二章
天窓のステンドグラスから、色とりどり光りがやわらかく差してくる。
一室の最奥、白くうかびあがるのは、教会が
初めて踏み入れた教会という場に緊張していると、勢いよく背後の扉がひらいた。
「はじめましてぇ、ニール公国教会本部のマリアよぉ。いやあん、めちゃくちゃ美少年じゃなあい。シアちゃんの体質のことを研究したりぃ、サポートしたりしてまあす。ルカちゃんのこともぉ、おねえさんにいっぱい教えてほしいなぁ~」
言いながら、声の主は脇目も振らずにとなりに
「あの、離してあげたほうが……」
「いやよぉ、久しぶりなんだもぉん。このもちもち感を楽しんでからじゃないとぉ。ルカちゃんはふだんから楽しめるけどお、わたしは滅多にできないんだからあ」
満面の笑みで言うマリアは、とんでもなく自分本位で強引だ。引きつりそうになる表情をなんとか笑顔にして、ルカは反論する。
「いや、俺はそんなことしません。シアは愛玩動物じゃないんです。意志を尊重してあげてください」
「いやよぉ。だってえ、ルカちゃんにかまけてぜえんぜん本部に顔出してくれないから、もう三年も会ってなかったんだもーんっ」
シアより頭ひとつぶん高い長身と、
「……だから本部くるん嫌やねん。このゴリラ女」
「もぉ~、素直じゃなあい。でもぉ、そこがか~わいい~」
もはや
「失礼します」
ルカは見かねて、懸命に突っぱねるシアの腕をとり、抱えあげる。意外なほどたやすく、マリアはシアを解放した。抵抗されることを見越して力をこめたので、勢いよくシアはルカの胸に飛び込んできた。当のシアは一瞬の出来事に目を白黒させている。
「ルカくん、ありがとう。ゴリラがうつるとこやった」
「いやぁん、つれないんだからぁ!」
心底
こうしてみるとますます人間を警戒する猫そのものだ。すこしでもシアに懐かれていると思うと、嬉しくなる。胸中を読み取ったかのように、マリアが含み笑いをしていた。幸い背後に隠れるシアは気づいていないが、ルカは急いで表情を取り
「まあいいわぁ、本題だけどもぉ」
マリアが
「アグラちゃんやカグラちゃんから報告はあったけどぉ、信じられなかったのよぉ。シアちゃんの存在も信じられなかったんだけどぉ、実際に精神が
ふざけたような口調だが、本質を突く問いだった。なんと答えるべきか
「今日こっちにくるときは、用心してルカくんには顔を隠して人目につかないようにしてきた。真面目やし、ずいぶん成長したとは思うよ。やけど、まだその結果を確認するところまで踏み込めてないんよ」
よく通る声でこたえたシアに、マリアは満足そうにうなずき、上質な
「でーもぉ。それじゃあ、困るのよねえ。ねえルカちゃん、各地にシアちゃんによる鎮静を――救いを求めるひとたちはたくさんいるのよねえ。シアちゃんを独り占めにされるとみいんな困っちゃうの」
やたらと明るい声なのに、ルカは氷を飲み下したかのように
すると、力強く手を握られた。思わずシアを見ると、月色の瞳とかちあう。無言で首をふり、背を思いきり叩かれた。背筋が伸び、暗雲が晴れるような心地になる。
「わたしやなくても、人の心に寄り添うことはできるでしょう。第一救いなんて、人に求めるものとちがう。自らの心を救うべく添うて導くことこそ、教会の存在意義でしょう。特別なことはなにもいらん。ルカくんかて、心にまだ芯が入ってないだけでいずれは自分でなんとかしはるわ」
シアの声音は厳しくルカを刺す。ルカを庇いたてるようで、さりげなく釘をさすことをけして忘れはしない。精神を鍛えよ、というのはこういうことを指していたのだろうか。一心不乱に修行に励み、三年かけて変わった気でいた。しかし実際に人と相対すると自分の
「やあねえ、怒らないでえシアちゃあん」
ころりと声色をかえて、マリアはシアにしなだれかかる。
「つまりぃ、なにが言いたいかというと、またシアちゃんにも市井を巡回するように要請してくれって上からの指示があったのよぉ。さっき指摘したことは、当然したうえでのお願いよぉ」
言われて、シアは戸惑ったように首をふる。めずらしく瞳が不安げにゆらめき、弱々しく言葉をつむぐ。
「怒ってはないよ。まあ、世間から離れすぎてたのは事実やし」
「そうなのよお。これまで、定期的に行ってくれていたところがあるでしょお? そちらからも苦情というかぁ、要望というかがきててぇ、大変らしいのよぉ。上客、いるでしょお?」
殊勝に
「だいたい客ちゃうし。教会にとって上客やろ。ほんであんたにわたしを呼び出させたん? 相性悪いん見越して」
「ひどぉい~、わたしこんなにシアちゃんがだぁいすきなのにぃ。それにぃ、それだけじゃないわぁ。やっぱりルカちゃんのこともぉ、ちゃんと調べておきたいのよねぇ」
「俺、ですか?」
「なんでルカくんなん」
放った声は重なり、ふたりは顔を見合わせた。
「仲良しさんねぇ。ルカちゃんが起こしたのとおなじ現象が多発しているっていったじゃなあい。いま、あの村は平和そのものよぉ。ルカちゃんが去ってからはね。ということは、一因があなたにあるってことでしょ。すべての出来事が、ルカちゃんが原因だとは言わないけれど、今後のためにルカちゃんを調べれば原因の解明が見えるかも、ってことよぉ」
マリアの言葉は、道理にかなっている。そしてルカと同じような状況で救いを求めている人間がどこかにいるとしたら、自分のように救われてほしいと思う。そしてそのためにルカができることがあるのなら、喜んで協力したい。気になるのは、どこかシアが乗り気に見えないことだ。
「俺にできることがあるのなら、喜んでします」
「ほんとぉ? ルカちゃんてイイコなのねえ。おねえさん助かるわあ」
満面に喜色をうかべたマリアがルカに手を伸ばすと、頭を撫でられる。ルカやシアよりは年上なのだろうが、外見からも人格からも年齢が
「きちんと診断、調査内容は事前に本人に確認してからやってや」
「わかってるわよぅ。もぉ~そんなコワイ顔しちゃいやあん。可愛いお顔が台無しよお」
溜息交じりに念を押したシアに、上機嫌でマリアがこたえる。上着の裾が引かれたかと思うと、このうえなく真剣な表情のシアがルカを見ていた。
「わたしも昔にしたことあるけど……あんまり、気分いいもんちゃうから、ほんまに嫌やったらちゃんと言わなあかんよ」
不謹慎にも、彼女が案じてくれている、という事実が嬉しくてついルカは表情がゆるむ。安心させるように、視線を同じ高さにして笑いかける。
「大丈夫です。俺も迷惑かけてきたのですから、多少は仕方ないでしょう。それに、普段から鍛えてもらっているから、大丈夫ですよ」
「そうと決まれば早速とりかかるわねえっ。シアちゃんは事務部にいってらっしゃあい。事務長がお呼びよぉ。巡回にまわる地区のことも手配してくれているみたい。見送ったあと準備にとりかかるから、悪いけどルカちゃんは待っていてねえ」
「見送りとかいらんわ。はよしなさいよ」
捨て台詞を残して、シアはマリアに連れ去られていった。
重厚な扉がしまる音が、いやに響き渡る。とたんに、あたりは静寂に包まれた。黙してたたずむ神像も、息がつまりそうな外壁も、どこに目をやるにしても落ちつかず、ルカは天を仰いだ。
そこで気づく。ただ色鮮やかなだけに見えたステンドグラスは、なんと一枚一枚図柄が違っていた。興味深くなり、ルカは目を凝らす。
その下、左手に位置するガラスには、
右手には深い森と、藍の荒波の前に立つのは、厳めしい面立ちの人物。頭に頂く冠は、
最後の一枚は、衝撃的なものだった。
すべての人物がその一枚に集結していた。蒼海の王の手には、鋭い
「それはねえ、古代の伝承をあらわしたものなのよぉ」
やわらかな声とともに、扉がひらく。さまざまな容器や器具をのせた荷台とともに、マリアがやってくる。美しい容姿は、厳重そうな防護面によって隠されており、声を聞かなければだれだかわからなかっただろう。
「あるところにぃ、三人の王がいたわぁ。自我を持つ生き物を生み出す南海の王。植物を育む北海の王。世界の真ん中の孤島には、自然界の混沌を
防護面の隙間から、笑みに細められた瞳がちらりとルカを見た。
「混沌は、人間が当たり前のようにもつ五感がないとされていたらしいわぁ。美しいものも見えず、心打つ
そこまで言い切り、マリアは勢いよく防護面を脱いだ。白衣のポケットから錠剤を取り出し、荷台に用意されていた水で飲み下した。
「あなたの力、よくわかったわぁ。これ以上はだめねぇ、うーん、不思議な感覚だわぁ。あなたを見てると胸がざわついて、感情が
あっけらかんと言うマリアに、ルカは
「そう……ですか。あの、いまのんだのは一体……?」
「鎮静剤よぉ。用意しておいてよかったわぁ。調査する側のわたしが冷静じゃなかったら、きちんとしたデータが取れなくて困っちゃうもの」
それを聞いて、その手があったのかとルカは目から
「いまからぁ、採血とぉ、口内の細胞とるのとぉ、質疑応答。それでえ、あとは対人実験。口内の細胞は、口の中の細胞を棒で撫でとるだけだからぁ、すぐおわるわぁ。対人実験というと聞こえが悪いけれど、ルカちゃんと面識のない教会の会員とふつうにおしゃべりしてもらうだけよぉ。こんな感じだけど、いいかしらぁ?」
「はい、問題ありません」
いいひとじゃないか、とルカはマリアを見直した。シアに釘を刺された通り、親切に説明してくれている。正直ルカは、なんであろうと黙って協力するつもりだったのだ。じゃあさっそく、と右腕をとられて、てきぱきと採血される。
「シアちゃん血の気ないから、昔これで倒れたのよぉ」
懐かしそうに目を細めるマリアの表情は、慈母のようにおだやかだ。そう警戒するような人間にはどうにも思えない。カグラもマリアほど押しの強さはないが、シアを可愛がっていた。だが、可愛がれば可愛がるほど素っ気ない態度をとっていたように思える。シアは追われたら勢いよく逃げてしまうのだろうが、それはシアに苦手意識があるだけだろう。
「あの子、変わったわぁ。あんなに感情的な子じゃなかったのよぉ。ふつうの女の子らしくなっていて、嬉しくなっちゃった」
その表情があまりに穏やかなので、ついルカもつられて笑ってしまう。
「そうなんですか?」
「そうよぉ。シアちゃんにとっても、あなたといるのは良かったみたいねぇ。あの子は、感情の起伏が本当になかったから、正反対の性質のあなたと相性がよかったのねえ」
口をあけるように促され、綿棒でついと口内を撫ぜられる。それも一瞬で、手際よく容器に密封し、マリアは器具を整頓していく。
「シアちゃんも、昔は大変だったの。特別な力を持って生まれるって、大変なことよねえ。だからあなたも、シアちゃんを変えたみたいに、きっとだれかの助けになるわぁ」
これまでシアに世話をかけてきた。それは変わらない。しかし、その過程ですこしでもルカがシアによい影響を与えていたなど、考えもしなかった。嬉しくて、言葉にならない。
「で、話を戻すけれどぉ。ステンドグラスの話を聞いて、ルカちゃんはどう思ったのぉ?」
ひたりと
せりあがってきた唾液を、呑みこんだ。鮮やかなステンドグラスをふたたび仰ぐ。
「綺麗だな、と思ってみたんです。でもちゃんと見て、マリアさんから説明を聞いて、また見ていると、怖いです。しかも、二人の王は善意から、そうしたんですよね」
「そうよぉ。悪意がなくても、
マリアはうなずく。自身にやましさがあるせいか、どうにも言葉に含みを感じてしまう。
「こわい顔をしちゃ、いやよぉ。このお話はねぇ、もともと人間の
「そうか。そういう戒めをこめた伝承なんですね」
なるほど、とルカは納得する。
「でもわたしはねぇ、なぜ天が人に考える力を与えたのかしらって思うのぉ。人間だって、自然の一部でしょお? よりよく生きるために知恵を絞って、そこから人に役立つ知識ってたくさん生まれているわぁ。その過程に、失敗はつきものよぉ。その失敗を踏まえて心理に辿りつくため
マリアの言葉には熱がこもっていく。つい話の流れから、ルカが責められるのではないかと身構えてしまった。けれど、そうではないかもしれない。話の意図が掴みきれず、ルカは注意深くマリアの次の言葉を待つ。
「一説には、混沌の王の死因は五感からあふれた情報の多さに耐えきれなかった、ともあるそうよぉ。目も口も耳も鼻も、突き詰めれば欲に直結するわぁ。生きるという意志さえ、立派な生き物の欲望よぉ。けれど人間という生物は、その欲望から進化を遂げてきたのぉ。教会の教えには反するでしょうけど、感情があるからこそ、人はよりよい道へ行こうとすることができるし、生きようとすることができるの」
不意に肩を強く掴まれる。マリアはずっと笑っている。なのに、不安になる。つくりものめいた、あまったるいにおいが鼻先をかすめた。
マリアの意図が、読めない。さきほどから、
肩から、マリアの折れそうなほど細い指先が離れる。くるりと身をひるがえし、出入り口へ歩き出す。遠ざかっていくというのに、残り香が離れない。おなじ女性でも、シアとはまったくちがった。彼女の香りはもっとやわらかく、心を穏やかにするなつかしい香りがした。マリアの香りが、ひどく不快に思えた。
ふと立ちくらみがして、荷台にすがる。それと同時に、扉がまた音をたてた。マリアが退室したのか、だれかがきたのかすら、わからなかった。
顔をあげると、四人の男女がそこにいた。いずれも黒衣に身をつつみ、首から数珠をさげている。そういえば、マリアがなにか言っていたような気がする。でも、そこにシアはいない。視界が
しっかりしろ、とルカは
そう思うのに、見知らぬ四人もルカも、互いに身動きがとれずにいる。もしマリアが優秀な科学者であるのなら、ルカにすらわからないこの現象を、ぜひ解明してほしいものだ。けれど昔のルカであれば、こんなふうに考えることもできていなかった。そう思うと、成長はたしかにしているのかもしれない。
「ものの限度を知らんゴリラやな」
視界を白いものが走る。
ガン、と殴られたかと錯覚しそうな音と震動に、急速に意識が引き戻される。鼻先にふれるほどの距離にあるのは、しなやかな筋肉に覆われた、なめらかな脚。
「いやぁん怒らないでぇ~。とことんしないと実証にならないでしょお?」
「やかましわゴリラ、ほんまなにしてくれとるん。無茶なことせらんでゆうとったやろ。またみょうちきりんなお香、つかったんやろ」
先程の不調がまぼろしのようだった。信じられない思いで、ルカは手を伸ばす。
ひんやりと吸いつく膚の生々しさとやわらかな感触に、体温が上昇する。女性の脚など、普段目にすることなどない。
「女性が軽々しく脚を出すもんじゃありません!」
「え、そっち?」
シアはきょとんと目を丸くしている。荷台に高々とあげられた彼女の脚を、無理矢理降ろした。黒衣のスカートでしっかりと足を隠す。
「荒っぽくてごめん。手っ取り早かったから」
殊勝に謝るが、やはりルカの行動の意図は理解していなかった。いつの間にか荷台を支えにしゃがみこんでしまっていたルカに、シアは手を差し出す。もうずっと、シアの態度は変わらない。シアはいまだにルカを、自分より弱く守るべき存在だと思っているようだ。それでもシアの好意を無下にするわけにもいかず、不本意ながら手をとった。
「ほんでも、ようがんばったね。手当かそれ以上の処置をせなあかんかなて覚悟してたんやけど、きちんと自分で抑えられてたから。すごいね、成長したね」
ふわりとシアは笑う。ルカも、つられて笑ってしまいそうになる。これまでの時間が無駄ではなかったと証明をもらえたような気がして、とても嬉しい。
ということは、この部屋の様子をマリアとシアは見ていたということだ。そしてシアとマリアの会話から察するに、あの人工的な香りは故意であったらしい。道理で、奇妙な感覚だった。もしやあの世間話から、すべてはじまっていたのかもしれない。あれがすべて意図して行われたものだとすれば、マリアは相当
「麗しい師弟愛ってやつかしらぁ~。いいわねぇ」
当のマリアは、
「もう油断せんから。さわらんとって」
「ぁいたたたた、いやぁんひどぉいこんなに愛しているのにぃ」
「ただただ気分悪い。会員の皆さんも、どうもすみませんでした」
魂を抜かれたように放心していた、四人の男女にむかってシアは頭をさげた。彼らもまた我に返ったように一礼し、
「言い忘れてて悪かったけど、こいつ
憤然と見上げるシアの姿に、気抜けする。だが、自分でも不思議なほどルカに怒りはなかった。
シアと離れた自分が、どのような状態になるのかを、知ることができた。不安はあるものの、成長を認めてもらえた。そしてマリアとの会話も、嫌なものばかりではなく、得るものも多かった。けれどこの結果が、この先にどう繋がるのかが気になった。
「いえ、いい機会でした。匂いで、ここまでのことができるなんて、すごいです」
「五感は人間を左右する大きな要素だものぉ。嗅覚は奥深いわよぉ」
マリアは得意げに笑い、シアが蹴り飛ばして散らかった荷台の上を片づけながら言う。
「カグラちゃんのいうとおりねぇ。わたしからしたらぁ、シアちゃんの特性よりは生き物らしいすばらしい特性だとは思うのだけれどぉ」
「どういうことですか?」
「あなたの持つ力は、生物が営みを続けるうえで大事な要素を持っているからよぉ」
「……それは、どういうことなん?」
シアが、
「
「ふうん。そういうもんなん」
相変わらず隙間から顔を出したまま、シアが目を輝かせる。
「ただね、ここからが問題なのぉ。シアちゃんの力は鎮める力だから、そもそも抑制することのほうが向いているの。でも、ルカちゃんの力は感情の促進だからぁ。抑制とは反対のものだからぁ、抑制となると、時間と労力がいるのかもしれないわねぇ」
生物学に優れているというだけあり、言葉に説得力がある。
ひょこりと、ついにシアがルカの陰から出てきた。
「ゴリラのくせにまともなことを……」
「あとはぁ、採血と細胞を詳しく調べたりしていくわねぇ。いちおう今後のことを考えて、いざというための鎮静剤をいくつか処方してあげるわぁ。ルカちゃんが使っても効果があるだろうし、異常が出た対象者にも使えるのぉ」
マリアが片目を
実はたいへん仲
「まあ、診察結果だけどぉ、やっぱりニコイチでやってもらうのが安全ねえ。ひとりにするには不安があるからぁ、そのまま二人で依頼したとおり市井の巡回にあたってもらうってことで大丈夫かしらぁ?」
ぐっと服の裾をひかれる。月色の瞳が不安げにルカを見上げる。
「なんかもう問答無用で申し訳ないねんけど、ええかなぁ?」
迷惑をかけているのはむしろルカだ。いつかカグラが言っていたように、ルカが、シアの人生を邪魔している。申し訳なく思うことなど、ひとつもない。
巡回がどんなものかはわからないが、せめてシアの助けになれるようにできることをしたい。生まれてこの方、
「そんな顔をしないで、シア。俺のほうこそ、すみません。できるだけ、シアを手助けできるようにがんばります。それに、すこし人のいる場所に出ることは、楽しみです」
ぽん、とつい頭を撫でてしまう。ふわふわとやわらかい髪が心地よい。シアはすこし不服そうな顔をしたが、されるがままだった。
「……ん。ありがと、ルカくん」
それを見たマリアが、なぜか黄色い声をあげる。
「やだやだ羨ましいわたしもやりたぁい」
「いらん。さわらんとって」
「とりあえずシアちゃん、孤児院行くでしょお? あとで処方したものは、部下に持っていかせるわぁ」
「それ……は、めっちゃ、助かる。……ありがとう」
シアは抵抗しようとしていたが、ありがたい申し出だったためか、マリアの手を拒めずに身を強張らせている。勝ち誇ったようににんまりと笑い、このうえなく嬉しそうにシアを抱きしめまさぐりまわす。
「あ、ちょ、こそばっ、やめ」
「やだぁ成長したぁ? 三年もたつとちがうわねえ」
「だまって。さわらんとって」
なんとなく、見てはいけないような気がしてルカはあさってのほうを見る。
「ん~、ちょうどいい仕上がりねえ。やっぱり鍛えているからかしらぁ?」
耳をふさごうかと思ったそのとき、破裂音がした。小気味よさすら感じる音に思わず二人を振り返ると、マリアが頬を赤く
「もうつぎはないから!」
「はぁ~い、待っててねぇ」
「あの、今日はありがとうございました。また、よろしくお願いします」
「機会があればね。シアちゃんをよろしくねえ」
かすかな声でマリアが言った。淡雪のようなはかなげな笑みが、妙に気になる。しかし去ったシアを追うのが先決と部屋を後にすると、彼女は壁に張りつくように小さくなってしゃがみこんでいた。
「おつかれさまです、シア」
声をかけると、シアはわずかに顔をあげた。
「取り乱してばっかりで、
「でも、俺はお話しできてよかったですよ」
じろりと睨まれたため、続きの言葉はのみこんだ。アグラやカグラなどにも対等に接し、どんな人間に対しても冷静かつ堂々、隙のない印象のシアより、さきほどのシアのほうが可愛げがある。それにマリア自身の、深い知識に裏打ちされた話はとても勉強になった。いろんなことを教えてもらい、なんやかんやで有意義な時間を過ごせたような気がする。
「ならええんやけど。昔お世話になった孤児院にいつも寄ってるんやけど、いっしょにきてくれる?」
シアがちいさな手を差し出す。往来を歩くときは、ルカとシアはかならず手を繋ぐ。あたりまえのように続けてきた習慣は、ルカにとってかけがえのないものだ。何年か経ち、自分の性質を抑制できるようになると、きっと手を繋ぐ理由はなくなってしまう。シアを自分に縛りつけたくはないが、それはとても淋しく思うだろう。
手をとるかわりに、ルカはシアを抱え上げた。変わらぬ体格だったころは支えるのもやっとであったが、いまでは容易く抱きあげられた。いつか離れるときを思うと、どうしても触れたくなってしまう。離れてしまっていても忘れないように、淋しくならないように、ルカは大切にシアを腕にしまいこんだ。目を丸くするシアに、提案する。
「疲れているみたいですし、こうして運びましょうか?」
「ううん。目立つからいらん」
「うわぁ……!」
小路を抜けた先、広がる景色にルカは感嘆の声をあげた。
一面に広がる薄紅色が空を覆っていた。枝先には、慎ましやかな花が、
「シア! これはなに?」
「
シアも桜を見上げる。彼女の瞳は色素がうすいため、鏡のように美しい光景が映されている。ふと、胸に疑問がうかぶ。
「シアはもしかして、東大陸の出身ですか?」
東大陸には、黒髪黒目が多い。四季をもつ大小の島国と小さな大陸から成る領土をもち、ルカのいる西大陸とは異なる文明が栄えている。先程マリアが得手とする調香という技術や、繊細で優れた伝統工芸をもつ。そして森羅万象に宿るという、目に見えぬものを重視している。しかし、ルカが生まれる以前、西大陸を統べる大国との
その戦争を境に各地に東大陸の民が急増した。ルカが物心ついたころには、さしてめずらしくもなく、彼らは社会に溶け込んでいた。アグラやカグラも恐らくそうだろう。
「うん。わたし東大陸の島の出身やし、なかなか
桜に目をむけたまま、シアはこたえる。そんなふうに思っていたとは思えなかった。ルカからすれば、おっとりとしたしゃべり方は可愛らしい。
「シアみたいな瞳って東にも多いんですか? その、綺麗な銀色の瞳」
ゆっくりとまばたきをして、シアはルカを見た。ふと目元がやわらぐ。
「ありがと。銀っていうと上等やけど、ただの灰色やん」
シアはルカの手を引きながら、歩き出す。なんでもないことのように話をつづけた。
「わたしも生まれつきは黒目やったよ。でも、六つのときかな。わたしの出身のとこ、もろに軍隊さんとか来て戦争激しかったとこやから被害すごくて、そのへんの記憶はないねんけど、そっからやって。こんな色になったの」
息が詰まった。あまりにも淡々とした口調が、さらにルカの胸を締めつけた。思わず、先をゆくシアの背中を抱きしめた。シアの肩が跳ね上がる。
「すみません。つらいことを」
「ぜんぜんだいじょぶ。自分で言うたし、それより歩きながら話そ」
そっと手をとり、さりげなく腕をほどかれる。だいたい、シアは触れられること自体好きではない。人目のある街中を歩くときだからこそ、こうして手を繋いでいる。常にシアには負荷がかかっているが、彼女はけして口に出さない。けれど、触れられることを当然に思ってはいけない。
「……すみません」
「謝らんでええよ。ふつうは、人肌とか体温とかに安心するもんやし、抱きしめたりするのって、心地いいことやし痛みがやわらいだりもするもんやって、知ってる」
まるで他人事のように、シアは言う。本当にその感覚がわからないのだろう。なんだかそれはとても淋しく、悲しいことのように思う。出会ったころこそルカも気恥ずかしさがあったが、あまりにもシアは淡々とふれてくるため次第に羞恥は薄まり、安堵感が強くなった。シアはやわらかく、あたたかく、よい香りがする。正直かなり、心地よい。だからつい、ことあるごとにふれてしまう。
「わたしがおかしいんよ。抱きつくってことは、それがええことやからするんやろ。ルカくんの感覚のほうが、そう。人間らしいし、生き物らしいんやわ」
変わらない口調だが、どこか自嘲気味に響く。表情こそ見えないが、きっと彼女はいつものように凛とまっすぐ前を見ているのだろう。なんと言葉をかけてよいかわからず、ルカはわからなかった。
桜の並木が途絶え、赤
「シアちゃんこんにちわ!」
シアの姿を認めて、子どものひとりが声をあげた。その声に反応して、ほかの子どもたちが集まってくる。駆け寄った子どもたちは、あっという間にシアを取り囲んだ。
「久しぶりやね。みんな元気しとる?」
心なしか、シアの声も嬉しそうだ。ルカと手をつないだまま、空いた手で子どもたちの頭を撫でていく。子どもたちも嬉しそうにその手を受け入れ、矢継ぎ早に声をあげる。
「みんな元気! シアちゃん、そのきれいなひとだあれ?」
「男の子? 女の子?」
「まつげ長いし目がおっきいしかわいい顔してる」
「なんで手をつないでるの?」
「こいびとってやつ?」
「シアちゃんかれしできたの?」
「かれしってなに?」
「こいびとのことだって」
「でもこいびとは、ひとめのないところでなかよくするってベルねえが言ってた」
「じゃ、こいびとじゃないの?」
「らぶらぶだったら、アキねえみたいにひとがいるところでもなかよしするって」
次々に出てくる言葉に、ルカは戸惑う。こんなに大勢の子どもたちをみるのははじめてだ。幼少期、村に同年代の子どもはほぼおらず、大人に取り囲まれても子どもに取り囲まれることはなかった。大人とはまた異なる勢いと甲高い声に、くらくらしそうになる。それを察してか、シアが強く手を握ってきた。すると、よく通る厳しい声が放たれる。
「静かになさい!」
「ベルちゃん、久しぶり」
ベルと呼ばれた妙齢の女性は、厳しい声とは裏腹におっとりとした容姿だった。垂れたまなじりは
「で、それは彼氏?」
「ちゃうよ。えっとね」
「いいのよ。あんたも二十歳だもん。いろんな人のために転々としてたら、そりゃあ、いい人もできるわよね……。いいのよ、わたしは。あんたの彼氏が予想以上に美男子だって、羨ましくなんかないんだから。みんなわたしより先に結婚してるのだって、気にしてないわ。アキは子どもつくるわあんたは美人捕まえてくるわ……」
ベルの言葉は、次第に重々しく熱を帯びていく。ルカはいったい、なにが起こっているのかまったくわからない。呆然とするルカに、事情を知っているのであろう少女たちが、遠い目をしたまま言った。
「うらやましくないけど、うらやましくてしかたないんだって」
「きのすむまでやらせてあげて」
すべてを悟ったような言葉には、なにか重みがあった。がくがくとゆさぶられながらも、シアは懸命に話そうとする。
「まって、ベルちゃん、落ちつこ。ちゃうゆうたやん。説明を」
「わたしだっていつかアキの旦那よりイケメンでシアの彼氏より稼ぎそうなひとと結婚してしあわせになるんだから――!!」
絶叫し、ベルは地面に泣き崩れる。
「びみょうに現実的な目標だね」
「シアちゃんの彼氏よりかっこいいひとみつけにくいし、アキちゃんの旦那さんより稼ぎそうなひとも見つからなそうだもんね」
「よくわかってるよね、ベルちゃん」
少女たちは冷静に分析している。そしてそっと、彼女らはベルの背中をさすりだす。ベルは涙声でその手を振り払う。
「あんたたち、同情するんじゃないわよぉ……っ」
すべてを冷淡なまなざしで眺めていたシアが、ベルのあたまを抱えるように抱きしめた。
「この子はルカくん。巡回で会って、症状がきついからいっしょにおるんよ。患者さんみたいなもんやって。いつも話をちゃんと聞かへんから、すぐ早とちりする」
二人の温度差は激しい。あれだけ色めき立った周囲とは裏腹に、シアはどこまでも冷静だった。するととたんにベルから気迫が抜け落ち、わかりやすく安堵しているようだった。少女たちは、どこか落胆しているようだった。しかしシアが〝患者〟と言ったとたんに、ルカに対する言及は途絶えたところから察するに、シアの性質は周知であるらしい。ルカの性質は説明に困るうえ、混乱を招くおそれがあるので、説明せずに済むのはありがたいことだ。
活発そうな赤毛の少年が、ルカの服の裾をひいた。
「にいちゃん、名前なんていうの?」
「あっ、ルカです」
「ベルねえはいつもこんなんだから、気にすんな」
「なんでおまえ、男のくせに髪伸ばしてんの?」
「いや……、その、なんとなく」
「シアちゃんは髪いつも短いけどな」
「伸ばさねえのかな」
口々に少年たちが取り留めのないことを話す。同年代とはいかないが、自分と年齢の誓い同性の人間と会話するのが新鮮で、つい嬉しくなる。
「シアは、首に髪がかかるのが嫌だっていうから、俺が切ってます」
「すげえ! 器用だな」
「シアちゃんはがさつだしな。どっちが男かわからねえ」
散々な言いように、つい苦笑する。たしかにシアは、思いきりのいい性格をしている。悪く言えばがさつともとれるかもしれない。知っているひとのことを、だれかと共有できるということがこんなに楽しいとは思わなかった。
「刃物使うのめちゃくちゃ下手くそだから、怖いんだよな」
「シアちゃんのフルーツタルトがめっちゃうまいんだけど、食べたかったら果物を切らねえと食べられないんだよな」
「そうなんですか?」
意外だった。刃物が使えないことも、料理ができることも、どちらも知らないことだ。そういえば、野営では非常食がそのまま並べられていた。よく考えると、加工するどころか刃物を加えることもなかった。たまに宿に泊まることがあれば、食事つきの所がほとんどだった。それがあたりまえになりすぎて、気がつかなかった。
「知らなかったのか?」
「料理しているところを見たことすら……」
「材料切ってたら、できるんだよな」
「もったいねえ。あれめちゃくちゃうまいんだぞ」
「おまえ、シアちゃんと仲良いだろ。作ってくれるか頼んでくれよ」
先程の赤毛の少年が、両手をあわせて懇願する。周囲の少年たちもそれに倣いだす。
つながったままの手をかるく引くだけで、シアは少女たちの合間を縫って、そっと寄り添ってきてくれる。
「どうしたんルカくん」
「あの、お願いがあって」
「めずらしい。なあに?」
なんとなく、面と向かって頼みごとをするのは気恥ずかしい気がしてきた。けれどいまのルカは、少年たちの願いを背負っている。
「時間があったら、シアのフルーツタルトが食べてみたいです」
シアは一瞬きょとんと目をまるくしたあと、あっさりとうなずいた。
「ええよ。待ってるだけやしね。だれから聞いたん?」
「えっとそこの、赤毛の彼とか、みなさんから、シアのタルトは美味しいって」
「あぁ、ラオくんたちかぁ」
ちらりとラオと少年たちを覗いて、シアは納得する。しかし、名を呼ばれたラオは驚き、少年たちはざわめきだした。おずおずと、ラオがシアに尋ねる。
「俺のこと知ってるんすか?」
「そら、おしめ替えたことあるくらいやのに」
シアがなんでもないことのように言い、ラオが頬を染めた。まわりの少年たちが茶化すなか、シアはつづけてふわりと表情をやわらげる。その表情を見た瞬間、少年たちは押し黙った。
「ルカくんと仲(なか)良(よ)おしてくれてありがと。いろいろあって外出られん子やったから、これからも仲良おしたってね」
無言で少年たちはうなずくが、シアはそれを確認することなくベルと少女たちに向き直り、何事かを話している。妙におとなしくなった少年たちを見て、ルカはひとり納得する。彼らは、シアの笑顔をあまり見たことがないのかもしれない。いつもの涼しげな表情からあの笑顔を見せられたら、無理もない。
「あんたら自分らでルカさんに言わせといて、なにボケッとしてんのよ」
ラオが、先程ベルを慰めていた少女のひとりに小突かれる。彼らとルカのやりとりがばれていたことに、ルカは衝撃をうけた。その光景を眺めていると、今度はシアがルカの手をひいた。屈むように要求されたかと思うと、耳元でささやかれる。
「ルカくんが良ければ、ちょっと様子見てみよと思うんよ。これからのこと考えたら、ずっと手を繋ぎっぱなしも怪しいし不便やし、ちょうどタルトつくることになるやろから、そのあいだ――あんま離れるのはこわいとこあるから、手は放してつかず離れずの距離間でどんなもんかやってみいひん?」
提案をうけて、ルカはためらいがちにうなずく。シアの意見はもっともだ。すこし不安はあるが、マリアに言われた言葉もまだ残っている。それをしっかりとらえて、シアは耳打ちをつづけた。
「まあ、この子らの様子次第でフォローはするから、心配せんと楽しんでね」
言われてようやく気づく。ルカと少年たちがより関われるように、配慮してくれたのだ。ルカは、胸の奥底から湧きあがってきた感覚をぐっとこらえた。くすぐったいような、あたたかな気持ちに、高揚してしまいそうだ。シアに礼を言おうとするときには、シアは数人の少女を引きつれて建物のなかへむかっている。そのあいだにも、ルカとの距離間を気にかけるシアの姿が、どうしようもなく嬉しい。
「いこうぜ」
ラオが、ルカの肩を小突いた。彼らと共に、ルカは小走りでシアの後を追った。
「あんたねえ、どうなってんの相変わらず!」
ベルの
彼女の目の前には、林檎がふたつ。ひとつは、うすく細く皮が剥かれた丸い林檎。
そしてその隣にあるのは、野生動物に
「ルカくんのほうが上手ってどういうことなのよ……」
「流血
シアはおっとりとルカを見上げた。さらりとぞっとすることを言う彼女に、ルカは微笑みを返すのが精いっぱいだった。いまのいままで、指を切り落とさんばかりの勢いで林檎を刻んでいたため、だれもが冗談とは思えなかっただろう。うわささえなければ、澄ました面持ちで、そつなくこなすように見えるのに、期待を大幅に裏切られた。
タルト生地と、アーモンドクリームをつくるまでは良かったのだ。真っ白なエプロン姿に身をつつみ、慣れた様子で工程をすすめていく様子に、シアもふつうの女性であるのだと思い知らされた。普段見ることのない家庭的な姿に癒された。タルトづくりの後半、果物を用意する際、周囲の反対を押し切りナイフを手にしたシアによって、和やかな空気が凍りついた。ほかの果物ならいざ知らず、よりによって彼女は林檎を選んだ。
「あんたのは、林檎の
「たまには背伸びして、実力を確認しとこかなって思って」
「なんの背伸びよ。練習とかはしてるの?」
「ぜんぜん。ね、ルカくん」
ふいに投げられた会話に、ルカは控えめにうなずくことしかできない。練習するしない以前の問題だ。シアに刃物を持たせてはいけないのだと思い知る。
「だいたい刃物嫌いやしね。手でちぎったらええのよ」
「どこの原始人なの、あんたは。もういいわ、シアはもう見学してて。あとはわたしたちで仕上げるわ。もうすぐ生地も焼けるしね」
すげなく追い払われ、シアはその場を離れた。窓際に背をあずけ、各々作業をはじめた少年たちを穏やかに眺める。
ルカは少年たちのなかで、果物を切っている。
けれどそこにいるのは、三年前とはまるで別人だ。小柄なシアとさして変わらなかったのに、ずいぶんと背丈が伸びた。枯れ枝のような手足は逞しくなり、軽々とシアを抱え上げる。可愛らしいやさしい声は、甘さを孕んだ低音になった。たったの三年で、ここまで成長を遂げた彼を嬉しく思う。けれど、どこか喜びきれない自分がいる。時折ルカが、知らない人間になったかのように思えて、不安になる。
ベルの指示のもと動く幼い子どもたちは皿やフォーク、飲み物の用意に勤しんでいる。焼きあがった生地を冷まし、クリームの用意をする少女たちが、ちらちらとルカの様子をうかがっている。思春期を迎えた少女たちには、あの美貌はまぶしいことだろう。とくに懸念していた彼女たちだが、目立って異変はなく、充分許容範囲の域である。
あたりにアーモンドクリームと生地の香ばしい香りが漂っている。食欲をそそる香りを胸いっぱいに吸いこむと、風に乗ってあまい香りが鼻腔をくすぐる。シアが窓の外に目をやると、やはり思った通りの人物がそこにいた。
「シアちゃんに会いたくってぇ、きちゃったあ」
マリアは小さな紙袋を差し出してくる。約束の錠剤だ。軽口はともかく、律儀なところは彼女のありがたいところである。調理に勤しむ彼らに気づかれぬよう視線をもどし、小さな声で素直に礼を述べた。
「ありがとう。そっちで待たんとこっちきて、良かったから」
「ルカちゃん、楽しそうねぇ」
「ほんまは、こんなふうに毎日さしたりたいねんけど、厳しいかな」
期待どおりの言葉は得られないだろう。けれど、つい尋ねてしまう。
「厳しいわねえ。この時間もきっと、あなたの目が離れたとたん、地獄絵図でしょうねぇ」
「……そうかなぁ。あのときは」
「あの香はただの引き金よぉ。素養は充分すぎるわあ」
シアが望む言葉をわかっているのに、けしてマリアはそれをくれない。よく知っているから、シアは口を噤んだ。どうせこれ以上話しても、またあのときのように不快な思いをするだけだ。
「それは、あの子の望むところなのかしらぁ」
「あの子の成長はきっとあなたよりも早いわあ。ルカちゃんはきっとあなたと違って自分の幸せを掴もうと
「そんなことっ……」
絞りだした反論は空回る。気配はとうに消えていた。窓を振り向くと、やはりマリアの姿はなかった。残り香だけが、ねっとりとまとわりつく。
「………ほんま、きらいやわ」
だれも聞こえないかすかな声で、シアはひとり吐き捨てた。
子どもたちのなかにいるルカには、十三の少年らしい笑みがうかんでいる。
中性的な生来の美貌はより輝きを増し、吸いこまれそうな魅力に満ちている。彼に特異な性質さえ与えられなければ、多くの人々に囲まれ愛され、苦労のない人生を歩めただろう。なんのために、なぜ彼が苦難ばかりの日々を送ることになってしまったのか、シアにはわからない。
少女たちが、切り分けたタルトを手にルカのそばにきて、同世代の少女たちと話をしている。
それはなんでもなくて、取るに足らない、世界中にありふれた光景。
いったいどうすれば、彼にこの日常を与えることができるだろうか。
「――ルカくん!」
ベルの悲鳴のような声に、意識が醒める。不覚にも、肝心な場所から意識が逸れていた。
談笑していたはずのルカは、少年少女の足もとで頭を抱えて蹲っていた。瞬時に場の混乱が頭を過ぎり、急速に体温が下がるような心地がした。けれど予想に反し、突如崩れ落ちたルカに対する混乱と不安、懸念する感情が渦巻いている。ルカが人々に精神影響を与えたとは思えない、小波のようなわずかな波しかシアには感じられなかった。
「シア……っ、ごめん、話していただけみたいなんだけど急に倒れこんで……っ」
ふるえる声でシアにすがりつくベルを手で制し、シアはルカのもとへ駆け寄った。
丸められたルカの背は広いのに、弱々しく感じられた。手を添えると、しっとりと汗がにじんでいる。こわばった背からわずかに力が抜けた。
「……シア」
疲労のにじむ声で、ルカが名を呼ぶ。額には汗の粒がうかんでいるのに、真紅の瞳はシアを映してやわらかく細められる。
「ごめん、ルカくん」
いくらルカに自らを制御する力が身についたといえど、彼は本来、影響を与えるだけではなく、影響をうけやすい。子どもにも当然、感情はある。孤児院の大半は幼児だが、思春期をむかえた少年少女も多くいる。人は成長とともに感情がより複雑になっていく。人数が多ければ多いほど、それぞれの感情は促進され、それはルカに還っていくのだ。
一方シアはふれあう面積が広ければ広いほど、無意識下に他者の感情を抑制できる。しかし、その空間や大多数に働きかける場合、シア自身が他者を鎮めようとする明確な意志が必要となるものの、効果を及ぼすことは可能だ。
彼らに好意はあれど悪意はない。見目麗しさに惹かれ、すこし話した程度だろう。
そんな
ルカの顔色は蒼白だ。肩で息をし、呼気は言葉を紡ぐこともできない。そもそも彼の性質は抑制に不向きだと推測されていたのだ。負荷は計り知れない。シアの手当てやふれあいが効果をなすのは、彼が制御不能に
「びっくりさしてごめんやで。ちょっと……その。痛み止め切れたみたいやわ。ほんまにお騒がせして申し訳ないんやけど、薬を宿に忘れてしもたから、今日は帰らしてもらうね」
「そんな……。シアひとりで、大丈夫なの?」
ベルが気遣わしげに手を伸ばす。口角をあげ、シアは首をふる。ルカの懐にもぐりこみ、全身でルカを支えて立ち上がった。じっとりと布を越しに彼の熱を感じる。ルカの衣服はすでに汗がしみている。ずいぶんと熱い。きっとかなりの高熱だ。立つのもつらいのだろう。シアを気遣ってなんとか自分でも体を支えようとくれている。正直、ほとんど身体が出来上がってきたルカを支えるのは大変なのだ。
人の手を借りたいところだが、それはまた彼の負荷となってしまう。
「だいじょぶ。平気。またくるから、仲良くしたってね」
ラオたち少年に目を向けると、その目に動揺が揺らめいている。それも無理はない。ふだんあまり目にしない光景に戸惑ってしまうだろう。
けれどどうか、このことを機にルカと距離をつくらないでほしい。
身勝手な自分の願いに、呆れてしまう。
「そんな顔しなくても、大丈夫だって」
ぽん、とラオに頭を撫でられた。思いもよらぬ言動に虚を突かれ、シアは目を丸くする。いったい、自分がどのような顔をしているのかもわからない。
「忙しいだろうけど、また二人で遊びにきてくれよな」
少年たちが、にかっと笑う。快晴のようにあたたかい心が、そこにある。
彼らのことは、乳飲み子であるときから知っている。この孤児院は、教会に属して間もないころ、アグラに連れられて以来、期間はあけつつも
ベルだって、昔とは違う。彼らもルカも、みんな変わっているし、変わっていく。それがすこし不安だった。けれど、悪いことばかりではない。
シアの不安を察して、それを解消しようとする姿勢が嬉しくて、頼もしい。そんな心遣いができるようになったのかと思うと、感慨深い。
人間の感情は雑多で、醜悪な部分を感じることのほうが圧倒的に多い。けれどこの瞬間、人間のもつ
「ほんまに、ありがとう」
気合を入れなおして、シアはルカを支えて歩き出す。もうそろそろ、ルカも限界だろう。人の少ない場所でゆっくり休ませなければならない。
もう二度と、こんな失態を犯すわけにはいかない。自らの不安や希望なんてものに惑う時間などいらない。進まなければ、道にすら辿りつけない。
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