転 : Rises
けれど、それはあくまで内面の重石を吐露した恥知らずの勇者だけに適応される出来事で、無関係にもその重たいバトンを押し付けられて、無遠慮なままに受け皿と化した他人は堪ったものでは無い。
不意に意図せず身勝手な重荷を押し付けられる様はまるで通り魔に合った被害者の様だ。一方的に罪悪感と言う名の拒絶し難い精神故に、等身大のエゴの塊で斬り付けて、殴りつけられるだけ。なんて理不尽で不条理で、辻褄は
そういう種類の極めて良心的な良心の呵責が一瞬芽生えたが、その対象が生者と死者の場合はどうなるのか?
白髪交じりの薄い頭を所在無く掻き毟るおっちゃんを見て、そんな事を考えて、止めた。
それには意味が無いから、そんな事に理由は無いから、止めた。
「まあ、そのなんや…枯れたおっちゃんには色々理解し難いのは事実やし、諸々考えさせられるのは違い無い」
「ほんとに? 上辺だけの同情なら
「いや、まだ足りひん…おっちゃんの分がまだ、これからや」
「は?」
一体、アンタは何を言うんだ…何を言いたいんだ?
その声は声帯を通ることも無く掻き消えた。心理的かつ物理的な会話のテクニックによって敢え無く遮られた。
「それはお前のせいやない。過信すんなよ坊主。お前一人にそんな価値は無い。重責なんかは、自分一人分のだけで充分なんや」
「は? ちょっと待てよ…マジで何言って――」
「自惚れるなって事や」
その芯の通った声色は内容同様に容赦が無く、自立した印象が強い。その発言者が足どころか存在すらも曖昧だとは思えない程に力強く僕に届いて響く。
重低音の打刻はまだ終わらない。
「まあ現状のおっちゃんは見ての通りの住所固定の浮遊霊やけども…」
「それはいまはいいだろ……」
「せやな」
その癖、何やら間抜けな小休止を挟んでおっちゃんは続ける。
「その…なんや。ガキにもガキなりの思い悩んだ意見やどうしても譲れない矜持、そんでもって目を逸らせない気概があるわな。それは分かる」
「だからさあっ…そうやって知った風な口をさあっ――」
「おっちゃんだって昔はそうやった。こんなふうになる前は普通に人間で、更に昔は坊主とおんなじようにガキやった」
照れくさそうに鼻を掻いて、そっぽを向いてそう呟いた。羞恥心は死してなお、人を縛る鎖らしい。なんつーか救われねぇ。
「ただまあ、坊主みたいに見た目麗しく賢いクソガキじゃあ無かったが――境遇は似たようなもんや」
「そう…なんだ。クソガキ、ね…」
「ああ、クソガキや。世の中を大概斜めに見て、世界とか社会とかが大嫌いで。何よりも、」
そんな自分が死ぬ程嫌いやった訳や。
吐き捨てるみたいに目を伏せて、照れ隠しなのか「煙草を持ってないか」と僕に問う。持ってないよと困惑ながらに伝えると彼は残念そうに肩を竦めた。
そもそも未成年である僕に煙草をたかるなという話だし、ていうか幽霊に喫煙が可能なのか?
色々と疑問は尽きないが、とりあえず人生の先輩たる年長者(存在不定の幽霊)の言に耳を傾ける事としよう。
「老害のみっともない自分語りをするなら、おっちゃんは中卒無職の悪たれやった。まあ客観的に見て、生まれとか育ちが劣悪やったのは間違い無いが、そんなの言い訳にはならんわな」
「…そうなんだ。そりゃあ、色々。生きてれば、あるよね」
「おう、色々やったわ。武勇伝なんかとは程遠い最悪の日々を過ごしたし…我ながら最低やけど、他人にもそれを押し付けた」
自嘲と後悔と唾棄を多分に含んだ物言いは生生しく、死んでる身でありながらリアルな人間味に溢れていて。
本当にコイツは死んでるのかと疑問が浮かばなくもない。
「んで、ありきたりにもそこから再起した訳なの?」
口を付いたのは余りにも優しさに欠けた言葉。僕は失敗から何も学んでいない。何一つ変わってやしない。
絶望的な嘲りを噛み締める僕とたははと苦笑いをするおっちゃん。
確かにありきたりかもと前置きをしてから、その過去を振り返る。
「そんなクソみたいな阿呆を拾ってくれる人がおったんや。配管屋の社長で、俺みたいな近所の悪ガキを集める好き者やった」
「その人の所で更生したの?」
「おう。殴られたり怒鳴られたりもしたけども、こうして人様に誇れる程度にはまともになった」
誇れる。
そう言ったおっちゃんの顔は誇りなんかを感じさせない、枯れた油田が朽ちて砂漠化してしまった様に乾いて見えた。
それが意味することはなんだろう?
誇りという言葉の価値が僕の思うものとは違うからだろうか? それとも「真っ当」の代わりに手放したものへの後悔だろうか?
多分違うんだろう。
僕が彼の立場ならそんな些細を気にはしない。昔乾いた砂漠は今尚そのままで、彼の心境を体現しているのだと思う。
だって、おっちゃんは死んでしまったから。
どれだけ悪事を働いた所で、どれほどそこから巻き返しを図った所で、結果は死去。死因は知らないけど、ありがちでつまんねぇ結末だよ。世は無情ってことでなのかな。
「その中で嫁を貰って、
自虐を含めながらも半透明な胸の中で何かを抱く様な仕草を見せたおっちゃんの顔は、確かに整った眉目だとは言えないかもしれないけれど。
それでも、その至る所に時間経過の皺の刻まれた――満ち足りた慈愛に溢れる顔付きはあたたかな幸福を滲ませていて、心の奥底で黒く粘り気のある感情がふつふつと醜く胎動する様に感じる。
「…けども、それも全部失くなった。俺が死んだ事でお
秋空みたいに打って変わった、しみったれた顔が何だかとても不愉快で――どうしょうもなく柔肌の心を騒がすので、「後悔してる?」と意地悪く尋ねたが、おっちゃんはクレバーにも首を横に振る。
そして、先程までとは種類の異なる苦い笑顔を曖昧に描いた。
「心残りはアホ程あるが、概ね満足や。鼻を垂れて糞を洩らしてたガキも今や立派に家庭を持ってるわ…坊主程マメじゃないにしろ墓参りにも来てくれるしな」
苦さより照れ臭さが勝るリアルな動きを見せる表情。
実態の無い鼻を生前の手癖を思わせるように忙しなく触りながら、おっちゃんは心の通った声で締める。
「ありきたりやと思うか?」
申し訳無いけれど、言葉の通りありきたりか否かを問うのならば――極めてありふれて、努めてありきたりだよ。
けれど、それは僕から遠い、黄金みたいな価値を持ったありきたりだ。
「…ここで、僕がさ」
「ん?」
「ここで僕がっ! 人生の先輩のアドバイスを受けて! それに感銘を受けて!」
普通にひねくれた少年が、普通に助言を受けて、その言のように――普通に何事も無かったかのように、テンプレみたいに分かりやすく更正してさ!
そんな普通が普通に出来るなら、僕はこうなってないだろ! それがありきたりに出来無いから、こうなってんだろ!
「分からない訳無いだろ! おっちゃんの人生は死ぬ程ありきたりでクソみたいにありふれてるけど、とっても価値があって…それが素晴らしいことくらい普通に理解できるよっ!」
同時に。
「僕の抱えてる後悔は何の意味も無くて。論理的に考えて全然結実してなくて、因果関係なんてこれっぽっちも無くて。それこそ僕にはどうしようもなかった」
僕が飯を食っていても、糞をしていても、セックスしていても。直接の死因たる事故自体は防げなかったし――僕は決して悲観的な運命論者では無いけれど――その程度では母親の死は覆らなかったのかも知れない。
けれど、死に目くらいには間に合ったかも知れない。最期に言葉を交わしたり、或いは目や表情から汲み取れる
「そう考えると駄目なんだ。もう僕は。何も出来無い。何処にも行けないっ」
駄目なんだと震える言葉を繰り返す。
母の死後からずっと抱えてる、誰にも言ったことのない本音を零す相手がまさか身元不明で住所不定で存在自体が不確かな浮遊霊になる事になるとは…一体何の因果なのだろうか。
そう思うと笑えてくる。
ニュートンのゆりかごみたく左右に振れる感情。かっこ悪い。
「なぁ、おっちゃん…僕はどうするべきなんだろうな? おっちゃんみたいに、がむしゃらに生きてればその内報われんのかな? その瞬間はいつになったら訪れんのかな?」
なんか言ってくれよ。
人生の先輩なんだろ?
懇願に似た問い掛けへの返答が僕に届くまで、暫くの時間があった。その間おっちゃんは目を閉じて両腕を組んで「ああ」とか「んん?」とか感嘆符めいた単語を譫言みたく繰り返す。
やがて考えがそれなりに纏まったのか、薄い髪の毛を払う様に掻きながらゆっくりと口を開く。
「本来なら甘えんな――と、一笑に付した後に一喝したい所やけどなぁ…如何とも。なんつーか分かってもうたわ」
「何をだよ…」
「役割をや」
「やくわり…?」
役割? 役割とは?
誰の? 僕のか? それともおっちゃんの?
浮かぶ疑問符はすぐに決着。
提示者からの解答が提示される。
「俺の役割やな。死んでから、今日まで
ともすれば、イッちゃってると誤解してしまいそうな発言を虚ろな目で発するものだから、なお一層そんな気配が強まり高まる。色々大丈夫か?
「多分な、坊主。人生に良いも悪いも無いんや。ただあるのは個人として納得出来るかどうかやと思う」
「そういうもんなの…かな」
静かな語気の割に有無を云わせぬ圧力を幽霊から感じ、慌てて返したのはそんな胡乱な言葉。
それに対するのは不明瞭ながらも確信を感じさせる自信に溢れた物言い。
「ああ、そういうもんや。その瞬間が何時訪れるか、それは流石に分からん。けども、絶対にそれは存在する」
例えば今がそう。
不意に舞い降りた天啓。
「何年も墓場でフラフラしてた理由に得心がいった。お前さんにこの発言をする為やと納得がいった」
「抽象的かつ観念的で、よくわかんないよ…」
「今はまだ分からんでええ。ただ知っておくことが大事なんや」
知ったふうな言葉を知ったふうな顔付きで真面目に語るのが幽霊という狂った現実に適応出来そうでなかなか難しい。怪談なのか滑稽譚なのか判別出来無い。
「生きたくも死にたくもない人生の中に――その内に、いつか必ず閃くその瞬間までは――少なくとも生きる意味があると思うわ。価値とか理由とかは知らへんけど、確実に意味はある」
僕にはそれこそが射し込む一筋の光に見えた。
眩く見えにくい霧と闇に包まれた人生の大海原に生きる為の羅針盤や海図に思えた。
小さく瞬いた希望の灯りに言葉を失う。突然の光明に明順応出来ずに忽然とする。
「いいか、
そう念を押してからおっちゃんは消えていった。
まるで初めから何もなかったのかのようにあっさりと、それこそ煙か霧みたいに呆気無く。
何の前振りも無く、意味深な伏線など皆無なままに住所不定の浮遊霊は僕の前から姿を消した。ただでさえ陰鬱な雰囲気漂う霊園で僕は一人になった。
それから十年。
僕は思春期の少年を脱して、年齢的に青年と呼ばれる年頃になった。
心的な成長や劇的なパラダイムシフトなどを明確な形で実感しないままに、社会的立場だけはしっかりとー――無知で生意気な子供から無知で何も知らない社会人へと変化した。
そうして核心的な変容を何一つ実感しないまま僕はまた…曖昧でちゃらんぽらんなままにおっちゃんの前に立つ――。
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