3. TEMPT HER
――最低だ。全くもって、最低最悪な話だ。
自宅に招かれざる客が現れてから、数時間後、かさねは恐らく人生で一番最悪の事態に陥っていた。
壊れたブリキのようにかちかちと震えそうになる歯を必死に食いしばる。
無理やり連れてこられた真っ暗な空間。『裏袋』と呼ばれる、廃墟だらけの小さなスラム区域に立つ古びたビルの一室に、かさねは立ち尽くしていた。
鼻腔に鉄臭い匂いが届く。
何もない空間に横たわる機体が、いやでも目についた。
まるで最初から無かったかのようにすっきりと消えた頭部。
残された胴体から流れ出る赤い液体は人工だとは思えないほど、精密にホンモノを再現している気がした。
漂う匂いのせいか、それとも床に広がる血だまりもどきと一緒に放置された凄惨な為りをした赤い塊のせいか。
捻じれた腕と辛うじて繋がっている胴体の胸元を見て、それが男性型の個体だったことが分かる。
中身が見た目通りの人物だったかは分からないが、自身と同じ《プレーヤー》だったことは、かさねにも何となく察せた。
肌色の皮の下から微かに覗き見えるケーブルのようなものと鉄の部品のせいで、現実とフィクションが合い混ざったかのような錯覚が起きる。性懲りもなくコレは『夢』だと現実を否定しようとする思考を、赤い色が押し留めていた。
眼前に広がる惨憺たる光景を凝視しながら、かさねは制服の胸元を握る。
「――かーさーねちゃんっ!」
「ひっ!!」
唐突に、憂いも悲しみも知らなさそうな、弾んだ明るい声が耳元に飛び込んできた。
びくりと肩を跳ねあがらせながら、かさねが後ろを振り返れば、悪戯気に微笑む先日の『薄紅美少女』が其処に居た。
「……」
「ありゃありゃ、だんまり?」
あの《プレイヤー》は、おそらくこの少女がやったのだろう。
小首を傾げながらこちらを見遣る彼女から、かさねは目を逸らした。
しかし、逸らした先の視界に赤い色が再び映り、すぐに後悔する。
――自分は、一体ここで何をしているのか。何故、こんなことになっているのか。
脳裏を過るのは数時間前、突然の襲撃から逃げ切ったかと思えば、自宅の呼び鈴が前触れもなく、不吉を知らせるように鳴った日のことだ。
『今日から、篠原かさねさんには我々のBot――つまり、下僕になってもらいまーす!』
そう言って、玄関に踏み込んできた『薄紅美少女』にかさねは捕まり、訳も分からずこの場所へ連行された。
抵抗する暇も――いや、勇気もなかった。ただ現状が恐ろしくて、かさねは足がすくんで動けなかったのだ。
情けない。そう思っても、自身より経験やゲームに関する知識も深い相手に、長い間ポケっとし続けていたかさねが抗えるはずもない。
(現実逃避ばかりして、逃げた先が……これか――)
本当に、昔からこればっかりだなと、自嘲にも似た苦い思いがかさねの胸に込みあげてきた。
同時にある人の顔が彼女の脳裏をかすめる。
――自分は、あの人のようにはなれない。
きっと、私もこの《プレイヤー》のように殺されるのだろう。我知らず、視線が床へと沈むように落ちる。
「――こぉら」
「――!?」
不意に鼻先を摘まみ上げられて、意識を現実へと引き戻された。
気がつけば凡そ五センチほどの距離まで薄紅美少女の顔が迫っており、思わず息を飲んだ。
「きみ、人の話聞いてなかったでしょ?」
「……っあ、の」
咄嗟に、言葉を返すことが出来なかった。
狼狽える心と揺れる瞳を抑えながら、相手を観察する。
形の良い眉尻は下がっているが気を害した様子はない。どちらかというと、話を聞いていなかったかさねに呆れているようだ。
先日、いきなり金槌を振り回された時と一転して、あの狂気じみたものは感じなかった。むしろ不気味なほど、理性的に見える。問答無用で襲い掛かってきた相手が、何故あえて自分を生かして、このような場所に連れてきたのか分からなかった。
誰の目につかないところで、あの《プレイヤー》のように見つからないように、かさねを始末するつもりなのだろうか。
はあ、と美少女の形の良い唇が溜息を吐いた。
「ねぇ、本当にこの子使えるのぉ?」
かさねに向かってではない。別の誰かに、かけた言葉のようだった。。
一体、誰に話しかけているのだろうと、かさねは訝しむ。
すると、かつりともう一人――かさねと薄紅美少女以外の誰かの足音が、響いた。
美少女の背後。寂れた空間の入り口に人影が見えた。
仲間、なのだろうか。
背丈はあまり高くない。かさねたちと同じ、百五十五センチから百六十センチの間の身長。
長い髪。灯がない暗がりでは何色か判別はできないが、腰元まで伸びていることは影の形で分かった。
――だれ?
新たな登場人物にかさねの警戒心が膨れ上がった。
こつりこつりと、足音が近づいてくる。部屋の窓に差し込む月明かりの下へと、影が姿を現した。
「――
凛とした、鈴が転がるような美しい声が、室内に木霊した。
ビギナー、とはかさねの事を言っているのか。
老婆のような白髪。月明かりが当たる角度によっては、白銀にも見える絹糸のような髪が、少女が動く度、さらさらと淡い光を纏いながら揺れた。
はっきりと視覚できるようになった相手の面差しに、かさねは目を見開いた。
ゆっくりと、赤い唇が言葉を紡ぐ。
「スタート地点から動けずにずっと麻痺していたプレーヤーはルールもステージも、未だ殆ど理解していないものが多い。だから、何をすれば良いのか分からない」
「私たちと一緒においで」
一瞬、言葉の理解が遅れたかさねは、戸惑ったように一歩後退った。
私たちと一緒においで。生まれたばかりの赤ん坊のように、右も左も分からないかさねに掛けられた言葉の裏に一体どういう意図が隠されているのか。かさねは必死に考えようとしていた。
薄紅美少女のように下僕になれと、言っているのだろうか。
だめだ、思考が上手く回らない。
どうすれば良いのか分からないかさねに、畳みかけるように白銀の少女は誘いの言葉を重ねる。
「大丈夫――戦い方も、ゲームの勝ち抜き方も全部わたしたちが教えてあげる」
随分と友好的な言葉だ。あまりにも都合が良すぎる。
明らかな甘言に、かさねの顔がますます強張った。しかし、白銀の少女は構わず続ける。
「私の言う通りにすれば、貴女は生きられる」
もし、それが本当だとしたら、かさねは何て運が良いのだろう。
他の《プレイヤー》たちが必死にゲームを生き抜こうと技を着々と磨く間、呑気に青春を謳歌しようとしていたかさねは、きっと今や
なんという僥倖。神はかさねに味方してくださっているのか――なんて、思うはずがない。
じゃり、と強く踏み込んだかさねの足の踵が音を立てた。
後退して、後ろの窓から逃げることは出来ないだろうか。いや、距離がありすぎるし――それに、目の前の二人から逃げられる気がしない。
どうしよう。どうすれば、いいんだろう。
危機的状況に焦る思考から、妙案が湧くはずもない。
絶体絶命。最低最悪の事態に、かさねはいよいよ泣いてしまいそうになった。
もう、こうなったら、いっそ死ぬ覚悟で我武者羅に走ってみるか。
そんな自暴自棄な気持ちが沸いてきて、かさねは足を踏み出した――刹那。
「――だめだよ」
背中を強く打ち付けられた。
後ろから襲った圧迫感に肺を押し潰されたような錯覚を脳が覚え、呼吸が一瞬だけ止まる。
床に叩きつけられたのだ。
気がついたときには、かさねは天井を向いていた。
かはっと、空気を嘔吐く。必死に止まった呼吸を取り戻そうと、大きく口を開けて、息を吸っては吐き出す行為を繰り返そうとした。
すると、何かにプスリと首を刺された。
何をされたのか分からず、視線を天井から首元へ移そうとし、いつの間にか白銀の少女が仰向けに倒れるかさねの上に乗っていることに気がついた。
白い腕がかさねの首を押さえている。何かを刺したのは十中八九、彼女だろう。
「逆らっちゃ、だめよ」
落ち着いた声で、かさねをじっと見つめながら少女は言った。
ぞっとするような無機質な瞳が、かさねの中を覗き込むように見つめてくる。
「ウィルスは、打ったわ」
「――うぃ、るす?」
「そう。ウィルス」
途轍もなく不吉な言葉が、かさねの耳へと落とされた。
「これで、あなたは私に逆らえない――逆らっちゃ、いけない」
だって、そんなことをしたら、と揺れるかさねの瞳子の中で、少女の薄い唇が音もなく囁く。
「あなたの中を泳ぐウィルスが、脳を焼き切ってしまうもの」
――最低だ。最低最悪だ。
とても澄んだ、静かな声。
酷くこびりつくというよりは、空気に溶けるような、思考に浸透するような美しい声で少女は冷淡に脅してくる。
「今から、君は私のBot――私のために動く、私の手足」
これは――天使の面を被った、悪魔の声だ。
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