第5話 初陣

俺は拳を構える。相手は巨漢。見たところ身長二メートルは超えている。髪は緑短髪で目の当たりには熊にひっかかれたような三本傷が刻まれている。男は上裸。山のように盛り上がった筋肉からこの男がいくつもの修羅場を乗り越えてきたのだろうということは容易に想像できる。おそらくは冒険者だろう。手には金属製のメリケンサックをはめていて準備は万端のようだ。周囲半径五メートルくらいを男の取り巻きのような奴らが囲っていて逃げ道はない。更に俺の後ろでは猫耳を生やした少女がわなわな震えている。

まったくなんでこうなったんだよ。やっぱり逃げたい。いかんいかん。ネガティブになるべきじゃないな。この状況をポジティブに考えろ。

『負の感情をトリガーに発動する力』。この世界に来てからこの言葉が頭の隅に引っかかっていた。神は試練として強大な力を授けると言っていた。まあ、試練の時点で神からの恩恵とかそんな生易しいものではないだろう。この巨漢には悪いが俺の初期ステータスの確認に付き合ってもらおう。


どうしてこうなったのかって? それは今から五分前にさかのぼる。





話を終えた俺は店を出た。相変わらず暑いな。太陽がまだ昼間であることを教えてくれている。いや、他の恒星という可能性もあるから正確には分からんのだが。そこで一つの疑問が浮かぶ。この世界はいったい何なのだろうという疑問が。神は新しい世界としか言っていなかったがそれはどういう意味だろう。地球とは違う星ということだろうか、それとも別次元にあるまったく違う世界ということだろうか。やめた。情報が少なすぎる。今は目の前の問題に集中すべきだ。この仕事が終わったらまともな仕事を見つけなくちゃならんのだから。

前を歩いている青髪でベレー帽をかぶった少女はドロップ。彼女の提案により俺は路地裏で野宿という最悪のシナリオは避けられた。言ってしまえば恩人だ。当の彼女は自覚していないと思うが。

「あんちゃん、さっきから何ぶつぶつ言ってんだ? 気持ちわりーぞ」

しまった、少し声に出ていたようだ。別に異世界から来たということがバレてもかまわないが、そんな突拍子も無いことを信じるバカはそういないだろう。むしろ運が悪けりゃ廃人扱いだ。つか、そんなことよりこのガキは。だっせーだの気持ちわりーだの礼儀がまったくなっていない。こいつの為にも少し教育した方がよさそうだな。

「前見て歩け。後ろ向きながら歩くと人にぶつかるぞ」

ドカッ。

「うわっ!」

ほら、言わんこっちゃない。

ドロップは吹っ飛ばされチャームポイントの茶色いベレー帽が頭から離れる。


目を疑う。


ドロップの頭からはフサフサの毛並みの犬の様に垂れた青い耳が生えていた。

ドロップは慌てて地面に落ちたベレー帽を拾おうと手を伸ばす。だが巨大な足がドロップのベレー帽を踏みつけた。

「おいおい、獣人じゃねぇかよ。人様の道を歩くなんていい度胸してんじゃねえか!」

ドロップがぶつかった巨漢は脅すようにドロップに言った。

「ジオさん、この子娘を捕らえて奴隷商人にでも売っちまいましょうぜ」

いかにもな腰巾着がジオと呼ばれた巨漢に提案する。

「そりゃいいかもな。30万エルぐれえにはなるんじゃねえか?」

堂々と誘拐宣言とは。こいつはいったい何を考えてるんだ。つか、なぜ誰も助けない。

すれ違う人々は皆巨漢の横を素通りして行く。

どうなってやがるんだ、クソ。

逃げるべきか? 他人のふりをすれば俺は助かるはずだ。いや、駄目だ。このガキは俺の生命線。そう、簡単に失うわけにはいかない。

気づいた時には口が動いていた。

「待てよ脳筋」

ジオは俺を睨みつける。

「あぁ? 何だてめえ。このガキの連れか?」

「あんちゃん駄目だ。俺のことは置いて早く逃げろ。」

悪いがそんなフラグしか立たねえようなセリフ吐かれて置いて行けるほど俺は腰抜けじゃないつもりだぜ。

下っ端一号が俺の胸ぐらをつかむ。

「やめろ、お前らは手を出すな。この兄ちゃんにはこの黒龍同盟ギルドマスター、ナックルジオの恐ろしさを叩き込んでやるよ」





そして物語は冒頭へ。


殴り合いの喧嘩の経験はあまりないが運動神経は良いはずだ。柔道の授業では最高評価を取るとことができた。極東の柔術をなめるなよ。

「そんじゃいくぜ。」

言葉と同時にジオが突っ込んできた。馬鹿め。武道は体格差じゃねえんだよ。




顎に衝撃。身体が後方に思いっきり吹っ飛ぶ。

何だ今のは? 見えなかった。近づいてきたところまでは分かった。クソ、どうやら顎に左フックを食らったようだ。砕けてやがる。血が地面に垂れる。


この野郎。痛えじゃねえかよ。


体の底から怒りが湧き上がる。視界が赤く染まっていくのが分かる。


瞬間、顎から痛みがひく。あ?

手で確認する。骨が折れていない? 殴られる前とほとんど同じ状態にまで治癒している。どういうことだ?

とりあえず立ち上がり拳を構え直す。


ジオの顔に驚愕の表情が浮かぶ。

「なぜ無傷なんだ。完璧に決まったはず。手応えもあった。どうなっていやがる?」

むしろこっちが聞きたいわ。だが、これは好都合。

ジオの拳が動く。二発目が来るようだ。どういうわけかこのパンチは見える。まるでスローモーションの様だ。遅い。これならいける。


ジオのがら空きの腹筋に思いきり右の拳を叩きつける。今度は巨漢が吹っ飛ぶ。


『とどめを刺せ。』


心の中で声が聞こえる。そうだ、とどめを刺さなきゃ。この俺を殴った愚か者に罰を。

ジオは泡を吹いている。やるなら今だ。拳を振り上げる。顔面を目がけて振り下ろす。

「うわぁぁぁぁぁ、や、やめ、やめてくれえぇぇ。」

正気に戻る。なんだ、今俺は何をしようとしていた。見下ろす。俺の拳をがジオの顔面スレスレで止まっている。

ジオは白目をむいて失禁しながら気絶している。

殴られた瞬間に怒りが心を支配したのが分かった。しかし、それからの記憶がない。なるほど、これが試練か。たしかに強力な力だ。だが、これでは簡単に人を殺してしまう。危険すぎる。こんな状態で善行を積めとは、なんたる難題。


下っ端どもが悲鳴をあげながらジオを担いで逃げていく。だが俺は動けない。動くことができない。

俺はあと少しでまた人を殺していた。今回のは違う。自分の身を守るためではない。只の殺意であった。

「あんぢゃん、あでぃがどぅ。」

ベレー帽をかぶり直した少女が泣きながら背中に抱きつく。今はその言葉だけが救いだった。





血気盛んな冒険者達を追い払った俺達はドロップの鍛冶屋まで行く道中だ。足がまだ震えている。俺はあと少しで殺していた。一度ならず二度までも。

「なんで俺を助けたんだ?」

ドロップは泣き腫らした目で俺に質問する。正直なところ俺がこの世界でどれぐらいの力を与えられているのかが知りたかっただけなのだが、ここまでとは。

『負の感情をトリガーに発動する力』以後はネガティブフォース略してNFと呼ぶことにする。この力は危険すぎる。傷の瞬間治癒、一時的な身体能力の向上、明らかに人間技じゃない。そして何と言ってもNFの発動中、俺の精神は暴走状態にあったと言っていい。自制が効かないどころか危うく人を一人殺すところだった。この力をコントロールすることは可能なのか? とりあえずこの世界では俺の心の動きに注意を置く必要があるようだ。

「おい、無視すんなよ」

「悪い、考え事をしていた。何だって?」

「だーかーらー、何で助けたのかって聞いてんだよ」

ドロップはそう言い頬を膨らませる。

「お前を助けることが俺にとっての利益になったからだ」

事実を述べる。第一の理由はこいつに俺の生活がかかっていたからだがNFの危険性を認識することができた点は収穫だ。

「なんだ。やっぱそうだよな。獣人を好き好んで助ける奴なんて居ないよな」

しょんぼりしたようにそう呟く。

おい、そんな悲しそうな顔をするな。調子が狂うだろ。

「なあ、この町に来てから疑問なんだが亜人差別でもされているのか?」

さっきの喧嘩においての最大の疑問をぶつける。

「は? あんちゃん、なんも知らねえんだな。あんちゃん、あんたどっから来たんだ?」

なんだ、そんなに驚くほど変なこと聞いたか?

「お前が想像もできないほど遠くからだ。早くさっき質問に答えろ」

「まったく、しょうがねえな。いいか、亜人てのは千年前の戦争に負けて以来どこの国でも人権がねえんだよ。それどころか亜人相手に窃盗や殺人を犯したって罪に問われねえ。常識だろうが。そんなこと聞いてくるなんてあんちゃん、ほんとに何者だよ?」

なんだよ、それ。法の外に置かれてるってことか。そんなことあっていいのか? 寒気だ。軽蔑さえ覚える。それがこの世界の常識? 腐ってやがる。だが、俺がどうこうする話でもないな。無干渉、それが一番だ。

ドロップは立ち止まる。

「やっぱこんな耳、気持ち悪いよな。亜人なんてゴミだよな。生きてる価値なんてねえよな。みんな死んじまえばいいんだよな。」

彼女の瞳から涙が溢れ出す。それでも彼女は続ける。

「それでも人間みたいに生きたいって思っちゃいけないのかな?」

ドロップは俺の制服に顔を押し付ける。

「あれ、おかしいな。目から汗が止まんないよ。」

俺は知っていたはずだ。この世に絶対的な勝ち組が存在するなら生まれた時から全てを失っている負け組だって存在するということを。この子は獣人に生まれたというだけで迫害されてきたのだろう。自分が生まれる何百年も前の戦争が原因で。以前の俺なら生まれる時に勝ち取れなかった当人の責任だと言い切っただろうが、なんだ。なんなんだ、この気持ちは。このガキが今までどんな道を歩んできたとかこれからどうなるとかそんな事は俺には関係ないはずだ。たしかにこの国の差別の現状に言いたいことがないわけではない。だが俺の知ったことではない。知ったことではないはずだ。


だけれど、それがこの子に恩を返さない理由にはならないだろーが。

「生きちゃいけないわけねえだろ」

「えっ?」

「言っとくがなあ、俺の国では獣耳は正義なんたぜ。みんな獣耳が好きなんだ。だから、その、なんだ。自分のことをそんなふうに言うのはやめろ。」


長い沈黙。

「なんだよそれ。」

ドロップは俺の胸に顔をうずめたま吹き出す。

何やってんだ俺。


これはこの少女への恩返しであって決して慰めとかそう言う言葉ではない。

らしくない。そんなことは俺が一番分かっているんだ。

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