三章

――わらわはもうすぐ死ぬ。その前に、頼みがある。

 耳慣れない口調の女性に呼び起される。姿も見えぬ真っ暗闇にそれだけが響く。だれなのか、なぜ自分なのか、どうして死ぬのか。尋ねたいのに声は出ない。

――どうか………に、安寧あんねいを与えてやってほしい。しがらみから解き放ってやりたい。 

 切迫した声が、真摯に懇願こんがんする。夢にしてはいやに生々しい。

――わらわができるのは、夢を与えるだけ。どうか、どうか………



 かすかな声が耳朶じだを撫でてゆく。やわらかな響きをもつ声は旋律を描き、ゆるやかに流れる。知らないうたのはずなのに、生まれる前から知っているように沁みこんでゆく。さらに眠気を誘うように、体が揺られている。ふわふわの枕はあたたかく、あまい香りとともにルカを包みこみ、慈しむような指先がひたいから髪にと行き来する。意識はもう覚めようとしているのに、目覚めるのが勿体もったいないとすら思えた。

 なんてしあわせな夢だろう。先程の不可解な夢よりよほどいい。もうすこしだけ、と眠ろうとすればするほど意識がめていく。

 視界にとびこんできた光景に、急速に現実に引き戻された。

 心ここにあらずといった様子で、シアは頬杖をつき窓の景色を眺めながら子守唄をうたっている。声のやわらかさに反して、表情にはうれいがある。しかし、体が揺れるごとに、シアの胸に呼吸を圧迫されてしまう。

「シア!」

「わあ!」

 ルカの声に、シアが飛びあがる。解放されたルカはシアの膝から急いで体を起こした。たぶん例によって例のごとく、シアはなにも考えず楽な体勢を求めてのことだろうが、そんなことをされてはルカがたまったものではない。

「顔赤いなあ……熱ぶり返ちゃった?」

 真剣な面持ちで、ルカのひたいにてのひらを押し当てる。

「あ、ないわ。よかった。やっと熱下がった」

 ほっとしたように、シアは表情をやわらげた。

 窓の外で、景色が流れていく。灰をはらんだ蒼天が、気だるげな雲を引きずっているかのようだ。隙間から吹きこむ風は、刺すような冷たさがある。それらをうつす広大な湖の背後には、岩肌に覆われた巨大山岳地帯が広がっている。

 改めて、周囲を確認する。二人が膝をつき合わせなければならないほどのせまい座席に、わずかな震動。前方に目をむけると、黒づくめの男性が機械を操作している。

「クルマに乗ってるんですか!?」

 羞恥しゅうちが一瞬で消え去った。驚きのあまりシアに詰め寄る。 

「そう。ルカくん、覚えてるかな。孤児院で倒れてしばらく高熱だしてたんよ。せやけど、急ぎで行かなあかんとこできて。ほんで、クルマで移動することになったんよ」

 あっけらかんとシアが説明するが、ルカはそれどころではない。馬車でも人力車でもない、自動車に乗れる日が来るなど、村にいたころには考えられなかった。この時代、自動車は庶民に縁のない高級品である。部屋に閉じこもっていたころ、夢中になって自動車の本を読んだものだ。よほどの名士か金持ちでもない限り、クルマを所持することは適わない。ルカは夢のような心地で座席を撫でた。

「教会って、すごいんですね……。こんな大きな、立派なクルマに乗れるなんて……。不謹慎ふきんしんですけど、感激です」

「嬉しそうやね。よかったわ、そんだけ喜んでもらえたら」

 興奮冷めやらぬルカに相反し、つかれたようにシアは目を伏せる。シアにかかわる人々の様子から、シアは教会から重宝されているようだから、乗るのに慣れているのか、苦手なのか。どこか憂鬱ゆううつそうな表情が引っかかる。

「シアは、クルマによく乗るんですか?」

「たまにかな。あ、これ教会のちゃうよ。わたしの――っていうか、教会のお得意先みたいな……。なんていうたらええかな、巡回するっていうてたやん。そこの人が、クルマで迎えに行くから、わたしにはよ自分のとこ、来いって急かされて」

 シアの言葉はだんだん尻すぼみになっていく。

 ふだん街中ですら――ルカはあまり街にすら出ないが――見かけることのない自動車を、シアを迎えるためだけに寄越すなど、いったいどれほどの富豪なのだろうか。

「それで、いったいどこに向かっているんですか?」

「カフカクフコス」

 シアは苦虫をみ潰したような顔で、舌を噛みそうな国の名をつぶやいた。その名を聞いてようやく、シアの物憂ものうげな様子が理解できた。

 カフカフスコスは、西大陸をほぼ制圧、統一し、世界各国に多大な影響を与える軍事大国だ。そしてシアの故郷を戦禍せんかに巻きこんだ当事国でもある。けして気分の良いものではないだろう。いやなものから目をそらすようにきつく目をつぶったまま、窓の外に顔を背けた。力ない声がごちる。

「もっと孤児院でゆっくりできたら良かったんやけど、わたしの都合で。ごめんね」

「そんなこと。俺が迷惑かけたからです。それより、カフカクフコスなんて」

 シアの心中を察して、ルカの声も沈む。切れ長の瞳が大きく見開かれ、ルカを見た。ふとやさしく表情がほころんだ。

「謝ったのはわたしやのに……。わたしのことでそんな顔せんでも、だいじょぶよ。べつに昔のことは今さらやし、そこは気にしてないんよ。ルカくんが気にすることちゃうよ。三日も寝込んでたんやけど、体調はどう?」

 言われてようやく、シアの言葉を思い出す。たくさん睡眠をとったおかげか体は軽く、清々しい気分だ。あんなに心地よい睡眠をとったのは生まれてはじめてかもしれない。

「平気です。すごく……快適すぎたくらいで」

「ほんまに? また顔赤いけど。それより、ごめんね。ルカくん熱出たのはわたしのせいでもあるんよ。本部と孤児院で無理に制御さしたから、その反動やと思う」 

「そう……なんですか?」

 シアの瞳に、まぬけな自分の顔がうつった。言われてようやく、不明瞭な記憶が形をもつ。目の前に何人かの少女がいて、フルーツタルトが並んでいて、どれをとるかを悩んでいた。みなに不快な思いをさせないにはどうすればよいかと考えていると、頭が熱くなってきた。そこから、記憶があいまいだ。

「あんまりよくわかってなくて」

「そか。無自覚か。まぁ、そやね。最初はそんなもんかなぁ。前は、周りの人おかしくなってたでしょう。そういうの、なかった。変な揺さぶりもなくて普段の状態やったら、多少は力を抑えられるってことがわかった」

 まっすぐに見つめられると自然に背筋が伸びる。シアはそのまま、深く頭を下げた。

「これができるようになったら、もう自由やからね。やっと、おうちに帰してあげられるから。もうすこしだけ我慢してね」

 一瞬、なにを言われたのかわからなかった。頭を下げるシアは、いつもよりずっと小さく感じた。肩も背中も、華奢きゃしゃで頼りない。けれど、いつもその体のどこから力が湧くのか不思議なほどに、体も心もルカよりはるかに強靱きょうじんだ。当然のように、シアはいつも強くあろうとする。ルカはその頭を抱えこむようにして、わざと体重をかけた。低く、シアは不満の声をあげた。

「なにするん。重い」

「俺は、不自由じゃないし、なにも我慢してません」

「なんか、怒ってる?」

 さすがにかんがいい。けれどやはりずれている。抵抗するシアを抱きしめる。

「理由なくさわんのやめて。離して」

「自由にしてあげる、と言ったのはシアです。これが俺の自由です。シアは俺の恩人だから、恩を返すまで離れません」

「それは、屁理屈へりくつ。そんなんせんでいいよ。とりあえず離して」

「俺は、もしこの力を制御できるようになっても、俺が恩を返せたと思うまで離れません。それを認めてくれるなら、離します」

 しばらくするとシアは抵抗をやめて、ちいさくうなずく。それを確認してから解放すると、凍りそうなまなざしでにらみつけられた。人間を見る表情ではない。

「ほんまに、体も態度もでかくなったね」

「すみません」

 悪寒が背を駆け上がり、ルカは反射的に謝っていた。窓の外に目をやりながら、シアは哀愁を漂わせてつぶやく。

「わたしも身長伸びたらええのに。みんなわたしよりでかくなるし、力で勝たれへんくなるし、生意気なことを言う」

 シアはもう二十歳だ。それは叶わぬ願いだろう。先程ルカが力づくで押さえたことを根に持っているらしい。心配せずともシアは女性にしては異様に力が強いし、体術にも優れている。シアが本気で抵抗しようとすれば、できたはずだ。どこかでルカに対して気負うものがある。ルカの性質はけしてシアのせいではないというのに。

「みんな子どもやと思ってたらすぐ大きくなる。ルカくんも、たったの三年ですぐ大きくなった。みんな知らん子みたいになって、いややわ。わたしのが、お姉さんやのに」

ねてます?」

「拗ねてない」

 すかさずシアは否定する。だがその表情は拗ねた子どものようだった。

 最初のころに比べて、本当に感情が豊かになった。シアの様子がおかしくて、笑いそうになるが、また機嫌を損ねては可哀想かわいそうだ。そう思って笑いをこらえていると、心を読んだかのようにシアが言う。

「なんでそんな嬉しそうなんかわからん」

 針葉樹林しんようじゅりんを越えると、巨大な河川があらわれる。地をうかのように蛇行する先に、まばゆい紺碧こんぺきの城壁が見えた。いくつかの巨大な建造物は十二の尖塔せんとうに囲まれている。実物こそはじめて目にする、カフカクフコスの心臓部。蒼月宮そうげつきゅうは、観光名所にして世界の中枢。世間知らずなルカでさえ知る有名な場所だ。

 歴史ある壮麗そうれいな文化財にルカが見惚れていると、突如シアが座席を立ち上がり、運転席に面する硝子ガラスを叩き出した。

 なにごとかと慌てた運転手が自動車を停車させようとする。なにが起きたか目を白黒させるルカに、シアは口早に耳打ちした。

「ルカくん、ここからは降りるから、すぐ後部の荷物降ろして走ってな」

「どうして?」

「ここままやったらされるから、逃げるんよ」

「招かれたって言ってたじゃないですか。どうして逃げるんです?」

「はよしてね」

 シアは問答無用でルカの手をひき、扉をあけた。日暮れを迎えて冷えた風が頬を刺す。わけがわからないまま自動車の後部扉を開き、荷物をとる。すると、悲鳴のような声がした。

「もうまたですかシアさま! 僕そろそろ陛下に解雇されますって!」

「だいじょぶだいじょぶ。わかってるんやったら停めへんかったらええのに」

「お連れ様がまた体調を崩されたのかと思ったんです!」

「にっちゃんの優しいとこ、すきよ。一回も二回もいっしょやん。お願い」

 涙目になってぐずつく運転手の手をつつみこみ、シアはすばやく駆け出していく。引き留めようとする彼に対し、清々しいほど容赦ようしゃない。あの速度は、本気の逃げ足だ。自動車が追いかけられないように、迷いなく路地裏ろじうらへとむかう。憐れな運転手とシアの後姿を見比べて、ルカも慌てて走り出した。この場に残っても、ルカにできることはない。

「こんなのいりませんってばあ! 後生ごしょうですから蒼月宮にきてくださいよぉ~!」

 悲痛な叫びに、ルカは顔から血の気がひくのを感じた。あの自動車の持ち主は、もしや相当の地位の人間のもの。説明を求めるべく、ルカは全速力でシアを追いかけた。



「あの、説明してくれますよね」

 息を切らすルカに、シアは竹筒の水を手渡してくれた。その心遣いは受け取り、ひとまず一気に飲み干す。

 空はすっかり夕焼けに染まっている。あれからシアの背は遠ざかるばかりで、見失わずにここまでこれたのが奇跡だった。当然、シアはルカがついてきているか様子を見つつ走っていたのだろうが、いくつかも分岐点がある見知らぬ土地をひた走るのは、さすがのルカも肝が冷えた。

「陛下とか蒼月宮とか聞こえたんですけど、あのクルマはどなたが手配されたんです?」

「現カフカクフコス皇帝陛下」

 さらりとシアはこたえる。嫌な予感が的中し、ルカは言葉を失った。大国の皇帝ならば、自動車のひとつやふたつ持っていてもおかしくない。だが、問題はその皇帝が、シアのために遠方の他国まで自動車で迎えにきたという事実。しかも、あの運転手はまた、と言っていた。これがはじめてのことではないらしい。

「なにがどういう……?」

「昔にね。ルカくんみたいな感じで、即位前に陛下が調子崩したときに呼ばれたん。まあおっきい国のそれなりの地位のひとやし、いろいろお家騒動とかで気鬱きうつになってはって。そこから知り合って、まあ気にかけてくれてて教会のことなにかと援助してくれてはる。けどまあ、それから用事もないのに呼び出されたりすることあったりするから、わたしは迷惑やの。でも、教会からしたらお得意様やから、優先しなさいって言われてる」

 他人事のようにシアは淡々と言うが、ルカは頭痛がとまらない。

 マリアのいう上客が、こんな大国の頂点だなんて。

「でも、この国なにせ人口多いし困ってるひとも多いのに、ぴんしゃんしてはる陛下にばっかりかまってられへんの。でも、今回みたいに迎えにきてもろたら、直(じか)で蒼月宮に連れ込まれるから、いっつもお世話になるときは途中下車するの。いろいろほかに寄るとこたくさんあるから。でも、ちゃんと最後は顔出すから、たぶんだいじょぶ」

 あっけらかんとシアは言い放つ。途中下車と言えば聞こえはいいが、あれはただの脱走である。だいたい、急ぎであるから迎えを寄越したと言っていたのに。

それに天下の皇帝に対して、迷惑だのかまっていられないだのと散々な言いようだ。不敬罪で訴えられないかが心配になる。なにより、教会に属しているというのに悪びれなく言いつけを破ってよいのだろうか。

「まあふつうにニール公国からカフカクフコスに来ようとしたら、もっともっと日数かかるから早く来た方やしね。ありがたかったね」

 のんびり言って、蒼月宮のほうにむかって手をあわせた。わかってはいたが、シアはまったく悪びれた様子はない。ルカの手をとり、いつものように繋ぐ。心なしか、シアがいきいきしているように見える。そもそも主導権はシアにある。ルカもそれを承知でこれまでついてきた。どこにいくことになろうと、ついていくほかない。

「これから、どこにむかうんですか?」

「んーと、とりあえずはこっち」

 あたりを見渡し、シアは歩き出す。入り組んだ路地裏を抜け出し、やがて喧騒けんそうが聞こえてくる。都心なだけあって、陽が沈んでもなお人通りが絶えない。とたんに、心臓が痛いような落ちつかない気持ちになる。これほど大勢の人間を見たのは、生まれてはじめてだ。ぞわぞわと、違和感が這い寄ってくる。

 心地よいもの不快なもの、大小さまざまな感情が、皮膚の表面を刺激していく。息苦しさをこらえるように目を瞑ると、シアがてのひらに力をこめる。そこから、シアにつつみこまれるように不快感が消えていった。するすると大勢の人間の隙間をすりぬけてゆき、あっという間に人だかりから離れた。すこし人が減っただけで、ずいぶんと感じる刺激は少なくなる。

「ありがとうございます。助かります」

「おじょうちゃん」

 しゃがれた老女の声が、シアの足をとめた。シアはくるりと身をひるがえし、建物の壁にむかってしゃがみこむ。もしや壁にむかって話しかけるのではと不審に思ったのも束の間、壁とおなじ乳白色の衣服に身を包んだ白髪の老女と目があった。蒼月宮に似た碧眼へきがんは、すべてを見透かすようだった。

「エリシャおばあちゃん、ご無沙汰しております。お会いできて嬉しいです。お変わりなくされていましたか?」

 シアはまるで自分の祖母に出会ったかのように抱擁ほうようを交わした。

「あたしも嬉しいよ。おかげさまでね。しばらくじゃないか」

「そうなんです。先程こちらに着いたばかりで」

「一番にあたしに会いに来いってことさ。あのジャリガキよりもね」

「ばれちゃった。そうなんです。捕まっちゃう前に来ちゃいました」

 ジャリガキがいったい誰を指すのか、ルカは知りたくなかった。

エリシャはルカにほほえみ、背をむけてゆっくりと歩き出す。手足は衣服の上からわかるほど痩せ細り、肉のげた背中は弧を描いている。手を貸さなくても大丈夫なのかと心配になりそうな外見に反し、しっかりとした足取りだった。はらはらしながら見守っていると、にやりと振り向いて笑う。

「優しい、良い子じゃないか」

「そうなんです。すてきに育ちました」

 どこか誇らしげにシアは胸を張る。そんなふうに褒められるのははじめてで、ルカも嬉しくなった。けれど、胸中を読まれたかのようなタイミングにどきりとする。

 エリシャはシアと親密に話をはじめた。シアにいつものなまりはなく、丁寧で美しい言葉遣いだ。おそらく訛りが抜けないのではなく、あえて使わないだけなのだろう。なんだか、知らないひとが話をしているように思える。何年も会っていないとは思えないほど、二人は饒舌じょうぜつだ。

 シアに手を引かれるまま、ぼんやりとルカは知らない街を眺める。乳白色で統一された町並みは洗練された印象があり、規則正しく立ち並ぶ。

 教会の本部が位置するニール公国は、ルカの育ったテムサ村と文化圏が近しい。けれどカフカフスコスは違う。言語こそ、古来に統一されて以来、世界各国共通言語を使用しているため、古代のように言語の差異に悩まされることがなくなったが、文化はそれぞれの土地にまつわるものを守り続け、現代に至る。

冴えた紺碧の城壁が、目に留まった。

世界のほとんどで、生命、美しさ、太陽をあらわす色として、また赤色がとうとばれている。それに反して、この大国では青こそが最も美しい色とされていた。他国では死者や人のものではない異形のもの、病を表わすものとされて忌避きひされることが多くあった。カフカフスコスでは神々や神秘を象徴し、魔除けとも、あらゆる生命を生み出した母なる海の色とされている。よって、王宮を守護する城壁、王宮や各要所には青という色彩が用いられているのだと、本で読んだ。

「だれか!」

 ふいに甲高い悲鳴があがる。すぐさま声に反応し、シアは人混みに消えていった。いつものように後を追おうとするが、老女に無体を強いることはできない。わずかに逡巡したのち、ルカはエリシャを抱え上げてシアのあとを追うことにした。彼女は鷹揚おうように笑って腕のなかに収まる。不快にならないよう配慮し、小走りで駆け出す。

「そこの方。止まりなさい」

 喧騒のなか、シアの声は声を張りあげずとも凛と響く。

ややあって、人の隙間からひらりと黒が舞いあがる。人々の頭上をはるか高く跳躍したのは、見知った人物だ。人間離れした身のこなしに人々は声を失う。再び人混みに消えると共に、鈍い激突音がした。ルカは思わず痛みをこらえるように目をつむる。この音は、けして足止めなどという生易なまやさしい音ではないだろう。

「ルーカく―――ん」

 大声で名を呼ばれ、ルカは人をかき分けて声の主のもとへ急ぐ。

 シアは大衆の真ん中で、中年の男の背に座り腕をひねりあげ、とどめとばかりに手刀を入れて気絶させていた。男のすぐそばに、ちいさな女性用の鞄と短剣が投げ出されていた。目つき鋭く息の荒い男に周囲の人間は怯え、手を出せずに遠巻きにシアたちを見ている。どこから見ても年端もいかない少女に見えるシアの鮮やかすぎる手際に、引いている。

「万一危険があったらあかんから、この短剣拾って、危なくないよう包んでて」

 平素と変わらぬ調子でシアはそう言った。老女を地に降ろして、言われたとおりにする。

「刃物って野蛮やばんやし、嫌いやわ」

 ついでに、女性用の鞄を手に取る。これが盗まれたのか。そして静止に従わなかった犯人が刃物を出したため、シアが実力行使に出たのだろう。たしかにこれだけ大勢の人間がいるなか刃傷沙汰じんしょうざたが起こるのは恐ろしいことだ。けれどなにより恐ろしいのは、刃物を持った人間にためらいなく飛び蹴りをするシアだ。

「ありがとうございます」 

 人垣を縫って、女性が目の前に現れ深く頭を垂れた。顔をあげて、シアとルカを交互に見て目を丸くする。ひったくりを捕まえたのが、まさか自分より幼い少女だとは思わなかっただろう。髪を綺麗に結い上げた女性をみると、母をすこし思い出す。目の前の女性を見て懐かしい気持ちになりながら、鞄を手渡した。

「警吏がくるまで待つ時間ないので、だれか代わってくれません?」

 シアはというと女性に目もくれず、周囲の人間に要求する。ためらいがちに、シアの二倍はあろう恰幅のよい男性が名乗り出た。シアはじっとその顔を凝視したのち、代わるように促す。少女らしからぬ堂々たる貫禄かんろく気圧けおされながらも、男性は言われるがままだ。微笑みをうかべて会釈し、シアはルカの手をとった。なにごともなかったようなかるい足取りで、シアはその場から離れる。エリシャはだまってうしろについてきた。

「そんなに急いで、どこにいくんですか?」

 尋ねると、シアはふりむいて首をふる。

「あんな目立つとこおったら、捕まる可能性があるから逃げたの。おばあちゃん、そろそろどこがいいか教えてくださいな」

 問われたエリシャは、ゆっくりと思考を巡らせたのち口をひらいた。

「まずはテレサかね。あと、アガタ、レアン……キオヌス」

 次々と挙げられた名前を聞き、シアは真剣にうなずいた。てっきりルカは、どこか決まった行き先にむかっていたのかと思っていたが、そうではなかったらしい。

「エリシャおばあちゃん、いつもありがとうございます。では、いってきます」

 出会ったころのように、シアはエリシャと抱擁をかわす。身を離すと、なんとシアはルカにもそれを求めてきた。黙って笑みをうかべるエリシャにおずおずと近づき、ルカは身を寄せる。衣から、嗅いだことのない薫香くんこうが立ちのぼった。耳元で、別人のように低い声がささやいた。ひやりと急激に体温が下がる。

「この国にはおまえの因縁と似た者が寄り集まっている。見るものすべておのれのものとし、自らをかえりみる財とせよ。たゆまず己を鍛え、律し続けることを忘れるな」

「………はい」

 息がつまりそうな圧迫感に、ルカは返事をするのがやっとだった。シアをみると、平素と変わらぬ表情でこちらを見ている。深く肺に息をとりこむと、笑顔のエリシャが先程と変わらぬ声音で言った。

「しっかりおやり」

「では、またのちほど伺いますね。じゃ、ルカくんいこ」

 何事もなかったようにシアはルカの手をひいた。エリシャは人混みのなか、ゆったりと手を振って見送っている。

「よかったね」

 シアが手をぶらぶらと遊ばせて歩きながら、ルカを見上げた。

「エリシャおばあちゃんの言うことは、ためになるし、よく当たるんよ。教会のひともそうじゃないひとも、自分のことなにか言ってほしくていっつもまとわりついてくるくらい。ああやって、対一で言葉かけてもらえるのはめずらしいから、よかったね」

 たしかに預言よげんめいた言葉だった。そんなに貴重なことなのであれば、礼のひとつでもいうべきだったかもしれない。平素とあまりにも異なる恐ろしい声音に萎縮してしまっていた。よく思い出し、忘れぬように心に留めることを誓う。

「だから、わたしこの国にきたら最初におばあちゃんに会って、だれのところに足を運ぶのがいいか聞かせてもらうんよ。昔――神様と通じることができていた時代に、教会で神託しんたくを受けてたひとやねんて。もう引退したけどいまでも勘はよくあたる。おばあちゃんは、見えざるものに言わされてるっていうけどね」

 カグラの言葉を思い出し、納得する。世界には、特別な人間はたくさんいる。信仰とは疎遠そえんな環境で育ったルカには、そういったものを信じることができないだろうと思っていた。しかし、実際に会うと直感が本物であると告げる。きっとエリシャは本当に神託をうけていただろうし、よく当たるというのも事実なのだと、膚が感じた。

「すごいひとだったんですね」

「うん。わたしのばあばのお友だちやからね」

 距離の近さはそのためか、と納得する。ふとシアのいうばあばはいまどこにいるのかと疑問がうかんだ。しかし、なんとなく口にするのははばかられて、ルカはシアとともに目的地へとむかった。



 夜も更けたころ、シアとルカは家人と挨拶を交わしたのち通りへと出た。体の芯から冷えるような気温のためか、人々は家路についている。

あれから、シアの予定は過密をきわめた。夕刻から立て続けに五戸の家庭を訪問した。すべて家人と会話をこなしながら、高所の掃除やまき割り、倉庫の整頓、幼児の入浴に老人の介護、最後はぐずつく赤子を寝かしつけまでしていた。それ以外にも、こんなところまで、という細やかさでシアは余所の家庭内を動き回る。長年ともに過ごした家族の一員のようにシアはその場に馴染んでいた。

その間、しっかりルカにも仕事が割り振られた。簡単な作業ばかりだが、けして手持ち無沙汰になることはない。手が空く絶妙な瞬間に次の指示がくる。忙しさに目が回りそうであったが、他人からこんなに礼を言われたのは初めてで、心地よい達成感に満たされた。

「今日はほんまにいろいろ動いてくれてありがとうね。おかげでたくさんのおうちでいろんなお手伝いすることできたから、嬉しい」

 寒さを凌ぐためにすっぽりとかぶった外套がいとうの隙間から、シアがルカを見上げてねいらいの言葉をくれる。なんだか信じられない思いでいっぱいだった。

「こんな俺でも、人の役に立てることがあって……良かったです」

 ふわりと微笑んだシアはルカに手を伸ばして、ぽんとあたまを撫でてくる。心地よさに目を細めた。

「すごい助かったよ。みんなもわたしも」

「……なにかできることをしたいなって思っていたんです。けど、巡回って言っていたから、専門的なことだったらどうしようって心配していたんです。けど、特別なことはなんにもなくて、ふつうのことばかりで。これなら、これからもお手伝いできると思います」

 シアはゆっくりと歩き出す。しんと静かな異国の街並みは、眠りについたかのようだ。人が消えただけで、見違えるように空気が冴える。鮮やかな藍の空に散りばめられた星々の輝きは、昔もいまも変わらない。それがとてもルカに安心感を与えた。

「教会や信仰やて言われても、よくわからんよね。教会の教え――法を大切に思う気持ちはある。けど、大事なのはそこじゃない。信仰もこの組織も、すべて元々は人々のためのものやから。やから何より、人の心に寄り添うことを大事にしたい。すこしの時間でも共有して、お話して、悩みとかも教えてもらって、いっしょに考えて。これが、それぞれみんなでできたら、手をとりあって仲良くできたら。特別な力なんかなくても、みんながみんなの力で幸せになれるはずなんよ」

 つないだ手をぶらぶらと遊ばせながら、シアは空を見上げる。吐き出される吐息が、白くうかびあがっては消えてゆく。

「なんも特別なことあらへん。だれでも人の力にはなれる」

 迷いのないまっすぐなまなざしには、強い信念がある。いつもシアは、自分の幸せを語らない。自らのためにあるはずの時間を、すべて他者にささげている。まるでそれがシアのやりたいことのようにひたむきだ。どうしてそんなにも他者に献身けんしんできるのか、ルカにはわからない。

「シアは、やりたいこととか、すきなことはないんですか?」

 立ち止まり、シアはまぬけな顔をした。鳩が豆鉄砲を食らったような顔の見本のようだ。そんなにもおかしなことを言ったつもりはない。

「やりたいことはもうしてるよ。おかげで毎日充実してるし、したいことしかせやへんし。強いていうなら、ルカくんといっしょよ。わたしはわたしを生かしてくれている世間様にご恩返しをすることが、わたしのいまのやりたいこと」

 なにをいまさら、とでもいうようにいつもの澄ました顔でそう言った。本当にそれが本心であれば、どう生きればそんな人間に育つのかが不思議でならない。

 ルカは質問を変えた。

「シアの好きなこととか、楽しいことってなんですか」

 今度は信じられないように怪訝けげんな表情になる。うんうん唸りながら、考え出した。

 だからどうしてそう悩むことがあるのか、ルカには信じられない。

「…………寝ることかなあ」

 絞りだすように出た言葉に、ルカは拍子ぬけしそうになる。

「たしかに、寝つきもいいし、気持ち良さそうに眠りますね」

笑ってそう言ったのに、シアはなぜかいまにも泣き出しそうな顔をしていた。シアは淋しそうな悲しそうな表情のまま、ルカを見ずに歩き出す。なにか余計なことを言ったのだろうか。

「寝てたら、夢見られるし、いろんなこと忘れられるもんね」

 かわいた声は、この話題を拒むようだった。

 なにを忘れたいのか、なにが嫌なのか。知りたくないわけじゃないし、教えてほしい。けれど、シアに不快な気持ちにさせたいわけじゃない。

「そういえば、あんなに泣いていた赤ちゃんをすぐ寝かせるなんて、すごいですよね。正直、シアが赤ちゃんだっこしてる姿が意外だったんですけど、子どもの面倒をみるの、上手ですね」

 取り繕うように話題を変える。するとシアは、何事もなかったようにこたえる。

「よう言われる。子どもは感情がきれいから、わたし嫌いじゃないんよ。わたしは無神経なところあるから、たくさん人と関わったほうがいいっていろんなひとがいうてくれて、それでよく孤児院に行って子どもたちの面倒見るようアグラくんに昔仕込まれたんよ。寝かしつけは、たぶんわたしの持ってる性質が、精神安定にむいてるからやとは思うよ」

「子守唄も、すごく優しくて綺麗でした。心地よく寝られるのは、歌もあると思います。クルマに乗っていたときも、うたってましたよね」

「わたしが、そのうたすきで………」

 シアが、ルカの手を強く握った。首を振り、自嘲気味に力なく笑う。

「ごめん。なんか、気ぃ遣わせてる。あかんね、わたし」

「そんなことないです。俺こそ……」

「わたしに気を遣わんでええからね」

 情けないのはルカだ。そして本当に気を遣っているのは、シアだ。もっと言いたいことを言えばいいし、不機嫌なら不機嫌と、不快なら不快と言えばいい。どこかまだ、ルカに対して遠慮がある。ひたむきなシアだから、近くにいるルカには弱音や本音をこぼしてほしい。もっと頼りにしてほしい。シアよりも歳下で、世間知らずで、頼りないだろう。でもいつかは、ルカがいて良かったと言ってもらいたい。すこしでも力になることができたのなら、それがきっとシアに対する恩返しになる。

 でもいまはまだ叶わない。シアが悪いのではなく、頼りがいのないルカが悪い。

「今日はルカくんおつかれさまやのに、ごはん遅なっちゃったね。でも、エリシャおばあちゃんが美味しいごはん用意してくれてはるやろから、楽しみにしてて」

 小路を抜けると、住宅街に辿りついた。整然とひしめく軒並みのなか、ベランダに黒と藍の飾り布がかけられた家の前で、シアが立ち止まる。

「ここがエリシャおばあちゃんち。しばらくここで寝泊まりさしてもらうの」

 シアは軽快に飴色の扉を叩いた。するとそれは、勢いよくひらいた。まぶしいばかりの笑顔と、快活な大声が出迎える。

「おかえり! 遅かったじゃないか!」

「アッくんやん」

 目を丸くするシアを、アグラは嬉しそうに笑いながら軽々と抱え上げ、子どもにするように高い高いをはじめた。だが、子どもにするにはあまりに勢いがある。

「うわわわ。やめてやめてこわいこわい」

「うーん、ちょっとは成長しているようだが……。ちゃんと食べているか? 重みが変わってないじゃないか! 筋肉が足りないんじゃないか?」

「そうかな。でもねあれから、ルカくんと山登りがんばってたんよ」

「おお! それは偉かったな!」

 まるで父と娘のようなやりとりだった。地面に降ろすと、大きな手のひらがシアの髪をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でた。マリアのときとは違い、シアはくすぐったそうな自然な笑顔でそれを受け入れている。ルカといるときは、またちがう気を許しきったような表情に、なんだか胸がもやもやとする。

「やあ、ルカ。久しぶりだな!」

「うわあ!」

 今度はまさかのルカが抱き上げられた。アグラには劣るが、シアよりはるかに重い体を、またしても軽々と高い高いする。重みをものともせず、勢いよく宙に投げ出されるため、大変心臓に悪い。いったいどんな腕力をしているのかと、末恐ろしくなる。そして、まったくシアとおなじように頭をぐしゃぐしゃにされる。

「いやあデカくなったなあ! うん、いい筋肉だ。良質な鍛練をした証拠だ。それに、なんだ。美人になったな!」

 最後は、あまり褒められた気になれない。けれど、悪気はなさそうなので苦笑に留めておく。シアは嬉しそうにアグラの袖をひいて報告する。

「ちゃんと能力の制御もすこしずつできるようになったんよ。人混み以外やったら、わたしが近くにおるときはさわってやんでも大丈夫になったし。いまも平気やろ?」

「おお! つい嬉しくて、シアとおなじようにしてしまった。そのようだ。シアとルカのがんばりの賜物たまものだな。すばらしい!」

 頭上から大きな手が覆いかぶさり、二人同時に頭を撫でられる。こうも臆面もなく、恥ずかしくなるほど大袈裟に褒められることはあまり経験がない。しかし、それはとても嬉しい。くすぐったさを感じながらも受け入れていると、シアが顔を強張らせた。何事かと思うと、ルカの頭からアグラの手が離れていた。しかし、シアの頭はがっしりと掴まれている。アグラは先程と変わりない笑顔だったが、筋張った手の甲には血管がうかびあがっていた。

 シアの顔色はこれ以上ないほど蒼白だ。

「お怒り……?」

「ああそうとも。――ニコライ!」

「うげ」

 カエルがつぶれたような声でシアはうめく。

すると、奥の扉から一人の青年が現われた。ひょろりとした長身に、濃紺の軍服をまとい、目深にかぶった軍帽をとる。薄氷色の瞳が、恨みがましげにシアを見つめた。

「僕もさすがに学習しているんですからね。こうなることを予想して、陛下にアグラさまの往診の日程をあわせて頂いていたんです。もう逃がしませんからね」

「いやや」

 シアは真っ向からニコライの視線をうけとめ、きっぱりと拒否する。しかし、アグラはそれを許さないように、手に力をこめた。

「うっ」

「今回、遠路はるばるニールまでクルマを走らせ迎えにきたニコライの気持ちを考えなさい。ルカが体調を崩したときで助かったんだろう。そんなときにお世話になった彼に対して、逃亡するなど不誠実なことをしてはいけない。謝りなさい」

 有無を言わせぬ口調に、シアは押し黙った。なにか言いたげにくちびるが動いていたが、ぐっと引き結ばれる。

「それに、陛下はお前のために三年も我慢してくださっていた。教会は陛下のご支援のもと全国規模で活動できている。陛下には大恩があるのだ。そして、その教会という組織に世話になったのは誰だ」

「…………わたしです」

「そうだ。受けた恩は返さなければならない。そして、その陛下の使者がニコライだ。ニコライの言葉を陛下のお言葉とし、きちんと言うことを聞くのだぞ」

「………………はい」

 傍から聞いていたルカにも、アグラの言葉が正論であることがわかる。巧みに自分の意志を主張していく彼女も、苦々しい面持ちながらうなずいた。大人に怒られた子どものように眉尻をさげたシアは、ニコライに向かって頭を下げた。その光景を見て、涙をうかべてニコライは口元を覆う。

「にっちゃんごめんなさい」

「うわわわアグラさまありがとうございますう~。僕、僕、こんな日がくるなんて……」

 本当に嬉しそうに飛び跳ねるニコライに反して、シアは不機嫌を隠そうともしない。じろりと見上げるシアに、ニコライは萎縮してアグラの陰に隠れる。アグラはシアの頬を持ちのように引っ張りながらたしなめる。なんとなく、彼らの関係が読めてきた。二人きりではけして見ることのなかったシアの表情が新鮮だ。ニコライに辛辣にあたるのは、気を許しているからだろう。なんとなくまた、ルカは淋しいような心地になった。

「シア、いい加減にしなさい。ニコライはもっと堂々としろ。おまえが頼りないからシアにめられるんだ。シアも、きちんと年上をうやまいなさい。ニコライ、用件を伝えろ」

 てきぱきと二人の間を仲介しながら、アグラは会話をすすめていく。

「はい! 陛下は、シアさまに蒼月宮に滞在するようにと仰られております!」

「いや」

 またも即答だった。シアの態度は一貫して冷淡れいたんだ。しかしすかさずアグラがたしなめる。

「シア!」

「それ、理由は?」

 挑みかかるように、シアはニコライに問う。鋭利な刃のようなまなざしに気圧されながらも、ニコライはしどろもどろにこたえる。

「国に貢献してくださるシアさまに最高のもてなしをとの陛下のご配慮です」

固辞こじします。わたしは国に尽くしているのではありません。そして、教会は原則として清貧せいひんたっとび、贅沢ぜいたくは禁じられています」

 慇懃いんぎんなまでに丁寧なシアの言葉が刺さる。とりつくしまもないその態度に、ニコライは涙ぐんで蹲り、アグラは頭を抱えている。どちらが年上なのか、本当にわからないやりとりだ。ため息をついて、シアはニコライのとなりへしゃがみこんだ。

「すぐ権力使おうとするからわたし嫌なんよ。だいたい一平民のわたしなんかにかまわんでも後宮もあるし、にっちゃんもおるやん。顔出すだけやったらあかんの? それとも信用できへんの?」

「知りませんよう、そんなこと。僕はただ陛下の命を果たそうとしてるだけです。だいたい、陛下は僕らのいうことなんか聞きません。いさめられるのでしたら、直接お願いしたいですよう」

 しくしくとすすり泣くニコライに、シアは困って眉根を下げた。ルカを上目遣いに見上げて、控えめに尋ねる。

「ねえ、ルカくん。蒼月宮に行ってもだいじょぶ?」

「え……?」

 シアの色素の薄い瞳がかげる。アグラは首をかしげ、ルカと顔を見合わせた。

「王宮っていうと見栄えも設備もいいけど、いろんなひとがいるんよ。多少ゴタゴタするし、後宮もあるし、すごく刺激が多いところよ。孤児院の比じゃない。そうならへんようにしたいけど……もしかしたらまた、倒れてしまうことがあるかもしらへん。それでもええかなあ?」

 そこでようやく、シアの頑なな理由がわかった。他人事のようにやりとりを聞いていた呑気な自分が、申し訳なくなる。正直、孤児院で倒れたときの記憶はあまりないのでルカはそれほど気にしていなかった。けれど、シアはいまも責任を感じているのかもしれない。シアに非はないというのに、そんなことまで心配させる自分が情けない。

「シア……。おまえ、ただの我が儘かと思ったらそんな配慮を……」

 目に涙をにじませて、アグラはシアの頭を乱雑に撫でた。涙でぐしょぐしょになった顔をあげたニコライも、懐から出した手巾で鼻水をすすった。

「お連れさまの体調をおもんぱかってのことだなんて……てっきり新手の嫌がらせかと……」

「今回はちがうよ。二人ともなんや失礼やわあ。わたしをなんやと思ってるん」

 シアは二人の生温かい視線に、眉根をよせてぼやく。そしてルカをふたたび見上げてこたえを待っている。シアの懸念けねんもわかるが、ニコライは国王の命を果たせずに困るかもしれない。アグラだって、教会はこの国に恩があるからシアには国王の命に従ってほしいと願っている。ルカの個人的な都合よりも、そちらを優先すべきだろう。

 ルカもしゃがみこみ、シアと視線をあわせた。安心させるように笑う。

「俺なら大丈夫です。シアの都合を優先させてください」

「……ありがと」

 安堵したようにシアは笑う。口では冷淡なことを言っていたが、本意ではなかったはずだ。くるりとニコライとアグラに向き直る。

「そゆことだから、行くわ」

「ありがとうございます~!」

 ちょっとそこまで、という気安さで言うシアに、ニコライは諸手をあげて喜ぶ。ご近所ではなく蒼月宮というおよそ一般人には疎遠な場所だが、シアには関係ないようだった。つい、まわりの状況と雰囲気で大丈夫だと言ってしまったが、不安はある。ルカは田舎の出身で、母から一通りの礼儀作法をしつけられてはいるが、完璧とはいえない。さらに異国の作法となると、どこまで通用するかわかったものではない。

「だいじょぶよ。陛下は変わってるけどあんまり細かいことは気にせえへんひとやから」

 シアは穏やかにルカの懸念を読み取り、こたえた。時折、心を読まれているのではないかとひやりとすることがある。けれど肝心なところでとんちんかんなことを言うので、けして心を読めるわけではないだろうが。

「陛下に対してなんて言い草をするんだ!」

 憤然とたしなめるアグラに対し、シアは大あくびをかみしめる。

「アグラくんは知らんだけなんよ。で、もういまから行くの? こんな時間から会わなあかんの? もうさすがに眠たいんやけど」

「もうなんでもいいです来ていただけるのなら! 多少は陛下に交渉します!」

「おっ、にっちゃん話がわかる。そゆとこはすきやわあ」

「いえいえ、そのくらいはがんばりますよ! ささっ、行きましょう!」

 先程の攻防から一転、シアとニコライはにこにこと笑いあい、出かける準備をはじめた。先程の冷淡さがまるで嘘のように和やかな会話だが、ルカの眉間に力がこもる。

「ん? どうしたルカ。腹でも減ったか? 綺麗な顔が台無しだぞ!」

 そうかもしれない。もう夜中だというのに、結局なにも食べていない。だが空腹よりも不快感が気になった。腹の底がぐるぐる渦巻くような奇妙な感覚に襲われる。

「せやわ。ごめんねルカくん。にっちゃん美味しいお夜食も用意してあげてね」

「了解であります!」

 いくら眉間を揉んでも、なぜか力が抜けなかった。


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