の衣服は、花びらのように彼女たちの肢体を包む。豊かな髪は各々結い上げられ、宝玉が散りばめられた髪飾りや耳飾りが光りを弾いてきらめいている。皇帝の后妃が立ち並ぶさまを見られる日が来るとは夢にも思っていなかった。ただの后妃ではなく、世界屈指の大国を統べる皇帝の后妃であると一目で納得できるほどの華々しさに、ルカは声を失った。

「………お久しぶり、ユエルちゃん。何回でもいうよ。納得できらへんもん」

 心なしかシアは憮然としている。

 中央に立つ一段と華のある人物がゆったりと近づいてきた。

 淡い金髪は高く一つで結い上げ、色とりどりの蝶の歩揺ほようが華奢な首元でゆらめく。意志の強そうな明るい朱暁あけあかつきの双眸が、笑みに細められた。なんでもない仕草だというのに、つい目をく。

「そう言うでない。わらわは、一途で可愛いらしいと思うがのう。涙を誘うほどに健気なことよ。一体なにが気にいらんのじゃ。言うてみ?」

 すいとたおやかな指先がシアの顎先を持ち上げる。

 マリアのもつ蠱惑的な魅力とはまた異なる、陽の下で燦然さんぜんと輝くような魅力が、彼女にはある。吸いこまれそうなまなざしに見つめられているというのに、シアはやはりまっすぐに見つめ返し、つんと端的にこたえた。

「ぜんぶ」

 だがユエルは気分を悪くするどころか上機嫌だ。また高く笑い、シアの頬を包みこむ。

相容あいいれぬのぉ、おぬしら。ともあれ息災そくさいであったのは良きことじゃ。文のひとつも寄越さぬとは寂しいものよ。変わりないか?」

「ごめんなさい。みなさんもお元気?」

 素直にシアは謝り、ユエルの周囲にいる女性を見渡す。彼女らは優雅な笑みでこたえ、シアもほっとしたように微笑む。

 ルカがふと視線を感じ、その先に顔をむけるとユエルと目があった。すこし笑まれただけで、妙な緊張と気恥ずかしさに目をそらしてしまう。

 彼女はまた笑った。気持ちのいいほどによく笑う。それでいて嫌味がない。

「いや申し遅れたお客人。わらわはこの後宮を取り纏めておるユエルじゃ。シアとは旧知の仲での。友のように親しく娘のように可愛がっておる。どうぞよしなに」

 芝居がかった口調と優雅な一礼に、物語のなかに紛れ込んだように錯覚してしまう。動作のひとつひとつが美しく、洗練されている。

「こちらこそ、申し遅れました。ルカと申します」

「見目に似合うよい名じゃの。古巣に帰ったような心地ですごすとよい。積もる話はさておき、奥へ。ハスナが久しぶりに腕を奮ってくれておるのでな」

 気さくに笑い、ユエルは歩き出す。軽やかな裳裾がゆれるさますら綺麗だった。それにならって、ほかの后妃たちも奥へと進む。

 壁には、液体で満たされた硝子がらすの筒が並んでいる。綺麗に色別で分けられた花々が、幻想的にうかんでいた。花瓶に生けるのではなく、このような趣向で飾るのを見たのははじめてだった。野に咲く親しみのある種類から、見たこともない大きな花弁をもつ種類まで、大小さまざまな花々があり、目を楽しませてくれる。ご丁寧にそれぞれの瓶の隣には花の名が記されていた。

「おや少年、お目が高い」

 つい目を奪われていると、背後から声がした。

 涼しい目元が印象的な美女が、艶のある笑みをうかべている。形良い唇がうすく開かれたかと思えば、怒涛どとうの勢いで語り出した。

「これは私の素敵な蒐集品コレクションたちさ。世界各国にある草花を薬学的に価値のあるものから毒草、見目の美しさを愛でるものまでをその美を永遠に近しくするこれまた私自ら開発を重ねた保存用油に付け込んだ標本なんだよ。この溶液ができあがるまでなんと十年もの歳月を費やしたがこれのおかげでこの壁には草花の世界が詰め込まれていると言っても過言ではなくてねなかなか来客のない後宮だがだれでも興味をもてるように種類と名を明記し親しめるように配慮したんだけど正解だったみたいだね」

 言い切り、彼女は満足げに肩で息をする。息継ぎすら感じさせない早口の言葉は、大半なにを言っているのか聞き取れなかった。美女の呼吸は荒く、爛々と瞳は輝いている。傍目からも興奮状態にあることがわかった。大きく息を吸いこみ、口を開きかけた美女をシアがやんわりと制した。

「ミファちゃん……」                            

「またかえ、そやつは植物オタクでの。捕まると話が長くて敵わんのじゃ」

 遠くでころころとユエルが笑い、ミファと呼ばれた女性は恥ずかしそうに目を伏せた。仕草は淑女そのものだ。

「でも、植物の知識はすごいんよ。ここでも研究施設と専用の畑を持っていて、一日のほとんど研究してはる。植物のことはミファちゃんに訊いたらまず間違いないんよ」

「すごい方なんですね」

 ルカは感嘆の声をあげた。目の覚めるような美人なのに、口から溢れ出る知識は後宮という場所にそぐわない専門性に満ちている。植物を育てる婦人は多く存在するだろうが、それを標本として飾る女性はなかなか存在しない。そのうえ栽培ではなく研究するとは、どれほど明晰な頭脳を持っているのだろうか。

回廊を抜けた先には、日の光りがたっぷりと注ぐ広間があった。吹き抜けの天井は硝子張りになっており、周囲を埋めつくように植えられた木々や草花が窺える。まるで温室のようにあたたかな室内すら、植物で充たされている。清涼な香りとあいまって、どこか森の奥深くにいるような心地がした。

「ちなみにこの周囲に植えているのが桃の木で、これは成長が早く寒さに強いから素人にも薦めたい樹木のひとつでご存じのとおり実は果物として市場にも流通しているうえに花も美しく魔除けになるともいわれている。それになにより花も種も薬になる捨てるところのないすばらしいものなのだ」

「そうよ桃は薬としても捨てるところのないすばらしい素材なの!」

 いきいきと話すミファの横から、勢いよく女性が割り込んでくる。豊かな赤毛が印象的な小柄な彼女は、鼻息荒く話し出す。

「種は桃仁とうにんといって消炎鎮痛剤としても使えるし婦人病にも効く薬の材料となるし白桃花は利尿や便秘に効くの!」

 息を継ぎ、さらに続けようとする女性をシアは穏やかに制した。並び立つ女性二人は照れたように顔を見合わせ、肩をすくめる。

「こちらは、キサちゃん。ミファちゃんが植物育てて、それを薬にしてくれるのが彼女なんよ。薬学に詳しくて、アグラくんが使う薬は大抵キサちゃんが用意してくれてるし、わたしも薬の煎じ方を教わったり薬自体を分けてもらったり、すごくお世話になってる」

「いいのいいの。薬を煎じているときがいちばん好きなの。研究こそ私の恋人だから、毎日楽しくて楽しくて仕方ないの!」

 薬について話をしているとは思えないほどの華やかな笑みだ。

「これこれおぬしらもうすこし待たぬか。おぬしらの長話を聞いておっては日が暮れてしまうじゃろうが。話はあとでゆっくり聞いてもらうがよい。のう?」

 ユエルは甘く囁きながら、シアの耳元をくすぐるように両頬を包みこむ。くすぐったそうに身をよじり、シアは笑いながらうなずいた。

「せやね。そのつもり」

「ではまずはハスナの心尽くしのもてなしからじゃの」

室内の中央には巨大な円卓が点在し、趣味よく季節の花が生けられていた。その周りには所狭しと豪華な食事が並べられている。陽をうけた食べ物たちはつややかに輝きを放っていた。いちばん奥にすわるようにすすめられ、シアとともに席についた。后妃たちも楚々とそれに倣い、シアの隣に腰掛けたユエルが合掌する。

「ささ。冷めぬうちにみなでいただこう」

 シアが周囲を見渡し、小首をかしげた。よく見ると空いた席がちらほらと見受けられる。

「あらあらまあまあ、お待たせしてしまったわね」

 おっとりとした声音と数人の足音とともに、白い割烹着をまとうふくよかな女性が現われた。迷いなくシアのもとへとやってきて、満面の笑みを浮かべて頬にふれた。嫌がることなくシアはそれを受け入れ、ふわりと笑う。

「わたくしの可愛い小鳥さん。会いたかったわあ」

「大儀であったのうハスナ。もう皆待ちきれぬわ。挨拶はあとにしてくれるかの」

「あらあらごめんなさいねえ、お待たせ。みなさん」

 ハスナと呼ばれた女性はルカの隣の席に腰を下ろし、合掌する。

とたん水を打ったかのような静寂に、ルカは息をのむ。食事前とは思えない張りつめたような空気が、一瞬にしてつくりあげられていた。あたりを見ると、みな合掌の姿勢のまま目を瞑っている。シアも静かに目を伏せ、黙していた。目を瞑っていると、彼女のまつ毛の濃さや長さがよりいっそう際立ち、神秘的な雰囲気が増す。つい見惚れそうになるのを、強引にルカもまぶたを閉じた。

しばらくすると、ユエルが高らかに声をあげる。

「いただきます」

 見事にそれは復唱され、一気に部屋のなかは賑やかさを取り戻す。そのなかで、ユエルとハスナはぐいと目の前に置かれた杯を一気にあおった。シアの目がわずかに険しくなり、咎めるようにつぶやいた。

「お酒でしょう」

 それに対して悪びれることなくユエルは高く笑う。ルカの隣では、笑顔のままハスナが新たな酒を注いでいる。とろりとしたあわい飴色の液体が、杯に満ちていく。手酌でハスナは自らの杯にも注ぎ、またしてもぐいとあおり、気持ち良さそうに吐息をつく。彼女らの頬はつややかに紅潮している。

「そうじゃ。いい蜂蜜酒が届いたのでの。おぬしも呑むかえ?」

「もう。ユエルちゃんあかんやん。アグラくんに止められてたやろ」

 シアの静止をよそに、ユエルは笑顔でさらに酒を飲み干した。困ったように眉を寄せるシアに、ハスナがとりなすようにおっとりと仲裁する。

「まあまあシアちゃん。わたし、シアちゃんが蒼月宮に滞在してくれるって聞いて、朝からがんばって用意したの。食べて食べて」

 すすめられ、憮然とした表情のまま、シアはルカの皿と自分の皿に食べ物を取り分ける。そして自然な動作でユエルとハスナの皿にも手際よく料理を分けていく。

「ありがとうございます」

 ルカが礼を言うと、シアはやわらかく笑った。だがすぐにその瞳は真剣なものになる。

「遠慮なく頂いてね。ユエルちゃん。ちょっとだけなら体にもいいやろけど、よう飲みすぎてまうのだけほんまに気をつけてね。最近は、体調大丈夫なん?」

「このとおり平気じゃて。この祝いの席に酒は欠かせぬよ」

 真剣そのもののシアに対し、ユエルは鷹揚に笑う。

「それに健康面の配慮なら大丈夫よ。蜂蜜酒はお腹にやさしいし、栄養価が高いのよ。糖度が高いから満腹感もあって飲みすぎ防止にもいいの。それにアルコールの分解を促進するから悪酔いしにくいし二日酔いにもなりにくいわ。いつも、ユエルの心配をしてくれてありがとうねえ」

 反論の余地がないほどに専門的なハスナの言葉に、シアは不服そうに唇を尖らせる。

 そのやりとりを見て、ルカは浮かんだ疑問をおずおずと口にする。

「あのう、もしかしてハスナ……さんもなにかの専門的な知識をお持ちなのですか?」

「あら」

 笑みに細められたハスナの瞳が、ひたとルカに向けられる。ユエルとシアも、じっとルカを見つめていた。だが二人の表情は異なる。シアは感情の窺えない無表情で、ユエルはどこか嬉しそうな、嫣然とした笑みがうかぶ。

「なかなかに聡(さと)いではないか。優れておるのは見目だけではないらしいの。好き嫌いが激しく気難しいおぬしが、この場所に連れてきただけのことはある」

 笑いながらユエルに小突かれ、シアが冷ややかなまなざしをむける。率直ではあるが的を射た表現にルカはつい、納得してしまう。それが表情に出ていたのか、ルカにも同様のまなざしが向けられた。

「はは。その露骨な表情がまさにそれじゃ。しばらく会わんうちに悪化している気もするがの。――自分を見つめ認め、そこから成長する。言われて不服に思うのであれば自らを変えていくがいい。この後宮は、きっとだれの目から見ても異質じゃよ」

 の、とユエルは同意を求め、ハスナが首肯する。

それをみて、シアはばつが悪そうながら表情を真摯なものに改めた。またしても蜂蜜酒をあおってから、ハスナはなんでもないような口調で言う。

「正解ではないけど、惜しいわねー。疚しいこともないし極秘でもないから、教えてあげちゃう。お察しのとおりよ。ここには、各分野の専門家が多数集められているのー」

 困ったようにシアは眉根を寄せた。聞いてはいけないことを聞いてしまったのかと、ルカはどう振る舞うべきか戸惑う。しかしユエルやハスナ、同席する后妃は気にするそぶりもない。

「なんじゃ。こんな欲望丸出しのオタク集団に囲まれて、こやつが不審に思わんとでも思ったのかおぬし。第一こんなところまで連れてきたのはおぬしじゃろ」

「それは……」

 口ごもるシアに、興味津々といった様子でまわりの后妃が耳を澄ませて静かになる。不意に訪れた静寂に、ルカは落ちつかない心地になる。それは彼女もおなじだったようで、居心地が悪そうに周囲を見渡している。ルカの性質や今朝のことなど、いろいろとある理由をどう伝えるか迷い、意を決してシアは口をひらく。すると、至極まじめな表情でユエルが言った。

「とうとうおぬしにも、四六時中離れ難い恋仲ができる日がくるとはのう」

 とたんに周囲から黄色い声があがり、ルカたちの卓に后妃が集まってきた。好奇の視線にさらされ、顔中に熱が集まってきた。ルカは慌てて否定する。

「そ、そういうのじゃ、ないです! いろいろ、事情があって……!」

 あ~、と一同から低い声があがるが、どうやらそれはルカの言葉を信じてのものではないようだ。

「もうこれはモロじゃのう。わかりやすいの~」

「ね、前フリよね。甘酸っぱいわあ」

「こんな若くて綺麗で賢そうな子がいたら、陛下なんて金だけのオジさんにしか見えないわよねえ」

 他愛なく談笑をする后妃たちの姿に、違和感を覚える。ぽかんと会話を見守っていたシアの目が、次の言葉を聞いた瞬間に険しく細められた。

「でも、陛下も不憫ふびんよねえ。ず――っとシアちゃんにみさお立てているのに、報われないわ」

「だからそれがおかしいんよ。なんのための後宮なんかわからへんやん」

 憤りをそのまま吐き出し、シアは怒りをあらわにする。そこでようやく、ルカは違和感の正体に気がついた。

 後宮に住まうのは后妃だ。后妃とは、皇帝の妻だ。だが彼女らはまるで他人事のようにあっけらかんとしている。普通、自分の夫といえる人物がほかの女性――シアに関心があると知って平気でいられるものなのだろうか。もし自分の伴侶となる人間が、ほかの人間に好意を持っているとする。ルカならば、耐えられないだろう。それに平気どころか、先程の会話の端々から、皇帝がシアに向ける想いを肯定しているようにも見える。皇帝と后妃という関係とは思えない態度が、ルカには異様に見えた。

「相変わらず頑なじゃのう。以前から言っておろう。後宮だの后妃だのは建前に過ぎぬ。わらわたちは、陛下に権威と知識という力を貸しておるだけじゃ」

 当然のようにユエルから放たれた言葉に、シアは苦虫を噛み潰したような表情になる。卓の下で握りしめられた拳は、小さく震えていた。それに気づいてか、ユエルは諭すように優しく続ける。

「ここにいる皆は、己の研究や技の研鑽けんさんに対する支援や投資を対価にこの場所におる。それはおぬしもよくわかっておろう。それに、陛下がおぬしにこだわるのはいまに始まったことではないじゃろ。――じゃから、想い人でもできたのかと」

 にたりと笑ったユエルに、シアは不機嫌そうだ。

「大方にっちゃん経由で、なんでルカくんといっしょにおるかなん、知っとるくせに面白がるところも気に入らへん。からかわれてルカくんが可哀想やわ」

「バレバレかの。だが、あやつ満更(まんざら)でもなさそうではないか」

 するとシアは虚を突かれたように目を丸くして、首を傾げてルカに尋ねる。

「なんで?」

 心底理解できないといった様子のシアに、ルカはいたたまれなくなる。なんと説明するべきか、今度はルカが戸惑う羽目になった。しかし口をひらく前に、なにかを納得した様子のシアがルカの両腕を掴む。いつになく真摯な視線にさらされて、頬にさらに熱が集まってくるようだった。

「わかった。わたしばっかりみんなとお話ししとったから、お話できて嬉しかったんね!」

 ルカは足元から崩れ落ちそうになり、后妃たちはしんと静まり返る。

 低く押し殺した声がしたと思うと、ユエルが弾けるような笑い声をあげた。それにつられるようにして、ほかの后妃も笑いだす。

「あっはっはっは。まるでダメじゃのう。成長なしじゃ」

「表情も豊かになって、情緒も追いついたかと思ったら、三歩進んで二歩下がるとはまさにこのことねえ」

「苦労するねえ、少年」

「やだ、どっち応援するか迷っちゃう」

 シアをさかなに、好き勝手に話し出す后妃たちを見渡しながら、シアは状況を理解できず首を傾げている。それを見て、ハスナが手元の料理をシアの口元にもっていく。

「まあまあシアちゃん、このお肉料理、食べてみて。ほらあーん」

 素直に口をあけ、シアは黙々と咀嚼そしゃくする。それにならって、ルカも食事に手をつけた。

 じっくりと香味野菜とともに焼き上げられた鶏肉はしっとりと舌触りよく、複雑に調合された香草と肉の香ばしい香りが鼻から抜けていく。

「ハスナちゃんのごはん、美味しい……」

 嚥下えんかしたシアが、ぽつりとつぶやく。ルカもつづけて声をあげた。

「本当に、こんなに美味しい食事は初めてです」

「お気に召して嬉しいわ。これらは全部、ここで育てられたものを使っているのよ。食後には、シアちゃんの大好きな苺のタルトも用意しているからね」

 にっこりと微笑むハスナに、シアの瞳が輝きを取り戻す。どうやら、シアの機嫌は直ったらしい。胸を撫で下ろしていると、后妃たちの生温かい視線が刺さる。なんとかその矛先を無難に逸らそうと、ルカは食事を続けながらおずおずと尋ねた。

「そういえば、ハスナさんはどういった専門家になるのですか?」

「わたくしはねえ……医者の端くれといったところかしら」

 おっとりとこたえるハスナに、ユエルが淡々と訂正する。

「なにをちょっと聞こえ良く言うとる。そやつの専門は刃物を蒐集し、自在に扱うことじゃ。この食卓に並ぶ肉という肉はこやつがさばいておる。あらゆる生き物の構造を把握しておる、立派な変態の一人じゃ」

「ひどいわ、その言い方。生物学に詳しくて刃物の扱いが上手って言ってくれる?」

「刃物と生き物の標本まみれのおぬしの部屋を見てそんな可愛らしい表現などできぬわ」

 ユエルの言葉に思わず青ざめたルカを見て、シアが耳打ちする。

「ハスナちゃんは、元軍人で執刀医しっとういなの。わたしもあのお部屋は苦手だけど、でも武人としても医者としても、凄腕なんよ。いまでもハスナちゃんだけは、後宮に入ってからも外部との接触を許されてるの」

「でも、外に出るのは殆ど医者としてだけだから、誤解しないでねえ」

 ぷくぷくの頬と柔和な笑みからはかけ離れた経歴に、ルカは力なく笑う。聞く話すべてが濃厚で、腹いっぱいになりそうだ。伝記に記されるほどの偉大な先人たちのなかには、類稀たぐいまれな能力とともにおよそ常識では測りきれない性質をもつという記述が多々遺されている。昔は呑気にとらえていたが、実際目の当たりにする日がくるとは思わなかった。しかもこれほどの人数だ。才能ある美女たちをここまで集めることができるという、カフカクフコスという国の大きさを思い知る。

 まわりの卓は食事を終えたのか、なにやら活発に議論を交わす姿が見られた。そうかと思えば、一発芸や演奏などを始める始末だ。美女たちによるどんちゃん騒ぎは、異様な華やかさがあった。幼いころ故郷で見た祭の光景を思い出し、ふと懐かしくなる。

「お嬢様たちは、どうしてはるの?」

 ふいにこぼされたシアの言葉に、ユエルの表情が真剣なものになる。

「やはりおぬし、あやつらのことを気にしておるのか。なかなか溝は埋まらぬよ。良家の自尊心と人間としての劣等感と陛下に対するそれぞれの想いと。なかなかに気難しい」

 シアは唇を引き結んでうなずいた。会話についていけず、ついルカの眉間に力がこもる。それを見てユエルは笑い、口をひらいた。

「この後宮はわらわたちのように研究者や能力あるものが良家の子女に見立てられ后妃になった者と、各国の政略的な婚姻こんいんで后妃の地位に就く者とに分かれておっての。わらわたちは仕事の一環としてここにおるが、きゃつらは違う。嫁として伴侶(はんりょ)として覚悟を決め、祖国を離れてこの場にいる」

 それは一体どのような気持ちなのだろうか。ルカは、うまく想像できなかった。

「本来後宮とは数多くいる后妃と交わり子を為し世継ぎを遺すためのものじゃ。陛下は、この十数年わらわたちに仕事を割り振り依頼する以外に、後宮に渡ることすらせぬ。じゃがそれはシア、おぬしを恋いしたう故じゃ。わらわたちは、皇帝に仕える后妃じゃ。あの娘たちにこれまでなにを吹聴ふいちょうされてきたのかは知らぬが、あやつらも事情は違えど同じ后妃じゃ。君主の心を咎める権利は、持ちあわせておらぬ」

 淡々としたユエルの言葉に、アレクセイの心は周知のものなのだと思い知る。鈍痛がルカの胸に刺さる。ちらりと隣に目を遣ると、シアには動揺も羞恥もない。感情の読めない表情のまま、強い語調で異を唱えた。

「ユエルちゃんは正しいんかもしらん。でも、あまりにもあのお嬢さんたちが報われへん。どんな気持ちでこの後宮で過ごしているか。自由もない、音沙汰もない。国元離れて、寂しいやろうに」

「それが后妃じゃ。皇帝の機嫌をとる后妃はおっても、情もなしに皇帝に機嫌をとらせる后妃はあってはならぬ。じゃが、あやつらとて陛下の気持ちはわかるまい」

「情を持ったらええんちがうの。それに、会えへんひとの気持ちなんかわからんやろ」

 まるでシアが、駄々をこねる子どものように映った。問答のさなか、ユエルはひたすらに穏やかである。まるで子を見守る母のように、やわらかな声音で諭していく。

「一人の皇帝とて、人間じゃよ。感情というものがある。人の感情は、無理強い出来ぬものよ。ではおぬしは報われぬ恋情を抱くあやつを憐れに思い、添うて子を為すことができるというのかえ?」

「それは!」

 悲鳴のように、声は響いた。シアは首を振り、唇を嚙みしめてうつむいた。消沈する彼女の姿に、安堵してしまう自分が申し訳なく思う。

「おぬしは、あの娘たちが報われぬという。わらわからすれば、陛下も報われぬ。それぞれ立場は異なるが、同じ人間の想いに差はあるまい。――なにをそんなにも恐れておる」

 朝焼け色の瞳は、静かにシアを見据えている。その瞳を、ルカは知っているような気がした。なんとなく、シアのまなざしに似ているのだ。すべてを見透かすような視線にさらされ、シアは顔色をなくした。月色の瞳が不安げに揺れるのをみて、ユエルは優しく微笑み、シアの頬を包みこんだ。

「おぬしはただ、己に感情を向けられるのが怖いのではないか? 己に向けられた感情の矛先を、体(てい)よくあの娘たちになすりつけたいだけに思える」

 どこまでも穏やかな声色であるのに、ひやりと胸が冷える心地がした。シアは声すら出せずに肩をふるわせている。黙りこんでしまっては、肯定の意ととられてしまう。いつもの強い意志と闊達かったつな弁がまぼろしかのようだ。ゆるゆるとユエルの手から逃れたシアの瞳がにじみ、しずくがこぼれおちた。シアは口元を引き結び、静かに席から立ち去っていく。あたりは変わらず喧騒のなかにあり、シアに気に留める者はいない。呆けたように見送ってしまったあと、ルカは慌てて席を立った。

「そう慌てずともよい。どうせそのあたりにいる。おぬしがここにおるのだ。そこいらで不貞腐ふてくされておるだけであろ」

 たしかに、彼女はまだ近くにいるようだ。シアが離れたときの、心中がささくれだつような感覚はない。そのことに少なからず冷静さを取り戻し、思わずルカは声をあげかけたが、哀しげに見上げられ、なにも言えずに席についた。つい責めるように呟く。

「どうしてあなたが、そんな顔をしているんですか」

「まるで悪役じゃの。わらわはの、あやつの心を否定したわけではない。だが、他者にこうあるべきと押しつける権利はない。それに、このように歯に衣着せぬ正論は、時に悪(あく)舌(ぜつ)よりも他者を傷つけることがある。男どもに甘やかされて、好き放題に我(が)を通しておるのを見て、気がかりじゃったのでの。男どもは、おぬしも含めお優しいことじゃからのう」

 にんまりとユエルは高く笑った。あまりにもからりと笑うので、ルカは肩から力が抜け落ちるような心地がした。

「意志を折られることを知らぬ者は、ただの増上慢ぞうじょうまんになってしまう。望むものを与えるのみが優しさではないと心得よ。これも世の厳しさというもの。傷つく愛娘を見るのは心苦しかったがのう。あっはっはっは」

 あまりにもあっけらかんとしているので、にわかに信じられずに疑いのまなざしをむけてしまう。だが、その言葉には不思議と説得力があった。あの数々の言葉を、意図をもって浴びせたとなると知ると、ルカはなにも言えなくなる。やはり、シアが言っていた師というのは、ユエルのことだったようだ。

「ずいぶん荒療治やもしれぬが、そういうことが必要なときもある。故に、おぬしもあやつに遠慮することはないとわらわは思うぞ。免疫をつけてやるのも優しさというもの」

 茶目っ気たっぷりにユエルは片目を瞑る。自分の想いを見透かされたようで、生返事をしてしまう。というより、見透かされているのだろう。羞恥に沈黙するルカに、じっとユエルは意味深な視線を送る。ルカはふと思い立ち、声をひそめた。

「夢でのこと――本当なのですか?」

 満足げに彼女はうなずいた。視線は宴会芸に盛り上がる美女たちにむけたまま、ひそやかにユエルは語りはじめる。

「本当なら、もうすこし早く繋がりたかったのじゃが、なにぶんおぬしという人物を特定するのにも時間がかかっての。まあいろいろ転々としたのち、陛下に頼み、おぬしらをこの国へ呼び寄せたのじゃよ」

「どうして……」

 ユエルに倣い、大きく口をあけて大笑いする后妃たちを見つめながらつぶやく。

「わらわもある意味、おぬしやシアと同類じゃ。予知夢や過去夢、また他者の夢を渡り歩くことができるのじゃが――気がかりな夢をみての。後悔なく余生すごすために、おぬしの夢へ訪れたのじゃ」

 あまりの気安い物言いに、ルカは言葉をなくした。余生というどこかもの哀しい言葉がやけに晴れやかに響く。

未来さきの夢は、不確定での。正夢となるか逆夢さかゆめとなるかは、手前までわからぬ。おぬしにありのままを話すのも、吉とでるか凶と出るか予測できぬ。じゃから、徐々に夢にて要点を伝えよう」

「どうして、俺なのですか。俺に、だれを救えというのですか」

 ちらりとようやくユエルはルカを見る。よくよく見ると、膚や首筋から彼女がアグラたちよりかルカの実母に近い年齢であることがわかった。ユエルの笑顔は、見るものに年齢など感じさせないほどに圧倒的な魅力にあふれているのだ。

「無論、シアと――」

「ねえユエル。シアちゃんはどこに行ったのかしら?」

 つやつやとした林檎りんごのような頬が、ルカの目の前でふるりとふるえる。ハスナがあたりを見渡して、鼻がくっつきそうな距離でユエルに詰め寄っていた。ふわりと濃い酒の香りが鼻をつく。遠くを見ると、様々な色と形の酒瓶が転がっている。騒いでいると思っていたら、ずいぶんと酒も進んでいたらしい。

「おお。忘れていたのう。ハスナ、苺のタルトを二切れ包んでくれるかえ?」

「ええー? いいけどお……。シアちゃんは?」

「心配せずともまた来るであろ。おぬしらの莫迦騒ぎにつきあいきれぬて」

「まじめちゃんなんだからあ~」

 ろれつが回っていない。やはり相当に酔っているらしい。

 足取りだけは優雅にハスナはとなりの卓へむかい、手際よくタルトを包んだ。

「みなさんかなり酔っておられますけど、大丈夫なんですか?」

「いつものことじゃて。こやつらは宴会と研究だけが人生の楽しみじゃからの」

 室内でいまだ盛り上がる者たち、所構わず気持ち良さそうに眠りだすものたちを愉快そうに眺めてユエルは笑う。

 シアの懸念が、すこしだけわかるような気がした。外界と交流を持たず自らの研究に実を削りこの後宮で生きるということに、不満はないのだろうか。ルカは、知らず過去の自分と后妃たちを重ねてしまう。箱庭のような世界で日々過ごすことは、苦痛はなくとも短調で閉鎖的だ。

「邪魔が入ったの。密会はここまでということじゃな」

 包みを手に、ハスナがやってくる。ルカに手渡し、にこやかに笑う。

「じゃ、またシアちゃんといらっしゃいね」

 紅潮した頬もやわらかな声も酩酊めいていを連想させるが、深緑の瞳はひたといでいた。踵を返して、ハスナは元の場所で呑みはじめた。

 笑みをたたえたユエルのまなざしで促されて、ルカは立ち上がる。そろそろシアを探しに行かなくてはならない。そういえば、こういったことは二度目だ。たしかあれはマリアと検証をしたときだった。あのときも、すぐそばの廊下でシアはひとり反省していた。

「では、失礼します」

「ルカ。気負うでないぞ。おぬしらしくやれば、自然物事はよき方へゆく」

 晴れやかに笑い、ユエルは手を振った。つられて笑い、ルカは頭を下げた広間を出た。


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