二章

天窓のステンドグラスから、色とりどり光りがやわらかく差してくる。堅牢けんろうそうな石づくりの外壁に覆われた室内で唯一、見る者に癒しを与えるものだ。天井ははるか高く、見上げれば広い空間に思える 。しかし視線を戻したとたん、けして狭いわけではないのに、どこか圧迫感を覚える。

 一室の最奥、白くうかびあがるのは、教会があがめる神の偶像だ。石膏せっこうでできたその像は女神をしており、その表情は想像に反し茫洋ぼうようとしたものだ。意志の見えぬ像なのに、ルカは見定められているような心地がして、どうにも落ちつかなかった。

 初めて踏み入れた教会という場に緊張していると、勢いよく背後の扉がひらいた。

「はじめましてぇ、ニール公国教会本部のマリアよぉ。いやあん、めちゃくちゃ美少年じゃなあい。シアちゃんの体質のことを研究したりぃ、サポートしたりしてまあす。ルカちゃんのこともぉ、おねえさんにいっぱい教えてほしいなぁ~」

 言いながら、声の主は脇目も振らずにとなりにたたずむシアに抱きつく。対してシアは条件反射のように、渾身こんしんの力でマリアの顔を手で突っぱねる。まるで人間にふれられるのを嫌がる猫のようだ。いつ張り倒しやしないかとルカは気が気でない。誰に対しても自分のペースを守ってかかわるシアが、あからさまに嫌悪をあらわにしている。

「あの、離してあげたほうが……」

「いやよぉ、久しぶりなんだもぉん。このもちもち感を楽しんでからじゃないとぉ。ルカちゃんはふだんから楽しめるけどお、わたしは滅多にできないんだからあ」

 満面の笑みで言うマリアは、とんでもなく自分本位で強引だ。引きつりそうになる表情をなんとか笑顔にして、ルカは反論する。

「いや、俺はそんなことしません。シアは愛玩動物じゃないんです。意志を尊重してあげてください」

「いやよぉ。だってえ、ルカちゃんにかまけてぜえんぜん本部に顔出してくれないから、もう三年も会ってなかったんだもーんっ」

 シアより頭ひとつぶん高い長身と、なまめかしい痩躯そうく。目鼻立ちの際立つ甘い風貌ふうぼうにくどいほどの色香をたたえたマリアは、見た目に反して幼い口調で首をふる。そのあいだにもシアは全力で抵抗しているようだが、マリアは笑顔で押さえつけて頬ずりする。一般人なら男性をもしのぐ体術をもつシアを押さえつける彼女はいったいどういう存在なのだろうか。

「……だから本部くるん嫌やねん。このゴリラ女」

「もぉ~、素直じゃなあい。でもぉ、そこがか~わいい~」

 もはや忌々いまいましげにつぶやくシアは、わかりやすい暴言を吐いている。けれど憐れなほどマリアに響かない。彼女と面会をはじめて五分とたたぬうちに、シアは明らかに憔悴しょうすいしている。はじめて会うルカにもよくわかる。この二人は相性がかなり悪いようだ。そして、優位は完全にマリアという女性にあるということも。

「失礼します」

 ルカは見かねて、懸命に突っぱねるシアの腕をとり、抱えあげる。意外なほどたやすく、マリアはシアを解放した。抵抗されることを見越して力をこめたので、勢いよくシアはルカの胸に飛び込んできた。当のシアは一瞬の出来事に目を白黒させている。

「ルカくん、ありがとう。ゴリラがうつるとこやった」

「いやぁん、つれないんだからぁ!」

 心底安堵あんどしたように、シアはするりとルカの後ろにまわり、マリアと距離をとった。

こうしてみるとますます人間を警戒する猫そのものだ。すこしでもシアに懐かれていると思うと、嬉しくなる。胸中を読み取ったかのように、マリアが含み笑いをしていた。幸い背後に隠れるシアは気づいていないが、ルカは急いで表情を取りつくろう。

「まあいいわぁ、本題だけどもぉ」

 マリアが葡萄ぶどう色の瞳をほそめて、ルカを見据えた。闇にゆらめく灯火ともしびのような、あらがいがたい蠱惑こわく的な輝きにたじろく。

「アグラちゃんやカグラちゃんから報告はあったけどぉ、信じられなかったのよぉ。シアちゃんの存在も信じられなかったんだけどぉ、実際に精神が鎮静化ちんせいかされるのを見たからこそ、やっと納得したのぉ。そうかと思えばぁ、ルカちゃんみたいに精神を高揚こうようさせるコが出てくるしぃ。カグラちゃんからかるく理屈は聞いていたけどぉ、わたしみたいなフツウの人間にはなかなか理解できてないのぉ。いまはシアちゃんのおかげで、抑制されてるんでしょお? で、シアちゃんが自分の力をなんとかしたときみたいにぃ、ルカくんも修行させてなんとかするっていうふうに報告があってぇ、それから三年でしょお。結局、あれからぁ、ほかの人と会っても大丈夫になったのかしらぁ?」

 ふざけたような口調だが、本質を突く問いだった。なんと答えるべきか逡巡しゅんじゅんしていると、シアがルカの前に出てくる。

「今日こっちにくるときは、用心してルカくんには顔を隠して人目につかないようにしてきた。真面目やし、ずいぶん成長したとは思うよ。やけど、まだその結果を確認するところまで踏み込めてないんよ」

 よく通る声でこたえたシアに、マリアは満足そうにうなずき、上質な金糸きんしのような長髪を優雅にきあげた。かと思えば、やいばがひらめくようにまなざしが鋭くなる。

「でーもぉ。それじゃあ、困るのよねえ。ねえルカちゃん、各地にシアちゃんによる鎮静を――救いを求めるひとたちはたくさんいるのよねえ。シアちゃんを独り占めにされるとみいんな困っちゃうの」

 やたらと明るい声なのに、ルカは氷を飲み下したかのように臓腑ぞうふが冷える心地がした。マリアはまっすぐにこちらを見ている。蛇に睨まれたかのように、動けない。かつての地獄のような日々がまざまざと蘇る。ルカはなにもしていない。けれど、ルカによって人々は自我を狂わされていた。そしてそれだけではなく、シアと過ごしたこの三年間に、ルカは人生を取り戻し救われた。しかしその陰でシアのたすけををまつ人々が、ルカのせいで救われなかったと思うと、罪を突きつけられた咎人とがびとのように、目の前が真っ暗になる。

 すると、力強く手を握られた。思わずシアを見ると、月色の瞳とかちあう。無言で首をふり、背を思いきり叩かれた。背筋が伸び、暗雲が晴れるような心地になる。

「わたしやなくても、人の心に寄り添うことはできるでしょう。第一救いなんて、人に求めるものとちがう。自らの心を救うべく添うて導くことこそ、教会の存在意義でしょう。特別なことはなにもいらん。ルカくんかて、心にまだ芯が入ってないだけでいずれは自分でなんとかしはるわ」

 シアの声音は厳しくルカを刺す。ルカを庇いたてるようで、さりげなく釘をさすことをけして忘れはしない。精神を鍛えよ、というのはこういうことを指していたのだろうか。一心不乱に修行に励み、三年かけて変わった気でいた。しかし実際に人と相対すると自分のもろさがあらわになる。

「やあねえ、怒らないでえシアちゃあん」

 ころりと声色をかえて、マリアはシアにしなだれかかる。

「つまりぃ、なにが言いたいかというと、またシアちゃんにも市井を巡回するように要請してくれって上からの指示があったのよぉ。さっき指摘したことは、当然したうえでのお願いよぉ」

 言われて、シアは戸惑ったように首をふる。めずらしく瞳が不安げにゆらめき、弱々しく言葉をつむぐ。

「怒ってはないよ。まあ、世間から離れすぎてたのは事実やし」

「そうなのよお。これまで、定期的に行ってくれていたところがあるでしょお? そちらからも苦情というかぁ、要望というかがきててぇ、大変らしいのよぉ。上客、いるでしょお?」

 殊勝に項垂うなだれていたシアだったが、とたんに視線が険しくなる。

「だいたい客ちゃうし。やろ。ほんであんたにわたしを呼び出させたん? 相性悪いん見越して」

 剣呑けんのんなまなざしをさらりと受け流して、マリアは笑う。おどけたようにまたしても抱きつこうとするが、今度はすばやくシアが距離をとった。

「ひどぉい~、わたしこんなにシアちゃんがだぁいすきなのにぃ。それにぃ、それだけじゃないわぁ。やっぱりルカちゃんのこともぉ、ちゃんと調べておきたいのよねぇ」

「俺、ですか?」

「なんでルカくんなん」

 放った声は重なり、ふたりは顔を見合わせた。

「仲良しさんねぇ。ルカちゃんが起こしたのとおなじ現象が多発しているっていったじゃなあい。いま、あの村は平和そのものよぉ。ルカちゃんが去ってからはね。ということは、一因があなたにあるってことでしょ。すべての出来事が、ルカちゃんが原因だとは言わないけれど、今後のためにルカちゃんを調べれば原因の解明が見えるかも、ってことよぉ」

 マリアの言葉は、道理にかなっている。そしてルカと同じような状況で救いを求めている人間がどこかにいるとしたら、自分のように救われてほしいと思う。そしてそのためにルカができることがあるのなら、喜んで協力したい。気になるのは、どこかシアが乗り気に見えないことだ。

「俺にできることがあるのなら、喜んでします」

「ほんとぉ? ルカちゃんてイイコなのねえ。おねえさん助かるわあ」

 満面に喜色をうかべたマリアがルカに手を伸ばすと、頭を撫でられる。ルカやシアよりは年上なのだろうが、外見からも人格からも年齢がうかがえないふしぎな女性だ。

「きちんと診断、調査内容は事前に本人に確認してからやってや」

「わかってるわよぅ。もぉ~そんなコワイ顔しちゃいやあん。可愛いお顔が台無しよお」

 溜息交じりに念を押したシアに、上機嫌でマリアがこたえる。上着の裾が引かれたかと思うと、このうえなく真剣な表情のシアがルカを見ていた。

「わたしも昔にしたことあるけど……あんまり、気分いいもんちゃうから、ほんまに嫌やったらちゃんと言わなあかんよ」

 不謹慎にも、彼女が案じてくれている、という事実が嬉しくてついルカは表情がゆるむ。安心させるように、視線を同じ高さにして笑いかける。

「大丈夫です。俺も迷惑かけてきたのですから、多少は仕方ないでしょう。それに、普段から鍛えてもらっているから、大丈夫ですよ」

 憮然ぶぜんとしたままシアは口をつぐんだ。するとマリアが割って入ってくる。嫌悪をあらわにするシアの肩を抱き、意気揚々と出入り口へ誘う。

「そうと決まれば早速とりかかるわねえっ。シアちゃんは事務部にいってらっしゃあい。事務長がお呼びよぉ。巡回にまわる地区のことも手配してくれているみたい。見送ったあと準備にとりかかるから、悪いけどルカちゃんは待っていてねえ」

「見送りとかいらんわ。はよしなさいよ」

 捨て台詞を残して、シアはマリアに連れ去られていった。

重厚な扉がしまる音が、いやに響き渡る。とたんに、あたりは静寂に包まれた。黙してたたずむ神像も、息がつまりそうな外壁も、どこに目をやるにしても落ちつかず、ルカは天を仰いだ。

 そこで気づく。ただ色鮮やかなだけに見えたステンドグラスは、なんと一枚一枚図柄が違っていた。興味深くなり、ルカは目を凝らす。

 菱形ひしがたの天窓は、四つに区切られていた。頂点に位置するガラスには、緑あふれる孤島に、色彩も顔のない人物がうずくまっている。その人物だけが不自然にくすんだ材質の硝子ガラスが使われている。対して孤島をかこむ海は七色に輝き、幻想的な光景を描いている。

その下、左手に位置するガラスには、豪奢ごうしゃな建造物ときらめく蒼海そうかいを背に立つ、穏やかな面立ちの人物がいる。頭に珊瑚さんごや貝殻でできた冠をかぶっている。どこかの国の王だろうか。

右手には深い森と、藍の荒波の前に立つのは、厳めしい面立ちの人物。頭に頂く冠は、いばら薔薇ばらで出来ている。こちらも、高貴な人物であると読み取れる。この二枚がここまで緻密ちみつに描かれているというのに、なぜ最初の一枚だけの人物に顔がないのか、それが気になった。

最後の一枚は、衝撃的なものだった。

 すべての人物がその一枚に集結していた。蒼海の王の手には、鋭いのみが握られていた。荒波の王の手にも、同じものがある。二人の王の鑿は、顔のない人物に向けられている。顔のない人物は、血を流していた。本来人間がもつ二つの目、二つの鼻の穴、口、両耳――七か所から。しかも二人の王は、笑っているのだ。

「それはねえ、古代の伝承をあらわしたものなのよぉ」

 やわらかな声とともに、扉がひらく。さまざまな容器や器具をのせた荷台とともに、マリアがやってくる。美しい容姿は、厳重そうな防護面によって隠されており、声を聞かなければだれだかわからなかっただろう。

「あるところにぃ、三人の王がいたわぁ。自我を持つ生き物を生み出す南海の王。植物を育む北海の王。世界の真ん中の孤島には、自然界の混沌をつかさどる王がいたわぁ。あるとき、南海の王と北海の王は、混沌の王のもとへ訪れたのぉ。混沌の王は二人の王を歓迎したわぁ。自分たちの国にはない、自然そのものの美しい光景ともてなしに感謝したふたりは、なにか恩返しができないかと考えた」

 防護面の隙間から、笑みに細められた瞳がちらりとルカを見た。

「混沌は、人間が当たり前のようにもつ五感がないとされていたらしいわぁ。美しいものも見えず、心打つ調しらべも聞こえず、美味なるものも味わえず。それを南海の王は可哀想に思ったのよぉ。だから、七つの穴を掘ることにしたわぁ。目と鼻と口と耳があれば、混沌の王も世の美しさを知ることができると思ったの。そして北海の王は、南海の王に乞われてそれを手伝った。一日にひとつずつ、それが、いちばん下に図にあるとおりよぉ。そして、七つの穴を掘られ、混沌は人間に近づいた。けれど同時に、むなしいしかばねとなってしまったの」

 そこまで言い切り、マリアは勢いよく防護面を脱いだ。白衣のポケットから錠剤を取り出し、荷台に用意されていた水で飲み下した。

、よくわかったわぁ。これ以上はだめねぇ、うーん、不思議な感覚だわぁ。あなたを見てると胸がざわついて、感情がたかぶってくるみたぁい。これがうわさの高揚状態ってやつかしらぁ。でも、報告にあった魅了みりょうとまではいかないからぁ、ルカちゃんの修行の効果はあるのかもしれないわねえ」

 あっけらかんと言うマリアに、ルカは愕然がくぜんとする。三年前から、はじめてシア抜きで人間とかかわっている現在の状況に気づいた。しかし、当人が述べたように冷静さはまだそこにある。修行の成果があらわれていたのなら、ルカにとって嬉しい報告だ。

「そう……ですか。あの、いまのんだのは一体……?」

「鎮静剤よぉ。用意しておいてよかったわぁ。調査する側のわたしが冷静じゃなかったら、きちんとしたデータが取れなくて困っちゃうもの」

 それを聞いて、その手があったのかとルカは目からうろこが落ちるような心地になる。だが、出会う人間すべてに鎮静剤を飲め、というのも無茶な要望だ。でもすこしは昔より成長がみられるようなので、修行を続けることが第一と心に留めた。そのあいだにも、マリアは書面に字を連ねていく。

「いまからぁ、採血とぉ、口内の細胞とるのとぉ、質疑応答。それでえ、あとは対人実験。口内の細胞は、口の中の細胞を棒で撫でとるだけだからぁ、すぐおわるわぁ。対人実験というと聞こえが悪いけれど、ルカちゃんと面識のない教会の会員とふつうにおしゃべりしてもらうだけよぉ。こんな感じだけど、いいかしらぁ?」

「はい、問題ありません」

 いいひとじゃないか、とルカはマリアを見直した。シアに釘を刺された通り、親切に説明してくれている。正直ルカは、なんであろうと黙って協力するつもりだったのだ。じゃあさっそく、と右腕をとられて、てきぱきと採血される。

「シアちゃん血の気ないから、昔これで倒れたのよぉ」

 懐かしそうに目を細めるマリアの表情は、慈母のようにおだやかだ。そう警戒するような人間にはどうにも思えない。カグラもマリアほど押しの強さはないが、シアを可愛がっていた。だが、可愛がれば可愛がるほど素っ気ない態度をとっていたように思える。シアは追われたら勢いよく逃げてしまうのだろうが、それはシアに苦手意識があるだけだろう。

「あの子、変わったわぁ。あんなに感情的な子じゃなかったのよぉ。ふつうの女の子らしくなっていて、嬉しくなっちゃった」

 その表情があまりに穏やかなので、ついルカもつられて笑ってしまう。

「そうなんですか?」

「そうよぉ。シアちゃんにとっても、あなたといるのは良かったみたいねぇ。あの子は、感情の起伏が本当になかったから、正反対の性質のあなたと相性がよかったのねえ」

 口をあけるように促され、綿棒でついと口内を撫ぜられる。それも一瞬で、手際よく容器に密封し、マリアは器具を整頓していく。

「シアちゃんも、昔は大変だったの。特別な力を持って生まれるって、大変なことよねえ。だからあなたも、シアちゃんを変えたみたいに、きっとだれかの助けになるわぁ」

 これまでシアに世話をかけてきた。それは変わらない。しかし、その過程ですこしでもルカがシアによい影響を与えていたなど、考えもしなかった。嬉しくて、言葉にならない。

「で、話を戻すけれどぉ。ステンドグラスの話を聞いて、ルカちゃんはどう思ったのぉ?」

 ひたりとい寄る、後味の悪さ。忘れたころに、冷ややかな声音とともに呼び戻される。別人のようにマリアは表情を変える。先程とすこしも変わらず彼女は笑っている。笑ってただ、世間話をつづけているだけだ。なのに、ルカは言い知れない緊張感に襲われる。

 せりあがってきた唾液を、呑みこんだ。鮮やかなステンドグラスをふたたび仰ぐ。

「綺麗だな、と思ってみたんです。でもちゃんと見て、マリアさんから説明を聞いて、また見ていると、怖いです。しかも、二人の王は善意から、そうしたんですよね」

「そうよぉ。悪意がなくても、あだなすことって、あるのよねぇ」

 マリアはうなずく。自身にやましさがあるせいか、どうにも言葉に含みを感じてしまう。

「こわい顔をしちゃ、いやよぉ。このお話はねぇ、もともと人間のさかしい小細工は、しばしば自然本来の姿を壊してしまうことがある。だから、良かれと人間が考えずとも、自然はそうあるべくしてそこにあるから、余計なことは時に害になるってことらしいわぁ」

「そうか。そういう戒めをこめた伝承なんですね」

 なるほど、とルカは納得する。

「でもわたしはねぇ、なぜ天が人に考える力を与えたのかしらって思うのぉ。人間だって、自然の一部でしょお? よりよく生きるために知恵を絞って、そこから人に役立つ知識ってたくさん生まれているわぁ。その過程に、失敗はつきものよぉ。その失敗を踏まえて心理に辿りつくため研鑽けんさんすることこそ、わたしたち科学者の真髄しんずいだと思っているわあ」

 マリアの言葉には熱がこもっていく。つい話の流れから、ルカが責められるのではないかと身構えてしまった。けれど、そうではないかもしれない。話の意図が掴みきれず、ルカは注意深くマリアの次の言葉を待つ。

「一説には、混沌の王の死因は五感からあふれた情報の多さに耐えきれなかった、ともあるそうよぉ。目も口も耳も鼻も、突き詰めれば欲に直結するわぁ。生きるという意志さえ、立派な生き物の欲望よぉ。けれど人間という生物は、その欲望から進化を遂げてきたのぉ。教会の教えには反するでしょうけど、感情があるからこそ、人はよりよい道へ行こうとすることができるし、生きようとすることができるの」

 不意に肩を強く掴まれる。マリアはずっと笑っている。なのに、不安になる。つくりものめいた、あまったるいにおいが鼻先をかすめた。

 マリアの意図が、読めない。さきほどから、擁護ようご批難ひなんの繰り返しのように思える。その態度や言葉が流れる水のように変化し、落ちつかない。これまで出会ったどの人物とも一線を画している。考えすぎだと思いたい。けれど、心の奥底がざわめくのを感じる。彼女に感化されてか、思考が定まらない。シアのそばにいるときは、あんなに意識が澄み渡り、確たる自分の芯が見えていたはずなのに。

 肩から、マリアの折れそうなほど細い指先が離れる。くるりと身をひるがえし、出入り口へ歩き出す。遠ざかっていくというのに、残り香が離れない。おなじ女性でも、シアとはまったくちがった。彼女の香りはもっとやわらかく、心を穏やかにするなつかしい香りがした。マリアの香りが、ひどく不快に思えた。

 ふと立ちくらみがして、荷台にすがる。それと同時に、扉がまた音をたてた。マリアが退室したのか、だれかがきたのかすら、わからなかった。

 顔をあげると、四人の男女がそこにいた。いずれも黒衣に身をつつみ、首から数珠をさげている。そういえば、マリアがなにか言っていたような気がする。でも、そこにシアはいない。視界がかすみ、頭が煮えるようだった。わかっていたのに、どこかで期待していた自分が情けなくなる。どこまで彼女を頼れば気が済むのかと、自嘲じちょうの笑みがうかぶ。だから、シアに芯が入っていないと言われてしまうのだろう。

 しっかりしろ、とルカは朦朧もうろうとする意識のなか、自らを奮い立たせる。四人の男女はなにも言わない。けれど、もうすでに、彼らの感情のエネルギーが、ルカに流れてきている。忘れかけていた、不快な感覚を思い出す。マリアのときは平気だった。そのときは、ここまで心が乱れていなかったからだ。だから、きっとルカがしっかりと気を持てば、彼らもルカも、平静でいられるはず。三年もそばにいて支えてくれたシアに報いるためにも、ここで踏ん張らなくては。

 そう思うのに、見知らぬ四人もルカも、互いに身動きがとれずにいる。もしマリアが優秀な科学者であるのなら、ルカにすらわからないこの現象を、ぜひ解明してほしいものだ。けれど昔のルカであれば、こんなふうに考えることもできていなかった。そう思うと、成長はたしかにしているのかもしれない。

「ものの限度を知らんゴリラやな」

 視界を白いものが走る。

 ガン、と殴られたかと錯覚しそうな音と震動に、急速に意識が引き戻される。鼻先にふれるほどの距離にあるのは、しなやかな筋肉に覆われた、なめらかな脚。

「いやぁん怒らないでぇ~。とことんしないと実証にならないでしょお?」

「やかましわゴリラ、ほんまなにしてくれとるん。無茶なことせらんでゆうとったやろ。またみょうちきりんなお香、つかったんやろ」

 先程の不調がまぼろしのようだった。信じられない思いで、ルカは手を伸ばす。

 ひんやりと吸いつく膚の生々しさとやわらかな感触に、体温が上昇する。女性の脚など、普段目にすることなどない。

「女性が軽々しく脚を出すもんじゃありません!」

「え、そっち?」

 シアはきょとんと目を丸くしている。荷台に高々とあげられた彼女の脚を、無理矢理降ろした。黒衣のスカートでしっかりと足を隠す。

「荒っぽくてごめん。手っ取り早かったから」

 殊勝に謝るが、やはりルカの行動の意図は理解していなかった。いつの間にか荷台を支えにしゃがみこんでしまっていたルカに、シアは手を差し出す。もうずっと、シアの態度は変わらない。シアはいまだにルカを、自分より弱く守るべき存在だと思っているようだ。それでもシアの好意を無下にするわけにもいかず、不本意ながら手をとった。

「ほんでも、ようがんばったね。手当かそれ以上の処置をせなあかんかなて覚悟してたんやけど、きちんと自分で抑えられてたから。すごいね、成長したね」

ふわりとシアは笑う。ルカも、つられて笑ってしまいそうになる。これまでの時間が無駄ではなかったと証明をもらえたような気がして、とても嬉しい。

 ということは、この部屋の様子をマリアとシアは見ていたということだ。そしてシアとマリアの会話から察するに、あの人工的な香りは故意であったらしい。道理で、奇妙な感覚だった。もしやあの世間話から、すべてはじまっていたのかもしれない。あれがすべて意図して行われたものだとすれば、マリアは相当明晰めいせきな頭脳の持ち主なのだろう。

「麗しい師弟愛ってやつかしらぁ~。いいわねぇ」

 当のマリアは、りずにシアに抱きつこうとした。とうとう、シアはマリアの腕をひねりあげる。体格差をものともせず、シアはマリアの動きを制した。

「もう油断せんから。さわらんとって」

「ぁいたたたた、いやぁんひどぉいこんなに愛しているのにぃ」

「ただただ気分悪い。会員の皆さんも、どうもすみませんでした」

魂を抜かれたように放心していた、四人の男女にむかってシアは頭をさげた。彼らもまた我に返ったように一礼し、粛々しゅくしゅくと部屋を出ていく。それにしても、シアがこんなに怒りを露わにするものめずらしい。ひねりあげた手を離し、すばやくルカの背後にまわりこむ。胴と腕の隙間から顔をだし、痛みにもだえるマリアを威嚇いかくする。

「言い忘れてて悪かったけど、こいつ調香ちょうこうと生物学の権威けんいなん。ゴリラこじらせて異常に賢いから、精神を攪乱かくらんするような嫌な香をわざとまとって、ルカくんを試したんよ。ただでさえ性格悪いのに、ほんまに悪質。ルカくん、怒ってもええよ」

 憤然と見上げるシアの姿に、気抜けする。だが、自分でも不思議なほどルカに怒りはなかった。

 シアと離れた自分が、どのような状態になるのかを、知ることができた。不安はあるものの、成長を認めてもらえた。そしてマリアとの会話も、嫌なものばかりではなく、得るものも多かった。けれどこの結果が、この先にどう繋がるのかが気になった。

「いえ、いい機会でした。匂いで、ここまでのことができるなんて、すごいです」

「五感は人間を左右する大きな要素だものぉ。嗅覚は奥深いわよぉ」

 マリアは得意げに笑い、シアが蹴り飛ばして散らかった荷台の上を片づけながら言う。

「カグラちゃんのいうとおりねぇ。わたしからしたらぁ、シアちゃんの特性よりは生き物らしいすばらしい特性だとは思うのだけれどぉ」

「どういうことですか?」

「あなたの持つ力は、生物が営みを続けるうえで大事な要素を持っているからよぉ」

「……それは、どういうことなん?」

 シアが、怪訝けげんな表情で尋ねる。そういえば、カグラが見解したようなルカの性質を、彼女は知っているのだろうか。

孔雀くじゃくが羽根を広げるのとおなじよぉ。他者を惹きつける行為は、あらゆる生物が懸命に行ってきたことよぉ。それはなぜかぁ。数ある遺伝子のなかから優秀なものを取り入れる権利が、他者よりも多く得られるということぉ。力が強すぎて暴走して精神をまどわす域に達していて、自分自身も振り回されている印象が強いけど、上手に使えば、人の心を掴んで離さないカリスマになれる可能性もあるわよぉ」

「ふうん。そういうもんなん」

 相変わらず隙間から顔を出したまま、シアが目を輝かせる。

「ただね、ここからが問題なのぉ。シアちゃんの力は鎮める力だから、そもそも抑制することのほうが向いているの。でも、ルカちゃんの力は感情の促進だからぁ。抑制とは反対のものだからぁ、抑制となると、時間と労力がいるのかもしれないわねぇ」

 生物学に優れているというだけあり、言葉に説得力がある。

 ひょこりと、ついにシアがルカの陰から出てきた。

「ゴリラのくせにまともなことを……」

「あとはぁ、採血と細胞を詳しく調べたりしていくわねぇ。いちおう今後のことを考えて、いざというための鎮静剤をいくつか処方してあげるわぁ。ルカちゃんが使っても効果があるだろうし、異常が出た対象者にも使えるのぉ」

 マリアが片目をつむると、シアは示し合わせたように虚空をぎ払う。

実はたいへん仲むつまじいのではないかと疑いたくなるような連携だった。じりじりと近づくマリアに、またしてもシアはルカの陰に隠れようとする。あからさまな態度にも、マリアはどこか嬉しそうですらある。

「まあ、診察結果だけどぉ、やっぱりニコイチでやってもらうのが安全ねえ。ひとりにするには不安があるからぁ、そのまま二人で依頼したとおり市井の巡回にあたってもらうってことで大丈夫かしらぁ?」

 ぐっと服の裾をひかれる。月色の瞳が不安げにルカを見上げる。

「なんかもう問答無用で申し訳ないねんけど、ええかなぁ?」

 迷惑をかけているのはむしろルカだ。いつかカグラが言っていたように、ルカが、シアの人生を邪魔している。申し訳なく思うことなど、ひとつもない。

巡回がどんなものかはわからないが、せめてシアの助けになれるようにできることをしたい。生まれてこの方、辺鄙へんぴなテムサ村の出身に加え、もろもろの事情でまともに往来を歩いたこともない。それどころか、人とまともな会話すらしたことがない。なので、シアが市井をまわる際に、すこしでもいろんな場所をみて、人とかかわることができたのなら、ルカにとってもそれはとても嬉しいことだ。

「そんな顔をしないで、シア。俺のほうこそ、すみません。できるだけ、シアを手助けできるようにがんばります。それに、すこし人のいる場所に出ることは、楽しみです」

 ぽん、とつい頭を撫でてしまう。ふわふわとやわらかい髪が心地よい。シアはすこし不服そうな顔をしたが、されるがままだった。

「……ん。ありがと、ルカくん」

 それを見たマリアが、なぜか黄色い声をあげる。

「やだやだ羨ましいわたしもやりたぁい」

「いらん。さわらんとって」

 間髪かんぱつ入れず冷たく言い放つが、マリアの次の言葉に動きが固まった。

「とりあえずシアちゃん、孤児院行くでしょお? あとで処方したものは、部下に持っていかせるわぁ」

「それ……は、めっちゃ、助かる。……ありがとう」

 シアは抵抗しようとしていたが、ありがたい申し出だったためか、マリアの手を拒めずに身を強張らせている。勝ち誇ったようににんまりと笑い、このうえなく嬉しそうにシアを抱きしめまさぐりまわす。

「あ、ちょ、こそばっ、やめ」

「やだぁ成長したぁ? 三年もたつとちがうわねえ」

「だまって。さわらんとって」

 なんとなく、見てはいけないような気がしてルカはあさってのほうを見る。

「ん~、ちょうどいい仕上がりねえ。やっぱり鍛えているからかしらぁ?」

 耳をふさごうかと思ったそのとき、破裂音がした。小気味よさすら感じる音に思わず二人を振り返ると、マリアが頬を赤くらしていた。いったいどれほどの力で張り手をすればこの有様になるのか、シアの腕力に慄く。だが、マリアは頬を押さえつつ笑っている。青ざめたシアが、ルカの服の裾を引いた。逃げるように駆け出す。

「もうつぎはないから!」

「はぁ~い、待っててねぇ」

 余裕綽綽よゆうしゃくしゃくといった様子でマリアは手を振り見送る。あの仕打ちにこの笑顔ができるなど、心が広いなどという次元ではない。嵐のごとく部屋から去ったシアを追わねばならないが、なにも言わずに去るのも後味が悪い。扉の前で足をとめ、頭を下げた。

「あの、今日はありがとうございました。また、よろしくお願いします」

「機会があればね。シアちゃんをよろしくねえ」

 かすかな声でマリアが言った。淡雪のようなはかなげな笑みが、妙に気になる。しかし去ったシアを追うのが先決と部屋を後にすると、彼女は壁に張りつくように小さくなってしゃがみこんでいた。憔悴しょうすいしきった様子で、目がうつろだ。一方的に暴力をふるっていたのはシアだというのに、どちらがやられたかわからない。

「おつかれさまです、シア」

 声をかけると、シアはわずかに顔をあげた。

「取り乱してばっかりで、面目めんぼくない。ほんまあのひと、あわへんわ……」

「でも、俺はお話しできてよかったですよ」

 じろりと睨まれたため、続きの言葉はのみこんだ。アグラやカグラなどにも対等に接し、どんな人間に対しても冷静かつ堂々、隙のない印象のシアより、さきほどのシアのほうが可愛げがある。それにマリア自身の、深い知識に裏打ちされた話はとても勉強になった。いろんなことを教えてもらい、なんやかんやで有意義な時間を過ごせたような気がする。

「ならええんやけど。昔お世話になった孤児院にいつも寄ってるんやけど、いっしょにきてくれる?」

 シアがちいさな手を差し出す。往来を歩くときは、ルカとシアはかならず手を繋ぐ。あたりまえのように続けてきた習慣は、ルカにとってかけがえのないものだ。何年か経ち、自分の性質を抑制できるようになると、きっと手を繋ぐ理由はなくなってしまう。シアを自分に縛りつけたくはないが、それはとても淋しく思うだろう。

 手をとるかわりに、ルカはシアを抱え上げた。変わらぬ体格だったころは支えるのもやっとであったが、いまでは容易く抱きあげられた。いつか離れるときを思うと、どうしても触れたくなってしまう。離れてしまっていても忘れないように、淋しくならないように、ルカは大切にシアを腕にしまいこんだ。目を丸くするシアに、提案する。

「疲れているみたいですし、こうして運びましょうか?」

「ううん。目立つからいらん」

 至極しごく冷静な面持ちで、シアは申し出を拒否した。するりと腕をすりぬけ、ルカの手をとり歩き出す。



「うわぁ……!」

 小路を抜けた先、広がる景色にルカは感嘆の声をあげた。

 一面に広がる薄紅色が空を覆っていた。枝先には、慎ましやかな花が、可憐かれんに咲いている。花弁の内側は頬を染めるように色づき、先にゆくほど淡くなっている。繊細な色彩が風によそかにゆられて、はらはらと降るそれはまるで北国で見られるという雪のようだ。ルカは興奮を隠しきれずに尋ねた。

「シア! これはなに?」

さくらよ。東の大陸からきた樹木。咲くときも、散るときも、きれいな花。花が散ると、たぶんこれは食べられへんやつやけど、実もなる」

 シアも桜を見上げる。彼女の瞳は色素がうすいため、鏡のように美しい光景が映されている。ふと、胸に疑問がうかぶ。

「シアはもしかして、東大陸の出身ですか?」

 東大陸には、黒髪黒目が多い。四季をもつ大小の島国と小さな大陸から成る領土をもち、ルカのいる西大陸とは異なる文明が栄えている。先程マリアが得手とする調香という技術や、繊細で優れた伝統工芸をもつ。そして森羅万象に宿るという、目に見えぬものを重視している。しかし、ルカが生まれる以前、西大陸を統べる大国とのいさかいから攻め込まれ、大きな戦禍せんかを被った。当時の東大陸には土地も人も大きな犠牲が出たとされるが、古来より交流があった西大陸の小国からの支援と庇護ひごをうけて、現在は復興しつつあるそうだ。

 その戦争を境に各地に東大陸の民が急増した。ルカが物心ついたころには、さしてめずらしくもなく、彼らは社会に溶け込んでいた。アグラやカグラも恐らくそうだろう。

「うん。わたし東大陸の島の出身やし、なかなかなまりが抜けへんくて困っとる」

 桜に目をむけたまま、シアはこたえる。そんなふうに思っていたとは思えなかった。ルカからすれば、おっとりとしたしゃべり方は可愛らしい。

「シアみたいな瞳って東にも多いんですか? その、綺麗な銀色の瞳」

 ゆっくりとまばたきをして、シアはルカを見た。ふと目元がやわらぐ。

「ありがと。銀っていうと上等やけど、ただの灰色やん」

 シアはルカの手を引きながら、歩き出す。なんでもないことのように話をつづけた。

「わたしも生まれつきは黒目やったよ。でも、六つのときかな。わたしの出身のとこ、もろに軍隊さんとか来て戦争激しかったとこやから被害すごくて、そのへんの記憶はないねんけど、そっからやって。こんな色になったの」

 息が詰まった。あまりにも淡々とした口調が、さらにルカの胸を締めつけた。思わず、先をゆくシアの背中を抱きしめた。シアの肩が跳ね上がる。

「すみません。つらいことを」

「ぜんぜんだいじょぶ。自分で言うたし、それより歩きながら話そ」

 そっと手をとり、さりげなく腕をほどかれる。だいたい、シアは触れられること自体好きではない。人目のある街中を歩くときだからこそ、こうして手を繋いでいる。常にシアには負荷がかかっているが、彼女はけして口に出さない。けれど、触れられることを当然に思ってはいけない。

「……すみません」

「謝らんでええよ。ふつうは、人肌とか体温とかに安心するもんやし、抱きしめたりするのって、心地いいことやし痛みがやわらいだりもするもんやって、

 まるで他人事のように、シアは言う。本当にその感覚がわからないのだろう。なんだかそれはとても淋しく、悲しいことのように思う。出会ったころこそルカも気恥ずかしさがあったが、あまりにもシアは淡々とふれてくるため次第に羞恥は薄まり、安堵感が強くなった。シアはやわらかく、あたたかく、よい香りがする。正直かなり、心地よい。だからつい、ことあるごとにふれてしまう。

「わたしがおかしいんよ。抱きつくってことは、それがええことやからするんやろ。ルカくんの感覚のほうが、そう。人間らしいし、生き物らしいんやわ」

 変わらない口調だが、どこか自嘲気味に響く。表情こそ見えないが、きっと彼女はいつものように凛とまっすぐ前を見ているのだろう。なんと言葉をかけてよいかわからず、ルカはわからなかった。

 桜の並木が途絶え、赤煉瓦れんがづくりの巨大な建物が現われる。教会の本部にははるか及ばないが、ルカの実家がふたつほど入りそうだ。正門から勝手口までの広場には、手作りであろう遊具があり、隅には花壇や菜園が並ぶ。そこにありとあらゆる年齢の子どもたちが駆け回っていた。

「シアちゃんこんにちわ!」

 シアの姿を認めて、子どものひとりが声をあげた。その声に反応して、ほかの子どもたちが集まってくる。駆け寄った子どもたちは、あっという間にシアを取り囲んだ。

「久しぶりやね。みんな元気しとる?」

 心なしか、シアの声も嬉しそうだ。ルカと手をつないだまま、空いた手で子どもたちの頭を撫でていく。子どもたちも嬉しそうにその手を受け入れ、矢継ぎ早に声をあげる。

「みんな元気! シアちゃん、そのきれいなひとだあれ?」

「男の子? 女の子?」

「まつげ長いし目がおっきいしかわいい顔してる」

「なんで手をつないでるの?」

「こいびとってやつ?」

「シアちゃんかれしできたの?」

「かれしってなに?」

「こいびとのことだって」

「でもこいびとは、ひとめのないところでなかよくするってベルねえが言ってた」

「じゃ、こいびとじゃないの?」

「らぶらぶだったら、アキねえみたいにひとがいるところでもなかよしするって」

 次々に出てくる言葉に、ルカは戸惑う。こんなに大勢の子どもたちをみるのははじめてだ。幼少期、村に同年代の子どもはほぼおらず、大人に取り囲まれても子どもに取り囲まれることはなかった。大人とはまた異なる勢いと甲高い声に、くらくらしそうになる。それを察してか、シアが強く手を握ってきた。すると、よく通る厳しい声が放たれる。

「静かになさい!」

 つるの一声とはまさにこのこと、にぎやかな子どもたちが瞬時に黙った。声の主は彼らをかき分け、シアのすぐ目の前に現れる。シアがふわりと笑った。

「ベルちゃん、久しぶり」

 ベルと呼ばれた妙齢の女性は、厳しい声とは裏腹におっとりとした容姿だった。垂れたまなじりは柔和にゅうわな印象を与える。栗色の髪を高く結い上げ、シアと同じく黒衣に、白い割烹着かっぽうぎをまとっている。茶色の瞳が上から下までルカを舐めるように眺めた。

「で、それは彼氏?」

 鬼気ききせまる面持ちでベルは尋ねた。子どもたちからは歓声があがる。主に、ルカよりすこし年下の少女たちからだ。ルカはかっと顔に熱が集中するのを感じた。シアを見ると、ぽかんとした表情でなにを言うかを考えているようだった。

「ちゃうよ。えっとね」

「いいのよ。あんたも二十歳だもん。いろんな人のために転々としてたら、そりゃあ、いい人もできるわよね……。いいのよ、わたしは。あんたの彼氏が予想以上に美男子だって、羨ましくなんかないんだから。みんなわたしより先に結婚してるのだって、気にしてないわ。アキは子どもつくるわあんたは美人捕まえてくるわ……」

 ベルの言葉は、次第に重々しく熱を帯びていく。ルカはいったい、なにが起こっているのかまったくわからない。呆然とするルカに、事情を知っているのであろう少女たちが、遠い目をしたまま言った。

「うらやましくないけど、うらやましくてしかたないんだって」

「きのすむまでやらせてあげて」

 すべてを悟ったような言葉には、なにか重みがあった。がくがくとゆさぶられながらも、シアは懸命に話そうとする。

「まって、ベルちゃん、落ちつこ。ちゃうゆうたやん。説明を」

「わたしだっていつかアキの旦那よりイケメンでシアの彼氏より稼ぎそうなひとと結婚してしあわせになるんだから――!!」

 絶叫し、ベルは地面に泣き崩れる。

「びみょうに現実的な目標だね」

「シアちゃんの彼氏よりかっこいいひとみつけにくいし、アキちゃんの旦那さんより稼ぎそうなひとも見つからなそうだもんね」

「よくわかってるよね、ベルちゃん」

 少女たちは冷静に分析している。そしてそっと、彼女らはベルの背中をさすりだす。ベルは涙声でその手を振り払う。

「あんたたち、同情するんじゃないわよぉ……っ」

 すべてを冷淡なまなざしで眺めていたシアが、ベルのあたまを抱えるように抱きしめた。

「この子はルカくん。巡回で会って、症状がきついからいっしょにおるんよ。患者さんみたいなもんやって。いつも話をちゃんと聞かへんから、すぐ早とちりする」

 二人の温度差は激しい。あれだけ色めき立った周囲とは裏腹に、シアはどこまでも冷静だった。するととたんにベルから気迫が抜け落ち、わかりやすく安堵しているようだった。少女たちは、どこか落胆しているようだった。しかしシアが〝患者〟と言ったとたんに、ルカに対する言及は途絶えたところから察するに、シアの性質は周知であるらしい。ルカの性質は説明に困るうえ、混乱を招くおそれがあるので、説明せずに済むのはありがたいことだ。

 活発そうな赤毛の少年が、ルカの服の裾をひいた。

「にいちゃん、名前なんていうの?」

「あっ、ルカです」

「ベルねえはいつもこんなんだから、気にすんな」

 悪戯いたずらっぽく笑う。十歳ほどだろうか。ずいぶんと落ちついた印象だ。つづけて坊主頭の幼い少年が、怪訝そうに尋ねる。

「なんでおまえ、男のくせに髪伸ばしてんの?」

「いや……、その、なんとなく」

 無垢むくに投げかけられる質問に、戸惑いながらもこたえる。ルカの髪は三つ編みにして背に垂らしている。シアと出会った当初は家から出られずに切っていなかったが、修行の際にシアが結ってくれた。まとまっていれば邪魔にもならない。シアは頻繁に自分の髪を切るよう頼んだが、ルカに髪を切れと言ったことは一度もなかった。

「シアちゃんは髪いつも短いけどな」

「伸ばさねえのかな」

 口々に少年たちが取り留めのないことを話す。同年代とはいかないが、自分と年齢の誓い同性の人間と会話するのが新鮮で、つい嬉しくなる。

「シアは、首に髪がかかるのが嫌だっていうから、俺が切ってます」

「すげえ! 器用だな」

「シアちゃんはがさつだしな。どっちが男かわからねえ」

 散々な言いように、つい苦笑する。たしかにシアは、思いきりのいい性格をしている。悪く言えばがさつともとれるかもしれない。知っているひとのことを、だれかと共有できるということがこんなに楽しいとは思わなかった。

「刃物使うのめちゃくちゃ下手くそだから、怖いんだよな」

「シアちゃんのフルーツタルトがめっちゃうまいんだけど、食べたかったら果物を切らねえと食べられないんだよな」

「そうなんですか?」

 意外だった。刃物が使えないことも、料理ができることも、どちらも知らないことだ。そういえば、野営では非常食がそのまま並べられていた。よく考えると、加工するどころか刃物を加えることもなかった。たまに宿に泊まることがあれば、食事つきの所がほとんどだった。それがあたりまえになりすぎて、気がつかなかった。

「知らなかったのか?」

「料理しているところを見たことすら……」

「材料切ってたら、できるんだよな」

「もったいねえ。あれめちゃくちゃうまいんだぞ」

「おまえ、シアちゃんと仲良いだろ。作ってくれるか頼んでくれよ」

 先程の赤毛の少年が、両手をあわせて懇願する。周囲の少年たちもそれに倣いだす。

 つながったままの手をかるく引くだけで、シアは少女たちの合間を縫って、そっと寄り添ってきてくれる。

「どうしたんルカくん」

「あの、お願いがあって」

「めずらしい。なあに?」

 なんとなく、面と向かって頼みごとをするのは気恥ずかしい気がしてきた。けれどいまのルカは、少年たちの願いを背負っている。

「時間があったら、シアのフルーツタルトが食べてみたいです」

 シアは一瞬きょとんと目をまるくしたあと、あっさりとうなずいた。

「ええよ。待ってるだけやしね。だれから聞いたん?」

「えっとそこの、赤毛の彼とか、みなさんから、シアのタルトは美味しいって」

「あぁ、ラオくんたちかぁ」

 ちらりとラオと少年たちを覗いて、シアは納得する。しかし、名を呼ばれたラオは驚き、少年たちはざわめきだした。おずおずと、ラオがシアに尋ねる。

「俺のこと知ってるんすか?」

「そら、おしめ替えたことあるくらいやのに」

 シアがなんでもないことのように言い、ラオが頬を染めた。まわりの少年たちが茶化すなか、シアはつづけてふわりと表情をやわらげる。その表情を見た瞬間、少年たちは押し黙った。

「ルカくんと仲(なか)良(よ)おしてくれてありがと。いろいろあって外出られん子やったから、これからも仲良おしたってね」

 無言で少年たちはうなずくが、シアはそれを確認することなくベルと少女たちに向き直り、何事かを話している。妙におとなしくなった少年たちを見て、ルカはひとり納得する。彼らは、シアの笑顔をあまり見たことがないのかもしれない。いつもの涼しげな表情からあの笑顔を見せられたら、無理もない。

「あんたら自分らでルカさんに言わせといて、なにボケッとしてんのよ」

 ラオが、先程ベルを慰めていた少女のひとりに小突かれる。彼らとルカのやりとりがばれていたことに、ルカは衝撃をうけた。その光景を眺めていると、今度はシアがルカの手をひいた。屈むように要求されたかと思うと、耳元でささやかれる。

「ルカくんが良ければ、ちょっと様子見てみよと思うんよ。これからのこと考えたら、ずっと手を繋ぎっぱなしも怪しいし不便やし、ちょうどタルトつくることになるやろから、そのあいだ――あんま離れるのはこわいとこあるから、手は放してつかず離れずの距離間でどんなもんかやってみいひん?」

 提案をうけて、ルカはためらいがちにうなずく。シアの意見はもっともだ。すこし不安はあるが、マリアに言われた言葉もまだ残っている。それをしっかりとらえて、シアは耳打ちをつづけた。

「まあ、この子らの様子次第でフォローはするから、心配せんと楽しんでね」

 言われてようやく気づく。ルカと少年たちがより関われるように、配慮してくれたのだ。ルカは、胸の奥底から湧きあがってきた感覚をぐっとこらえた。くすぐったいような、あたたかな気持ちに、高揚してしまいそうだ。シアに礼を言おうとするときには、シアは数人の少女を引きつれて建物のなかへむかっている。そのあいだにも、ルカとの距離間を気にかけるシアの姿が、どうしようもなく嬉しい。

「いこうぜ」

 ラオが、ルカの肩を小突いた。彼らと共に、ルカは小走りでシアの後を追った。



「あんたねえ、どうなってんの相変わらず!」

 ベルの叱責しっせきが飛ぶ。

 彼女の目の前には、林檎がふたつ。ひとつは、うすく細く皮が剥かれた丸い林檎。

そしてその隣にあるのは、野生動物にかじられたあとかのような痩せ細った林檎だった。まわりには、果実がたっぷりついた絶妙な厚みをもつ皮が、ぶつ切りに散乱している。シアは常と変らぬ平然とした様子でナイフを手に持っている。しかし、周囲にいる少年少女からは、一様に血の気がひいていた。ルカも例外ではなく、なんと言葉をかければよいか懸命に思考を巡らすが、いまだに妙案は浮かばない。頭痛をこらえるようにこめかみを揉みながら、ベルはつづけた。

「ルカくんのほうが上手ってどういうことなのよ……」

「流血沙汰ざたならんだけがんばった。わたし」

 シアはおっとりとルカを見上げた。さらりとぞっとすることを言う彼女に、ルカは微笑みを返すのが精いっぱいだった。いまのいままで、指を切り落とさんばかりの勢いで林檎を刻んでいたため、だれもが冗談とは思えなかっただろう。うわささえなければ、澄ました面持ちで、そつなくこなすように見えるのに、期待を大幅に裏切られた。

 タルト生地と、アーモンドクリームをつくるまでは良かったのだ。真っ白なエプロン姿に身をつつみ、慣れた様子で工程をすすめていく様子に、シアもふつうの女性であるのだと思い知らされた。普段見ることのない家庭的な姿に癒された。タルトづくりの後半、果物を用意する際、周囲の反対を押し切りナイフを手にしたシアによって、和やかな空気が凍りついた。ほかの果物ならいざ知らず、よりによって彼女は林檎を選んだ。

「あんたのは、林檎の虐待ぎゃくたいよ。皮を剥いてるんじゃなくて刻んでるの」

「たまには背伸びして、実力を確認しとこかなって思って」

「なんの背伸びよ。練習とかはしてるの?」

「ぜんぜん。ね、ルカくん」

 ふいに投げられた会話に、ルカは控えめにうなずくことしかできない。練習するしない以前の問題だ。シアに刃物を持たせてはいけないのだと思い知る。

「だいたい刃物嫌いやしね。手でちぎったらええのよ」

「どこの原始人なの、あんたは。もういいわ、シアはもう見学してて。あとはわたしたちで仕上げるわ。もうすぐ生地も焼けるしね」



 すげなく追い払われ、シアはその場を離れた。窓際に背をあずけ、各々作業をはじめた少年たちを穏やかに眺める。

ルカは少年たちのなかで、果物を切っている。

けれどそこにいるのは、三年前とはまるで別人だ。小柄なシアとさして変わらなかったのに、ずいぶんと背丈が伸びた。枯れ枝のような手足は逞しくなり、軽々とシアを抱え上げる。可愛らしいやさしい声は、甘さを孕んだ低音になった。たったの三年で、ここまで成長を遂げた彼を嬉しく思う。けれど、どこか喜びきれない自分がいる。時折ルカが、知らない人間になったかのように思えて、不安になる。

 ベルの指示のもと動く幼い子どもたちは皿やフォーク、飲み物の用意に勤しんでいる。焼きあがった生地を冷まし、クリームの用意をする少女たちが、ちらちらとルカの様子をうかがっている。思春期を迎えた少女たちには、あの美貌はまぶしいことだろう。とくに懸念していた彼女たちだが、目立って異変はなく、充分許容範囲の域である。

 あたりにアーモンドクリームと生地の香ばしい香りが漂っている。食欲をそそる香りを胸いっぱいに吸いこむと、風に乗ってあまい香りが鼻腔をくすぐる。シアが窓の外に目をやると、やはり思った通りの人物がそこにいた。

「シアちゃんに会いたくってぇ、きちゃったあ」

 マリアは小さな紙袋を差し出してくる。約束の錠剤だ。軽口はともかく、律儀なところは彼女のありがたいところである。調理に勤しむ彼らに気づかれぬよう視線をもどし、小さな声で素直に礼を述べた。

「ありがとう。そっちで待たんとこっちきて、良かったから」

「ルカちゃん、楽しそうねぇ」

「ほんまは、こんなふうに毎日さしたりたいねんけど、厳しいかな」

 期待どおりの言葉は得られないだろう。けれど、つい尋ねてしまう。

「厳しいわねえ。この時間もきっと、あなたの目が離れたとたん、地獄絵図でしょうねぇ」

「……そうかなぁ。あのときは」

「あの香はただの引き金よぉ。素養は充分すぎるわあ」

 シアが望む言葉をわかっているのに、けしてマリアはそれをくれない。よく知っているから、シアは口を噤んだ。どうせこれ以上話しても、またあのときのように不快な思いをするだけだ。

「それは、あの子の望むところなのかしらぁ」

 みつのような言葉は、シアの奥にある触れられたくない部分をえぐる。

「あの子の成長はきっとあなたよりも早いわあ。ルカちゃんはきっとあなたと違って自分の幸せを掴もうと足掻あがくでしょう。だから、あなたの価値観を押しつける必要なんてないのよぉ。ねえ、シアちゃん。自分すらしあわせにできないあなたに、だれかをしあわせにできると思って?」

「そんなことっ……」

 絞りだした反論は空回る。気配はとうに消えていた。窓を振り向くと、やはりマリアの姿はなかった。残り香だけが、ねっとりとまとわりつく。

「………ほんま、きらいやわ」

 だれも聞こえないかすかな声で、シアはひとり吐き捨てた。

 子どもたちのなかにいるルカには、十三の少年らしい笑みがうかんでいる。

 中性的な生来の美貌はより輝きを増し、吸いこまれそうな魅力に満ちている。彼に特異な性質さえ与えられなければ、多くの人々に囲まれ愛され、苦労のない人生を歩めただろう。なんのために、なぜ彼が苦難ばかりの日々を送ることになってしまったのか、シアにはわからない。

 少女たちが、切り分けたタルトを手にルカのそばにきて、同世代の少女たちと話をしている。

それはなんでもなくて、取るに足らない、世界中にありふれた光景。

 いったいどうすれば、彼にこの日常を与えることができるだろうか。

「――ルカくん!」

 ベルの悲鳴のような声に、意識が醒める。不覚にも、肝心な場所から意識が逸れていた。

 談笑していたはずのルカは、少年少女の足もとで頭を抱えて蹲っていた。瞬時に場の混乱が頭を過ぎり、急速に体温が下がるような心地がした。けれど予想に反し、突如崩れ落ちたルカに対する混乱と不安、懸念する感情が渦巻いている。ルカが人々に精神影響を与えたとは思えない、小波のようなわずかな波しかシアには感じられなかった。

「シア……っ、ごめん、話していただけみたいなんだけど急に倒れこんで……っ」

 ふるえる声でシアにすがりつくベルを手で制し、シアはルカのもとへ駆け寄った。

 丸められたルカの背は広いのに、弱々しく感じられた。手を添えると、しっとりと汗がにじんでいる。こわばった背からわずかに力が抜けた。

「……シア」

 疲労のにじむ声で、ルカが名を呼ぶ。額には汗の粒がうかんでいるのに、真紅の瞳はシアを映してやわらかく細められる。

「ごめん、ルカくん」

 いくらルカに自らを制御する力が身についたといえど、彼は本来、影響を与えるだけではなく、影響をうけやすい。子どもにも当然、感情はある。孤児院の大半は幼児だが、思春期をむかえた少年少女も多くいる。人は成長とともに感情がより複雑になっていく。人数が多ければ多いほど、それぞれの感情は促進され、それはルカに還っていくのだ。

一方シアはふれあう面積が広ければ広いほど、無意識下に他者の感情を抑制できる。しかし、その空間や大多数に働きかける場合、シア自身が他者を鎮めようとする明確な意志が必要となるものの、効果を及ぼすことは可能だ。

彼らに好意はあれど悪意はない。見目麗しさに惹かれ、すこし話した程度だろう。

そんな些細ささいな感情でも、シアの抑制がなければルカにはこれほどの影響を与えてしまう。マリアの先程の言葉を、自らの手で現実にしてしまった。

 ルカの顔色は蒼白だ。肩で息をし、呼気は言葉を紡ぐこともできない。そもそも彼の性質は抑制に不向きだと推測されていたのだ。負荷は計り知れない。シアの手当てやふれあいが効果をなすのは、彼が制御不能におちいったときだ。今回のように、彼の負荷に対して効果があると期待するのは、少々厳しいだろう。

「びっくりさしてごめんやで。ちょっと……その。痛み止め切れたみたいやわ。ほんまにお騒がせして申し訳ないんやけど、薬を宿に忘れてしもたから、今日は帰らしてもらうね」

「そんな……。シアひとりで、大丈夫なの?」

 ベルが気遣わしげに手を伸ばす。口角をあげ、シアは首をふる。ルカの懐にもぐりこみ、全身でルカを支えて立ち上がった。じっとりと布を越しに彼の熱を感じる。ルカの衣服はすでに汗がしみている。ずいぶんと熱い。きっとかなりの高熱だ。立つのもつらいのだろう。シアを気遣ってなんとか自分でも体を支えようとくれている。正直、ほとんど身体が出来上がってきたルカを支えるのは大変なのだ。

人の手を借りたいところだが、それはまた彼の負荷となってしまう。

「だいじょぶ。平気。またくるから、仲良くしたってね」

 ラオたち少年に目を向けると、その目に動揺が揺らめいている。それも無理はない。ふだんあまり目にしない光景に戸惑ってしまうだろう。

 けれどどうか、このことを機にルカと距離をつくらないでほしい。

 身勝手な自分の願いに、呆れてしまう。

「そんな顔しなくても、大丈夫だって」

 ぽん、とラオに頭を撫でられた。思いもよらぬ言動に虚を突かれ、シアは目を丸くする。いったい、自分がどのような顔をしているのかもわからない。

「忙しいだろうけど、また二人で遊びにきてくれよな」

 少年たちが、にかっと笑う。快晴のようにあたたかい心が、そこにある。

 彼らのことは、乳飲み子であるときから知っている。この孤児院は、教会に属して間もないころ、アグラに連れられて以来、期間はあけつつも足繁あししげく通ってきた。おしめを替え、ミルクをつくり、子守唄をうたい寝かしつけた子らだ。いつの間にかそれぞれ大きくなり、いまや立派な人間へと成長している。

 ベルだって、昔とは違う。彼らもルカも、みんな変わっているし、変わっていく。それがすこし不安だった。けれど、悪いことばかりではない。

 シアの不安を察して、それを解消しようとする姿勢が嬉しくて、頼もしい。そんな心遣いができるようになったのかと思うと、感慨深い。真綿まわたでくるまれるようなふわふわとした優しい気持ちは、とても心地よいものだ。こういった状態の人間にふれられるのは、唯一、不快さがない。

 人間の感情は雑多で、醜悪な部分を感じることのほうが圧倒的に多い。けれどこの瞬間、人間のもつ刹那せつなの美しさが胸に焼きつく。

「ほんまに、ありがとう」

 気合を入れなおして、シアはルカを支えて歩き出す。もうそろそろ、ルカも限界だろう。人の少ない場所でゆっくり休ませなければならない。

 もう二度と、こんな失態を犯すわけにはいかない。自らの不安や希望なんてものに惑う時間などいらない。進まなければ、道にすら辿りつけない。



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