承 : Begining

 それから僕は、毎週の墓参り――つまりは没した母親への近況報告の後、同場所である霊園に住み着く幽霊のおっちゃんと話すのが日課というか――拭いきれない泥のような悪癖に近い習慣みたいな慣習になった。


 僕は備え付けのベンチに座って微糖の缶コーヒーをすすり、おっちゃんはその周りを目的皆無にふわふわ浮かぶ…言葉にすれば少なからずエキセントリックで意味不明だが、座する事実として前述の通りなので仕方がない。

 まあ…色々諸々アレとして、なかなかどうして。つまんねぇ癖して想像以上に、マジで良い感じにイカれてるなあ現実って奴は。


「…そうか、お袋さんは交通事故やったんやな。可哀想に…」


 それは一体何回目の事だったか、墓参りの目的――その詳細を彼に聞かれた僕は、根負けする形で一部始終の大半を話した。僕が参る墓の下にいる母親は一年前に事故死したのだと告げた。


 別にここまで隠して来た訳では無いけれど、殊更吹聴する様な事でも無いように思えたから黙っていただけだし今更感溢れるもの現実だ。


「でもまあ、おっかさんも嬉しいやろうな。息子が毎週会いに来てくれるってのは」


 おっちゃんは能天気にふわふわ浮遊しながら能天気で素っ頓狂な一般論を口にした。


 普段なら何とも思わないその常識に何故だかその時の僕はさざめいた。急に全部が馬鹿らしくなって、ぶっ壊したくなった。


「それはどうだろう?」


 世間に蔓延する風潮としての、一種の記号化された母親の無償の愛について疑問を呈したくて仕方が無かったボクの反抗的な言葉だが、それは責められて追求される様なコトガラだろうか?


 未熟極まりない未成年の息子を置いて死去した母親と、人生百年の時代に人間的に半可通な三十代の母親役を見舞う少年。

 果たして真に傷付き、傷付けたのはどちらだろうか…。


 そんなの、当事者たる僕たちにも分からない。

 それを理解するには僕は余りにも幼い歳であったし、僕の倍以上の歳月を生きてなお大人になりきれない母親は既にこの世を去った。 


「僕が母親と過ごした時間は十年ちょっと…その内僕が個人としての自我を持った人間ぼくになってからは多分、十年に満たない。それでも僕達は家族だったのかな?」


 霊園を包む空気は重く冷たい。

 僕の気持ちに相応しい環境みたいに思った。暖かく清らかな世界には馴染めないよ。


「まあな…おっちゃんには偉そうな事言えへん。ただの浮遊霊で部外者や、けども話を聞く位は出来るで? 中卒のおっさんでも、現役中房の話を相手くらいにはなれる」


 だから、話してみろ。


 彼はそう言った。

 住所不定無職どころか、存在すらも不安定で曖昧な癖に偉そうな態度でそう言った。


 その荒唐無稽な状況のせいか、不思議なくらい僕の気も緩んだような気がする。

 住所不定無職で不確定で不明瞭な存在になら話しても良い様な気がした。この世のものならざる彼になら十字架を明かして良いと思えた。早い話が軽く錯乱していたんだろうね。


 正しく無責任な懺悔に酷似して相似している私的で個人的な吐露と懺悔。


「…僕はさ、唯一の肉親たる母親の非常事態エマージェンシーを軽視して、その挙げ句…無視したんだ」

「それは? いや、どういうことや?」


 疑問符を全身に浮かべるおっちゃん。

 当然だ。これはまだ枕、骨子や芯はこれからだから。


「事故にあって―――重体の母親が運ばれた病院から電話があった時、僕はスマホの電源を切って放り出していたんだ」

「それはしゃーないやろ…つっても、慰めにも何にもならんかも知らんが、そんなの責められることちゃうやん。あんまり気にし―――」

「僕が彼女の家で動物みたくセックスしてたとしても?」


 そんな情事を伴う過去が僕の心に拭い切れないしこりと、禊切れない泥となって情けなく重く深く沈む。

 仮にそれが全部自分のせいで起こった出来事だとしても、弱音を吐いて自暴自棄になる位は許されるだろう。


「母親の今際の際、その進退を知らせる着信を横目に僕は猿に先祖返りしてバカみたいに腰を振ってさ―――目の前にぶら下がる快楽に身を浸していた。本来ならば何度も鳴っていた筈の肉親が発する生命の声を無視してカエルみたいな姿勢の女の肌を性欲で叩いたんだ」

 

 我ながら反吐が出るよ。

 

 僕個人が常に自分の中で持つ思想としては、根源的な欲求を否定する様なストイックな禁欲精神に富んでいる訳では無いけれど、流石にこれは後ろ指を指して石礫を投げて然るべき背信だ。愚かにも度が過ぎて、度を越えた愚かさだ。


「最悪だろ? 母親が死にかけてる時に僕は嬌声をあげて柔肌で出来た双丘を揉みしだいてたんだ。誰もいない家に帰ったのだって一晩明けた朝方だ。そこで初めて知ったんだ」


 母親の死を。

 そんな過ぎた一大事。


「それを気にしないでいられる人だって、きっと沢山いると思う。そんなの避けようが無い不運で、僕にはどうしようもなかった事実だって分かってる! 僕の神経が軟弱で希薄過ぎるのかも知れない。でもさ、それでもさあ…」


 そんな薄情で強い人間にはなれないし、なりたくないよ。

 あったかもしれない希望的なイフを切り捨てられる、クソみたいなマシーンは死んでもゴメンだし、死んだって死にきれない。


「とまあ、僕はそんな失敗したからさ、遅まきながら母親孝行してるわけだよ」


 些か冷静さを欠いたものの、取り繕うように付け足した。

 けれど、直前に投げつけたのは余りにも独善的で個人的な心情と感情の吐露。返ってきたのは息を呑む様な沈黙だけ。


 当たり前だ。


 そんなの当然だよ。


「ねぇ、おっちゃん…」


 生きるって何かな?


 この閉鎖的な社会に進化のどん詰まりにいる生物である人間が、それでもなお生きる価値ってどんなもんだと思う?


「…分かってるよ。そんなの、人によって違うしさ、絶対的で教科書的な模範解答なんて存在しないってのは、人生経験が皆無で絶無な僕にだって想像くらいつく」


 けどさあ、


「でも借りに、そうだとしてもさあ…これはないよなあ。流石にありえないよ。自分に失望するには十分じゃないか?」


 そうだ。

 色々と理屈を捏ねて、自身の意見を大衆の総意の様に捏造して。


 どんなに言葉を尽くしても意味が無く、どれだけ語り聞かせて納得させようとしても、その内それに終局して収束する。


 打って変わって沈黙を貫くおっちゃんの挙動に便乗するみたく僕は冷たい言葉を締める。


「僕は僕をゆるせない」


 言ってしまえばそれだけの話だ。

 しかし、ただそれだけの事が縛る自分もある。


 生きる理由と生きない理由を両天秤にかけて、その皿をどちらかに傾かせる積極的で能動的な理由を、僕は今のままでは到底見つけられない。

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