2.CRAWL

 東京都新宿区、北新宿1丁目、『ダイス西新宿マンション』の、とある一室にて。

 ぽたりぽたりと、暗い室内に水音が響く。

 台所の流し台から伝わってくる小さな音は、静寂に満ちた空間のせいか、やたらと大きく聞こえた。


 ぼんやりと室内を眺めていた『かさね』は、そっと自身を守るように抱きしめた。

 冷たいフローリングに体育座りして、視界を遮断するように蹲ってから、どのくらいの時間が経ったのだろうか。

 わからない。

 部屋の灯は落としたままで、カーテンを閉めたことによって、夕方なのか朝なのかの判別もつかない。

 今、何時だろうと疑問を抱いても、端末を確認する気にはなれなかった。


 何もする気が起きない。


 服も、帰ってきてからそのままだ。風呂にさえ入っていない。


『――かさね様。もう三日もその体制のままでおられますが、どうかされましたか?』


 出来れば、もう二度と聞きたくなかった『声』がかさねの鼓膜を揺らした。

 この『声』はあのカプセルからのみならず、スピーカーやテレビなど、いつのまにか部屋のあちらこちらから存在を主張するようになっていた。

 まるで、この部屋自体がカプセルと化したようで、不快感を感じたかさねは奥歯をかみしめた。


(気持ち悪い……)


 ねっとりと何かが自身に絡みついているような錯覚を覚えて、身を更に縮こませた。

 『声』が気持ち悪いのなら部屋から出れば良いのだが、外界に出てもこの『声』が自身を追ってくることは過去の経験で分かっていた。

 『声』いわく、かさねをサポートするためにあちらから通信を繋げることが出来るらしい。なんとも迷惑な話だ。これこそをストーカーと呼ぶのかもしれない。


『身体に異変が生じているのであれば、カプセルにお戻りください。メンテナンスを行います』

「うるさい」

 

 もうこれ以上聞いていられなくて、一言、掠れた声でそう呟けば、心得たように『声』は黙った。

 

(……なんで)


 此処が『夢』ではなく現実であることを知った今、かさねの頭に浮かぶのはその疑問ばかりだった。

 繰り返し繰り返し脳裏に浮かぶ光景。

 薄紅美少女に襲撃され、逃げるように帰宅した先で目にした現実。あの白い球体型のカプセルを叩いて問い詰めても、返ってくるのは馬鹿みたいな答えばかり。

 家には帰れない。家族は既に居ない。自分も死亡したことになっている。馬鹿みたいな話だ。ふざけるにも程がある。

 そんな台詞を吐き捨てて、かさねは襲撃されたことも忘れて、カプセルの『声』を振り切ってマンションを飛び出した。


 走った。走って走って走って。けど、どれだけ走っても、見覚えのある風景は見つからず、最後には端末のナビを頼った。

 家族が居るはずの自宅の住所を入れて、ナビを辿る。いつのまにか重くなった足取りで、ぐるぐる渦巻く焦燥と不安と、希望に縋りつくような気持ちで、街中をのそのそと歩いた。


 お母さん怒るかな、泣いてるかな。お父さんには平手打ちされるかな。

 帰ったら泣こう。ごめんなさいって、ちゃんと言っていっぱい泣こう。泣いて泣いて、お母さんに抱き着いて、落ち着いたら美味しいご飯が食べたい。

 お母さんの料理を口にしたら、きっと自分はまたポロリと涙をこぼすのだろう。

 そんな想像をして、かさねは道中緩みそうになる涙腺を必死に引き締めた。

 

 そして――ぽろりと、泣いた。


 一滴だけ零したら、もうそれ以上の涙は出なかった。

 ショックで止まったのかもしれない。悲しいという感情が浮かぶ前に、きっと脳が現実を拒絶したのだ。


 呆然と、かさねは眼前の光景を見つめた。

 ナビが示す位置は、ここだ。でも、


 クリーム色の一軒家が建っているはずの場所には、高層マンションが建っていた。わけの分からないホログラミックポスターとやらが、エントランスの横で美女の映像を流しながら空き部屋の宣伝をしている。

 あれ、と思った。ナビが間違えたのかな、と思考が呟く。

 実際、見覚えのない風景がそこらかしこに広がっていた。

 うん、きっとそうだ。そうに違いない。ナビが故障したのだ。

 そんな結論を出して、かさねは再び歩き出した。

 ふらふらふら。

 自分の知っている光景を見つけようと、目を必死に動かす。例え小さな要素でも、記憶とかちあうものがあれば直ぐに駆け寄った。……明らかに以前はありえなかった、ホログラムやドローンが其処らかしこに混在していても、だ。敢えて無視した。


 そんな無駄な行為を、何時間も繰り返した。

 気がつけば辺りは真っ暗で、人通りが少なくなっている。それでも街中を進もうとして、巡回ドローンに捕まって帰宅を促された。

 かさねは訴えた。


『――だけど、家が無いんです。どこにあるか分からないんです』

『――教えてください。私はどうやって帰れば良いんですか?』

 

『――迷子ですか?』

『――はい』

『――わかりました。では、少々お待ちください』

 

 名前と住所を聞いたドローンは誰かと通信しているのか、沈黙した。

 家を探してくれているのだ、とかさねは一瞬だけホッと安堵するが、直ぐに失望で俯くことになる。


 ――結局、彼女が帰された場所は、あの白いカプセルが居るマンションだった。


 ひんやりと冷たいフローリングを歩いて、カプセルの姿が見えない部屋の隅で立ち止まり、ふっと足の力を抜いた。

 どすりと鈍い音がしたが、痛みは感じなかった。ぎし、と膝の関節部分から鉄のような音が聞こえたのは、歩きすぎたせいか。

 わからない、考えたくもない。

 自分のことも、外のことも、これからのことも。とても、考える気にはなれない。


 思考を放棄して、かさねは座り込んだ。殻に閉じ困った蟲のように床に蹲って、後はカプセルの『声』が指摘したように、三日間その体制のままだ。


 外の光景を遮断しているからか、「三日経っている」と言われても実感が湧かなかった。

 空腹も何も感じない、身体のせいもあるのかもしれない。そんなぼんやりとした思考が、かさねの頭を過った。


「……、」


 閉じたはずの視界に、何かが映った。

 緑色のアイコンは誰かからの着信を示すものだ。二日前も学校からか、何件か着信が入っていた。その際に、目を瞑っても耳を塞いでも伝わってくる着信に嫌気がさして、「やめろ」とカプセルに言い、思考性画面はもう映らないようにしていたはずだが、これはどういうことだろう。

 かさねは眉を顰めた。 


「……これ、オフにしてって言ったはずだけど」


 恨めしそうな声が自然と口から這い出た。

 それに答えるように、また『声』が室内に反響する。


『かさねさまの携帯端末がエネルギー切れで落ちてしまったので、一時的に緊急時のためにと、勝手ながら、かさねさまの思考性画面にお繋げしました』

「やめて、勝手なことしないで。ケータイの電源が落ちたんなら、落ちたままでいいじゃん。ほっといてよ」

『承知いたしました。では、何かあれば私の方からお声掛けします』

「――それもいらないっ!!」


 思わず、怒声が飛び出た。

 「いらない」。そのたった一言を吐き出すために、沢山のエネルギーを使った気がした。

 はあ、はあ、とかさねの呼吸が浅くなる。

 息切れしているわけではない。この身体に息切れするような肺は無い。悲しみを表す涙は零れるのに、痛みは感じない。味覚も無い。

 まるで、人形になったような気分だ。


「――っっ!!」


 がつん、と太ももを拳で殴った。殴って、殴って、殴って、次に顔を掻きむしった。

 かゆい。かゆい、かゆい、かゆい、かゆい、かゆい、かゆい!

 全身が痒いのに、掻きむしりたいのに、掻きむしっているのに、痛みが無い。欲しいのは掻いている感触だけではないのだ。この溜まった苛立ちを消化してくれる痛みが欲しいのだ。

 なのに、感じない。

 頭を打っても、爪で肌を掻きむしっても、指を何度テーブルの角にぶつけても、痛みが無い。

 無いんだ。生きてるという――実感が。

 

『かさねさま。が出ております。カプセルへ――』

 

 『声』がかさねを宥めるように話しかけてきた。その言葉を聞いて、かさねはふっと止まる。

 視界に、の指先が映った。


「……この血は、ほんもの?」

『はい。かさねさまを含め、全てのプレーヤーの機体は材質に微妙な差はあれども、構造は許される限り人間に近づけております。初めに説明した通り、人前で怪我をすることはあっても派手な損傷をしなければ、機械仕掛けである事実が露見することはありません』


 なんだ、それ。

 ふっと、かさねの口から嘲り交じりの言葉が零れ出た。


「じゃあ、肺もあるんだ」

『ございます』

「……でも、息切れはしないよ?」

『息切れには、血液中の酸素量の低下、二酸化酸素量の増加、その他いろいろな原因がありますが、多くは体が必要とする酸素量を供給できなくなる場合に起きます』


 『かさねさまの機体は《脳》以外、常人のような酸素量を必要としませんので』無機質な声がかさねの耳を素通りする。聞こえはしたが、あまり内容が理解できなかったのだ。

 かさねには難しかったのか、それとも単に理解したくなかったのか。

 あんなに嫌がっていた『声』との会話を、かさねは続ける。


「肺はある。心臓は? 筋肉も、骨も、全部ある?」

『はい。それぞれ構造と材質に違いはありますが、機体の一部として似たような働きをしているものはあります』

「人工なんだ」

『はい』

「この血も」

『はい』

「そっか、」


 人工なんだ。そう、ぽつりとかさねは呟いて、自身の赤い指先を見つめた。

 

「――――じゃあ、じゃんっっ!!」


 だん、と壁を殴る音がした。

 ぎちりと、かさねは拳を握る。尖った爪を肌に立てるが相変わらず痛みは無かった。

 『声』の主を睨もうと顔を上げるが、そこには虚空しかない。

 激しい音を立てながら腰を上げて、カプセルが居る部屋へと踏み込んだ。勢いよく開けた白い扉が壁に激突しながら悲鳴を上げる。


「人工って作りものってことでしょ!? 機械って呼んでるくせに、なんでホンモノって言えるのよ!? これが作りものなら、元の体はどこ!?」

『おそらく、かさね様が認定死亡された際に、処理されたかと』

「処理って、どういう意味!? 返してよ!」


 返して。返して返してかえしてかえしてかえしてかえしてかえしてかえして。

 そう何度も続けた。

 縋りつくように、悲願するように、何度も訴えた。気がつけば、忌避していたはずの白い球体に触れ、頭を擦りつけ、譫言のように何度も繰り返していた。


「かえして。家にかえして。からだかえして。もどして。全部……元に戻して」


 カプセルは答えない。

 何も言わない。返答に困っているのか、そこだけは妙に人間らしい。

 或いは、カプセルの答えをかさねが拒んで――聞こえないようにしているのか。


 わかっている。本当は、もうわかっている。

 こんな押し問答は三日前にも繰り返している。

 何度ありえない、と現実を否定しても、かさねは薄々と気づいていた。気づいていないふりをしていただけだ。

 あの薄紅美少女から逃げている時も、ずっとずっと、頭の隅では理解していた。自分が置かれている状況も、自分の肉体がどうなっているのかも。

 ありえない、とあのとき否定をしておきながら、自分の身体が機械であることをちゃんと認識していたのだ。


(なんで、)


 また、冒頭のような疑問を繰り返す。

 わかっている。何度否定しようが、これは現実だ。まぎれも無い現実だ。嘆いたって仕方がない。だけど、嘆く以外のことが出来ない。

 

(わかってる……)


 本当は分かってる。それでも、かさねは疑問を繰り返し、過去を振り返る。


(なんで、あんなイベントに参加しちゃったんだろう)


 否。それはかさねのせいではない。あれは不可抗力だ。

 だけど、それでも思う。思ってしまう。


(あの時、お母さんに言っていれば、)


 変に恥ずかしがらずにイベントに行ってくると話していれば、何かが変わっていたかもしれない。母も一緒に行く、とか、勉強をしろと言われて引き留められたりとか、そんな可能性もあったかもしれない。

 そんな馬鹿みたいな可能性を幾つも考える。


(ばか、だぁっ……)


 馬鹿だ。本当に馬鹿だ。

 母の顔が浮かぶ。よく聞いた父のお小言が耳奥に蘇る。

 馬鹿だ。糞馬鹿だ。最低だ。過去の自分を殴り飛ばしたい。


「……っとに、ばかじゃん」


 ――そう、ぽつりと、小さく吐き捨てた時だった。


『――かさねさま』

「なに、」

『お客さまがいらっしゃっています』


 ピンポーンとなんとも間抜けな呼び鈴が、室内に木霊した。

 ピヨピヨと鳴く、変な小鳥の歌付きだ。

 ……だれだ、こんな呼び鈴にしたのは。……私だ。

 強がりか、或いは図太さから来る癖か。かさねは自分で、自分に突っ込んだ。

 ぼーっと思考が再び止まった頭で、視線をカプセルから部屋の扉へと移す。


「だれ、」


 そんな疑問を口にすれば、視界に誰かの顔が映った。


「それは、やめてって、」

『これは思考性画面ではなく、ホログラムです』

「……」


 扉の傍に映し出されたスクリーンを見れば、マンションのエントランスをバックに、カメラを覗き込む、見覚えのある顔を見つけた。


『――篠原さーん? 篠原かさねさーん、いらっしゃらないんですかぁ?』

「なんで……、」


 予想外の来客とその正体に、一瞬だけ、泥沼に浸かっていたかさねの意識が引き戻された。

 ――めそめそと泣いている暇は、もう無いらしい。




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